第五十二章 撫でし子
刀傷は、そう簡単に塞がらない。同時に、明確な害意で付けられた刃物の傷と言うのは、他の比でないほど痛むのだ。
セラは寝台に寝たまま、香蘭が置いてくれた鈴に手を伸ばして、すぐに引っ込める。やっぱり、耐えられない訳じゃない。対処法もないのに、呼び出すのは迷惑だろうか。
音は出さずに、持ち上げるだけなら。本当に痛むときのために、少しだけ――
言い訳だらけで決め切れないまま、そうっと摘み上げると、ちりりんと音がした。
「どうしたのー?」
優しい声。
――ああ、来てくれるんだ。
仕事だからとか、義務感じゃなく、下町の母親が子供に向けるような温かさで。転がり込んだだけの、厄介な他人なのに。
「どうしたの?旅人さん」
「な……でも、ない……です……っ」
言葉を吐く喉が詰まって、白い枕が濡れていく。
香蘭は穏やかに微笑んだ。
「ゆっくりで良いのよ」
――嘘じゃなかった。本当に、綺麗事で出来ている。
こんなの人に見られたくないのに、涙が止まらない。
「良いのよ。泣きたいだけ泣きなさいな。……旅人さん、名前は?」
「……セラ……」
「小春日和か。いい名前だねえ。学のある、賢い人が付けたのね。神話時代の言葉なんて」
「ふゆの……陽光に、にてる、って」
貧民街にいたとき、学者崩れに字を学び、言葉を知った。それでルイが、くれた名前。小春日和の他に、冬特有の透明な陽の光も意味するそうだ。
「柔らかくて、優しい光ね。ええ良く似てる」
ルイという名は、私が贈った。大切な人に親愛を示すための呼び方、「セラ」と同じ時代の言葉。ほとんど唯一と言っていい、宝物の記憶。
大切にしたかった。
大切に出来なかった。
「……、が……」
「うん?」
「ルイが、死んじゃったらどうしよう……っ」
「大丈夫さ、疲れてるだけだから」
「わ、私の、せいでっ、無理ばっかりさせて……倒れて……っ。私――私が、こ……殺してなんて、言ったから」
「…………」
「あのひとの……人生、壊した……っ」
ずっと頑張っていたのに。そんなところも、大事だったのに。いつも私は大事にできない。
「私さえ……いなければ。ルイは、上手くいったままで……っ。ら、ライダンも、死ななかったのに。あの、綺麗な……ひとも、きっと、生きてた」
間違ってる。生き残る人はライダンや賞金首で、死ぬべきは私で。そのほうが、何倍も幸せだったのに。
「全部ぜんぶ、歯車、狂わせて……」
私はもう、死ぬこともできない。あの高潔な人たちが、紛争終結のための、能動的な犠牲者たちが、私に託したものが分からない。分からないから捨てられない。捨てられないから自決もできない。無理やり死のうとしたから、大切な人が代償を払わされたのだ。
「…………あたしには想像もつかないくらい、苦しんできたんだねえ……」
そうだ。もう綺麗事なんて信じられないんだ、香蘭じゃ分からないほど苦しんで来たから。「貧困から助けてあげる」なんて綺麗事を信じて、加虐者の手を取ってしまった。そうやってルイのことを見捨てた挙句に、壊されてまたあの人に助けられて――あの人をまた、蔑ろに。
私を消す方法を考えて、綺麗に消えてしまう方法を考えて。答えは出なくて、いつしか雁字搦めで動けなくなって。
「…………セラやあの子がどんなところにいたとか、あんたがどんな事をしたのか知らないし、オバさんの独り言だけどさ」
投げやりな言葉とは裏腹に、声も口調も思い遣りに溢れている。
「人はきっかけにしかなれないんだから、あんたを選んだのは本人の意思だよ。本当に狂わされただけだったらさ、何日も付ききりで看病するわけないだろう?それだけあんたのことを大切に思ってるんだよ。こんなに愛してくれる人なんて、そう滅多に出会えないのよ」
「なんで……?なんで、私なんか」
「それは本人に聞くしかないねえ。だけどあんたの背中、すっごく丁寧に縫ってあったよ。なるべく痛まないで治るように、跡が残らないようにってね。この子にとっては、あんたはそれだけの価値があるのよ。だからそんなこと言いなさんな。自分を卑下しないの」
「……死ぬなって、言ったの。ルイが……。……愛してるから、駄目だって」
「そりゃあ、そう言うんじゃないのかい?あたしなら、大事な人にはいつまでも生きてて欲しいけどねえ」
「私の……、こと、一番知ってるのに。全部、話して……。辛かったねって言ってくれて。でも過去のことじゃないの。今だって、今の方がずっと。……なのになんで?殺してくれないの……?」
ねえ女将さん。
呼ぶと目が合って、けれどすぐに涙でぼやけた。
「愛ってなんなの?……叩くこと?ことばで、縛ること?……私、生きれなくて、死ねないの」
口には出さない、でもこれは、あの人の「愛」のせいだ。あの人が言葉で縛ったせい。暗殺屋という呪いを解いたあの人が、同じ口で呪いをかけた。
ずっと求めてきた、見たことのない「愛」は、美しいはずの「愛」はこんな姿だった。
……私は、何を求めて、こんな所まで来てしまったんだろう。
「色んな愛があるのさ。あたしは、傷つけることは違うと思うけどねえ」
「誰のせいとか、もう分かんない。……お願い、殺して…………」
女将さんは、何も言わなかった。説教も、哀れみも、同情もしないで、そこにいるだけ。いきなり泣き出す奴なんて鬱陶しいだろうに、――リアンなら叩いて黙らせるか、目に入らない所に閉じ込めるのに。
足りない頭でも、泣かせてくれている事くらい分かった。
「……女将さん、」
「どうしたの?」
謝ろうとして、あの人が教えてくれた事を思い出す。
「…………ありがとう」
「いいのよ。ちょっとでも楽になってくれたんなら、それが一番嬉しいんだからさ」
「……ありがとう…………」
もしも、もしも人を傷付けて来た私に、「もし」が許されるのなら。こんな綺麗事の世界に、ずっと留まっていたい。幸せは泡沫だと分かっていても、その後に必ず絶望があると分かっていても。
「ほら、また思い詰めた顔して」
女将さんが、人差し指で私の頬を突く。
「あんた、暇だとダメみたいねえ。辛い方へ、辛い方へばっかり考えちゃう」
「……辛い方へ……?」
当たり前の考えが、女将さんには違うみたいだ。
それに、思った事が全部顔に出る隠密なんて笑えない。
「そりゃもう。ずーっと不幸な顔して、幸せが逃げるってのよ。あんた、花は好き?」
「……え?」
話の流れが読めなくて呆ける。一拍遅れて、くるくると頭が回った。
「好き……です」
花というか、食べられる植物にはかなりの恩がある。時々毒草にあたって酷い目に遭ったけれど、今なんとか生きていることを考えたら感謝の方が勝つ……たぶん。
「そうかい。主人が庭に凝っててね、色んな花が咲いてるのさ。何日かは寝てなきゃだめだけど、済んだら案内するよ。車椅子もあるし」
「……車、椅子?」
「ありゃ、知らないか。珍しいもんねえ。そんじゃ見てのお楽しみさ。今はこれで我慢しとくれ」
サイドテーブルに置かれたのは紫色の花だった。摘み取られたたかが花、されど花器の上で咲く短い命を、胸を張って生きている。
「……花が、綺麗だって……気付かなかった」
そう、生きているのだ。余りにも当然の事が、何故か深く胸を打った。
本当の事は分からない。分からないけれど、「生きて欲しい」、とは、こう言う事なのだろうか。この綺麗な命が、枯れないで欲しいと願う事?
「生花の寿命は短いよ。それが、いっそう綺麗に見せるのさ」
「生きて欲しいってこと?」
「枯れるからこそ、咲いてる間が貴いんだよ」
「……なんでみんな。私、綺麗じゃ……花じゃないのに」
命まで懸けたの。こんな私のために。
「セラはまだ若葉なのさ。どんな色の、どんな花が咲くか、まだ誰にも分かりゃしないんだよ」
「…………咲かない、きっと……碌なものにならない」
「今はまだ、その時じゃないってことさ。花が咲くには時間がかかるんだ。草木の一生で見たら、短いものよ。あんたが考えてる以上に、ずっとずうっと大仕事なんだ。焦るんじゃないよ」
「生かされたから……やらなきゃいけない。何を……すべきか、分かんない」
「その時が来たら分かるさ。大丈夫。冬に桜は咲かないし、朝顔は夏にしか咲かない。それでいいのよ」
こんなにほっとする「大丈夫」を、くれた人はいなかった。
「……いつ分かるの」
ほとんど負け惜しみだ。無条件に受け入れてくれるなんて、懐が深すぎるから。身を委ねたら楽なのに、それが怖くて試してしまう。私を食い破った絶望で、女将さんが溢れないかどうか。
「焦らなくなったらさ。案外近いかも知れないよ」
――ああ、
小揺るぎもしない。
その手を取って、体重を乗せても……きっと支えてくれる。
「…………ありがとう」
再び滲む涙を隠しながら、素直に救われるしかなかった。




