第三章 神の子
「これで最後ですね」
全身傷だらけのヴァキアがくたびれた顔で小さく笑った。
イノスの顔に笑みはない。
この男が笑ったところなど誰も見たことがないが、油断なく周囲を警戒しているあたり、どうやらそれとは別のようである。
妙な気配に勘付いているのかも知れない。
そして、こういう時の彼の勘は恐ろしく当たる。
外れた事は無きに等しい。
ヴァキアは槍を持ち直し、先程とは打って変わって静まり返った街の気配を探った。
「なぁなぁ、てめぇら何やってんだよ。とっとと引き上げようぜ」
シュヤの無神経な発言には答えず、ヴァキアは大通りへ走った。
転がる死体を素早く跳び越え、速度を落とさず足音も立てず、滑るように駆ける。
やがて[其れ]は現れた。
立ち込める血の匂いに目を輝かせ、欲望のままに生命と秩序を破壊するモノ。
人の形をした悪しき神。
敗北を知らぬ化け物。
[其れ]はジュノと戦っている。
いや、殺され続けている、と言った方が正しいかも知れない。
何度も手足を切断され、心臓を貫かれ、内臓を破壊され、首を落とされ、それを避ける素振りもない。
その度にまた再生する。思い出したように左手の短剣で反撃してみせる。
[其れ]は仮面のような笑みを貼り付け、ゆらゆらと頭を揺らす。
能力の差を見せつけるようだ。
人の無力を嘲笑うようだ。
見開いた目は瞬き一つせず、ただじっとジュノを捉えている。
力の差は圧倒的。[其れ]はジュノに敵わない。
だが、傷を負い、体力を奪われるのは彼だ。
ジュノが幾ら強くとも、永遠に[其れ]に勝てない。
この世の誰も、[其れ]に勝つことなど出来ない。
ヴァキアは滑るように移動し、何処からともなく現れたシュヤ、イノスと共に[其れ]を取り囲む。
踏み込み一つで、攻撃が当たる距離で。
意識を集中させ、息を詰めるようにして[其れ]の隙を伺う。
──こんなものか。
伺うまでもない。
武術には通常、『隙を作る為の動き』が存在する。
万全の相手に対し、不用意に攻め込むのは危険が大きい。
反撃を防ぐため、まずは構えを崩すのだ。
格上の相手ほど、僅かな挙動が即命取りになる。それゆえ下手に動けないのだが、そんな高尚なものは[其れ]にはない。
マイと[其れ]とは決定的に何かが違うが、戦闘能力は変わらないらしい。
三人は誰が合図するでもなく包囲を狭め、三方向から一斉に刃を首に当てた。
[其れ]は文字通りに身を切られながら斜め後方へ跳び、強引に包囲を突き破るとさらに後退した。
出来なかった。
両側に立ち並ぶ廃屋の壁が、[其れ]の行く手を阻んでいる。
ヴァキアはこの状況を待っていた。
素早く間合いを詰めると、[其れ]の反撃より速く左手首を刺し、そのまま壁に縫い止める。
悲鳴こそ無いが、敵を威嚇する獣のような、低い唸り声があがる。
不意に、一筋の矢が飛来した。
長い矢だ。通常のそれより殺傷力も高いだろう。
真っ直ぐに飛んだ矢はヴァキアの左脇を掠め、壁をも貫通して[其れ]の右肩を刺し留めた。
[其れ]は依然としてヴァキアを睨みつけたまま威嚇しているが、壁に磔にされていてはどうにもならない。
「・・・お見事です」
「此の程度で褒められても嬉しく無い」
愛想の欠片も無い顔で現れたのは、背の低い黒髪の男。
背丈のないためかやや童顔で、少年と間違われてもおかしくないが、これでもれっきとしたリネラの副頭領。
頭脳派、ルイである。
「自信過剰なのがアレだよなー、弓の方はまあまあなのにさ。今だって頭領殺しかけてんだろ。掠ったんじゃねぇの?ちょっとズレてたらシャレなんねぇ」
「誤差くらい計算済みに決まっているだろう阿呆が。この距離で外すと思うか」
「そういう所言ってんだよチビ」
「後にして貰えますか」
切れかけたルイを鋭く遮る。放っておくともうひとつ戦場が産まれてしまうし、戦闘はまだ終わっていない。
[其れ]の様子がおかしい。楽観するのは危険だ。
唸り声をあげていた[其れ]が、ふっと力を抜いた。
いや、抜けたのかも知れない。
ミシミシと骨の裂ける音を立てて崩折れ、ゆっくりと再生する。
その時とうに、意識はない。
幽かな呼吸に合わせ、微かに体が上下する。
「マイだな、既に」
「そのようですね」
「ビオラを呼ぶ。拘束するに越した事は無い」
黙って聞いていたシュヤが、げっ、と声をあげた。
「あいつ来てんのかよ。ちゃんと生きてんのか?」
「先程まで横に居た」
ほどなくして現れたビオラは、無言でロープを投げて寄越すと怪我人を探して走り去った。
戦力外な上に心配性の彼女にとって、戦略云々は二の次である。
そのおかげで、この世代にはまだ死人が出ていないのだが。
イノスは、気絶したまま両手を拘束されたマイを見下ろした。
危険物を見る、冷め切った目で。
「此奴はどうするつもりだ?大量虐殺の後だが」
「連れて帰ります。当分危険は無いでしょうから」
「何故言い切れる?」
ヴァキアの自信にイノスは眉をひそめた。注意深く疑り深いのが、彼の長所であり短所である。
「其れが死と関係の深いモノだからです。暫くの間、彼女に直接死の危険が及ぶ事はありません」
「だったらグダグダ言ってねぇで帰ろうぜ。生臭ぇ」
「そうですね」
シュヤがマイを背負って歩き出すと、イノスは何も言わずに姿を消した。
おそらく、アリス達の様子を見に行くのだろう。
目立たないようにそっと仲間を思いやるあたり、シャイな彼らしい。
誰一人死体をかえりみる余裕もなく、各々の配属された拠点へと向かった。
***
誰もいなくなった廃墟で、死体がひとつ、身を起こした。
ひょろりとした長身の男だ。
細身だが、弱々しさは感じられない。
纏う衣こそ地味だが、脱色された髪は金色、耳にはピアス穴が複数。
手にした槍は丁寧に磨かれ、刃の隅に鍛治の名が見て取れる。
明らかに雑兵ではない。
「あの距離で正確に大動脈狙って来んのか。なかなかやるな」
大腿部を庇ってズタズタになった左手を眺め、止血もせずにひっそりと呟く。
有るか無きかの畏怖を込めて。
「死と混沌の神エミリア」