第四章 命の呪い
笑えない。
泣けない。
眠れない。
食べられない。
──生きられない。
僅かながら息をし、無駄足掻く心臓を聞いて、だらだらと在るだけ。
死んでいないだけ。
生きていないだけ。
あの時の悪夢から。
──『誰だって、生きているだけで価値があるんだよ』──
誰かの家の壁に彫り込まれた落書きを指でなぞる。
誰が何故書いたものか分からないけれど、昔は素直に納得していた。
ああそうか、って。死んでいい人間なんていないんだ、って。
肉親を多く亡くしてきたあたしは、その度に救われてきた。
もちろん、今だって納得している。
誰にも、他人を死なせてまで生きる価値のないことを。
誰にも等しく価値があるなら、誰かを死なせてしまえば自分の価値は消えてなくなる。
当然だ。
自分の価値は、初めから一人分しかないのだから。
こんな事になるのなら、初めから生まれて来なければ良かったのかも知れない。
死んだ兄妹に、あたしの命を譲るべきなのかも知れない。
それが出来ないなら、今すぐ消えてしまいたい。
死ぬのでなくて、初めからいなかったことに、生まれて来なかったことに。
生きたくないとか、死にたいとか、命がいらないとかじゃない。
何もしたくない。何も考えたくない。
あたしにそんな権利はない。
生きる権利なんてない。
あんなに沢山の人をあんなに苦しませて、その大切な人の心を砕いて。
言い尽くせないほど感謝したひとに刃を向けて。
こんな奴が、生きていて良いはずがない。
『生きているだけで価値があるんだよ。』
この安っぽい決め台詞が、呪いになって正義の剣を突き立てる。
***
空気に、ほんの僅かな違和感が混じった。
例えるなら、純白の反物に、生成色の糸が一筋混ざるくらいの。
考えるより先に、そっと息を詰め、指先は鞭に触れていた。
ぞっとした。
この鞭を握れば、きっとまた誰かを殺してしまう。
また仲間を、身寄りもない自分に居場所をくれた人たちを、傷つけてしまう。
ここは町の中なのに。
拠点の皆だって、まだ本調子じゃないのに。
躊躇った、その一瞬が勝負だった。
頭も体も真っ白になった。
体が言うことをきかない。
骨と筋肉と皮膚と思考、均衡を崩した全身が容赦なく雪崩を起こす。
──攻撃?あたし、死ぬの?誰?なんで?
意識までが言うことをきかない中、マイの頭には疑問符だけが残っていた。
『違和感』の正体は、マイに向けて一種の気合を放ったのだ。
彼女は気の迷い故に、一瞬だけ意識を刈り取るそれをまともに浴びた。
上を向かされ、槍の穂先を喉に押し当てられても、マイはまだぼんやりしていた。
***
「なーんだ大したことねぇなぁ、エミリアの嬢ちゃん。すげぇのは再生だけかよ。期待して損したじゃねぇか」
マイを覗き込み、ジャラジャラとピアスを付けた男がせせら笑う。
「・・・なんで知ってるの・・・?エミリアって、何?」
必死に言葉を絞り出す。
ヘラヘラ笑う槍使いが大袈裟に驚いた。
「へえぇ、記憶まで別なのか。エミリアにゃ会ったんだけどなぁ。また切り替ったら分かるんじゃねぇの?」
「そ・・・れ、は・・・・・・、」
数秒の沈黙。
『違和感』の正体───金髪の男は、それを拒否と捉えたらしかった。
「ったく優しいねぇ。その代わり、てめぇは───」
「良いけど。その代わり」
手の震えを、声が震えるのを、止められない。
膨れあがった心臓が肋骨を叩く。
息が苦しい。
足まで震えて上手く立てない中、金髪の男に寄りかかるようになって、マイの右手は鞭を握っていた。
「貴方も死ぬよ?」
徐々に視界から色味が抜け落ちていく。飾りを全て取り払った灰色の世界が、誘惑するように現れては消える。
──やっぱり、あたしは死神なんだ。
生きてちゃいけないモノなんだ。
ちっぽけな自分なんかのために、他の人間を殺し尽くすような奴なんだ・・・!
『マイ』が泣きじゃくりながら薄れてゆく。高笑いする『エミリア』が、急速に全身に染み渡る。
ひとつの体を奪い合って、全く異質な二つのモノがせめぎ合う。意識が電流のようにバチバチ切り替わる。
──だめ。怖がっちゃだめ。
鞭を抜いたら、またエミリアになってしまう──
***
濃密な殺気が、空気を、身を、強烈に震わせて轟いた。
耳鳴りまで起こすそれはまるで、雷。
「真逆貴様に会う事になろうとは」
指先に痺れが残る中、よく通る低音美声が届いた。
声の主はやはり、長身に黒装束を纏った十文字槍の使い手。
視線は真っ直ぐに金髪の男を射抜いており、歩み寄る姿には一分の隙もない。
「久しいな、『白刃の煌き』。幾年尽くそうが相変わらず、名さえ貰えぬ下民なのか?」
イノスを捉えた途端、『白刃の煌き』と呼ばれた男が身を強張らせる。
撓んだ枝が弾けるみたいだった。
「『雷』、てめぇぇ!!」
支えを失って体が泳ぐ。
なけなしの動体視力が、幾筋もの白い反射光を捉える。
マイの事など忘れ去り、彼に残るは、狂気の如き憎悪。
「──誰・・・?どう言う事」
問いの答えは与えられない。
視線と刃が火花を散らし、僅かな刃毀れと共に人の逃げ散った通りを彩っていく。
至る所に傷が刻まれ、赤い飛沫が花火を模した。
「──イノス⁈」
へたり込んだままの地面からふらふらと立ち上がりながら、情けなくも問う。
それが情けないなんて感覚も、今の彼女には戻っていない。
「失せろ出来損ない!甲斐性のない愚図など要らぬわ!」
「・・・・・・!!」
かちり。
頭蓋の内で、外れたことの無い何かが、外れた。
何故かは知らない。ただ胸が鋭く傷んで、涙が勝手に溢れ出た。
濁流と化す、激情。
「うるさいっ!何で決めつけるのよ!あたしだって・・・!あたしだって成長してる!見てもないくせに何が分かるの⁈」
「資質も無い上進歩ひとつしていない!不幸な妄想に浸るのも良い加減にしろ!」
「資質無かったら生きてない!見習いだからって馬鹿にしないでよ!その甲斐性のせいで死にたいのに!なんでっ、そんな事まで言われなきゃいけないの!」
白銀の穂先が、黒装束の肩を掠める。
赤い飛沫がマイの頬に飛んだ。
「巫山戯るな!貴様の死にたいは逃げたいと同義だろう!」
十字の穂先が敵に迫る。
言葉に詰まる。
黒い刃を逸らし、直槍が首筋を突く。
図星だった。
格好の良い言葉で飾り立てて、敵からも、エミリアからも、自分の弱さからも逃げていただけだ。
怖かったから。自分が大事だったから。
どうせ面倒なことも、大変なことも、どこかで誰かがやってくれると思ってたから。
イノスが首を捻り躱す。同時に槍を絡めた。
もうやめる。敵からも、エミリアからも、もう逃げない。
敵がイノスの槍を叩き落とす。
マイは深く呼吸する。
──恐怖から、逃げよう。
勇気で恐怖を隠して、強くなろう。戦う勇気と、殺す勇気。
あたしにはエミリアがいる。
左足を半歩引く。右手を鞭に寄せる。
また一つ呼吸。
──待ってて。すぐ、助けるから。逃げないって、ちゃんと役に立つんだって証明してみせるから。