第五十三章 蜘蛛の糸
セラが背中の傷を縫い直してもらってから数日が経って、少しの間とはいえ上体を起こせるようになってきた。
自分にとっては過保護過ぎるくらいの処置だが、宿の主人や女将さんに言わせれば、これでも無茶なほうらしい。
自分の無茶なんて茶飯事だから、早くルイのいる部屋へ戻りたい。
生きて動いている私なんかより、具合の悪い片割れのほうが気にかかる。
……本当は、怖いだけ。あの人が平気だって確かめないと気が済まない。
会って、元気なところを見て、良かった無事だったと思いたい。
ヒリヒリした不安を癒して欲しい。
……私のせいなのに、ひどい我が儘だけれど。
「……あの、女将さん」
背中に向かって呼んだら、声が震えた。
だって我が儘放題のお願いをする。リアンなら棒で叩いて地下室に入れる。
「あ……の、……ルイの部屋に行きたくて。えっ、と。……もう動いても――」
「あら、車椅子ね。そりゃ気になるわよねえ、連れてってあげる。って言ってもすぐ向かいの棟だけどさ」
ちょっとお待ち、と言い置いて、パタパタと部屋を出ていく。
何で、怒らないのだろう。この人は、怒りの感情がないんだろうか。
少し経って、戻って来た女将さんは「車椅子」というものを押していた。
文字通り椅子の両側に車輪がついていて、後ろから人が押すと、本人は座ったままでも移動出来るようになっている。
なんだか色々と、贅沢な道具だ。
「怪我した人も時々来るのさ。これなら抱えなくても移動できるからね。なかなかいいだろう?」
付ききりになるのは前提らしい。
不思議な世界だ。
「ちょっと揺れるらしいけどね。すぐだから我慢しておくれ」
「……ありがとう」
「いいのよお礼なんて。あたしがやりたくてやってんだから」
その言葉に甘えて、車椅子への移動も手伝ってもらう。
借りがどんどん膨れ上がっていく――女将さんは、全然気にしていないみたいだけど。
「……これくらいしか、出来ないから」
「気にしなくていいのに。優しい子だねえ」
何もしていないに等しいのに、優しいのは女将さんの方だろう。
押してもらって外へ出ると、向かいの棟には朝顔が簾のように絡んでいて、咲いている花は十や二十ではない。
一階には花壇が、二階には廊下にびっしりと鉢植えが並べられ、建物全体が花で出来ているみたいだった。
「……綺麗」
「だろう?うちの自慢さ」
「花、こんな風になるんだ……」
「そうさ。手をかけてやればね。セラがいた所は風船葛でやってるんだ。ほら――」
くるりと反転させてもらえば、指先に乗るほどの紙風船のような実が風に揺れている。
「可愛いだろう?花は小さくて目立たないけど、これが良くってねえ。熟したら、開けて種を取ってごらん。ハート模様で可愛いから」
「……いつ熟すの?」
「秋の初めくらいさ。すこぅし涼しくなるころにね、風船がみんな茶色くなって、外の皮が乾いてくるのさ。そしたら種の取りごろ」
「……私、そんなには」
「いていいのよ。ぶっちゃけて言うとね、男の子から――ルイって言うのかい?あの子から、三ヶ月ぶんお代もらってるのよ。だからいてちょうだいな。今が夏の盛りだから――、秋の中ごろになるかねえ」
半分くらいは口止め料だと思っていたが、そんなものを受け取る気はないらしい。
「それ着いた。ここだよ。車椅子じゃ中までは入れないから――何歩か歩けるかい?」
「ルイ?」
聞き終わる前に飛び込んでいた。
目眩を起こして、崩れる私を大きな手が支えてくれる。
「…………よかった……」
温もりがある。鼓動を感じる。
大事そうに、髪を撫でてくれて。
急に立ち上がったせいで貧血が酷く、悲しいことに、何も見えなくて聞こえない。
そっと布団へ寝かせてくれる気の使い方も、優しいあの人のそれだ。
慣れてしまうほど貧血で倒れる私にきっと呆れた顔をして、それ以上に心配してくれているんだろう。
たぶん何か話しかけてくれているけど。
耳鳴りばかり煩くて、でも手を握ってくれたことは分かって。
「……ありがとう」
今度は自然に、お礼が言えた。
「――聞こえるか?」
ようやく聞き取れるようになって、こっくり頷くと、ほっとした顔のルイが見えた。
「頭痛や吐き気は無いか」
「ん。……大丈夫」
「心配を掛けて済まなかった。無理はして居ないか?」
「うん。女将さん達に、助けて貰って」
「後で礼を言わねばな」
たぶん、女将さんは気を遣ってくれたんだろう。
「ルイ、平気?……怖くて連れて来てもらったの」
「ただの寝不足だ、如何とも無い。宿の人間伝に様子だけは聞いたから、見に行こうとして居た。以前に比べれば顔色が良いな。何よりだ」
「……ごめんなさい。…………私のせいで」
「違う」
「私が、……殺してなんて、言ったから」
「……謝る事など一つも無い」
なんて、優しいんだろう。
私はなんて非道いんだろう。
「あんなに辛い思いして……助けてくれたのに、…………ごめんなさい……許さなくて、いいから。貴方の気持ち、全然考えてなかった」
言っちゃいけなかった。言わずにいられなかった。
そんな言い訳、この人には関係ない。
助けてくれたのだから。
助けて欲しい、でもそんなの酷すぎる。
「……御免な」
溢れるまえの涙を払ってくれた手が、そのまま私の両目を覆う。
「御免……本当にごめん。……貴女だけは、殺せない」
込められた思いは針のように、壊れた心を刺して繋げる。
……泣いているの?
言葉は喉で嗚咽に変わった。
私がいちばん、この人を傷付けた。
けれど私は、この人に愛されている。
「……ごめんね」
掛ける言葉が見つからない。
掛けていいかも分からない。
そんな時は、手を握ればいいんだと知った。
言葉にならないものが、皮膚を伝って届くように。
満たされる。生きていけるとさえ思う。
でも私で良いんだろうか。
私、この人に何か返せるんだろうか。
何もないから満たせない。
砂が水を奪い取るように、まわりを不幸にしてばかり。
満たされて、満ちた心に罪悪感が穴を開ける。
痛い。
私で良いんだろうか。
痛い。
この人をまた不幸にするんじゃないか。
……これ以上は。
「……死なせてやろうと思った」
握った手が、私の手を強く握り返す。
「他に方法が無い。俺は呪うだけで助けて遣れない。……殺す毒も持って居た。……打ったのは只の、眠り薬だ。量も少ない。長くとも、半日眠らせる事しか出来ない」
その長い長い半日を、どんな思いでいたんだろう。
動かない片割れを抱えて。
「……如何しても殺せなかった。御免な。本当にごめん」
ごめんな。
顔を背けて、胸が痛むほど優しい手で頭を撫でてくれて。
もしも、ルイを殺さなくてはいけなくなったら、私、正気でいられる自信がない。
泣いて謝るのは私の方だ。
「……ごめんなさい……」
私なら、死にたいなんて、聞きたくない。
言ってしまったことを謝って、もう大丈夫だからと言いたいのに、それが聞けたら安心できるとわかっているのに。
何度口を開いても、言葉が続かない。
「ごめんなさい……」
言えなくてごめんなさい。
何を謝っているのか、話せなくてごめんなさい。
傷つけてごめんなさい。
もうしないって、約束できなくてごめんなさい。
死にたくてごめんなさい。
「……嬉しいの。私を見てくれること。否定しないで、そのまま見てくれること……。変だけど……幸せ……なの」
こうやって、下手で無意味なお喋りを聞いてくれるところが。
「私……まわりの人、巻き込んじゃうから。……ひどい目に、遭わせるから……離れたほうが、いいよ」
離れて。
止められない涙がぼろりと転げた。
離れた方が良いに決まっているのに、口にしたら本音が分かってしまって。
感情なんて取るに足りないものが、いつも大切な人を不幸せにする。
少しして、普段と変わらない声がした。
「……此れ以上に酷い事が有ると思うか?」
怒っている?
私が、これ以上ない最悪の我儘を言ったから。
目隠しをされて顔が見えない。
「ごめんなさい……」
貴方の気持ちを踏み躙ったこと。なんて詫びれば。
「違う。追手が掛かって何度も殺され掛けた。セラは瀕死の大怪我をした。この宿にはヴァキアも手出し出来ない。……此れ以上に酷い事が起きると思うか?」
「…………でも、この宿は」
言いかけただけでルイは頷く。
「ルーアの忍びが作った宿だ。だから大丈夫」
私を斬った討手がいくら執念深くても、ルーアの懐で派手に暴れるわけにはいかない。
そんなことをしたら、面子を潰されたルーアは激怒するだろう。
死神を封印しようとする今、下手なことは出来ない。
万一があれば、貴族たちには死神の無力化を託さねばならない――リネラと秘密警察が滅んだあとで。
「主人夫妻に気に入られたのは嬉しい誤算だな。保険が強固になった。事が済むまで、彼等の目が届く場所に居れば大丈夫だ」
「ここにいれば大丈夫」
「そう」
口にすれば、ぽうっと胸が温かくなる。
なんて優しい響きだろう。
「あなたは、死なない?」
「当然」
「……私は?」
「安静にして居れば。無理して動かない事」
「そっか」
知らない涙が流れていく。
「もう、大丈夫なんだ…………」
怖いものも、痛いものも、もうない。
息をすることに怯えなくていい。
障子を透かす陽の光が、とてもきれいだった。




