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神々のイデア  作者: 花都
ルイ編
69/70

第五十章 Bella Donna

 朝となく夜となく、宿のひと部屋は陽だまりみたいな時間が、――セラにとっては、へんな時間が流れていた。

 斬られた怪我は痛いけれど、手当てしてもらえて、涙を拭って、庇ってもらえて。

「寝て居なくて良いのか」

 顔を上げたルイと目が合う。こうやって、真っ直ぐに見てくれるのが好き。

「大丈夫」

 座椅子に体を預けて、調薬するルイを何となく眺めて。動かなくても良いどころか、そんな事まで許してもらえる。

 夢みたいだ――本当に夢かもしれない。


 ……いや、暗くて冷たいあの場所が夢?私、初めから陽だまりにいて、あれはとろとろ眠り込んで見た悪夢かも。じゃあ、何も心配することも、怖がることもなくて――

 水泡の妄想が、かすかな衣擦れでぱちんと弾ける。この怪我が、夢の筈ない。……じゃあ、目が覚めたら、冷たい地下室の床?それとも、医務室?あたりを汚さないように止血だけされて、誰も居ない部屋でベッドに転がされている?

 ルイが、優しくしてくれるのも全部幻なのかも。本当はもう死んでいて――私が裏切ったせいで、あの時リネラに殺されていて。目の前にいるこの人は、愚図の私が、現実逃避に生み出した幻想で。本当はもう、この世界のどこにもいなくて。この陽だまりも、温もりも、どこにもない。私が全部、奪ってしまった。

「――セラ?」

 薬草を擦り潰す手を止めて、心配そうに来てくれて。でも全部、ウソなんだ。このままここにいたら、いつかは目が覚めてしまって、地獄の生に帰らなきゃならない。

「ルイ……」

 覚めたくない。お願い、いっそこのまま。

 泣いた私の顔、本当に酷いだろうな。

「……ころして」


    ***


「殺して……」

 小さな喉が絞り出す。流れた涙が顎に溜まって、間もなくぽたぽたと落ちていく。

 ぎょっとした。だが分かっても居た。此れは彼女がずっと秘めて来た願いだ。

「……帰りたくない……もう、私も、連れてって…………」

 震えながら伸ばされる手は細く、触れたら壊れて終いそうだ。

「……何処に帰るんだ」

「地下室は、やだ……っ…………わたしね、わたし……頑張ったよ。ほんとに、がんばったの。……死にたくなかった……から。でも、うまくいかない……いつまで?いつまで、したら叩かれないの?…………どれだけ……傷、つけて……う、奪って……っ」

 そうか、此れが。

「……其れが、セラの地獄なんだな」

 一人の少女が居た。その悍ましい才能に目を付けられ、徹底的に搾取されて、膝をつき涙を流す繊細な少女が。傷付く他人に胸を痛める、心優しく大人しい少女が。

 

「いうこと聞いたら、……ひと、…………、したら、生かしといて、あげる……って、言われて」

 しゃくり上げ、体を縮めて震えて居る。抱き締めると遠慮がちに服を掴んだ。

「怖くて。リアンの……そういう、こと、何度も見てて……。でっ、出来ないと、私も、ち、地下室に……閉じ込められて、…………だ、だから、怖くて、……」


 ──矢張り、強制されて居たか。


「怪我、……隠せるとこに作るの。やめてって言ったら……大きい声、だして。抵抗したら、……もっと、い、痛いこと、とか。ほんとに、……ほんとに、こわかったの。…………わかって……」

「……分かるよ」

 同じ景色を見て来た。俺は運良く略奪の手を逃れただけだ。

「わ、私、自分の、ために、…………。ほんとはずっと……逃げたくて……死にたかった。だからせめて、誰かのために、死のうって……な、のに、ライダンが……か、庇って。ライダンは、飛び出したから…………勝て、なくって」

 嗚咽と共に吐き出される、其の先の話は残酷に過ぎた。

 クーデターの制圧に向かった折、動けなくなった自分を庇った相棒が惨殺された事。手を伸ばせば届く距離に居たのに、ただ見て居るしかなかった事。

 血を吸って膨れ上がった畳を這い、亡き人の指を拾い集めた事。首領補佐官に背負われて、彼が弔われる処――相棒が、焼かれて骨となるのを見た事。仲間が戻って来られなかった事を知り、泣き崩れた親友の事。それでも、健気な彼女は誰も責めなかった事。

 それら全てを思い出せず、後から人伝に聞き知った事。そして、大切な人が生きて居た事すら、何時か分からなくなってしまうかも知れない恐怖。

 生きて居ることが許せずに、行き倒れようと吹雪の中へ飛び出したこと。矛盾する願いは片一方だけ叶い、俺に助けられて了ったこと。

「会いたかったの、最期に…………。あ……あなたに、殺されたくて。みんな、忘れてくれたらいいって」

「セラの事を?」

 出来る筈も無い。分かって居るから、彼女は泣くのだろう。

「消えたいっ……、死んでまで、迷惑、かけたくない。……もう、充分でしょ。ごめんなさい……わたしまだ、死んでなくて、ごめん……で、出来るでしょ…………もう、やだ……」

 壊れた様に――否、既に壊れて居るかも知れない。嗚咽を溢して泣きじゃくりながら、お願い殺してと懇願し続けた。貴方に看取られたい、腕の中で死にたいと。


 ……殺してくれ、と。


 出来る筈も無かった。彼女だけは、喩え――。

 ……そう言う俺のエゴイズムは、彼女にとって優しい形をして居ない。其れを分かりながら。

「……セラ」

 彼女が顔を上げる。袖口は色が変わる程濡れ、上衣には斑点が出来て居る。

 其の目に澱む感情は、虚無によく似ていた。

「…………頼む」

 此の先を聞かせれば、彼女を苦しめるだけだろう。真面目で繊細な彼女は、永劫に近い程気にするだろう。宛ら呪いだ――

 ――ならば一生の頼みだ、言葉に呪われ、縛られてくれ。

「死ぬな。生きて居てくれ」

 其の表情を何と言えば良い。見るだけで胸に穴が空く様な絶望を、最後の糸を切られた彼女を何と表せば良い。

 真っ白な唇が震え、声にならない無声音を紡ぐ。

「……なんで」

 其の声は、裏切りだと如実に語って居た。

「愛して居るから」

 愛など触れた事もない。こんな俺が、余りにもふざけて居る。口先だけの不誠実な人間だ、軽蔑してくれ。憎んでくれて構わない。

 害意だろうが、憎悪だろうが何でも良いから頼む、彼女を繫ぎ留めてくれ。

「……じゃあ殺してよ……お願い」

「…………」

 苦しんで欲しくない。願わくば彼女を救い出してやりたい。

 

 ならば?

 

 ……無理だ。セラには生きて、笑って居て欲しい。――こんな身勝手な話は無い。

「愛してるんでしょ……?……なら、きいてよ……」

 世界で最も大事な人が、ガラガラと崩れ落ちる音がした。

「…………もう……、いや……」

 胸の内に積み上げて来た、例えば煉瓦や石の様なものが崩落して行く。寒風を防ぐ物は何も無い。

 もう何も――何も残せはしない。

 

「…………なあ、セラ」

 ただ息継ぎをするだけの事が、永遠の様だった。

「…………如何やって死にたい」

「……し、してくれるの?」

 空の色をした目が、悲壮な期待と不安に揺れる。

 

 もう、この人が笑う日は永遠に来ない。

 

「生きて居て欲しい。だが、……セラが苦しむのは見たく無い」

「あ、あなたの、……顔が見たい……最期まで、ずっと」

 紡がれる言葉一つ一つが、波紋を呼び漣を立てて行く。彼女の涙で、俺まで上手く呼吸が出来ない。

「……ならば、そうしよう。…………昔馴染みのお節介だと思ってくれ」

「ごめんなさい……ごめんね……」

「頼んだのはセラだが、聞き入れるのは俺だ」

「ごめんなさい……嫌なことさせて……」

「辞めて置くか?」

 間髪入れず首を振った彼女に、心臓が痛む。

 俺は何を期待して居たのか。

 

「……複数の植物から取った毒だ。血管に入れると全身を麻痺させ、四半刻で眠る様に死を迎える」

 使う薬品と注射器を並べ、我知らず彼女の髪を撫でた。

「打てば間も無く意識を失い、戻る事は無い。……本当に良いんだな?」

「……死ぬまでずっと側にいて。……抱きしめて……今だけ、私だけ見ていて」

「勿論」

「…………おわったら……忘れてください……」

 青白く細い腕を取り、ゆっくりと、砂時計の砂が落ちる様に毒を流し込む。見つめ合えば、其の目がとろんと緩んで行く。

 涙を払い、頬を包む。此れ迄触れたものの中で最も丁重に、華奢な硝子細工を扱う様に。

「……おやすみ」

 セラが目を閉じ、体から力が抜けて行く。

 回した腕の中で、眠る様に彼女は動かなく成った。

 

「………………御免な」

 其の手がだらりと落ちるのを見たくなくて、知らず抱える腕に力を込めた。

 

 西の空が血の色に染まり、色が失せて灰色と化す。

 やがて全てに青黒い陰が落ちた。其の陰すら薄れて、差し込んだ月光は陽の光に変わった。

「………許す必要は無い。………………御免な」

 ゆっくりと一つ瞬き。

「貴女だけは殺せない」

 冬の吐息の様に、無声音が一言、儚く消えた。溢れた言葉は届かない。

 俺は動かない彼女を膝に抱いたまま、ずっとその髪を梳いて居た。

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