第三十六章 胸中
胸の内を偽るのは貴族のお家芸だが、シャルロットの場合は少し違う。屋敷そのものが物理的に、地上と地下の二重構造を持っているのだ。
とは言え、大半は地下の存在すら知らないし、地上階と違い「裏」の階は迷路そのものだ。通路が複雑に折れ曲がっているだけでなく、道幅を徐々に変えたり、少しずつ傾斜をつけて深さが分からないようにしたりなど、人間の感覚を狂わせる工夫がなされている。
リネラが襲撃の際に地下を使わず、「表」でばかり仕掛けたのも、その難解さを裏付けているだろう。
そんな地下迷宮に守られた緊急用の医務室で、チアラは膝をついていた。
見つめる先の青白い顔は、涙で滲んでしまっている。
「…………『白刃』さん」
もう何度目だろうか。打てる手はすべて施しきって、眠りつづける彼の名前を、崇高な祈りの言葉みたいに呟く。
もちろん本名ではないけれど、チアラは他に呼び名を知らない。もともとは捨て子だったそうだから、名前自体がないのかもしれない。
「『白刃』さん」
下瞼が支えきれなくなった涙がぼろぼろと落ちる。
思えば、この人のことを何も知らない。ここに来る前は何をしていたのか、チアラたちが来るまでは誰が治療していたのか、屋敷にいないときはどんなふうに過ごしているのか。好き嫌いがないものだから、好物ですらいまだによく分からない。
このまま目が覚めなければ、何も聞けないままになってしまう。はじめはびくともしなかった体も、次第に体重が落ち、いくらか軽くなってしまった。
「……起きて……おねがい、おきてよぉ……」
突っ伏した体は冷たくて、どんなに泣いても慰めてすらくれない。自分の身をなげうってまで、叛逆者から侍女を守ってくれたんだって分かっているけど、張り倒したい思いでいっぱいだ。
なんで無茶するのって。自分のこと、そんな簡単に捨てないでよって。侍女たちと同じくらい、いなくならないでほしい人なんだよって。
――ばか。
目いっぱい伝えたつもり。でも、ひとつも伝わってなかったんだね。
「ひとの気も知らないで。大っ嫌い」
ひとりでしょい込んで、犠牲になろうとするあなたなんて。
涙を拭って、これからのことをぼんやりと思う。
侍女頭として、凱旋のように戻ってくる奥方様を迎えなければならない。過労で倒れてしまったエリアナのことも、「裏」のことを気取られないように自然に。
普段ならそれほど辛くもないのに、負担に思えてしょうがない。
また潤んできた目元をハンカチでこすり、重い体で皺だらけのスカートを整えて「表」へ向かった。
***
「みなの者。大義であった」
上座に座る奥方様へ向けて、集められた全員がひれ伏す。もちろんチアラも、侍女頭の印であるスカートを畳み、イジュン将軍の隣で平伏した。
「裏」にいると忘れそうになるが、侍女頭の身分は高い。屋敷の内に詰める中では最高位の地位にある。
――そんなのいただいたって、『白刃』さんが助かるわけでも、父様が優しくなるわけでもないけれど。
貴族特有のこまごました口上や手続きを聞きながら、こんなこと思うなんて疲れているんだなあ、と他人事のように自覚する。
――でもとりあえず、ひと安心。奥方様や秘書さんたちの心配とか、しなくていいんだから。ここでやりきったら、チアラは『白刃』さんのことだけに集中できる。
――早く終わってほしいな。
今はエリアナに見てもらっているけれど、病み上がりで無理はさせたくない。それに、彼女は料理や看護の担当で、医者ではない。あれだけひどい怪我なら、傷口から雑菌が入って厄介な病気になることもありうるし、エリアナだけで対応しきれるか分からない。
考えるとどんどん怖くなってきて、そわそわしたつもりはなかったけれど、すぐに適当なお仕事を言いつけられて下がらされてしまった。
――奥方様だってお疲れなのに、お気を遣わせちゃった。
――チアラがだめな子だから、『白刃』さんも治らなくて、エリィも倒れちゃうのかなあ。もしも、チアラも父様くらい腕がよかったら、もう元気になってるのかなあ。
父様の声が頭蓋骨に木霊して、自己嫌悪でめまいがしそう。
――また嫌なこと考えてる。
両手でぱしんと頬をはたく。
薬と消毒で、まだらに荒れた手のひら。
「おかえり、チア」
長い黒髪をまとめた女の子が、気配に気づいて扉を開けてくれる。
「ただいま。エリィ顔色、よくなってるね」
嬉しいのに、口角がうまく上がらない。
「ありがとね。チアも寝不足でしょ、ちょっと寝てなさい」
「……でも、」
「無理してあんたが倒れたらどうすんのよ。ふらふらのままじゃ、こいつの世話も出来ないわよ」
面倒見のいい親友は、口ごもる暇すら与えてくれない。
それがこの子の優しさ。
「ちょっとだけだけど、血色はましよ。にしてもチアにこんな顔させるなんて、ほーんと最低よね、この唐変木。……ほら、そんなに不安がるなってことよ」
しかも散々心配かけといて、こういう頭空っぽの馬鹿ほど長生きするんだから。
エリアナは布団を敷きながら、目覚めたら一発殴ってやんなさい、なんてぶつくさ言い続けてる。
いつも通り悪口言ってるのも、わざわざ襖をあけて隣の部屋とつなげてくれるのも、全部チアラのため。エリアナだって本調子じゃないのに、チアラが休めるように側にいてくれるつもりみたい。
「ありがとう」
「いいってことよ」
勝気で過保護な戦友は、片目を閉じて微笑んだ。
程なくして、チアラの眠る部屋とは反対の襖がするりと開いた。
「エリアナだけか」
独特な足音の消し方と澄み渡るような声で、振り返らずとも『紅』と分かる。
「静かにしててね。チアが寝てるから」
あんた一人じゃ心配ないでしょうけど、とぼやく声は暗い。
「チアのお呼び出しならあたしが行くわ。いい加減寝かせないとあの子が倒れるの」
「医務官長らしい。見習い医務官が探していた」
「医務官長……ね」
苦々しく言ったエリアナに、勘のいい『紅』は首を傾げた。
「件の父親か?」
「そうよ。勝手な呼び出しなんてどうせ碌なもんじゃないわ」
「ならば、直々の御言い付けだと伝えておく。見習いが可哀そうだ」
当然のような言い方に、エリアナは少し不思議そうな顔をした。
「助かるけど、あんたいちおう極秘事項でしょ?屋敷内で動けるの?」
「奥方様気に入りの武官ということにしている」
真顔で頬に両手を当てる『紅』に、思わずエリアナは吹き出した。
「まあ、間違っちゃいないわね」
「『闇夜』の入れ知恵だな」
「あいつは通常運転として、しばらく『炎』も帰って来ないのよね?」
「諜報が一人減っている。女の口から伝わる情報は、『白刃』が一番強いのだが」
「おちおち寝てらんないわけね。にしても、改めて聞くと碌でもないわね……」
「その碌でなしは復活しそうなのか?」
エリアナは吹き抜けた冷気に振り返り、眠るチアラを認めて目を伏せた。
「……踏ん張りどころかしら。きっとチアも分かってるわ」
「欠員を埋めた方がいいな」
哀愁に応じる代わりに、『紅』は淡々と述べる。
「意外ね。仲間意識だとか、友情だとか、そんなのがあると思ってたわ」
「関係ない。奥方様は物を大切になさる方だが、私たちは武人とは違う」
平民が吐いた貴族らしい主張に、上級貴族のエリアナは目を見張る。
「……あーあ、普段のあんたたちで平和ボケしたのかしら。ほんっと冷たい世界ね。そう言えばコードネームなんだっけ、今の名前も」
迫る震えを押しのけるように、わざと声を張る。
こういう所で聡い『紅』には、子どもの嘘にも等しいだろうけれど。
「……それにも法則がある、と聞いた」
『紅』は黙って首肯すると、小首をかしげた。
幼子のようなこの仕草は、口下手な彼が説明するときの癖だ。
「ひとつの戦場で何十も首をとるか、歴史を変える働きを複数すると、軍の上層部が渾名をつける。……警戒のため、と聞いた。私たちは独学なので、刃筋が変わっている。癖が強いと見分けやすいらしい」
「私たち」の範囲を探して、ダスティグリーンの瞳を覗いてしまうのは間違いだろうか。
「……チアが聞いたら泣くわよ」
「べつに秘密にもしてないが、誰も話していないのだろうか」
案の定、勘違いした『紅』が、はて、と首を傾ける。
「『五本槍』で勝手にすればいいわ。あたしもチアも諦めないから。ま、何言っても聞かないんでしょうけど」
『紅』はしばし空中を見つめ、やおら納得の声を漏らす。
「あの二人とは、すぐに連絡がつかない」
だから返事を待たず準備を進める、との言外の言葉を、エリアナは肯定も否定もしない。
「大切な物どうしを天秤にのせる冷酷さがいる。何十年愛用した刀でも、刃が潰れたら替えた方がいい」
俯くエリアナの表情は黒髪に隠れ、『紅』には見えない。
やがて彼女は、細く長い溜息を吐いた。
「力説してくれなくたって、反対なんかやりっこないわ」
消え入るような声で、あたしは武芸者じゃない、と付け足したエリアナの横顔は、どこか青ざめて見えた。
そろそろストックが切れてきました・・・




