第四十一章 地獄巡り
秘密警察の本部を飛び出し、娘姿をして紛れ込んだ港町で、セラは深く息をついた。
――本当に逃げられると思ってなかった。どうしよう私、自分で思うより自由かも知れない。
セラは秘密警察として最大の禁忌を犯し、追われる身になっている。今に元の仲間が襲って来るとも知れない状況だが、不思議に恐ろしさは無かった。
――旅は良い。行きたい所がなくても、行かなきゃならない場所もない。温暖なルーア領なら、冬らしい冬もない。
……それにもう、
ふっと声が蘇る。
――『逃げろ!』
何時になく焦ったライダンの声。目の前へ落ちた指。
全身に纏いつく、血の温み。
「……う」
脳裏をトラス邸の惨劇が過り、堪らずその場で嘔吐した。胃液が喉を焼き、激しく咳き込んで膝をつく。町外れでは気付く人も居ない。
強酸に侵された草の上に、大粒の涙がぼろぼろと落ちた。
――人が死ぬ所を、見なくて良い。
戦地になんて出なければ、善良な誰かを傷つける事もない。誰にも深入りしなければ、誰かの人生を狂わせる事もない。出会わなければ別れはない。
貧民街からも、秘密警察からも自分ひとり逃げて、隣に居てくれた人たちに災いを振り撒いた。今日一日の呼吸のため、何人もを盾にした。処刑される位が丁度良い。
――「寂しいよ」
頭の中で誰かが泣いている。汚れた身形の、痩せこけた子供。目だけが美しい冬空の色で。
誰もそいつを宥められない。ある人は泣き止ませようと力を尽くし、ある人は我が身を差し出してまで守ろうとした。
そして、見るも無残な目に遭った。そいつは今も泣いたままだ。
咳き込み咳き込み、水を含んで立ち上がる。
討手はリアンに決まったらしい。
私は師匠に殺される。あの棘の付いたフレイルで骨を砕かれ、皮膚を破られ、頭を陥没させられて、誰の死体かも分からなくなる。
恐ろしいと、怯えるべきかも知れない。あの頃の私も、死にたくないと言った。
そのせいで、こんな処まで来てしまった。
「……夢でも、良いよ」
ふらつく足に鞭打って、この町での拠点に決めた空き家へ戻る。吹雪の日、「じきに地獄を見る」と宣告された霜焼けは今も痛み続け、行く末を間断なく主張している。
私の世界はずっと地獄だった。こんな怪我、今更如何とも思わない。リアンに師事していた時の方がずっと痛かった。
人体の構造と限界を知り尽くした女に痛めつけられ、死なない程度に放置された。そのお陰で、「優秀な暗殺屋」になった。
なりたくもなかったけれど。
食事が欲しかった、寝床が欲しかった、温もりが欲しかった。諦めきれない欲求は首を絞め、身を切り、猛毒となって私を蝕んだ。食事の為に自由を失くし、寝床の為に機械と成り、有るかも分からない「愛」の為に、私はこれから灰になる。
丸ごと愛されてみたかった。虚弱でも、恐ろしい過去に囚われても、「仕事」が出来なくても、此処に居てねと言われたかった。
一人だけがくれた。満たされる事を知ってしまった心は、渇きに耐えかねて罅割れて行く。
その人に会うには、命綱を切るしかなかった。秘密警察を抜けた今、広がるのは黒い谷底へ続く断崖だ。
戸を開けるなり、闇に潰される様に膝をつく。酷い耳鳴りの中でも、ルイが来てくれるのだけは気配で分かった。
立ち歩くどころか、座ってもいられないことも。
「……貧血だな。横に成る方が楽だろう」
上衣に縋る手をそのままに、横抱きにして布団へ寝かせてくれる。遠のく意識を必死に引き寄せ、服を掴んだままでいると、諦めて隣で横になってくれた。一回り大きな手が、安心させるみたいに私の手を握る。
片手に触れる感触だけが、辛うじて私を繋ぎ止めている。これすら失ったら、私はきっと自分が何かも分からなくなって、生き物である事も忘れてしまうだろう。
何処までも沈む感情や突然襲って来る吐き気、眩暈に過呼吸は自分でも制御出来ず、気が狂ったのかと恐怖を抱えながら、己の異常行動に振り回される。握ってくれる手は温かいけれど、温もりを返せない罪悪感と失う怖さで体が竦み、礼すら真面に言えなかった。
暗夜行路よろしく盲目で崖縁に立つようなものだ。何時切れるとも知れない縄に縋り付いて硬直し、声一つ上げられない。
雨戸が傾いて開かなくなった家は昼間でも暗い。遠のいた意識は戻りつつあったが、浮動するような眩暈は消えなかった。
「……ルイ」
「ん?」
内心の葛藤を知ってか知らずか、努めて柔らかく聞こえるように反応してくれる。
「……眩暈が、治らない。いつもなら、治まる……のに」
気持ち悪い、と訴えると、上体を起こせるか、水は飲めるか聞かれた。
時々こうして薬を調合して、背中を支えて、自分の体ひとつ真面に動かせない私が飲み下せる様にしてくれる。何の薬かはよく分からない。聞けば教えてくれると思うけれど、そんな余裕があれば薬なんて飲んでない。
「明るい方が良いか?」
問いかけつつ水差しの位置を変え、灯りの火が大きくなるように映してくれる。
暗い密室が苦手だからだ。閉ざされた暗い場所にいると酷く不安になり、体調を崩す事もままある。
秘密警察では誰も知らなかった。何も言わなかったせいだけれど。
「……ごめんなさい……迷惑ばっかり、掛けて。私、自分の事も出来ない役立たずで」
「勝手にやっているだけだ。頼まれた訳でもない」
言ってから、こういう時は謝罪よりも礼をするものだと教えてくれる。
「ありがとう……ごめんなさい」
「はいはい、気にしなくて良いから」
無造作にぽんと頭を撫でて、また寝かせてくれる。霜焼けに薬を塗る手つきも優しかった。
「治る?」
「未だ掛かるが、快方に向かって居る。霜焼け以外はほぼ完治だな」
但し痕は残る、と低めに言われたが、こんな生活をしている以上考えた事もない。元々、痕のない場所の方が珍しい身体なのだから。
「…………あの」
動悸と共に痛む胸は、どうでも良いと無視した。
「ひ、一つだけ、我儘言っていい?」
先を促す視線に遭って、一つ息を吸う。
「……もしも……、リアンに会ったら、戦わないで逃げて。お願い――、一生のお願い」
「何故」
手が震える。心拍がどんどん上がる。酷く気温が下がったようで。
「あ、あの人は……っ、人が痛がるのが、楽しいの。人の気持ちが分からなくて、声、とか……、傷とか、そういう反応を楽しそうに、笑って……無邪気に、あ、遊ぶみたいに、壊していくの……」
纏まりのない発言だと思う。何が伝えたいのか、自分でも分かっていない。我ながら、人に物を頼む態度ではない。
「ごめんなさい…………」
「元より『拷問妃』だろう。戦闘よりも、戦意を喪失させる技術に長けた人間だな。ならば此方に分が有る」
そうじゃない。だからと言って、否定するのも気が引ける。何が正解かも分からないのに。
「此れは、派手に暴れるべき見世物とは違う。此方の目的は期限まで逃げ切る事で、戦う必要も斃す必要もない。致命傷を狙って来ない相手は寧ろ好都合だ」
「ルイには……分からないよ。知らなくて良い」
「分からんな。何が言いたい」
「いい。知らなくて良いの。……知らないままでいて」
ルイは一瞬何かを思い出すような遠い目をして、すぐに視線を戻した。
「師匠だったか」
「……っ!」
「教え込まれたのだな。幾ら痛点を叩き込み、残虐な技を仕込んだ処で、セラには向かないだろう」
「やめて!」
叫んだ後で、自分が両耳を塞いでいる事に気付いた。
――手を離せ。逃げたらどうなるか、とうに知ってる。
「…………ごめんなさい。動揺した、忘れて」
荒い息さえ殺して押し込めて仕舞えば、驚く程綺麗に笑えた。流れ掛けた涙も、喉を焼く悲鳴も、上手く同じ器に収まって鎮まっている。
いずれ暴れ出す事は、考えない様にした。
その時が、最悪の機に来ることも気付けた筈なのに。




