第五十章 Bella Donna
朝となく夜となく、宿のひと部屋は陽だまりみたいな時間が、――セラにとっては、へんな時間が流れていた。
斬られた怪我は痛いけれど、手当てしてもらえて、涙を拭って、庇ってもらえて。
「寝て居なくて良いのか」
顔を上げたルイと目が合う。こうやって、真っ直ぐに見てくれるのが好き。
「大丈夫」
座椅子に体を預けて、調薬するルイを何となく眺めて。動かなくても良いどころか、そんな事まで許してもらえる。
夢みたいだ――本当に夢かもしれない。
……いや、暗くて冷たいあの場所が夢?私、初めから陽だまりにいて、あれはとろとろ眠り込んで見た悪夢かも。じゃあ、何も心配することも、怖がることもなくて――
水泡の妄想が、かすかな衣擦れでぱちんと弾ける。この怪我が、夢の筈ない。……じゃあ、目が覚めたら、冷たい地下室の床?それとも、医務室?あたりを汚さないように止血だけされて、誰も居ない部屋でベッドに転がされている?
ルイが、優しくしてくれるのも全部幻なのかも。本当はもう死んでいて――私が裏切ったせいで、あの時リネラに殺されていて。目の前にいるこの人は、愚図の私が、現実逃避に生み出した幻想で。本当はもう、この世界のどこにもいなくて。この陽だまりも、温もりも、どこにもない。私が全部、奪ってしまった。
「――セラ?」
薬草を擦り潰す手を止めて、心配そうに来てくれて。でも全部、ウソなんだ。このままここにいたら、いつかは目が覚めてしまって、地獄の生に帰らなきゃならない。
「ルイ……」
覚めたくない。お願い、いっそこのまま。
泣いた私の顔、本当に酷いだろうな。
「……ころして」
***
「殺して……」
小さな喉が絞り出す。流れた涙が顎に溜まって、間もなくぽたぽたと落ちていく。
ぎょっとした。だが分かっても居た。此れは彼女がずっと秘めて来た願いだ。
「……帰りたくない……もう、私も、連れてって…………」
震えながら伸ばされる手は細く、触れたら壊れて終いそうだ。
「……何処に帰るんだ」
「地下室は、やだ……っ…………わたしね、わたし……頑張ったよ。ほんとに、がんばったの。……死にたくなかった……から。でも、うまくいかない……いつまで?いつまで、したら叩かれないの?…………どれだけ……傷、つけて……う、奪って……っ」
そうか、此れが。
「……其れが、セラの地獄なんだな」
一人の少女が居た。その悍ましい才能に目を付けられ、徹底的に搾取されて、膝をつき涙を流す繊細な少女が。傷付く他人に胸を痛める、心優しく大人しい少女が。
「いうこと聞いたら、……ひと、…………、したら、生かしといて、あげる……って、言われて」
しゃくり上げ、体を縮めて震えて居る。抱き締めると遠慮がちに服を掴んだ。
「怖くて。リアンの……そういう、こと、何度も見てて……。でっ、出来ないと、私も、ち、地下室に……閉じ込められて、…………だ、だから、怖くて、……」
──矢張り、強制されて居たか。
「怪我、……隠せるとこに作るの。やめてって言ったら……大きい声、だして。抵抗したら、……もっと、い、痛いこと、とか。ほんとに、……ほんとに、こわかったの。…………わかって……」
「……分かるよ」
同じ景色を見て来た。俺は運良く略奪の手を逃れただけだ。
「わ、私、自分の、ために、…………。ほんとはずっと……逃げたくて……死にたかった。だからせめて、誰かのために、死のうって……な、のに、ライダンが……か、庇って。ライダンは、飛び出したから…………勝て、なくって」
嗚咽と共に吐き出される、其の先の話は残酷に過ぎた。
クーデターの制圧に向かった折、動けなくなった自分を庇った相棒が惨殺された事。手を伸ばせば届く距離に居たのに、ただ見て居るしかなかった事。
血を吸って膨れ上がった畳を這い、亡き人の指を拾い集めた事。首領補佐官に背負われて、彼が弔われる処――相棒が、焼かれて骨となるのを見た事。仲間が戻って来られなかった事を知り、泣き崩れた親友の事。それでも、健気な彼女は誰も責めなかった事。
それら全てを思い出せず、後から人伝に聞き知った事。そして、大切な人が生きて居た事すら、何時か分からなくなってしまうかも知れない恐怖。
生きて居ることが許せずに、行き倒れようと吹雪の中へ飛び出したこと。矛盾する願いは片一方だけ叶い、俺に助けられて了ったこと。
「会いたかったの、最期に…………。あ……あなたに、殺されたくて。みんな、忘れてくれたらいいって」
「セラの事を?」
出来る筈も無い。分かって居るから、彼女は泣くのだろう。
「消えたいっ……、死んでまで、迷惑、かけたくない。……もう、充分でしょ。ごめんなさい……わたしまだ、死んでなくて、ごめん……で、出来るでしょ…………もう、やだ……」
壊れた様に――否、既に壊れて居るかも知れない。嗚咽を溢して泣きじゃくりながら、お願い殺してと懇願し続けた。貴方に看取られたい、腕の中で死にたいと。
……殺してくれ、と。
出来る筈も無かった。彼女だけは、喩え――。
……そう言う俺のエゴイズムは、彼女にとって優しい形をして居ない。其れを分かりながら。
「……セラ」
彼女が顔を上げる。袖口は色が変わる程濡れ、上衣には斑点が出来て居る。
其の目に澱む感情は、虚無によく似ていた。
「…………頼む」
此の先を聞かせれば、彼女を苦しめるだけだろう。真面目で繊細な彼女は、永劫に近い程気にするだろう。宛ら呪いだ――
――ならば一生の頼みだ、言葉に呪われ、縛られてくれ。
「死ぬな。生きて居てくれ」
其の表情を何と言えば良い。見るだけで胸に穴が空く様な絶望を、最後の糸を切られた彼女を何と表せば良い。
真っ白な唇が震え、声にならない無声音を紡ぐ。
「……なんで」
其の声は、裏切りだと如実に語って居た。
「愛して居るから」
愛など触れた事もない。こんな俺が、余りにもふざけて居る。口先だけの不誠実な人間だ、軽蔑してくれ。憎んでくれて構わない。
害意だろうが、憎悪だろうが何でも良いから頼む、彼女を繫ぎ留めてくれ。
「……じゃあ殺してよ……お願い」
「…………」
苦しんで欲しくない。願わくば彼女を救い出してやりたい。
ならば?
……無理だ。セラには生きて、笑って居て欲しい。――こんな身勝手な話は無い。
「愛してるんでしょ……?……なら、きいてよ……」
世界で最も大事な人が、ガラガラと崩れ落ちる音がした。
「…………もう……、いや……」
胸の内に積み上げて来た、例えば煉瓦や石の様なものが崩落して行く。寒風を防ぐ物は何も無い。
もう何も――何も残せはしない。
「…………なあ、セラ」
ただ息継ぎをするだけの事が、永遠の様だった。
「…………如何やって死にたい」
「……し、してくれるの?」
空の色をした目が、悲壮な期待と不安に揺れる。
もう、この人が笑う日は永遠に来ない。
「生きて居て欲しい。だが、……セラが苦しむのは見たく無い」
「あ、あなたの、……顔が見たい……最期まで、ずっと」
紡がれる言葉一つ一つが、波紋を呼び漣を立てて行く。彼女の涙で、俺まで上手く呼吸が出来ない。
「……ならば、そうしよう。…………昔馴染みのお節介だと思ってくれ」
「ごめんなさい……ごめんね……」
「頼んだのはセラだが、聞き入れるのは俺だ」
「ごめんなさい……嫌なことさせて……」
「辞めて置くか?」
間髪入れず首を振った彼女に、心臓が痛む。
俺は何を期待して居たのか。
「……複数の植物から取った毒だ。血管に入れると全身を麻痺させ、四半刻で眠る様に死を迎える」
使う薬品と注射器を並べ、我知らず彼女の髪を撫でた。
「打てば間も無く意識を失い、戻る事は無い。……本当に良いんだな?」
「……死ぬまでずっと側にいて。……抱きしめて……今だけ、私だけ見ていて」
「勿論」
「…………おわったら……忘れてください……」
青白く細い腕を取り、ゆっくりと、砂時計の砂が落ちる様に毒を流し込む。見つめ合えば、其の目がとろんと緩んで行く。
涙を払い、頬を包む。此れ迄触れたものの中で最も丁重に、華奢な硝子細工を扱う様に。
「……おやすみ」
セラが目を閉じ、体から力が抜けて行く。
回した腕の中で、眠る様に彼女は動かなく成った。
「………………御免な」
其の手がだらりと落ちるのを見たくなくて、知らず抱える腕に力を込めた。
西の空が血の色に染まり、色が失せて灰色と化す。
やがて全てに青黒い陰が落ちた。其の陰すら薄れて、差し込んだ月光は陽の光に変わった。
「………許す必要は無い。………………御免な」
ゆっくりと一つ瞬き。
「貴女だけは殺せない」
冬の吐息の様に、無声音が一言、儚く消えた。溢れた言葉は届かない。
俺は動かない彼女を膝に抱いたまま、ずっとその髪を梳いて居た。




