第四十二章 硝子の剣
人には誰しも、「天敵」がある。理性に関わりなく、本能的に恐ろしいものと言っても良い。
それはある人にとって虫であり、またある人には雷であり――セラにとっては、一人の人間だった。
セラを拾って訓練を施し、都合の良いように仕立て上げた女。
「……水貰って来る」
奇妙な逃亡劇の共演者に言い置いて、戸を潜る。片割れはセラの疲弊しきった体を如何にかすべく、起きている時間のほとんどを調薬や薬草の調達に使ってくれている。これ以上負担にはなりたくないので、調子が良い時だけでもと動いているのだった。
と言っても今のセラでは、徒歩十分もかかるか否かの井戸までが関の山だが。
集落の例にならって、飲み水を供給する井戸は街の中心だ。人間の活動時間であれば、始終人が集まる。ゆえに人気の少ない早朝や夜を狙って行くのだが、この時は先客がいた。
年季の入った白い服が、曙の青に浮かび上がっている。男と見紛うほど筋肉質な体と赤銅色の肌からして、たぶん船乗りだろう。
「おはようございます。早起きですね」
言い終わる前に、女は服のまま桶の水を豪快に浴びた。
「おうよ、そりゃお互いさまだろ。ってあんた、本当に早いな」
巻き添えを食ったセラまで上着がずぶ濡れだが、船乗りは気にもしていないらしい。
水が冷たい。そこへ早朝の風が吹きつける。
寒い。風邪を引く。
「行商人かい?にしちゃ色が白すぎるし細っこいな……なんだってこんな早く水浴びに来てんだ。あんた、どこぞのお貴族様の隠し子だろ」
「……いや……」
水浴びには来ていない。一応貴族に縁は有るが、大分意味が違う。
「白いどころか青白いぜ。病人かよ」
夜明け前から井戸水を被ったせいだ。
「おおかた、お家騒動に負けて落ち延びてきたとか、そんなところだろ。安心していいぜ、ここは港町だしバレやしねえよ」
違う。全く違うが、訂正する隙がなさすぎる。
そうこうする間にぞろぞろと住民が現れ、女船乗りは気さくに声を掛けていく。
そして必ずこう付け足すのだ。
「んなことより、いいとこのお嬢が来てんぜ。逃げてんだとよ」
……帰りたい。
頭が痛くなるやり取りから漸く解放された頃には、完全に夜が明けていた。
先程の女船頭は特殊としても、この町は余所者を特別視しない。新しい仲間と見なし、相互扶助の輪に入れようとする。港町という場所柄だろう、人間や品物を問わず様々な地域や特性のものが自然に集まっている。
出来る事なら、何処にでもいる町娘としてこの町で暮らしたい。親しい誰かと、穏やかで平和な箱庭で一生を終え、誰かの生を記憶し、また記憶されていたい。どんな形でも良い、愛と名のつく「何か」を知りたい。触れたい。それが当たり前に存在する世界に入り、共に構成していたい。
私にとって、幸せとはそう言うものだ。
そう言う、別次元のものだ。
一歩ずつ、沈み込む様に脚が重くなる。
帰路を往くにつれ賑やかな声が薄れ、別の気配が充満する。
セラにとっての、血の匂いの代名詞が。
もしもセラが町娘なら、悲鳴を上げれば助けて貰えるのだろうか。
ルイのような賢い人なら、上手に撒いて逃げられるだろうか。
もしも人の助けになれていたら、誰かが匿ってくれただろうか。
もしもこんな性格でなければ、後ろ暗いものがなければ。もしも、もしも私が、賞金首や、ライダンみたいな、温かい人なら。
……私以外の誰かだったら。
「…………リアン……」
静かに膝が土に沈む。顎の下へ落ちる水滴はひどく冷たかった。
怖くないと言い聞かせて来た。今や立場は対等で、師事していた頃とは違う。
だが繰り返し、或いは強く感じたことは、体に焼き付いてしまう。
怖くて、怖くて、堪らなかった。
――敵わない、戦いにもならない。
逃げなければいけない。逃げられる訳もない。頽れたまま身動きも取れず、ゆっくりと近付く足音を聞くしかなかった。
真っ赤な唇、緩く巻いて流した長髪。深いスリットの入った派手な衣装。
揺れるフレイル。
ざり、と砂を散らして足音が止まる。
「り、リアン…………」
「ふ……あっはは、見つけたわァ」
毒々しいほど赤い唇が弧を描く。見開かれた目がギラギラと輝く。
「ほォんと、馬鹿な子ねェ」
――聞きたくない。この先を知りたくない。
「どうなるか、知ってるクセにィ。裏切り者ォ」
――やめて。喋らないで。
「ほらほらァ、これが欲しいのよねェ?」
フレイルが揺れる。立てる音は、金属を爪で擦るのに似ていた。
――来ないで。聞きたくない。知りたくない。
鎖が擦れ、不協和音が頭蓋を割って入り込む。
断末魔に酷似したその音。
「やめて……!」
吐き出した音は弱々しく、何の力もない。分かっているのに。
――違う、分かっている。
暴れ出したものを、元の器に捩じ込んで。
――このままじゃ駄目、やらなきゃルイまで殺される。
膝を立て、地を蹴り間合いに飛び込む。瞬き一つの間に薄い刀身が喰らい掛かり、頸動脈だけを正確に狙う。皮一枚でフレイルの柄が止め、勢いに乗った鉄球がお尋ね者の背後を取る。セラは流れる様にフレイルの動線を避けて回転するに任せ、リアンが次手を繰り出すまでの一秒で二度大動脈を斬り付ける。
斬った筈だった。斃した筈だった。
リアンの膝が、セラの肋骨を叩いてさえいなければ。
「うっ」
「あっははっ!言ったじゃない軟弱者ォ。痛がるから負けるのォ、怖がるから弱いの!アタシいっぱい教えたのにさァ、ぜェんぶ忘れちゃってェ!あっはは馬鹿なのォ、ほんっと馬鹿ァ。また地下室で虐めてあげるわァ」
――地下室。
ふらついたセラが完全に崩れる。その手は明らかに震えていた。
「や……っ」
血を被ったフレイルと、可笑しな方向へ折れ曲がった捕虜。部屋に染み付いた血の匂い。
秘密警察本部の、地下室。『拷問妃』リアンの仕事場であるその場所は、セラにとって呪いだった。
冷たく硬い石の床。うっかり下手な倒れ方をすると、体が軋んで動けなくなる。でも、起き上がらなきゃもっと酷い目に遭う。起き上がって、飛んで来る恐ろしい物から急所を外さないと死んでしまう。
「嫌だ……許してください、許して」
届く事のない哀願は嘲笑に付され、甲高い声が脳を突き刺す。狂った女が叫ぶごとに、痛みが響いて大きくなる。
――やめて。やめてお願い、地下室は嫌。
赤く塗りつぶされた中に敵だけが見える。
自分の心拍しか聞こえない。天敵はそこで笑っているのに、首を絞められたように窒息して。
血を被った悪魔が不意に反転する。
それを最後に、セラは何も見えなくなった。
必死に息を詰めた。息を殺して嗚咽を呑んだ。
だって、生きたかったから。捕虜達みたいに死にたくなかったから。あの断末魔が痛いから。
だからこの笑顔が、怖い。甲高い笑い声が怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――
ギィンッ
それは「戦地の音」。より正確には、攻撃をいなす音。戦わなければ鳴らない音。
およそ「地下室」に似つかわしくないその音が、セラの意識を引き戻す。
耳を塞いだ手を退かし、目を開くと驚く程見えた。黒いジャケットの背中が、得意でもない近距離戦を繰り広げている。
浅はかだった。何が一番恐ろしいか、分かっていたのに手放したりして。
如何しようもない化け物だったリアンが、ほんの少し小さく見えた。
――ありがとう。こんな私でも、きっとリアンに抗える。
チャクラム使いが押されているのは、一目見ただけで分かった。敵は近距離戦闘も得意なのだ。
――いやだ。
フレイルが空を踊り、隕石の如く目標へ降る。
二歩引けば躱せる、でもルイは重心が崩れてすぐに動けない。彼が避けるより先に、鉄球が頚椎に直撃する。
致命傷なのに即死出来ない酷い傷。彼は長く苦しんで、――生まれたことを呪うほど苦しんで、のたうちまわりながら死ぬことになる。
――絶対にさせない。
この恐ろしい化け物の、見慣れた顔。目を見開いて、勝ち誇った醜い笑み。
――飛び出せば間に合う。また失敗してまた庇われたけれど、これだけは絶対間違えない。
セラは一直線に飛び出した。突き飛ばされたルイが目を見開く。
その目がフレイルを見たことも、痛々しい憐憫を浮かべたことも、何故か鮮明で。
――今なら、アリスの気持ちも少し分かる。
夜を湛えた美しい目に、笑った顔が映り込む。
――さようなら。




