第三十五章 ゆめゆめ 前編
『五柱』に刃を向け、実父ダリアンの死でもって権力を手にしたセシルだが、その栄華は長くなかった。どころか、数日の白昼夢に過ぎぬものだった。
ゼセロ貴族たちが「上」と呼ぶ存在、ゼセロ創始者の子孫達が、彼を良しとしなかったためだ。
預けられていた軍隊を残さず召し上げられ、財産を狙う貴族共から落ち延びた彼を、もう誰も尊いとは看做さなかった。突如空席となった『五柱』の座には、「上」がダリアンの実子を充てがった。権力者には幾らでも代わりがいると証明してみせたのだ。
そうして、「五柱」セシルは彗星のごとく現れ、歴史の表舞台から消えていったのである。
レインはもっと悲惨だった。
楽殿教の真実――民を統制するために作られた信仰であることを知っていたがゆえに、父の影響力を見誤った。
そして意気揚々と出撃して、瞬く間に信者の一揆に首を獲られてしまった。
その悲劇の背後に、とある組織の見習いがいたことは、殆ど知られはしなかった。
***
同じ頃。件のレオン領にある貧民街にて、秘密警察も後処理に忙殺されていた。
「……ふざけないでよッ」
フレイルの先端、棘だらけの小さな鉄球が、暗い地下室の敷石を砕く。
湧き出す何かを堪えるように、『拷問妃』リアンは浅く呼吸する。
閉め切られた灰色の拷問部屋を、赤い筋が這っていく。
──なんで笑っていられるの?
馬鹿笑いしてる若者が信じられない。
笑顔で歩く親子が信じられない。
あたしの全部だったあの人は、もういないのに。アタシの世界は地獄だってのに。
今になってもこんなになっても、まだ貴方を探してる。
信じられないの。
信じたくないの。
あたしを許して神様。あの世で待ってるっていう神様、こんなあたしを連れてって。お願い早く、忘れさせて。
「…………ひどいひと」
呟いたその顔は、涙と返り血で緋色に染まっていた。
八つ当たりのように弄ばれた虜囚は、既に虫の息だ。
「なんで生きてくれなかったの」
そしたら善人でいられたのに。
あたし、悪者になっちゃった。
もう遅い。どうしたって、キレイだったあの頃には戻れない。こんな悪夢に閉じ込められて、どこへ行ったって変われない。
「かえして」
あの人は楽殿に行ったんでしょう?あたしは行けないの?
痛くて怖くてつらくてつらくて、一人じゃとても耐えられなかった。壊れたあたしは救われないの?
どうして?ねえこんな、暗闇の底で潰れるアタシたちを、救うためにいるのじゃないの?
なんで助けてくれないの?
「最低ね。神様も、…………」
気絶した捕虜の気道を確保し、観音扉の鍵を抜く。
「何か分かったことはあるかい?」
気怠げに視線を上げた先には、長髪を肩口で纏めた優男がいた。トラス邸で暴虐の限りを尽くしていた男の命乞いを聞いてなお、彼は柔和な笑みを保っている。
「………………あァ」
長い沈黙の後、切長の垂れ目が、眠そうな睫毛を持ち上げる。
「アンはねェ、出撃命令なんて出しちゃいないわァ。アタシ達は踊らされたみたいねェ。おかしいと思ってたのよォ、あのボンクラがァ、貴族でもないアタシ達に頼る訳ないからねェ」
首領は間延びしたリアンの話にいちいち頷くと、「私たちを動かしたいなら、中流以下の貴族かリネラだろうね」なんて朗らかに言った。
「ずいぶんとお気楽ねェ。アンタの組織でしょうにィ」
「それがね、逆なんだよ。ただでも大変なのに、前線の主戦力がふたりとも抜けて大わらわなんだ。これ以上被害は出せないからね」
片眉を上げたリアンに、いっそう深く微笑みかける。
「もちろんただでは起きないよ。私たちは秘密警察だからね」
***
穏やかに微笑んだのも束の間、そのカーボさえ、数秒後には笑ってもいられなくなった。
セラが消えた。
そう言ってスアラが飛び込んで来るのは珍しくもないが、この状況では、それだけの事態である。
つい先週の撤退で、立つことすら出来ずモンドに背負われていた彼女だ。重症を負い精神を病んだ彼女に、首領は待機を厳命した。
そう簡単に治っているはずがない。自ら行方をくらましたとしても、数時間も歩けば行倒れることは明白。
だからこそ、脱走した理由が分からない。目的地があるかどうかも定かではないのだ。
怪我の重大さを逆に頼んで痕跡を辿ったものの、すぐに撒かれてしまった。深手を負っていようが、ぼろぼろと証拠を残すようなら隠密は務まらない。
結局は、泣いて心配するスアラを宥めるしかなかった。




