第三十三章 芙蓉
移動した拠点で顔を合わせたビオラは、今や目も当てられないほどにやつれていた。
「……ねえビオラ。前に会ったのって、いつだった?」
白くふっくらしていた頬は頬骨が浮き、青黒くさえ見える。
「十日くらい前じゃないかしら」
そう考えると、わたしたちもずいぶん忙しないわね、なんて笑うが、微塵も思っていないのは瞭然。
「ちゃんとご飯、食べてた?」
声が、語尾が、震えないように力を入れて。
割れると分かり切っている、薄い氷を踏む思い。凍え死ぬほど寒い海だと知っていて、それでも、逃げれば先へは進めない。
「マイこそ成長期なんだから、食べないと背も伸びないわよ?」
「あはは、もう諦めてるよ。ビオラだって、もし倒れたらシュヤの面倒誰が見るの?」
「マイは、無理かしら?」
「出来っこないよあんな御仁。目離したらすぐ燃えるし散らかるんだから」
「ふふふ。それは……、倒れるわけにも、いかないわね」
「そうだよ。寂しいけど頑張ろうって、言ってくれたのはビオラだよ?約束したでしょ、あたしも強くなるって、リネラを支えて行こうって」
完璧な言葉を探し回って、上滑りな虚像を吐く。隅々まで暴かれ、余さず使役された脳は、到底望み通りとは言えぬ返答を叩き出した。
――ビオラは多分、何かに――あたしの知らない、恐ろしい事態に気付いてる。
――何で?そんなの、根拠は充分。
――あの時は隈が酷かった。二人が居なくなって、きっと眠りが浅かったんだ。
――でも、嘘は吐かなかった。笑ってくれて、話せば顔色も良くなったのに。戦わなくたってビオラは医者で、構成員で、二人の思いも分かってて。大事な仲間だからこそ、二人の信念まで棄てる人じゃ無い。
言ってはいけない最悪の質問、聞かねばならない本当の事。
一人の思いと国中の命、何方が重いかなんて知れている。
「……ねえ……、ビオラは、何を知ってるの?」
「うるさいっ!」
薄氷が裂け、体が凍った。
「黙ってよ!なんで優しいふりなんてするの?どうしてみんな平然としてるの?なんで誰も悲しまないの?そんなに二人が邪魔だったの⁈」
「そ……っ、んな訳、ないでしょ⁈あり得ないこと言わないでよ、落ち着いて!――そんな事、言う人じゃないでしょ?」
──間違い無い。二人は味方に殺されてる。
──こんなに取り乱すんだから。
初めて見せた涙に焦って、金切り声で紡ぎ出される断罪が怖くて。肩を掴んだマイはただ、いつものビオラの優しい目で、また笑って欲しかっただけ。
「薄っぺらな嘘つかないで!分かってるわよ!いなくなって清々してるんでしょう?裏切り者だからって、賞金首だからって!そんなに簡単に仲間を殺して!一体何がしたいのよ⁈何のためにリネラがあるの⁈」
「戦を終わらせるために決まってるでしょ!アリスもアークも、平和のために命懸けで戦った!だからあたし達が──」
「うるさいっ!あんただって、アリスのこと殺そうとしたじゃない!何よ今さら良い子ぶって!どうせ人の死なんて、心底どうでも良いんでしょう⁈血みどろの、死神なんだから!」
──嘘でしょ。
ビオラに責められた事なんてなかった。失敗だらけの未熟者でも、ずっと支えて来てくれた。
「…………何で」
「今更言うか」
急所を刺されたマイを放って、現れたイノスが眉を寄せる。
「マイの弟子入りは既に結論付けている。王族の――生の神ディグミアの末裔にとって、天敵と知った上で連れて来たのはアリス本人だ。蒸し返す理由もない」
「だったらアリスは、自分が邪魔者扱いされたあげく殺されるって分かってたの?アークも、必死になって広げた人脈が掠め取られるって分かってたの?違うでしょう⁈こんなことあって良いわけないのよ!決して!」
「裏切り者は殺すのが掟だ」
「掟とか、そんな下らない話してるんじゃないわ!なんで殺されたの?なんでこんなになっちゃったの⁈」
「ビオラ!落ち着いてよ、お願いちょっと話を聞いて!」
「うるさいっ!」
――アークの裏切り?だから殺されたの?だからシャルロットを取り逃がしたの?
──それともアークは冤罪?人脈目当てで殺されたの?そんなに上手く行く訳ないのに?
──秘密警察に命令出来るのは、貴族だけじゃないの?リネラの人が暗殺屋を動かしたの?
「お願いだから落ち着いてよ!説明して!どう言う事?ビオラは何を――
「黙りなさいっ!あんたに言うことなんてなんにもないわ!敵のくせに!|人間のこと、血袋としか見てないくせに!」
「ビオラ――ねえどうして―――っ」
「ビオラ」
この場に不似合いなほど柔らかな声が、教唆に近い甘さで耳朶を満たす。骨が溶けでもするように、滑らかに身体が崩折れる。
すらりと手足の長い男が、滑り寄るようにビオラの前に立った。
「話をしましょう」
手負いの獣のごとき双眸を真っ直ぐに見つめ、頭領は穏やかに微笑した。気勢を削がれて座り込んだビオラは、あっけない程素直に頷いた。
――ヴァキアが来るくらいだもん、あたしがいたって仕方無いよね。
両手一杯の信頼に一抹の不安を抱え、気力の抜けた体を引きずって敷居を跨ぐ。
――酷い気分。
放り出されたものの丸投げする気にはなれず、息を殺し体温を落として壁に寄った。
ありもしない出番でも待つかのように。
「――さて」
しっとりと重い語調はきっと、術から逃れさせぬため。
「あの話の続きをしましょうか」
――ほんとに酷い気分。あれって何の話なの?構成員にまで、ヴァキアは何を隠してるの?仲間すら信用して無いの?
立っているだけで関節が軋む。
――ヴァキアは、変な人だ。温かい血が流れてるくせに、骨の髄は凍ってる。
あたしが死神を飼ってるんなら、きっとあの人は悪魔そのもの。血溜まりと髑髏に住んで、甘い笑顔で蒙昧な弱者を手玉に取って。笑顔の下どころか、本質さえ自在に変えられるんじゃないかって思えて来る。
――悪人は死後地獄に堕ちて、悪魔と鬼に虐め抜かれるんだってね。神々がそう決めたんだって、クレアのお母さんが言ってたっけ。人心掌握のために作られた話だって知った時は失望したけど。
――信じる事は、自分から掌を転げ回る事、だったりして。ビオラはそれに気付いたのかも。
「・・・おかしいですね。マイはもう少し、脚が速かったと思うのですが」
「・・・っ!」
――バレてるとは思ってたけど。
本気で窒息するかと思った。
「・・・・・・ごめん」
「賢明な判断をありがとうございます」
口先だけで笑っているような声。
――ヴァキアってこんなに怖かった?
リネラに入って三年間、問答無用で従わされた事なんて無かった。
――何が変わったんだろう。何が変わってしまったんだろう。
地面に引き摺り込まれる重さを確かめながら、マイはその場を後にした。
***
引き揚げられた斬首台のような、世にも恐ろしく奇妙な静寂が訪れた。
「──あなたのことだって、・・・ルイのことも、疑いたくなんかないの。信頼していたのに」
「・・・それは」
その口調は、どこまでも甘く柔らかい。
「僕とルイが、隠していた件ですか?」
どこか乾いた、砂糖のような甘い笑み。
ビオラが目を伏せる。一縷の光が千切れたように。
「何年も何年も、ずっと一緒に戦ってきたのに……。裏切りとか、処刑するとか。心はないの」
「リネラの目的は紛争と、神話の終結です。それぞれに思惑があり、安全に暮らせる国を創りたいとの一点だけが同じ集団ですね。ナナァが創設した時から、利害の一致による期間限定の仲間ですよ。思いのほか長引いて、何度も世代が替わりましたが」
「・・・・・・冷たい世界ね。わたしなんか、いてはいけなかったみたい」
恐らくヴァキアは諭したのだろう。長く氷海を泳いだゆえに、冷水でもって説得しようとした。
言葉は時に、残酷に遊ぶ。
それが彼の想定した内外、どちらの出来事かは定かではない。
否定も弁解もしなかったことは、確かな彼の落ち度だろう。
「もう……嫌なの。耐えられないの!わたしも……っ、お願い…………!」
掴み掛かられたヴァキアは静かに目を伏せ、やがてビオラに目を合わせた。
「……あまり触れませんでしたが、頭領にはもう一つ仕事があります」
平坦な声。
「貴女が心から願うのでしたら──、叶えましょう。ですが貴女にはリネラを抜ける手もある。何事もなかったように、平穏無事に生きる選択もあります。その道を選んでも、罰する規律など何処にもありません」
諭すヴァキアの言葉に首を振る。聞きたくないと、耳を塞ぐようですらあった。
「そんなの……。できたら、とっくにやってるわ」
「…………そうですか」
ヴァキアが再び視線を落とす。諦めのような、哀しみのような、何とも表しがたい表情。
そして顔を上げ、穏やかな、何時よりも穏やかな声で問うた。
「頭領として、身内として、伺います。後悔はありませんか」
ビオラがそっと唇を開き、躊躇うようにまた閉じる。
瞬きの度、睫毛が雫を落としていく。
「……ひとつだけ」
その瞳が湛えるのは、哀しみの蒼ただ一色。
「……マイに……、酷いこと言ってごめんねって、言っておいて」
「ええ。必ず」
二人は目を伏せた。片や哀しげに、片や覚悟をもって。
「――さようなら」
花弁が散った。
***
まだ陽も傾かないのに、ヴァキアは早々に現れた。その姿に予感が止まらなくて、吐き気と悪寒で発狂しそうで。
聞きたくない。だけど聞かずにいられない。大切な大切なあの人の行方を知らないで、自分だけのうのうと知らぬ振りなんて、出来る筈ない。
「………………ねえ、ビオラは」
頭領は穏やかに微笑う。
この一言を絞り出すために、どれだけ飲み込んだかも知らないで。
三人がいた頃と同じ、笑い方で。
そしてヴァキアは表情を変えないまま、ほんの僅か首を振った。
「…………うっ……」
口を押さえて崩れ落ちるマイの肩を、秀麗な腕が支える。触れられた皮膚から正体不明の電流が流れ、脳も脊髄も痺れていった。
「酷いことを言ってごめんね、とのことです」
――分かってる。ビオラにとって、これが一番楽だったんだって。
「――ふざけないで」
――分かってたまるか。聞き分けの良い子犬になんて、誰がなってやるもんか。
ヴァキアの放つ無声音が、頭の中心をごっそり抜いて。
静電気に冒された体を、気力だけで如何にか立たせる。
「……っ、あたしは絶対許さないから!」
「どうぞご自由に、見習いでは脅迫にもなりませんから。格が違いすぎる」
絶叫が空を揺るがそうが、我関せずと涼しい顔。
――どうせ自分が正しいって言いたいんでしょ?その真っ黒な肚の底から、無機質な脳を盲信してるんでしょ⁈
「何で誰にも言わないの?何でそんな事勝手に決めるの⁈死にたいって言った時何か言った⁈一緒に頑張ろうって言ってくれたのに!ビオラはこんなの望んで無かった‼︎」
「これは僕の仕事ですよ」
三歩先、振り返ったヴァキアの目は凍るほど冷たい。
「他人にご高説を垂れるほど無責任でも、ご立派な人間でもありませんので」
「っ!」
――何を言えば良かったの?どうしたら結末は変わったの?頭領が出来なかった事、あたしだって分かんないよ。でも諦めて良いの?仲間の命はその程度なの?
――ビオラより、秘密を選んだって事じゃないの?
「でもっ!」
遠ざかり、親指ほどになった背中に叫ぶ。
――もう遅い、間に合わない。だからって黙ってられない。
「そんな事したら更に分解するんだよ?もう纏まらないんだよ⁈」
「見習いが出しゃばり過ぎですよ。僕の部下たちは馬鹿じゃありませんから」
細い目が邪気を孕んで薄く開く。
マイは虚勢を振り絞って頭領を睨む。
「見習いで半人前のあたしにも、ちゃんとあるんだよ。戦う理由も、動く理由も」
「そうですか。期待しています」
肩越しに掛けられた乾いた声は、気を砕くには充分だった。
切りが悪かったので少し長めに。
しばらくシリアス続きます。




