第三十二章 照妖 後編
数日後。白く袂の長い衣を纏った女が、主人の部屋の絨毯へ跪いていた。主は彼女に体を向けることもなく、つまらなさそうに煮詰めた果物を弄んでいる。
「なんでおねえさまが見つからないですか?アンは殺せって言いました!なんで殺さないですか?なんでアンの言うこと聞けないですかっ⁈」
「・・・それは」
――御当主様がずっとずっと、我が陣営より聡いからだ。
見つからないのは痕跡を残さないから。彼女は甘くないからだ。闘技場で剣を手に向き合うのならば容易く勝てるが、それだけの将軍に何の価値があろう。我儘が通らず癇癪を起こす小娘に、従えないのは――
「ひどい、ひどい、ひどいですっ‼︎アンの将軍はとってもとっても、役立たずのわるい子です!」
「・・・ええ、そうですね」
諦めの漂っていた空気が肌を刺し、電流を帯びる。
「・・・・・・私は所詮、武人の風上にも置けぬ不届き者です」
壁が燃え上がった。
「御当主様」
火を吹く壁紙にも、動転するアンにも動じることなくシルビエッタは跪いたまま。
「お目当ての方は、これに」
「七十二点。主に似ず何より」
ルーアは平時と何ら変わらぬ、氷のような視線を向けた。
「――お、ねえ、さまあ‼︎」
ぎらつくレイピアをものともせず、絶叫とともに掴みかかる女が一人。
「アンはわるくないのです!おねえさまがわるいです!アンならもっとじょうずにできます!ぜんぶぜんぶ、へたくそなおねえさまが!」
「下手くそはお前。全部全部、短絡的なお前の負け。私は従兄弟を殺して『五柱』になった。邪魔したお前も当然殺す」
「いやです!アンは死にたくありません!ジョシュアさま!たすけてくださいジョシュアさま!おねえさまに殺されます!アンは殺されてしまいます!」
叫ぶ声は裏返り、艶のある髪は醜く乱れ、非力なはずのその指は、今に首でも絞めそうだ。
その目はルーアを睨んでいる。
その目はルーアを見ていない。
「ジョシュア?」
ルーアは鼻先でせせら笑い、左手に持った赤黒い塊を放る。
肉がひしゃげて潰れるような、鳥肌の立つ嫌な音。アンの薔薇色の頬がみるみる青くなっていく。
「その男で合っている?」
「そ、んな・・・!いやあああああああああああああああああっっ‼︎」
床に這いつくばり、どす黒い血糊で固まった金髪を払う。それは間違えようもなく、心から愛した男の首だった。
「ジョシュアさま!ジョシュアさま!うそです!うそに決まってます!おねえさまはうそつきです!これは・・・っ、これは!ジョシュアさまなんかじゃ!」
「お前らしくもない。零落した元貴族ごときに、六年も何をしているのか」
レイピアが鋭く光る。血に汚れた細い腕が震え、歯軋りの隙間から獣が低く唸る。
「私に近付き、勝算がないとすぐさま乗り換えた。切り替えの早さは褒めるべき」
呆然と姉を見上げる目に、先程の涙はすでにない。虚ろに透き通る宝石が秘めるは、
「お姉さま」
先程とは打って変わり、知性の煌めきを湛えた瞳。
アンが小さく息を吸う。その目は真っ直ぐルーアを見ている。
「相変わらず、親族を殺めてばかりいらっしゃるのですね。お父様の死は食中毒とされましたが、本当はお姉様が毒殺したのでしょう?――シルビエッタ」
異母姉から目を離さず、主が将軍を呼んだ。
「すべては私の甘さが招いたこと。後悔こそすれ恨みはしないわ。お前の判断は間違っていない。当主に尽くす限り、きっと理不尽な待遇は二度と受けないでしょう。お姉様は実力主義だから」
「・・・・・・はい、お嬢様」
頭を垂れたシルビエッタに一瞥をくれ、アンはルーアに向き直る。そして心臓に向けられたレイピアをものともせず、ゆっくりと、失った時間を愛でるように、異母姉に詰め寄った。
「扇なぞより、レイピアがお似合いですわ、お姉様。一体私は何人目なのでしょうね」
そして小さく、嘲笑した。
「貴族でなく、殺し屋になればよかったのに」
切先が胸を貫く。網膜に焼き付くは淋しげな笑み。
「そう、したら・・・使って・・・差し、上げ、ました――」
アンが左膝を崩す。傷口が広がり、アンが咳き込む。喉笛で血がゴボゴボと鳴った。
「そう、すれば・・・きっ、と。ふ・・・たり・・・で、この・・・・・・しんわを・・・・・・」
唇の先が少し、笑む。
眼球が反転した。
「・・・お前のそう言うとこ、嫌いだ」
倒れ込む異母妹を肩口で支え、白銀の剣がゆっくりと、何かをねじ込むように、心臓を掻き回す。
その身を蹴る。ロリータからこぼれた白い肌に、赤く蜘蛛の巣が掛かっていく。
その様はどこか美しい。
「――骨抜きにされやがって。六年前から変だったぞ」
ジョシュアとの婚約が確定したのは、アンがやっと十になるか、ならないかの頃。政略結婚とは言え、幼い娘を妻とする没落貴族の御曹司は十も歳上だった。
「・・・お嬢様」
側に控える小柄な男が、気遣わしげに声を掛ける。
「・・・問題ない」
ゆっくりと瞬き、顔を上げたルーアに物思いはない。
「央」
「無論です」
先程の側仕えが恭しく礼をした。
近衛部隊は命ずるまでもなく、そのほとんどが脱出を終えている。
「何かを成すなら手を汚す。人に任せない。覚えておいて」
「御意」




