第三十二章 照妖 前編
繊細な金細工の施されたカップが、絨毯に投げ出されて音もなく割れた。
「おねえさまが、会議のところにいないですか?」
宝石のようなエメラルドの目が大袈裟に瞬く。
「今日はジョシュアさまがくる日です。ジョシュアさまは、おねえさまがいたらこないって言いました。おねえさまはなんでいつもいつもアンをいじめるですか?おねえさまのがいるせいで、アンはジョシュアさまに会えなくなってしまいます!」
早口で捲し立てるアンに対し、二十路を回ったばかりの秘書は些か辟易した様子で礼をする。
「トラス殿の屋敷では、一人として当主様をお見掛けしていない様でございます。捕らえられ何処かへ連れ去られたか、自ら脱出なされたか、或いは――」
「――もう、死んでるかも。ですか?」
芸術品とも言える整った顔を斜めに傾げ、アンは唇を小さく動かす。紅い水晶は有無を言わさず、悪魔の囁きがそうであるように、覗き込む者を深淵へ引き摺り込んで行く。
「死んでないなら――」
秘書の頬に薔薇色の手を添え、するりと耳へ伝わせる。
「殺すです」
ほとんど無声音で囁き、アンが微笑む。
天蓋に付けられた鈴が、愛らしい音を奏でた。
***
「・・・・・・馬鹿ばかり」
トラス邸から脱出し、山中の洞窟に身を寄せたルーアが舌打ちする。
「低脳は碌なことをしない」
「お嬢様ほどの方でも、どうにもならぬ事はあるのですね」
共に逃げ延びた秘書が嘆息するが、ルーアは反応ひとつ返さない。主人の無愛想には、彼もとっくに慣れ切っている。
「――発言をお許しください、細剣の氷華ルーア閣下」
「言え」
五柱会議にてクーデターが起こされた際、泣くようにして撤退を進言した小姓が、暗号文を手に膝を折る。間者からの知らせに頬を上気させた少年は、氷雨色の視線に遭って深々と礼をした。
「先ほど裏が取れました。こたびの反逆、秘密警察は五柱側に付いたものと見られます。現在姫殿は本邸を占拠していますが、既にスピルメイト将軍が自軍の掌握、シルビエッタ様の調略を完了しております」
「将軍家が寝返ったか。主君の大剣――最強の盾が」
呆れとも嘲笑とも、或いは微笑ともとれる音色で、ルーアが軽く息を吐く。
「左様にございます」
跪いたままの小姓が主君を見上げ、十六の目に注視されたルーアは口角を僅かに上げた。
裂けて垂れ下がったドレスの袖が、彼女の歩みに翻る。
「出陣だ。待たせたな」




