第四十四章 隠世
耳鳴りと自分の呼吸しか聞こえない。呼吸の苦しさと気道の痛みで、かろうじてまだ生きていると知る。
突き飛ばされたルイが、セラごと地面に倒れ込んで助けてくれたらしかった。
「……リアン」
弟子を殺しかけても、――否、取り逃しても、顔色ひとつ変えない女だ。睨んだくらいで怯む訳がない。
「やめてって、言ったでしょう……」
声が震えるのも、極めて自然だった。
「……下らない」
女は深々と溜息を吐く。
「一人じゃ何も出来ない癖に。お仲間が出来てそんなに嬉しい?あれだけ手を掛けてやったのに!弱者は弱者らしく、這いつくばって許しを乞いなさいよ!」
空気が震え、武装した筈の心はあっさり瓦解してしまう。
――勝てない。
――駄目、早く立って。動いて。
必死に念じても微動だに出来ず、恐怖心を隠す様に睨み付ける。
せめて自分一人に敵意を集める。助けてくれたルイだけは、何が何でも死なせる訳に行かない。
「……はァ、興醒めよォ。こんなのアタシの弟子じゃない」
深々と溜息を吐き、フレイルを放り投げてセラの腕を掴む。尋常でない力で締め上げられ痣が形を成し始めた。
「出来損ないの弱虫の癖に、一丁前に反抗ばっかしてさァ。いらないわァ!こんなのアタシの弟子じゃない!」
赤紫の痣を切り裂かれ、赤黒い血が流れ出る。硬直するセラの髪を千切って血に汚した。
「…………殺してやったの」
狂った女が恍惚と囁く。
「殺してやったのよ……ダメな子だからさァ。あんな奴初めからいなかったわ。グチャグチャだからァ……髪だけ、取ってきてやったのよォ」
乾いた高笑いが響き、アタシのせいじゃないわ、と何度も繰り返す。虚な目を見開いて詰め寄る姿は、狂気以外の何物でもない。
「勝手に壊れちゃうアンタがおかしいのよ……?弱い奴なんていらないわ。今すぐ消えて、さっさと死んで頂戴よ!…………あァ、はは。死んでるからァ、無理か――アハハハハハハ!」
死んだんだもんねェ。もう、死んでるんだァ。
高笑いを続けながら、フレイルを拾い上げてふらふらと立ち去る。ひどく狂気じみていたが、足取りはしっかりしていた。
「――見逃されたか」
ルイが身を起こし、出血を続ける腕を手早く処置してくれる。
「移動するぞ。立てるか?」
未だ硬直したまま、呼吸だけで精一杯の私に目線を合わせて片膝をつく。
「あの女は何時もああなのか」
言動や行動が支離滅裂な事についてだ。
「は……はっ……、いつも」
呼吸に乗せて、音を絞り出す。
「フレイルを持つと……いつも、こう。良く、分からないけど……記憶喪失か、何か……だと、思ってる」
「発言を覆す事は?」
「な、い。……一回も」
「そうか」
皺一つない手巾で、額の汗を拭ってくれる。
「ならば事実、俺達は死んだ訳だな」
微かに、挑戦的に笑う。内容に反して、声の調子も僅かに楽しげだ。
――こんな風にも、笑うんだ。
「……死んでるから、自由だね」
差し出してくれた手を取って、立ち上がる。相変わらずふらつく感覚があるが、歩けない程ではない。重い荷を下ろして体の軽さに戸惑う時の様な、変な感覚があった。
「……有難う」
手間を取らせた時は、礼を言うものと教えて貰った。反応はないにせよ、耳を傾けてくれているのは分かる。
「助けてくれなかったら……私、本当に死んでた」
手を引かれて拠点にしていた場所へ戻りながら、最も重要だからこそ、恐ろしい事を口にする。
「……役、立たなくてごめんなさい」
捨てないで。
馬鹿らしい懇願の声が、建て付けの悪い引戸に隠れる。
ルイは気付いていないらしい。手早く荷物を纏め、戻ってから再び出立するまで、五分も掛からなかった。
リアンの去った先、秘密警察本部の方向へちらりと目を遣る。
――「秘密警察の暗殺屋」は死んだ。漸く死ねたのだから、私だって役に立って、二人で逃げ切る。
旅は良い。道連れがいてくれるなら、追われる旅でも悪くない。
セラは視線を戻し、二度と振り返らなかった。
話のストックが切れたため、この章で一旦休載します。申し訳ございません。
気長に待っていてくだされば嬉しいです。
ううう、ふがいない…




