第三十一章 脊髄 中編
灰色の外套を纏った小柄な影が、血の池と化したトラス邸へ踏み入る。
――行かなければ。とうに血は止まって居るのだから。何時までも甘えて居られる訳がない。
『白刃』が会敵し、トラス配下の将軍と鎬を削って居る頃。トラス邸に突入したイムルの後をついて、泣き出しそうな顔で、セラが赤い畳を踏む。
膝が抜けたまま啜り泣く侍女に上着を掛け、乱れた髪を漉いてやる。
「イムルも――」
掴まれて痣になった手首に、薬草を混ぜた軟膏を塗る。
「この人たちも」
辺り一面、無造作に積み重なる死体。障子から覗く手足もある以上、この先も同じ光景が続くのだろう。
「なんで分からないの」
努めて空虚に、ぽつりと吐く。
凍てついた銀世界で、ふと落ちる一滴のように。晴れ渡る冬空が突然吹雪くように。
「誰も奪わせない為に、血に塗れた筈でしょう――?」
セラはゆっくりと二、三度瞬くと、散る翅の如く身を翻して阿鼻叫喚の屋敷中心部へ向かった。
***
鋭利な影が刃を振るう。繰り返され洗練されたその動きは、灰色の蝶が飛び回る様だ。
――認めるものか。
同じ傷を、許してなるものか。
肉の海を割った先に、戦うイムルの背が見えた。
相変わらず悪態を吐いて槍を振り回し、強い相手は居ないものかとまた怒る。
彼はいつもそう。ずっと怒って全部傷つけて、そのくせ何にも興味はない。
――最低。
其れ程強いくせに何故、虚空でもがく手を取らないの。
水気を吸って膨れ上がった畳は、セラ程度の重さの踏み込みでも大きく撓んだ。ものともせず跳躍。一足で距離を詰める。
無音の斬撃、必殺の一撃。薄い刃が噛み付く寸前、槍の石突が肋に食い込んだ。
骨が砕けた音がした。
「…………‼︎」
彼女が戦線を離脱した理由は、内臓の損傷と骨折。数週間前、情報のため立ち寄った酒場にてマイの手の者に襲撃され、全治一か月の重傷を負ったゆえ。肋骨を始め、折れた骨が未だ繋がっていないゆえ。
セラが右脇を押さえ崩れてゆく。イムルは漸く振り返った。
「邪魔すんじゃねえよ!出来損ないのクソ女……!」
無論セラの背後も目に入っていたはず。動かなかったのは、彼の意思に他ならない。
神経回路の焼き切れた脳は、回る三節棍を円に見せた。
――同業者。
それだけ分かれば充分。残忍な人でなしは、それを上回る鬼畜に滅ぼされるものだ。残酷な世の道理を変えたければ、私達が消えるしかない。みすみす敵を逃す程イムルは甘くない。
一撃必殺を放つべく、棍の先は幾本も刃が突き出している。命脈を断つに不足はない。
――もういい、疲れた。
セラは視線を落とし、目を閉じる。
だが、落ちたのは頸ではない。
密度の高い湿った音。
重力に抗ってゆっくりと、痛みと争ってのろのろと、セラは顔を上げる。
知りたくなかった。出来損ないの自分を庇って、片腕を奪われた姿など。端切れと共にゴミのように、落ちて転がった指など。
「――ラ、イ、ダン?」
「逃げろっ!」
目が霞む。泣く資格なんてない。
振るう大太刀は敵の腹を直撃するも、防具の鎖を切ったのみ。
「セ……」
赤い三節棍は、今度はしっかりと急所を捉えた。
相棒の血が、かつて日向に連れ出してくれた仲間の血潮が、嵐の如く降り注いだ。
「…………ライダン……?」
――ありえない。ライダンに限って。絶対に嘘だ。
呼んだら暢気に返事をして、悪りー、驚かしたなって、何でもなさそうに立ち上がって。すぐ何時もみたいに笑う、絶対にそう。人の気も知らずに――
――私の所為だ。
彼は絶対に、生きてこの先を見る人だ。自分には描けぬ、欠伸の出るほど平和な世界を、いとも簡単に思い描く人だから。
「嘘、……ライダン、起きて……ねえ」
こんな所で死ぬ筈がない。
「――死んでるよ。出血量が多すぎたからね。……手遅れだ」
長い銀髪を靡かせた首領補佐官と目が合う。突き刺すように下を向いた二刀は血の涙を流していた。
息をする資格はないと知った。
***
思考も記憶装置も、動く筈の両腕も、全てが錆び付いて止まっていた。どれ程経ったか、何をしていたか、もう訳が分からなかった。
「撤退しよう、セラ。僕らの仕事は終わったんだ」
身体が浮く程腕を引かれ、漸くモンドの存在に気付いた。
「……ライダンは……?」
「連れて行くよ。――弔ってやらなきゃ、可哀想だ」
その先は殆ど覚えていない。頬の血が下がるひりつくような感覚を、まるで他人の人生の様に記憶しているだけだ。赤い畳を這いずって、血肉を拾っていたのだと後で聞いた。




