第三十五章 ゆめゆめ 後編
時は半日ほど遡る。
リアンが拷問した捕虜に嘘をつく余裕があったころ、セラは猛吹雪の中を北上していた。
北部の冬は早い。リネラ領に木枯らしが吹く時には、シャルロット領の北側は吹雪いている。
「…………旅籠屋……」
満身創痍の体を引き摺り、倒れ込む様に扉を開ける。
霜焼けの指と折れた肋骨を庇いながら来訪を告げると、中年の女は怠そうに振り向いた。
「ああ、あんたも雪かい」
説明する義理もないので頷いておく。
女将曰く、ここ数日の猛吹雪で身動きが取れなくなった商人や旅人で、部屋が殆ど埋まっているらしい。
あんた一人なら泊まれるよ、と通されたのは部屋と言うより納戸で、一人用の寝台が土間の半分以上を占領していた。
申し訳程度に置かれた花瓶を倒さぬよう、外套を払って戸を閉める。
茶褐色の花器のうちで、項垂れた待雪草がくるりと傾いだ。
──これ、嫌な花だ。
貧民街では、その毒性や開花時期の寒さから、死体と共に咲いていた花である。教養など得ようもない場所の事だから、疫病や夜盗すら同じように呼ばれたものだ。
──今なら分かる。たった一人で自衛してるんだから。そんなものよりずっとまし。
自嘲し、寝台に突っ伏して目を閉じる。
畳はおろか、粗末な床板さえない剥き出しの地面は霜柱まで立っているが、それも妥当な対価に思えた。
――何の為にあの子を騙したんだろう。
ごめんねスアラ。ごめんねライダン。こうなるなら、初めから大人しく寝ていれば良かった。
――ライダンみたいな人を守りたかったのに。
ずっと気に掛けてくれて。怪我した時も疲れた時も、そっと薬をくれた。
きちんと休め、ちゃんと寝ろって、よく怒られたな。
共同任務の度、私が動き易いように態と大振りに立ち回ってくれたのも知ってる。あの剣だこだらけの大きな手が、どれだけ人を掬い上げたか知ってるよ。
私が一番、助けて貰ったから。
なのに手柄を誇らなかったね。相棒だって言っても、私なんか要らない日は沢山あった。
害悪を撒き散らすだけで何も出来てない。望む未来に、幾らも貢献出来ていない。
こんな私が大嫌い。
自分のせいで仲間まで死なせて、もう秘密警察にすら居られない。汚泥の積った最底辺を逆戻りだ。
──生き汚い。此れでも死ねはしなかった。
此の儘冬へ落ちて逝けば、何時かは立てなくなるのかな。雪の様に、陽の当たる春から逃げられるかな。
そうすれば、悍ましい記憶とも別れられるのかな。
血で膨れた畳と、言葉にならない悲痛な叫び。非力な弱者を救ったはずの私たちは、結局追い詰めていただけかも知れない。
分からない。何が救いで何が呪いで、私のした事がどちらかなんて。
ライダンなら分かったかも知れない。でももう聞けない。話も出来ない。
隣の芝がどれだけ青く茂っていても、記憶の中のそれは更に美化され続ける。
人の死を、受け入れるって何だろう。世界にも、組織にも、私にも、途方もなく大きな穴が開いてしまったのに。
どうやって立てと、歩けと言うの?
流れるはずの涙が出なくて、叫びたいはずの声が出ない。ここなら誰も来ない、聞いていないって分かってるのに、私一人じゃ仲間の死すら悼めない。
死にたい。ライダンに、謝らないと。でもルイにさよならを言いたい。願わくはこと切れる瞬間、私だけがその目と、頭の中をひとり占めにしていたい。祈りを込めて心臓を射抜いて、顔を上げたら、私なんて忘れて。その矢で廃してきた大勢と同じように。
この重すぎる罪を清算したい。罰して欲しい、あの人に殺されたい。
――なんて、強欲な。
パキパキと微かに音を立て、霜柱が伸びる。
骨と皮ばかりの脚を土間に投げ出し、寝台に凭れて、何時しかセラは眠っていた。
***
「――――、……」
河原の石が辛うじて見えるくらいの、深い川霧の彼方で、誰かが呼んでいる。
「――――……」
誰だろう?目を凝らせば白い霧が揺らめいて、少しだけ薄くなる。
黒い髪と、黒いジャケット。
色白で、少し小柄な人。
「――ラ……」
ああ、ルイだ。夢にまで見るなんて、もう末期症状だね。
「セラ――」
こんな夢なら醒めなくて良い。このまま都合の良い幻覚の中で、永遠に眠っていたい。
ここでなら、ライダンにだって会えるかも知れない。謝れるかも知れない。償えるかも知れない。
もう、疲れた。
――終わりにしてくれる?
「セラ‼︎」
「…………う……」
遠慮の欠片もなく叩き起こされ、高らかに頬を張られた。
「自決する気か‼︎」
遅れて開いた目を瞬き、真っ青な顔で覗き込んでいる青年を見つめる。
見つめたけれど、あまりに都合の良い内容は現実と思えない。
「…………ゆめ……?」
――ついにおかしくなったか。まあ不思議でもないな。
「現実だ。自死は嫌いな筈だろうが」
「…………自死……」
口の中で呟いても、奇妙な夢は醒めない。冷めていくのは眠りの痕だけだ。
「………………馬鹿だって、思うでしょ」
懸命に喉を震わせても、発せるのは囁くような無声音だけだ。
さっきまでは話せたのに。あれからどれだけ経ったんだろう。どれだけ看護させていたんだろう。
「ああ馬鹿だ。寄りにも寄って凍死とはな」
「ライダン……、秘密警察の、犠牲者、……の、こと……」
目を伏せた私を責めるように見、数式の権化は言い募る。
「自責も良いが事実を見ろ。怪我の所為とは言え、また痩せたな?次は餓死でもする心算か」
それも良いかも、なんて言えなかった。
ねめつける闇色の目が、見たこともないほど激怒していて。
――当たり前、だよね。
「訪ねる度に死に掛けてくれるな、蘇生する身にも成れ。寒冷障害の処置にどれだけ骨が折れると思って居る。朦朧として居る内は良いが、じきに地獄を見るだろうな」
「それも私の……罰だから」
絞り出すと、ルイが眉を顰める。
「少し見ぬ内に腑抜けたものだな。筋金入りの無信仰だと思っていたが、俺には見る目がないらしい」
私が折れるのを見越して、わざとこうして、遠回しに攻めてくる。
計算式でも解くように、効果が最大になる点をひたすら探す。
この人の怖い所だ。
「……私……」
「言うまでもないが動くなよ。凍えた所為で、ご丁寧に内部組織までボロボロだ」
「…………分かってる」
「俺の言う事は聞くのだな」
スアラの指示もライダンの指導も、全然守っていないのがばれているんだろう。
二人があまりに綺麗すぎて、こびり付いた穢れで窒息しそうだなんて言い訳にもならない。
「……貰った、髪飾り、ある?」
話せるうちに話題を変えないと、これ以上言われたら泣きそうだ。
髪飾りだって、大事にしていた心算で、最後に見たのが何時だったかも思い出せない。
ずっと着けていること、大事に思っていることと、実際に大切にすることは、どれくらい差があるのだろう。
「青い髪留めか?」
多分、私の狡い胸の内もばれているんだろうな。
「ぅ……」
首肯しただけなのに、脇腹が痛んで呻き声が漏れた。
「左耳辺りに付けて居たのだったか」
宥めるように髪を漉きながら、硬い手の平が耳元を撫でる。
それだけで痛みが引いていく私は、なんて浅はかな女なんだろう。
「……ないな」
首の近くまで念入りに探して、ルイが結論を出した。
「…………う、そ」
少ない血がさらに引いて、貧血気味に頭が痺れる。
少し前に貰ってから、ずっと肌身離さず付けていたのに。楽殿なんて信じない私には、この人の贈り物がお守りで。
何処で失くしたのだろう、トラス邸?それとも本部?移動中の宿か、道端の雪の下か。心当たりがあり過ぎる。
「……見つ、からない…………」
せっかくくれたのに。
お返しにあげたペンダント、この人は付けてくれて居るのに。
ぐにゃりと歪んだ目が、熱を持って溶ける。
お願い止まれ。そんな場合じゃない。
ここで泣くなんて最低過ぎる。そうやって媚びても捨てられるだけ。十一年もいた貧民街で、何を見て来たの。
お願いだから早く止まって。なんで、この人がいたら泣いてばかりなの。
はくはくと口を動かし、過呼吸ぎみに空気を吸い込む。
何を言えば良い?如何すれば恩を返せるだろう。
同じ問いばかりぐるぐる回り、一向に吐き出せない言葉が胸の内側を刺し貫く。
目が合った途端、大粒の涙がぼろりと転げた。
「あんな髪飾りくらい買って遣る」
不器用な妹に呆れる兄のように、さらりと涙を払って苦笑する。
「余り気に病まないでくれ。俺が勝手にした事だ」
体温の高い手が耳元を撫でる。
壊れ物に触れるみたいな、すり寄って来た子猫をあやすみたいな。その手付きがあんまり優しくて、性懲りも無く涙が溢れた。
「余り泣かれると俺が虐めて居るみたいなんだが……」
来てくれたことが嬉しすぎるんだって言いたいのに、肝心な時に言葉が出ない。
此処にいるのだって、道中に足跡や枝の乱れを残して、記としただけ。外へ出て、同じ道を辿らないと見つけることも出来ない。
それなのにたった一言の礼も言えずに、端切れみたいな言葉が堂々巡りしていて。これだけの感謝と感情を、どれだけの言葉で表せばいいか分からない。
馬鹿なことさえしなければ、手を取って礼が言えたのに。
漸く紡いだ言葉はいかにもありふれていて、下らない。
小さな暖炉の中で、呆れ交じりに焚いてくれた火が大きく爆ぜた。




