第五十一章 彼岸花
……おかしい。
セラは何故か目を覚まし、何故かルイが倒れている。
――死んだのは、私のはずなのに。どうして?
これは死後の世界なの?
「……おきて……」
ルイは隣にいるけれど、意識がない。
「……ルイ?おきて」
ぐったりと体を投げ出して、ゆすってもびくともしない。衣服越しなのに体が燃える様に熱い。
違う、私、死んでない。
死んでないばかりじゃない。
――私、なんてことをしたの。
頭が締め付けられる様に痛む。
「ねえ、ねえってば……お願い…………わたしが、助けてなんて……言ったから」
人生を壊してしまった。
だから――だから、せめてこの人だけは助けなければ。
息を詰めて片膝を立て、ぐっと体重を乗せて体を支える。ふらついても倒れるには至らない。まだやれる。私が倒れている場合じゃない。
目の前が黒く狭窄しても、頭は妙に冴えていた。
***
――痛い。
ルイが過労で倒れてから四半刻。
傷の痛みや体力の限界と戦いながら、倒れた彼をどうにか布団へ寝かせ、眩暈を堪えて井戸端へ出て来たところだ。
高熱を出しているから冷やしてやらねばならないし、水分もきちんと補給しなければならない。それで水を汲みに来たのだが、脚は立たないし、井戸に寄りかかって滑車を引くのは無理がある。
意識のないルイの体は想像以上に重く、せっかく縫ってもらった傷は熱を持ち、またじわじわと出血していた。
――なんとか、立って。
崩れた脚を、叩いて叩いて立ち上がる。井戸の縁に手をついて支えにし、慎重に、桶を吊るす紐に利き手を伸ばし――
背に、激痛が走った。
「っ……‼︎」
目の前で白く火花が散る。尖った痛覚信号が神経を貫き、脳まで刺される。
――拙い、
なすすべもなくセラは落ちる。見えず、分からず、ただ真っ直ぐ堕ちていく。
もがいた右手は徒労に終わり、深く頭が落ち込む。
――ルイ、ごめんなさい。
覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。
目を開けると辺りが明るかった。
井戸に落ちたのに何故。その疑問を潰すように、中年の大男が狭い視界に入り込んで来る。
「嬢ちゃん、傷開いちまってるぜ。無理すんな」
どっくんどっくんと脈を打つ痛みの隙間から、男の声が干渉してくる。
「……大、」
大丈夫と続けようとして、喉元の現実に気付く。
もはや取り繕えない。
生まれてからほとんど初めて、知らない人の前でセラは泣いた。頭も心もぎちぎちに詰まって、もう頭が回らなかった。
「…………助けて……」
大丈夫と強がる為に開いた口は、気付けば悲鳴を上げていた。
「……もう無理。助けて…………」
何も考えられない。相手が信用出来るのか、敵か味方か。それすらもう、どうでも良かった。
弱音を吐いたら、びくとも動けなくなってしまった。
「はいはい、宿に居るんだから宿の奴使えな。一人でなんもかんも抱え込むんじゃねーよ」
あやすように言って、軽々と担ぎ上げる。粗雑そうに見えて、傷に響くことはなかった。
「おーいカミさーん、奥の部屋見てやってくれや。医務室使うわ」
「……ほいっと。旅人の嬢ちゃん、聞こえるかい?」
涙で霞むけれど、男が振った手は何とか見える。
「自己紹介が遅れたな。俺はここの主人みたいなことをしててな、名は翼羽。こう見えて医術もかじってんだ。ちょっとばかしだがね」
治療台に寝たまま頷くのが精一杯だったが、それでもこの男には伝わったようでありがたい。
「とまあ、その前に水飲め。ひっでー顔だ」
起き上がっちゃ逆戻りだな、と、わざわざ布に含ませて飲ませてくれる。
「背中の方は終わったが。あんた傷だらけだな。その腕もケガだろ?包帯替えて良いかね?」
「……ぁ、」
――これは。
気付かれたくない――
誤魔化しの言葉が纏まらなくて、身体を縮める。投げられた善意が、善意だからこそ苦しい。
「おっと悪いね。清潔にしとけよ」
出した手を引っ込めて、翼羽が快活に笑う。
かえって泣きたくなってしまった。
「……大丈夫、です。……霜焼け、なので……」
「そうかい。礼には及ばねーよ」
顔を見る事もせず、足りない言葉でも、礼として取ってもらえたみたいだった。
「……戻り、ます。……ルイが、倒れてしまって」
「連れなら、うちのカミさんが見てるから大丈夫さ。どー見ても嬢ちゃんこそ重症だ、今日はもう動くな寝てろ」
「……でも」
「んじゃ俺はカミさんと代わるな。でもは良いから寝てろ。あんた、体ぼろぼろなんだから本当に死ぬぞ」
じっとしてろよ、と言い置いて、翼羽が出て行く。
――「オレがいいって言うまで寝てろよ!」
静かな部屋に、ライダンの声がした。
――「よっし、終わり!もう痛いとこないか?」
ある、と言えば、助けてくれたかも知れない。泣きながら、震えながらでも、服の下――不自然な火傷や痣を見せたら、守ってくれたかも。
――「……無い」
地下室が怖かった。逃げたかったのに、一言の勇気が出なかった。いつも、いつもいつもいつも。取り繕う言葉はいくらでも出たのに、たった二文字が言えなくて、私を消し去ってくれる暴力を求めた。それが、
……相棒を殺した。
消えたかった。これ以上何もしたくなくて、誰かに縊って貰いたかった。
誰かに――あの人に。泣き落として、願いを無視して、頼み込んで。そのせいであの人を壊してしまった。
「ほんとに……最低」
消えるべきは私なのに、死ぬことも許して貰えない。破滅を望めば望むほど、大切な人が犠牲になる。いつまで生きて、苦しめば良いのだろう。
廊下から、ふくよかな女性の足音がした。
「お邪魔しますね、っと」
紫陽花色の着物を纏った中年の女性が、目を合わせて人の良さそうな微笑みを浮かべる。
「あたしは香蘭。ここの女将をやってるのよ。しばらく面倒見せてもらうからね。よろしくね」
「……お願いします……」
抵抗しても、ろくなことがない。
ただ流されていれば良いのだ。流されて従順にしていれば、これ以上悪い事は起こらないから。相手の気分を害さないなら、決められた未来が悪化する事はない。
「一緒に来た男の子はね、疲れが溜まってるだけみたいだから。何日かゆっくりしていたら治るさ。だから、心配しなくていいのよ」
「……面倒かけて、すみません」
「そんなの謝らなくていいわよ。宿ってのは、そういう所なんだからさ」
そんな事を言われたって心配で堪らない。
でも、怪我を押して部屋に戻れるだけの気力、体力はどこにもなかった。
「もともと、旅の合間に一休みする場所なんだから。ここには怖いものも苦しいこともないわ。のんびりしてお行き」
「…………休むって、なんですか」
なんだか抽象的なことを言う人だ。
寝てろ、とは、よくライダンに言われた。寝転がっていても気ばかり急いて、まともに眠れたことは殆どない。
リアンに扱かれているとき、動きが止まれば休むなと叩かれた。休むとは、動かないでいる事だろうか。
「んー、ひと呼吸おくことかねえ」
香蘭は、慣れた仕草で額の汗を拭ってくれる。
彼女の言う「休む」は、予想と少し違うみたいだった。
「頑張ることとか……特に、嫌なこと、苦しいことをね、ストップする時間を作ることさ。気分転換って言えばいいかも知れないねえ」
考えを纏めるように、指が髪の生え際をなぞる。頭を撫でるなんて子供扱いが、今は嫌でなかった。
「紐みたいなものでね、ゆとりを持たせるのが大事なのよ。あんまり引っ詰めると切れちまうだろう」
あんたたちは引っ詰めすぎかもねえ、とこぼす笑みが、胸に複雑な模様を描く。
「……引っ詰め、すぎ」
「なんでも自分でやろうと考えすぎなのよ。意外と、助けてくれる人っているもんさ。人間、独りじゃ生きちゃいけないわ」
「……育ちが良いんですね」
息を詰めるようにして絞った言葉は、耳で聞けばずっと冷たかった。
「いません、そんなの。……弱ければ、強いものに喰われるだけです」
「…………そうなのかも、知れないねえ」
香蘭の手が頬を撫でる。動けないのを良いことに。
「……宿には色んな人が来てね。それぞれが、それぞれの世界に住んでるって、会うたびに感じるのよ。一人ひとりに地獄があって、天国がある。外からは見えないけれどね」
交わることはあっても、同じ世界には存在出来ない。詰まる所人は孤独だ。
「あんたにはあんたの、地獄があると思うよ。それが何なのかは知らない。あんたが話さない限り、詮索もしないよ。でもね、それを束の間忘れる時間も必要なのさ。非日常ってやつさね。旅で例えりゃ、それは宿だ。ここは綺麗ごとが通じる場所なのさ。あたしたちが、そう作ったからね」
「……通じなければ?」
「お帰りいただいてるよ」
悪戯っぽい含み笑いに、この人の真実を見た気がした。
「……ありがとう、ございます」
「うんうん、今日は寝なさい。近くにいるから、何かあったらこれで呼んでね」
手元に置かれた鈴が、ちりん、と澄んだ音を立てる。眠れるとは思わなかったが、警戒心は消えていた。




