第二十七章 泡沫夢幻(後編)
六十余年前の干魃から蘇り、再び緑豊かな森林を有した旧王都・シーラの外れで、私はあの人を待った。拠点が近いらしく、直近の数日は陽が傾く頃いつも此処にいるとのことだった。
日没の時刻ちょうど、あの人は現れた。
嵐が来そうな初春の夕暮れ、山中に人がいる事自体に驚いたらしかった。切長になった闇色の目は、見開くと面影で一杯だった。
目眩がした。
腕が震える。唇が何か動く。声帯が凍って言葉が出ない。
「─────イ、」
「用が有るから居るのだろう」
低くなった声は恐ろしく冷たい。二人で庇いあって生きたあの頃、掛けてくれた声ではない。
私が殺してしまったから。
胃が縮む、心臓が縮む。そんな資格もない。私は人の道を逸れた。
用があるに決まっている。話したいことなんて、一晩や二晩では尽きそうもない。
言えない。何年も抱いて来た言葉は死体。
彼は看破した。灰色の外套を着、長い杖を持った女の正体を一秒で見抜いた。
全て理解した上で、名を呼ばなかった。
「・・・・・・」
目を閉じる。口は閉ざしたまま。
ルイは溜息をついた。
「人を待つなら言葉の一つも用意するものと思うが。違うか?・・・何か言えば如何だ、秘密警察の暗殺屋」
鳩尾が鋭く痛む。目線が勝手に下がっていく。
「・・・察しが良いのも相変わらずだな。何を考えて居るのか分からない所も」
「一言目が其れか」
薄い唇の片端が吊り上がり、牙を剥くように白い歯が覗く。
「飛び込んで来た理由が有る筈だが」
「・・・・・・」
瞬き。一呼吸。
口の中はカラカラ。
「───あの時の・・・」
二酸化炭素を吸う。迫り上がる何かを抑える。
「謝りたい。・・・ルイを売って私だけ拾われたことを。償えるものも支払えるものも命一つしかないけれど、それで埋まるわけもないけれど、せめて───」
仕込み杖を斜めに倒す。
───終わりにして。
目を閉じて、最期の息をする。
・・・そして目を開けた。
喉も心臓も眉間の急所も空けた。なのに撃って来ない。
「せめて己の命を差し出す、か。・・・貰おう。折角だ」
その声はどこか軽快。背負った弓にも矢筒にも手を触れず、何か思案しているらしかった。
「・・・殺さないの?」
「殺すとは言って居ないが?」
俯き加減に、前髪の隙間から盗み見る。相変わらず唇の片端を吊り上げているが、どこか印象が柔らかい。
「・・・じゃあ、どうするの」
「買う」
ルイは事もなげに言った。鏃の替えでも頼むように。
「・・・・・・買える訳が、ない」
「貴族の真似事などする気は無い。俺達は金で買えぬ物しか知ら無い。分かって居るから即答を避けたのだろう」
「・・・・・・・・・」
ルイがまた溜息をついた。
「・・・今日は矢鱈に間が長いな。迷って居るか?」
杖が左脇へ寄る。ルイは一歩も引かず武器も取らず、そのままの姿勢でシニカルに笑った。
「セラに俺は斬れ無い。其れとも」
呆れたように、試すように、指先が首筋を叩く。
「試して見るか?」
何も言えない。動けない。一言一挙一動が言質を与え、墓穴を掘る。
この杖が刀だと、一言も言っていない。搾り出した虚勢もかき消した震えも、どうせ彼にはお見通しだろう。
「流石に酷か」
「・・・・・・完敗」
息を吐いたのは私。
濡れたような黒い瞳が、固まったままの私を捉えてゆっくりと逸れる。
「情報共有には俺が出向く」
ルイは一歩、距離を詰める。
ひどい火傷の痕でも見るような表情。
「辛かっただろう。セラに其の仕事は」
***
───ああ、私は。
この言葉を待っていたのか。
触れるもの全て、見えるもの全て敵だと思っていた。完璧でいたくて崩したくなくて、弓弦のごとく張り詰めていた。
辞めたかった。死にたかった。他に方法を知らなかった。
他者を生贄に得た命、捨てる訳に行かない。結局そうするなら、初めから生きなければ良かっただけの話。
どんなに欲して考えても届かぬ答えを、ルイは平然とくれる。
それが頼もしく、酷く悔しい。
「私が───」
悩んで、殺して、捨てた日々は。
目が霞む。
身を擦り潰す激痛は。
膝が崩れる。
あの苦渋は何だったの?
「──────」
ルイの言葉。不器用に手巾を差し出す手に縋る。
受け取って初めて、泣いていることに気付いた。
うずめた仮面も消した想いも、吐きそうな位私を襲って。
動けない。立てない。地に生命力を吸われ体が言う事を聞かない。有り得ないほど全身で泣いてる。
これじゃ、こんなのじゃまるで。
───なら、またあの頃みたいに笑ってもいい?泣いていい?一緒に生きていい?頼ってもいい?
───あの頃よりずっとずっと、幸せになってもいいの?
嗚咽の隙間に息をする。静かな微笑がその答え。
───私はもう、白磁人形じゃない。
───だから、殺して。他の誰でもない、たった一人の貴方の手で。




