フェルマータの終わりに
音楽があなたの人生の重荷を振り払い、
あなたが他の人たちと幸せを分かち合う、
その助けとなるように。
I wish you music
to help with the burdens of life,
and to help you release
your happiness to others.
──Ludwig van Beethoven(1770~1827)
その日、隣を歩く塁は黙り込んだままだった。
校門を出た時からずっと、遠い目をして空の彼方を睨んでいる。
もともと物静かな人だ。隣で自転車を押しながら、わたしも同じように黙りこくっていた。ふたつの車輪が回る小刻みな音と、わたしたちの鳴らす不揃いな靴音だけが、紫色に沈んだ夕暮れの街をささやかに賑わせていた。
彼の様子が普段と違うことには気づいていた。部活終わりの自主練もせず、野球部のユニフォームにも袖を通さずに音楽室へ現れた時点で、わたしは塁が普段と違う言葉を喉へ詰まらせていることに気づいていた。けれども急かされたら彼は嫌がるだろうと思ったし、きっと話してくれるという期待に疑問を抱こうともしなかった。
ヘッドライトをニヤニヤと光らせながら車がわたしたちを追い越してゆく。一台、また一台。片側一車線の道は最近整備されたばかりで、線形もよくてスピードを出しやすい。塁と別れる交差点に着くまで、あと何台の車に冷やかされるかな。通り過ぎた白亜の閃光に目を細め、風に舞った髪をそっと左手で押さえつけたら、あらわになった左耳へ彼の声が流れ込んだ。
「鈴羽」
「うん」
「今日はもう、帰っていいから」
きゅっと胸が縮まった。「突然どうしたの?」と平静を装ったら、塁は遠くを見るのをやめて、足元へ視線を落とした。
「付き合ってもらうの、悪いし」
「いつものことじゃない、自主練終わりに一緒に帰るのなんて。わたしも吹部のついでに残ってるだけだし──」
「俺、もう今日から自主練やめたんだ」
塁は頑なにわたしを見なかった。
「プロ選手になるの、諦める。野球部にも正式に退部届を出す。練習もしない。プロ志望届も提出しない。普通に勉強して、普通の進路を目指そうと思ってる」
指先が強張って、わたしの手はうまく自転車をコントロールできなくなった。暴れる自転車を抱え込むようにして身体もろとも支えながら、塁の顔色を窺った。これ以上は唇を開いていたくないとばかりに、彼は乾いた口元に一文字を結んでいた。道理で無口なはずだと思った。音楽室のわたしを迎えに来て、鍵を返して、下駄箱で靴を取って、校舎を出て、ここまで歩いてくる間ずっと、塁はああやって痛ましい心のうちをひた隠しにしていたのだ。
わたしを見てくれないのは分かっていた。それでも無理を通して、長い時間をかけて「そっか」と微笑んでみた。沈黙以上に彼を傷付けるものなど存在しないはずだと思った。
「手、壊れてから、長いこと不調が続いてたもんね」
「……うん」
「塁は納得できてるの?」
「してなかったらお前に話してないよ」
「じゃあ、わたしも応援するよ。塁が心から決めた道だっていうなら」
塁の足取りが止まった。慌てて自転車にブレーキをかけたら、前かごに載せた楽器のケースが賑やかに音を立てて揺れた。泣きそうな顔をしている塁を見るのがつらくて、わたしはそっと彼から視線を外した。また一台、乗用車がわたしたちの脇をかすめて、緩やかなカーブの先に消えていった。
高校三年生からプロ野球選手になるためには、十月半ばの期限までにプロ志望書を提出して、ドラフト会議で球団の指名を受けなくちゃいけない。小学生の頃から野球一筋で生きてきた塁にとって、プロ選手は文字通り積年の夢だった。プロ入りの決定は彼にとっても、その隣で彼を応援し続けてきたわたしにとっても、とてつもなく大きな人生の節目になるはずだった。その節目が今、彼自身の手で消え失せようとしている。ぽっかりと空いた心の洞から無言のしずくがあふれ出しているのを、わたしは立ち止まった彼の大きな肩に感じ取った。
泣いている塁の姿なんて見たくない。
わたしのすべきことは決まっていた。
「大丈夫だよ。プロになれなくたって、塁が塁でなくなるわけじゃない。塁が誰よりも頑張ってて、ひたむきで、強い人だってこと、わたしは知ってる」
アスファルトを見つめながらわたしは懸命に笑った。笑っていないと頭も心もおかしくなりそうだった。自分の胸にも叫びかけるみたいに「大丈夫」と畳み掛けて、空いていた左手で彼の手を取った。この大きな手を強く強く握り込んで、わたしの温もりなんかすべて流し込んで、塁の未来を強く燃やしてあげられればいいのにと思った。
「ぜったい大丈夫だから」
自分をもなだめるつもりで言い聞かせると、ようやく塁も「痛ぇよ」と笑ってくれた。息が詰まるほど爽やかな、ぞっとするほど悲しげな笑顔だった。
ほんの二言、三言、他愛のない話を交わして、少し先の交差点で別れた。
彼の隣を歩くと、歩調の合わない二人分の足音が音楽みたいに聴こえた。不協和なのに耳を塞げない、不思議な魅力をもったリズムの運びだ。その片一方の主は今、いつものように別れを告げて、漆黒に沈んだ東の空を見上げながら立ち去ってゆく。遠ざかる小さな背中から目を離せなくて、わたしは通りがかりの車にクラクションを鳴らされるまで交差点から動かなかった。
塁の姿を見なくなって数日が過ぎた。
昼休みのチャイムの余韻に浸りながら弁当箱を開けるたび、見慣れた幼馴染の顔が脳裏をよぎる。彼の右手が故障して使い物にならなくなった頃、わたしの箸でご飯を口に運んであげたこともあったっけな。使い込んで傷んだ桃色の箸先を見つめ、呆けた気分に浸りつつ、弁当箱の焼きそばをわたしは機械的に口へ運んだ。仰々しい黒色のくせに、やけに無味に感じられた。
「最近あの男はどうしたの、鈴羽」
サツマイモのオレンジ煮を器用に箸で掴みながら、クラスメートの涼子がわたしの顔を覗き込んできた。
「熊崎くんのこと?」
中学で塁と仲良くなって以来、わたしは人前で塁を「塁」と呼ばない。苗字に敬称をつける。だから高校で知り合った涼子はいまだに彼の名前を知らない。
「一緒に帰ってるところ見かけなくなったなって思って」
「やめたんだ、それ。熊崎くんが野球の自主練やめて先に帰るようになったから」
「ふうん……。甲斐性ないな、彼女のために居残ってやればいいのに」
「だからわたしたち付き合ってないってば」
涼子は疑りの目を細めながらサツマイモを口に放り込んだ。何べん疑われようとも本当だ。わたしと塁は過去一度も付き合ったことがない。小学校の頃から同じ道を歩き続けている、ただの幼馴染にすぎない間柄だ。
近所の市立小で知り合い、進んだ先の市立中で親しくなって、二人で同じ市内の都立工業高校を受けた。わたしはデザイン科、塁は機械科に通っている。デザイン科と機械科は校舎が違うので、普通に暮らしていれば顔を合わせることもない。
「てかさ、自主練やめたってことはプロも諦めたの?」
相変わらず涼子は塁の話題を続けたい様子だった。応諾したら、彼女は「そっか」と気まずげに眉を傾けた。
「無理もないか。あいつが出れなかったから甲子園の四回戦も負けたんだしね。やっぱショックを引きずってたのかな」
「気持ちの面でも追い詰められてたと思うけど、何より怪我の回復が進んでなくて、実力が全然戻らなかったみたいなの。野球部の人たちも納得してくれたって」
「可哀想ではあるかもね」
変な含みのある言葉尻が耳を抜けて喉に絡まって、わたしは飲みかけの緑茶でむせた。何してるの、と笑った涼子がハンカチを差し出す。絡んだ言葉を外せないまま、わたしは無言でそれを受け取る。
塁とわたしの関係は真逆だった。塁がむせる側で、わたしはハンカチを差し出す側だった。
鋭くて正確な球を投げる実力者の塁は、それまで大して強くもなかったわたしたちの高校の野球部にとって希望の星だった。一年生の時から先発投手を任され、外の世界でも「あの高校にはいい投手がいる」なんて評判だった。このまま本調子を保てれば、夏の甲子園での全国大会出場さえ夢じゃない──。期待に胸を膨らませながら挑んだ地方大会の三回戦で、塁は思いがけず右手に怪我を負い、四回戦を休場になった。無理をすれば選手生命に関わる、次の試合で頑張ればいいじゃないかと、仲間や監督は言葉を尽くして塁をなだめた。けれども「次の試合」は永遠に訪れなかった。休場した四回戦で、わたしたちの学校は隣の市にある私立の強豪校と当たってしまい、負けた。相手チームの先発投手も不調を起こしていて、二回表まではわたしたちが得点で上回っていたのに、力強いスリーベースヒットを打たれて一気に点差を解消された瞬間、夢は土気色の煙になって消えていった。
利き手が使えなくなって生活も不便になり、敗退のショックで自暴自棄になっていた彼に、ハンカチを差し出したのはわたしだ。ハンカチ以外のものだってたくさん差し出した。大事な手を壊してしまった塁に心の底まで壊れてほしくない、壊したくない一心で。
「……ま、熊崎には悪いけど、ちょうどいい機会じゃない」
涼子の言葉でわたしは我に返った。
「機会って?」
「鈴羽、いまだにアレ出してないんでしょ。進路調査票」
「なんで知ってんの」
「高田が言ってた」
高田喜孝先生はわたしのクラスの担任だ。涼子の苦手な化学を教えているので、涼子は先生を頑なに呼び捨てにする。
「熊崎といちゃついたり楽器に専念するのもいいけどさ、そろそろ真面目に将来考えないとヤバいんじゃないの。せめてどこに進むのかくらいは決めときなよ。もう十月も半ばなんだしさ」
「だからいちゃついてなんか……」
「はたから見ればしてるように見えるんだって。彼女でもないのに日頃から練習終わりを待って一緒に帰ってたら、誰だってそういう関係だと思うでしょ」
言い返しても無駄だと思い、わたしは口をつぐんだ。涼子がわたしたちの間柄を無遠慮に詮索するのは、なにも今に始まったことではない。
空虚な沈黙がわたしたちの間に垂れ込めた。涼子が言葉を尽くしてわたしを脅そうとも、焦りの火がわたしの胸底にともることはなかった。わたしには夢がない。行きたいところもない。今いる工業高校だって、塁が志望するというから受けた学校だ。デザイン科を選んだのは機械科でやってゆける自信がなかったからで、デザインに関心があったわけじゃない。
「ちなみにうちはとっくに出した」
「デザイン事務所への就職、でしょ。嫌になるくらい聞いたし」
わたしが苦笑すると、涼子は次のサツマイモを箸で突き刺した。
「彼氏彼女じゃないっていうなら、熊崎とも適度な距離を保ちなよ。そんであいつの心配してる暇があるなら自分の将来を第一に考えなよ。これでもうち、本心から忠告してるつもりだかんね」
差し出されたハンカチの臭いに鼻が曲がった。わたしは苦笑を崩さなかった。
わたしたちの学校の吹奏楽部は少人数だ。女子の少ない工業高校ということもあって、全学年を合わせても十数人しかいない。それでも一度に十数人がそれぞれの楽器を持ち寄って練習に励めば、音楽室は嫌でも手狭になる。ひとり静かに練習できる環境が欲しくて、わたしは部活の解散後も音楽室に居残りがちだった。そしてそれはもちろん、誰かさんの練習終わりを待つための暇つぶしでもあったわけだけど。
「……やば、八時前だ」
ふと見上げた壁掛け時計がとんでもない時間を指しているのに気づいて、わたしは慌てて楽器をしまいにかかった。銀白色の横笛、フルートだ。中学一年で吹奏楽に出会って以来、ずっとこの子を吹き続けている。
頭部管、胴部間、足部管。組み立てた部品を引っこ抜く瞬間は、自分の腕を無理やり脱臼させているみたいで気分がよくない。わたしの身体も、わたしの心も、この美しい楽器の一部品だ。なぜって奏者の息がなければ楽器は音を発さないから。だからといってわたしの身体を楽器みたく丁寧に扱うことはないのだけれど。
バラバラになった部品をケースに押し込み、楽譜をまとめて通学カバンに入れ、音楽室の鍵を閉めて職員室へ向かった。教室への居残りは校則で午後八時までしか許されていない。塁が迎えに来てくれることのなくなった今、わたしに居残り時間の終幕を教えてくれる人は誰もいなかった。
「あまり遅くまで残っていてはいかんよ、中谷さん。気を付けて帰りさない」
わたしを出迎えた初老の高田先生は言葉少なにわたしをたしなめた。進路調査票未提出の件には触れないでもらえたらしい。わたしはほっと吐息をついて、お礼を言って、空いたままの左手で職員室のドアを閉めた。汗のにじんだ手のひらに風が当たって、物寂しい冷涼感を肌に吹き付けた。
暗い街に人影はなくて、車の行き交う音だけが風のように吹き渡っている。自転車の前かごに楽器ケースを入れ、またがって地面を蹴ると、遠くの道をバスが走ってゆくのが見えた。クリーム色の車体に青い丸が三つ並んで描かれた、三十人乗りの小さな循環路線バスだ。塁は毎朝、あのバスに乗って登校してくる。わたしと一緒に帰らない日には帰路も同じバスを使っているはずだった。
バスでさっさと帰るのと、わたしと歩いて帰るのと、塁はどちらが好きだったのかな。
わたしは制服のたもとを左手で握った。やたら左手に味気なさを覚えるのは、いつも左隣に立っていた塁の姿がないからだと思った。
何の気もなしに、バスのあとを追いかけて自転車を漕いだ。わたしが住んでいるのは一キロ南にある駅前のマンションで、塁の家があるのは東に二キロ離れた住宅街だ。むかしはわたしも塁の家の近くに住んでいたのだけれど、持ち家じゃなかったとかで高校入学時に引っ越した。あれから中学の友達とは連絡を取っていない。今も親交が続いているのは、塁だけ。
畑と戸建てがまばらに続くばかりの道を、淡々と自転車で走った。
きーこ、きーこ。油の差していない自転車からは引っ掻くような鳴き声がする。聴こえるのはわたしの吐息と、自転車の声と、どこか遠くを駆ける私鉄の走行音くらいのもので、わたしを包む街は静かに息をひそめている。隣に塁がいないだけで、世界が音もなく死んでしまったかのようだった。
塁はどうしてるかな。
ひとりで家にこもって勉強しているんだろうか。
野球を諦めたショック、引きずっていないといいのに。
一週間以上も顔を見ていないと、塁の様子が何も想像できない。交差点を曲がって南に進路を取りつつ、宙ぶらりんの不安を足に込めてペダルを踏みつける。
道の先に小さな橋が見えた。わたしたちの街を斜めに横切る、ほんのささやかな川に架かっている橋だ。自転車に八つ当たりをするのをやめて、わたしは地面に足をついた。川底も川岸も黒インキを溶かし込んだような常闇に沈んでいたけれど、ほのかに揺らめく水音や草の匂いは、闇の底に水が流れていることをちゃんと教えてくれる。引っ越す前のわたしは些細なことで落ち込むたびにこの川へ通って、流れ下ってゆく水を漫然と眺めて、たまに泣いて、心の澱みを浄化するのを習慣にしていた。
低い欄干に自転車を立てかけて、水の匂いに鼻を澄ませる。
あの日もこんな匂いがしていたな、と思う。
中学一年の夏、この場所で塁に声をかけられた。当時のわたしは吹奏楽部に入ったばかりで実力もなくて、野球部の応援でも演奏の足を引っ張り、情けない応援を受けた野球部は負けてしまった。がっかりして泣きたくなって、もう楽器なんてやめてしまおうかと本気で悩んで、川の土手に座り込んで独りでしょげていたとき、通りがかりの塁がわたしを見つけた。どうしようもなく下手くそだったわたしのフルートを塁は褒めてくれた。お前の音がいちばん輝いてた、誰の音より勇気をくれたといって、半泣きのわたしを塁は不器用に慰めてくれたのだ。
あの日から、わたしのフルートは塁のためにある。
わたしの息吹は塁に捧げるためにある。
もう一度でいいから褒めてほしくて、必要とされたくて、わたしはとうとう吹奏楽部を辞めなかった。塁を追って同じ高校へ飛び込んで、そこでもまた吹奏楽部を選び、春や夏になれば応援演奏に張り切って飛び出した。彼が居残りで自主練をしている間、わたしの音が支えになればと願って、わたしも自主練に励むようになった。何気ない日々の息吹のすべてが、わたしにとっては塁への応援歌だった。
彼女だとか、親友だとか、そんなありきたりの言葉でわたしたちの関係は言い表せない。その特別感が多幸と不安を同時に吐き出して、わたしの足取りをおぼつかなくさせる。わたしはそっと自転車を欄干から引き剥がして、地面を蹴った。たとえ外野の涼子が何を言おうとも、この川原にただよう在りし日の残り香は決して否定させない、否定させたくないと、遠ざかる川の音に染み入りながら思った。
わたしたちの吹奏楽部は例年、クリスマスイブのコンサート後に代替わりを行っている。人数も楽器も少ないわたしたちは、大きなコンクールで演奏の腕を競うような世間一般の華々しい吹奏楽部像とは無縁の存在だ。とげとげしい雰囲気や仲間割れに見舞われることのない、戯れにも思える結びつきの緩さが、わたしの性には合っていた。
その部活人生も、もうじき終わる。
もっとも塁を応援する機会がなくなった時点で、すでにわたしの楽器人生は半分くらい死んでいるのかもしれない。
焦点の定まらない目をわたしはパソコンに向け、流れてくる言葉を機械的に打ち込んだ。──演奏曲候補、みんなで一つずつ挙げる、〈さんぽ〉〈となりのトトロ〉〈東村山音頭〉〈ひずみ〉〈イト〉〈フロントメモリー〉。
「あの堅苦しい資料館でこんな曲やって怒られない?」
「堅苦しいって言うなよ、失礼でしょ。リアルな病気を扱ってんだから」
「まぁ今回は公共施設として借りるだけだし、いいんじゃね」
「映画上映会とか三味線の演奏会も過去にやってるみたいだし」
「それならもうちょっとお年寄り向けのラインナップがあってもいいかもね」
わいわいと仲間たちが騒ぐたび、わたしの指が動く。淡々と字を書き連ねたワープロソフトのページ数が五枚に達した頃、ようやく議論が落ち着きどころを見て、ノートパソコンから解放されたわたしは疲労困憊の指を揉んだ。指を使い倒すのはフルートだけで十分だった。
「よーし決まったね! クリスマスコンサートの曲目!」
叫びながら机へ両腕を投げ出した部長に釣られて、三年生の仲間たちは思い思いのやり方で羽を伸ばしている。飲食禁止なのにどら焼きを頬張っている子もいる。学校の近所の有名店で売ってるやつだ──と思いつつ、わたしはひとり心が落ち着かなくて、出来上がったメモと黙ってにらめっこをしていた。周囲にうずたかく並べられた参考書や受験案内や職場紹介のせいだ。他に借りられる場所がなかったので、わたしたちは机や椅子のある進路指導室を占拠して話し合いをしているのだった。
案の定、会計の子が「進路決めた?」などと話題を振り向けた。わたしはますますパソコンから目を離せなくなった。
「俺は決めたよ。知り合いの先輩の勤めてる工場に行こうかなって」
「工場勤務か、すごいね。仕事キツそうだからあたしは無理。公務員になるつもり」
「どこ行くの?」
「市役所。都庁にも憧れてたけど諦めた。倍率が無理ゲー」
「都庁いいよなー。おれ、都の水道局に行きたいんだよね。浄水場の管理とか楽しそう」
「高卒で行けるんだっけ?」
「行けない。だから大学受けるわ。高専だったら応募資格あったのになぁ」
「うちも大学受けるつもり!」
「どこ大?」
「んー、まだ絞れてないけど、とりあえず美術系だったらどこでもいいかなって感じ。学費の安い国公立がいいな。芸文大とか」
「あんたの学力じゃ無理でしょ。どんだけレベル高いと思ってんの」
誰もがみんな、わたしの知る世界の外側の話をしている。いまだに志望先を決めていないとは言えず、わたしはうつむいていた。わたしは自分が何を望んでいるのかが分からない。涼子にたしなめられて以来、毎晩ひとりで悩んでみたけれど、とうとう答えが出ることはなくて、しまいには漠然とした不安に怯えて布団に埋もれるのが落ちだった。知りたくもない自分の暗部をまさぐって、わざわざ痛点を見つけようとしているような感触がたまらなく不快だった。
わたしは何者になりたいんだろう。
そう問われたなら、こう答えるしかない。
塁のとなりで彼を支えられればいい、と。
その塁にしたって、つい先日、長年の夢を手放して現実路線に目を向けたばかりだ。だからわたしはひとりぼっちじゃない。どうしても切羽詰まってきたのなら、そのときは高校選びの時と同じように、今度も塁を追いかけて行き先を選べばいい。
わたしはそれでいい。
ただの楽器に主体性や意思なんて要らない。
堅牢な心を無言で包み込んでいると、不意にドアの開く音が響いた。進路相談室なんだもの、誰が入ってきても不思議じゃない。素知らぬふりを決め込もうとしたわたしは、振り向いた部活仲間たちが「熊崎」という苗字を発したのを聞いて、口から心臓を吐き出しかけた。
やってきたのは塁と、おそらく野球部の同期部員たちだった。
「塁……」
思わず彼の名前を呼びかけて、大慌てで口を閉ざした。彼を見かけるのは久しぶりのことだった。さいわい吹部の仲間が口々に彼へ話しかけていたので、わたしの取った不覚が勘付かれることはなかった。わたしは首をすくめ、パソコンに隠れるようにして彼を見ていた。
「プロ、諦めたんだよね。これからどうすんの?」
「どっか大学とか専門とか行くの?」
快活な子たちが盛んに尋ねている。この校内じゃ、塁はちょっとしたヒーローであり人気者だ。低迷していた野球部の戦績を持ち直した立役者なのだから無理もなかった。
塁はわたしを見ようとしなかった。
「大学に行こうと思ってる。実家がメーカーだからさ、機械系の勉強がしたいと思って」
「お前ら聞いて驚くなよ、こいつ首都工大を目指してんだぞ」
ぼそぼそと慎ましく答えていた塁の言葉を遮って、部活仲間らしき男子が大声を上げた。
たちまち「首都工大!?」と黄色い反応が上がった。塁は否定しなかった。否定されない事実に静かなショックを受けながら、わたしはまだパソコンの前で固まっていた。彼の友人が口にしたのは、国内トップクラスの難関校として知られる国立理系大学の名前だった。
努力家の塁なら受かるかもしれない。
わたしじゃ、行けない。
引いた血の気が堅牢な心の奥でツンと痛みを放った。置いてゆかれる恐怖が一瞬のうちに顕在化して、居ても立ってもいられなかったけれど、わたしは黙って笑顔を繕った。もしも塁がわたしの方を向いたとき、わたしの悲痛な顔で塁の気分を害さないように。またしても途方もない目標を掲げ始めた塁に、いつかのフルートみたく勇気をあげられるように。
ねぇ、塁。
首都工業大学を目指すなんてすごいね。
わたしにも応援させてよ。夢も未来展望もないわたしだけど、塁の目指す世界を一緒に夢見ている間だけは、なんだか心強くなれるんだ。それでわたしがどれだけ傷つこうが構いはしない。この心も身体も音楽も、すべては塁の未来を祝福するためにある。
背中に貼り付いた恐怖を振り払いたくて、ひたすら塁を見つめた。何学部に行くのとか、合格率判定はどうなんだとか、質問責めにあうたびに塁の視線はわたしを何度も横切った。けれども五線譜が永遠の平行線をたどるように、わたしと塁の目は交じり合う瞬間をとうとう持たなかった。
最後に塁へメッセージを送ったのは半年も前のことだった。帰り際に話しそびれていたことを伝えるためのもので、たった二言、三言の事務的なやり取りで終わっていた。毎日のように一緒に下校していたわたしたちは、長らくメッセージアプリなど必要としていなかった。話したいことは会って話せばよかったし、表情の分からない画面越しに文字だけでやり取りすることに何の魅力も感じなかった。
文面を打つだけで指が震えた。らしくもない時勢のあいさつなんか書こうとしてしまって、慌てて書き直して、内容を思案して、消して、書いて、また消して。ようやく送信ボタンを押したわたしは、スマートフォンを握ったまま布団の山に突っ伏した。しんと静まり返った自室に、壁掛け時計の放つ小気味いい鼓動が淡々と跳ねている。わたしの両親は帰りが遅い。駅前の一等地に立つ十階建てのマンションの一室で、わたしは今、一人きりだ。
【首都工大目指すなんて初めて聞いたよ 教えてくれればよかったのに笑】
送ったメッセージには間もなく既読がついた。塁は意外に返信のマメな人だ。大事な話のときはわたしを見てくれなかったくせに、変なところが誠実で、変なところで誠実じゃない。
【悪い 決めたの最近なんだ つい数日前】
塁と帰り道をともにしなくなって一ヶ月が経とうとしていた。数日も経つ前に教えてくれたってよかったじゃん、などと今さら彼を責める気にもなれなくて、わたしは布団を抱き枕みたいにかかえ込んだ。
【わたしも目指そっかな】
なんて、思ってもいない志をうそぶいてみる。
【俺も受かるか分かんないよ】
すぐに塁は誠実なそぶりで返してくれる。
そりゃそうだ。一朝一夕で受かるほど甘い大学じゃないことくらい、わたしだって知っている。いっそ落ちるなら二人いっぺんに落ちてしまいたいな。何もかもに落ちて、堕ちて、堕ちるところまで堕ちて溝の底で手を取り合ったなら、そのときわたしたちは何者になるのだろう。夢を失った野球少年と、フルートを吹くしか能のない吹部少女の行きつく果ては、わたしには上手く想像できない。
【きっと受かるって! なんなら試験の日に応援演奏してあげる笑】
【何が聴きたい?】
【やっぱりOVER AGAINがいい?】
思いついた冗談を文字に起こして送り付けたら、すぐに【勘弁してくれ】と返事が来た。
友好的な返事を求めていない、必要最小限の短い返信だ。画面の向こうで塁は笑っていないと、鋭利な直感が耳元にささやく。もしも帰り道で同じ話をしたなら、きっと目をそらされただろうと思った。それこそ進路指導室で視線を合わせてもらえなかったように。
また一滴、嫌な実感がどろりと濁りを深めた。
わたしは刻一刻と塁に置いてゆかれている。
思えば塁がプロ選手を諦めた時点で兆候はあった。帰り道や寄り道の最中、どんな些細な相談でも持ち掛けてきてくれた塁が、夢を捨てるという決定的に重要な悩みをわたしに打ち明けなかった。みずからの思い描く未来を修正しようとする大事な局面で、塁はわたしを必要としなかった。それなのにバカなわたしは塁の痛みに夢中で寄り添って、励まして、手を握って力になろうと願った。塁の眼差しが見つめる先を、あのときわたしは正視しなかった。正視しようとも思わなかった。
わたし自身が何者になろうがどうでもいい。
塁の中で今、わたしは何者なの?
わたしはこれからどうなるの?
嫌というほど聴き続けてきたはずの塁の足音が、鼓動が、言葉が、真意が、文字を交わすたびに耳の内側でくぐもって聴こえなくなってゆく。その実感をわたしは素直に受け入れられなかった。
【ね、聞きたいことがあるんだけど】
それとなく尋ねてみた。【うん】と応答があったので、なるたけ遠回しに本題を切り出した。
【わたしはこれからも塁の支えになれる?】
塁からの返信は急に途絶えた。十分待っても、三十分経っても、日付の上に既読の文字は現れなかった。それでもわたしは大きな布団の塊にしがみついたまま、玄関の鍵が開く音を聞きつけるまで、何分でも、何時間でも、待ち続けた。待つこと以外の解決策を知らなかった。わたしはどこまでいっても意思を持たない玩具で、道具で、楽器だった。
フルートという楽器は単純だ。銀白色の細長い管に無数の穴を持ち、穴をふさぐためのキイの束を身にまとっているだけ。マウスピースもリードも必要としない無簧楽器であるフルートは、その華麗な音色に違わず、世界中のどんな楽器よりも美しい。わたしのように外見だけで憧れてフルートを手にした子も多いはずだ。その機能美と引き換えに奏者は口の形だけで音を制御しなければならず、簡単に見えても難しい楽器なのだということは、吹奏楽部に入ってから知った。
語源はラテン語のFlatus、意味は「息吹」。
どんな汚い息吹でも、吹き込めば美しい音に変えてしまう。フルートは魔法の道具だ。この銀色の道具を携えるようになってから、わたしの日常は音楽に変わった。いつだって誰かに捧げられる吐息を探し求めて、アンブシュアを作って細長い管の奥で音に変えてきた。わたしの音楽で誰かを魅了したかったし、誰かの心をいっぱいにあふれるまで満たしてみたかったのだ。
部の仲間には悪いけれど、吹奏楽部はわたしにとって単なる身の置き場。
わたしは吹部のために頑張っているわけじゃない。
だから部の活動がない日も音楽室に通い、部の活動とは無関係の曲を吹奏している。
一枚、一枚、傷んだ楽譜のページをめくっては、唇が痛くなるのも構わずに息を吹き込む。ここのところ調子がよくないみたいで、足部管を飛び出した音色は心なしか気弱だ。気弱な部分は即興のトリルで誤魔化して、無理やり演奏を先に進めた。窓からなだれ込んだ風が勝手にページをめくろうといたずらする。聴こえてくるのはわたしの吐息と、北風のいななきと、サッカー部がボールを蹴る声と、どこか遠くを駆ける私鉄の走行音くらいのもので、わたしを包む世界は相変わらず静かに死んでいた。
ドアの開く音が世界をつんざいた。
「やっぱりここだった」
振り返ったわたしの瞳に、呆れ果てた顔でドアの向こうに立つ涼子が映った。彼女は一枚の紙を携え、ずかずかと音楽室に踏み込んできた。わたしはとっさにフルートを身体の後ろへ隠した。
「何しに来たの」
「進路調査票を出させろって高田に言われて来た。締め切りまで三日だぞって」
「よくここが分かったね」
「分かんないわけないじゃん。そんだけ窓開けてフルート吹いてんだからバレバレだよ」
本題はそれじゃない、とばかりに涼子は肩をすくめる。わたしも肩をすくめたい気分だった。運命の神様は意地悪だ。聴いてほしい人の耳には届かないのに、聴かれたくない人には届いてしまう。
「マジいつまで出し渋ってんのよ。あんなもん、適当に何か書いて出しちゃえば済む話でしょ」
「……まぁね」
「本当に何も思いつかないわけ?」
「思いつかない。何も。笑っちゃうくらい」
わたしはささやかに嘲り笑った。
わたしは塁や涼子のように、夢や野望を胸に秘めた人生を送ってきたわけじゃない。わたしが道を選ぼうとするとき、そこには常に先をゆく誰かの姿があって、わたしは彼の背中に盲従した。それこそがわたしを幸せにする道だと、わたしは心の底から思い込んでいた。わたしはいつも誰かに置いてゆかれる人間で、誰かを導く人間にはなり得ないのだ。当の自分自身さえも導けないまま、こうしてフルートにしがみついている。
「なんで吹いてんの、そいつ。吹部の活動中に練習はできてんでしょ」
歩み寄った涼子が、わたしの傍らの席に腰かける。わたしは背中の裏で、凍てつくフルートを握りしめた。
「何となく」
「真面目に答える気ある?」
「ないよ。答えたって理解してもらえるとは思わないし」
「バカにしてんの?」
「聞いたら涼子の方がわたしをバカにすると思うけど」
涼子は押し黙った。答えを察したのだろう。わたしだってじかに答えを言いたくなかった。寒いのに窓を開け放ってフルートの音を流していたのも同じ理由だった。どこかにいる塁の耳に届いてほしい、塁に褒めてほしいだなんて、我ながら気持ち悪くて仕方がない。だけどそれがわたしの動機であり、すべてにおける行動規範なのだ。
「ずっと隠し通してるけどさ。あんたと熊崎の関係って本当は何なの」
涼子は白紙の進路調査票を床に置いた。またいつもの詮索が始まった、とわたしは身構えた。
「何べん聞いても幼馴染としか教えてくれないよね。カレカノじゃない、ただの知り合いだって」
「……それもきっとバカにされるから、言いたくない」
「普通の幼馴染じゃないって認めてるようなもんだけど、それ」
「普通だよ。小学校で知り合って、中学校で仲良くなって、高校まで縁が続いてるってだけ」
「うちには仲良しになんて見えてなかったから聞いてんだよ。鈴羽とあいつが並んで歩いてる姿を何度も見かけたけど、いつだって楽しそうにしてるのは鈴羽の方で、あいつはあんたのことをまともに見てなかった。全然関係ない何かを見てる眼をしてた」
刺されたような痛みがわたしの心臓を襲った。認めがたい実感をわたしは大声で塗り潰した。
「そんなことないし! だいたい涼子にわたしたちの関係の何が分かるっての!」
「だったらあんたは熊崎の何が分かってんの?」
涼子も冷たい声を張り上げて問い返してきた。わたしは虚を衝かれた思いで、ぱくぱくと無意味に口を動かした。無駄に発した吐息が北風に紛れて消えた。
分かってると言いたい。誰よりも近くで塁のことを見てきた、わたしが塁の一番の理解者だって言いたい。
だけど、分かってるなんて言えない。
だってわたしは知らなかったのだから。
志望校も、近況も、夢を諦める算段を立て始めていたことさえも。わたしはすべてあとになって知らされたのだ。
「鈴羽からしたら余計なお世話なことくらい分かってんだよ。それでも聞かなきゃならないことは聞きたいんだよ。……うち、これでも鈴羽のこと、本気で心配してんだから」
憤りを押し殺した声で涼子が畳み掛ける。
バランスを崩した自意識に力を奪われて、わたしは隠していた楽器を膝に置きながら椅子へ座り込んだ。なんだかもう、すべてが無意味に思えた。バカにされようがどうだっていいや。じんと尻に染みた冷たさが、変な笑いを浮かべさせる。
「どういう関係って言われてもな……。うまく説明できないよ。適切な表現なんて思いつかない」
「鈴羽が一方的になついてただけ?」
「そんなんじゃない。熊崎くんはわたしを必要としてくれてた」
「必要って、どういう風にさ」
「自主練終わりの帰り道、暗い街でひとりぼっちにならないように」
涼子は黙ったまま眉をひそめた。
「熊崎くんの家の前まで送っていくのが習慣だったんだよね。練習の不安とか、次の試合のこととか、色んな話をしてくれた。野球のことなんて何も分かんないけど、わたしに話すだけで気持ちがまぎれるなら、それだけでよかった」
「…………」
「夏に右手を痛めて甲子園に行けなくなってからは、買い物とかカラオケとかにも一緒に行ったりしたよ。利き手が使えなくなって不便そうだったから、ちょっと生活補助みたいなことはしてたかも。寂しそうにしてた時は抱きしめてあげたし、色々やって励ましたりもしたし」
「ちょっと待って、それって──」
「そういうこともしてたよ」
だから事細かに説明したくなかったのだ。わたしが変な笑顔のままで言い切ると、涼子は絶句した。困惑と失望の狭間みたいな色に瞳を濁らせながら、しばらくして「それってさ」と涼子は言い直した。
「セフレじゃん」
フレンドなんてもんじゃない。右手が使えないからというので、ちょっと手助けしてあげていただけだ。最初のうちはわたしから声をかけていたけれど、慣れてくると塁の方から誘うようになった。そういうことをするときは大概カラオケに入っていたから、わたしたちの間で「カラオケに行く」という誘い文句が隠語と化すのに長い時間は要らなかった。
初めてだって捧げている。
塁がわたしを望んでくれたから。
だけどわたしと塁はキスをしていない。だからわたしたちは恋人じゃない。もっといびつで、もっとおぞましくて、もっと離れがたい不健全な相互依存関係。そんなものを美しい既存の日本語で表現できるはずもないのだ。
「バカにしたでしょ?」
問いかけたら涼子は目をむいた。
「バカになんてしてない。……どんな言葉をかけたらいいか分かんないのは、本当だけど」
「そっか」
「ねぇ、鈴羽。本当はとっくの昔に気づいてるんでしょ。あんたは熊崎に目がくらんでるんだよ。あいつが人生のすべてになっちゃって、自分の選ぶべき道が見えなくなってるんだよ。だからいつまでたっても進路調査票を埋められないし、フルートを手放せないんじゃないの」
「うん。自覚してるつもり」
「自覚してんなら……」
何かを叫びかけた涼子は口をつぐんで、わたしを見つめて、ぎゅっと唇を結んだ。封じられた何かは彼女の脳内で別の言葉に置き換えられて、しずくみたいに口の端から漏れ出した。
「……熊崎との関係、振り切れたらいいね」
わたしは何も答えなかった。答えるべき言葉も、真摯な気持ちも、不純なわたしは持ち合わせていなかった。塁が離れていって死んだ世界の片隅に腰かけたまま、ごうごうと吹き渡る北風の歌に耳を澄ませて、ただ、時間が過ぎ去るのを待った。
塁の家は市の東端の町はずれにあって、周囲には大きな工場や物流施設が立ち並んでいる。道を渡ったところに市の運動公園があるから、塁は大抵、トレーニングしたくなると公園を利用してると言っていた。プロ選手を諦めて自主練をやめて以来、確かにあの公園で塁を見かけることはなくなった。
家に踏み込んだことはないけれど、家の場所は知っている。どれが自室の窓なのかも知っている。そこに蛍光色の灯がともっているのを見つけて、わたしはそろそろと嘆息した。頑張ってよ、なんて小さな声で慰めを口ずさんでから、自転車に乗って地面を蹴った。木々の茂る用水路沿いの道を二キロも走れば、わたしの住むマンションのある駅前地区に辿り着く。どんなに願っても縮められない片道十五分の道のりは、一歩、一歩、ペダルを漕ぐたびにわたしの足取りを重くする。
塁からの返信は途絶えたままだった。既読すらつかないメッセージアプリのチャット画面を閉じて、わたしはベッドに倒れ込んだ。何をする気も起きなかった。倒れ込んだ勢いで乱れたブレザーの上着が、二人きりでカラオケに籠城している間の格好を思い起こさせる。冷たい布団を抱きしめたら、じんと疼く身体の奥に涼子の声が響き渡った。
──『熊崎との関係、振り切れたらいいね』
いまさら振り切れるわけがない。この心も、身体も、息吹も、文字通りすべてを塁に捧げてしまった。会うことのなくなった今でも、こうして塁の無事と成功を祈り続けている。
──『あいつはあんたのことをまともに見てなかった』
また涼子が身体の奥で叫んだ。
当たり前でしょ、とわたしは失笑した。塁は夢を見ていたんだ。わたしを見ていたわけじゃない。わたしは愚痴を垂れ流すための道具であって、介助や快楽を得るための玩具であって、心の支えを得るための楽器だった。わたしが意思を持たない道具を自認していたみたいに、塁もわたしを道具と思って扱っていた。
互いのためになるならそれでいいじゃない。なんの不満があるっていうの。
視界の端に転がる通学カバンをわたしは見つめた。羽根の生えた緑色のキャラクターストラップが、しがみつくようにしてカバンの隅からぶら下がっている。ケヤキの妖精をイメージしたとかいう、市のゆるキャラらしい。わたしが塁からもらったことがあるのはあれだけだ。それすらも長年の風雨に耐え続けた末に、今にも紐が切れて落ちそうになっている。
あの紐が切れたとき、わたしと塁の関係も振り切れるのだろうか。
わたしは何者にもなれない宙ぶらりんから、ゴミ処理場の淵へ堕ちてゆくのだろうか。
心が冷えれば冷えるほど、身体の奥は熱さを増して痛み出す。はだけた制服に手を突っ込んで掻き乱しながら、わたしは塁の手触りを思い浮かべた。硬式球を握り続けて皮の厚くなった、ぼろぼろのたくましい彼の手が好きだった。皮の厚さは塁の頑張りの証であり、わたしが支え続けた日々の証だと思ってきた。その手に慰められることがどうしようもなく愛しくて、いけないと知っていたのにやめられなかった。そうして今もやめられないでいる。
ごめんね、塁。
わたしはただ、道具であればよかったのに。
塁だけの無垢な楽器でいればよかったのに。
進路調査票には適当に「首都工業大学」と書いて提出した。塁への当てつけのつもりだった。首都工大になど微塵も行く気がないことを、担任の高田先生はきっと気づいていただろう。けれども黙って受け取り、うやむやのまま終わらせてくれた。
音楽室にこもってフルートを吹き続けるわたしを、あれから涼子は咎めなくなった。部の仲間たちには「クリスマスコンサートのために自主練をしてる」とでも嘘をついておけばよかった。独占した音楽室に鍵をかけ、窓だけを開け放って、わたしはフルートを吹いた。ロングトーンもブレストーンも嫌になるまで繰り返した。無我夢中でかき集めた楽譜を床いっぱいに散らかして、くたびれると楽譜の海に倒れ込んで溺れた。昼前から降り出した雨はいつしか止んでいた。夕暮れに沈んでゆく死んだ世界に目を細めて、塁の手を思い返しては、そっと楽器を床に転がした。わたしはどこまでも冒涜的で、最低で、無気力だった。
片付けと掃除を済ませて音楽室を出た頃、時計は午後八時を回る寸前を指していた。またしても居残り時間を過ぎてしまうところだった。いそいそと職員室に向かい、高田先生に鍵を返して、下駄箱で靴を履き替えたそのとき。
校門を出てゆく二つの人影が目に入った。
男子がひとり、女子がひとり。互いに顔を見交わして、親しげに話をするふたりの横顔に、わたしは息を呑んで立ち止まった。見知らぬ男子だと思いかけたそれは、塁だった。
野球を諦めたはずの塁が、どうしてこの時間まで学校に残っているのだろう。思い当たる可能性は一つしかなかった。音楽室の並びには図書室がある。わたしが音楽室の扉を閉めたとき、まだ図書室の入口には明かりがともっていたはずだ。塁が本気で大学受験を目指しているのなら、図書館に居残って受験勉強に励むくらい、なんら不自然なことでもない。
凍った足を無理に動かして、自転車を取りに行った。すでに二人は校門前の道を曲がり、最寄りのバス停の方へ歩みを進めていた。わたしは二人の足取りをひそかに追跡した。バスの通る広い道には数台の車が行き交っていて、きいきいと自転車の呻く声は車の音にうまくかき消されていた。
大股な塁の足音と、二十メートル以上も離れた後方を歩くわたしの足音が、重ね合わさって不器用なリズムを刻む。塁が野球を諦めて以来、途切れたと思っていたわたしの音楽は、どうやらこれだけの距離を隔てた今も続いていたようだ。けれどもその事実を知っているのは、塁を視界に入れているわたし一人だけ。
二人はバス停の前に立った。バスの車体に描かれているのと同じ、クリーム色に青の丸が三つ並んだ可愛らしい意匠のバス停だ。振り向くと、高層マンションの建ち並ぶ彼方から闇を縫って走ってくる一台のバスが見える。あのバスは嫌いだ。塁を連れ去りに来る、わたしの天敵だから。
バスが天敵なら、隣の子は何者?
何十メートルも離れた場所から、わたしは二人に目を戻した。
たちまち、爆ぜんばかりの勢いで心臓が跳ね、軋む音を立てて瞳孔が開き切った。
そこには手を繋ぎ、かがんで身長差を埋め、女の子に唇を落とす塁の姿があった。二人の唇が互い違いに合わさり、ひとつの影を生む瞬間を、わたしは確かに見てしまった。まもなく左からやってきたバスが停留所に覆いかぶさり、ドアの開く間抜けな警告音とともに、わたしの視界から二人を奪い去った。
わたしは塁にキスをされたことがない。どれだけ手を握っても、抱き合って肌を温めても、塁はわたしに愛の印を刻まなかった。けれどもそれは塁が恋愛感情を持たないことと同義じゃない。わたしと違って塁はひとりの人間だから、誰を愛したって不思議じゃない。そして今、塁はわたしには決して与えなかった愛情を唾液に込めて、あの女の子に吹き込んだ。その事実が意味するところのすべてを、わたしはたちどころに理解していた。
バスは発進した。邪魔者の去った停留所には誰の姿も残っていなかった。女の子は塁とともにバスへ乗り込み、あの町はずれを目指したのだ。わたしは立ち漕ぎでバスを追いかけた。さしてスピードも出せない小型バスのくせに、ふたつ並んだ真っ赤な尾灯はわたしを嘲笑うように交差点を右へ曲がってゆく。ぎりぎり青信号のうちに道を渡って右折すると、続けざまに今度は赤信号がわたしの前に立ちはだかった。お願いだから今は邪魔をしないで──。わたしは赤信号など目にもくれず、左折したバスの後ろを追ってペダルを踏み込んだ。
神様は冒涜的なわたしを許さなかった。
車輪が路面を滑って、わたしの身体は自転車もろとも道路に叩きつけられた。
「痛ったっ……!」
アスファルトを舐めながらわたしは小さく叫んだ。雨に濡れた路面は十分に乾いていなかったらしい。倒れ伏したわたしをよそにバスは悠々と走り続け、やがて夜闇に溶けて見えなくなった。誰もいない交差点の真ん中にわたしは倒れ伏していた。楽器ケースも、通学カバンも、真っ黒な道端に転がされて呻いている。自転車はきいきい鳴きながら車輪を空回りさせている。千切れたストラップのキャラクターが、水溜まりに頭を突っ込んだまま息絶えている。
塁の足音も吐息も聴こえない。
わたし自身の足音だって聴こえない。
わたしの音楽は、完全に止まった。
そうじゃない。本当はずっと前、塁に自主練の終わりを告げられた時点で、わたしの音楽には終止符が与えられていた。音楽記号のフェルマータは、曲の終止とともに音の延長を指示する。わたしはただ、引き延ばされた余韻に浸っていただけなのだ。自分こそが塁の特別なのだと思い込み、よすがにしがみついて感じ入っていただけ。その余韻もとうとう沈黙を迎えて、わたしひとりが真っ暗な街の中へ取り残された。
血の匂いのする口元をわたしは拭った。
バカみたい。なんなの、「わたしの音楽」って。
素直に「恋」って言い換えればいいじゃない。
せせら笑った途端、鼻先に氷みたいなしずくが弾けた。ふたたび降り始めた雨を無様に浴びながら、わたしは自転車を立て直して、楽器ケースや通学カバンを抱え上げ、大事なストラップの亡骸を拾いに行った。よたよたと歩く視界はにじみ、口は歪み、透き通った色の血が目尻をあふれ出した。
痛い。
痛いよ。
塩辛い鉄の味が染みてたまらない。
これが初恋の味だっていうなら、永遠に知らないでいたかった。初恋なんて甘いものだとばかり思っていた。サツマイモやどら焼きみたいに優しくて、惚けていて、わたしを温かく包み込んでくれる味だと信じていたかった。すべて忘れてしまいたいと願えば願うほど、舌に染みついて忘れられなくなってゆく。
びしょ濡れの街をわたしは見上げた。どんなに泣いても雨はわたしを洗い流して、さあ綺麗になった、もっと泣けといってわたしを急かした。促されるままにわたしは泣いた。荒っぽい手入れを施されたフルートみたいに、叫んで、名前を呼んで、血を拭ってまた泣いた。
季節が巡って、長い冬は終わりを告げた。
クリスマスコンサートをつつがなく終え、吹奏楽部を正式に引退したわたしは、放課後の音楽室に居座る名目も同時に失った。音大を目指しているわけでもないのに、わざわざ鍵を借りてまで音楽室を利用するのはさすがに無理があった。あれから音楽室には寄り付いていない。愛用のフルートは分解修理に出し、楽譜も大掃除のついでに束ねて縛ってしまった。
進路も早々に決まった。芸術系の専門学校に進学するつもりだ。合格の旨を涼子に話すと、彼女はわたしの手を握って「おめでとう」と晴れやかに言った。
「村山芸術専門学校、友達からも評判いいって聞いてるよ。うちの就職先にもOBいるし。有名デザイナーをいっぱい輩出してるところでさ……」
「わたしデザイナーは目指さないよ」
そう遮ったら涼子はずいぶん落胆していた。彼女自身はデザイン事務所への就職を決め、来るべき仕事に備えて猛勉強をしているところだという。デザイン一筋の涼子に比べれば、わたしが専門学校に行く理由など取るに足らない。わたしはただ、やりたいことを探しに進学するだけだ。琴線に触れるものを探して、いろんな人や世界や仕事に巡り合って、振られたくらいで死ぬことのないわたしだけの世界を作るために。
塁が大学進学を決めたことも風の噂で聞いた。共通テストの点数が足りなくて首都工業大学は諦めたのだけど、代わりにこのあたりにキャンパスを持つ、似たような理系の国立大学へ合格したらしい。ついでに彼女の正体も判明した。同じ機械科に通う後輩だという可愛い女の子のことを、塁は「初彼女」と表現しているそうだ。
わたしは楽器。
人間は楽器に恋をしない。
たったそれだけの事実に、どうしてわたしはあれほど傷ついて、道端で泣いたりしたのだろう。キシキシと胸に走る痛みを、どうして今も忘れられないのだろう。
また泣きそうになって涼子に打ち明けると、彼女はおもむろにハンカチを取り出して、わたしの胸に押し付けた。
「楽器じゃないからに決まってんでしょ」
フルートは本来、水で洗ってはいけない楽器だ。吹き終えて分解したらクリーニングスワブを中に通して、余計な水分を拭き取ってやる必要がある。わたしは差し出されるままにハンカチを受け取り、潤んでいた目尻を拭った。だんだん歯止めが利かなくなって、こらえていたものが堰を切って、しまいにはハンカチをぐしゃぐしゃにしてしまったけれど、涼子は真っ赤に腫れたわたしの目を見て笑い、使い物にならなくなったハンカチをもらってくれた。
わたしは自分の意思で、わたしの身体を手入れした。たとえわたしの身体は楽器でも、わたしの心は楽器じゃなかったのだ。
涼子のくれたハンカチからは、嘘みたいに優しい匂いが立っていた。
退屈な卒業式や最後のホームルームを終えて教室の外に出ると、ほのかな桜の匂いに髪がそよいだ。三月半ば、伸びやかな春の日差しを浴びて、わたしたちの街は穏やかな温もりの海に沈んでいた。
「どこ行くの」
涼子が追いかけてきた。わたしや涼子を交えたクラスの女子で、式後に卒業祝いも兼ねてお昼ご飯を食べにゆく話が出ていた。せっかく服装をぴかぴかに整えているというのに、名物の黒焼きそばで歯を真っ黒にするつもりらしい。
「ちょっとね。野暮用」
「楽器ケースなんか持って?」
「大丈夫。すぐ戻るから」
涼子は訝しげにわたしを眺めたけれど、すぐに教室の中から「原田ー」と呼ばれて顔をひっこめた。教室の中ではアルバムのコメント書き合い大会の真っ最中だ。涼子くらいしか友達のいなかったわたしには居場所がない。だからわたしはわたしで、わたしの居場所を目指すだけ。
音楽室は無人だった。吹奏楽部は大抵、卒業式の会場の片付け要員として式後もこき使われる。わたし自身も二年連続で撤去作業を手伝わされた経験があるので、彼らが当分ここへ戻ってこないことは知っていた。安心して楽器ケースを床に置き、綺麗になったフルートを組み立てて、窓辺に立った。
遠くまで広がる街並みが、艶やかな金色の光に縁取られている。駅前の高層団地、市内を横切る川、清掃工場、畑、家々の屋根。視線を下げれば校庭ではいくつもの部活が別れの集まりを開いていて、中には野球部の姿も見当たった。わたしは野球部のユニフォーム集団から目をそらした。塁の姿を探すことは造作もないし、いまさら探したところで傷つくのはわたし一人だと思った。
わたし一人が傷つくだけで終わらせない。
最後に精一杯、あの人の背中を押して、見知らぬ世界へ突き放してやる。
窓辺に置いた譜面台には一枚の楽譜を載せた。〈OVER AGAIN〉というポップソングの譜面だ。女性歌手ユニットのBrackHole Monsterが六年前に発売した曲で、くじけたっていい、もういちど頑張ろうと背中を押すような歌詞や明るい曲調が人気を呼び、今もなお若者を中心に大ヒット中だ。当時わたしは中学一年生で、この曲を野球部の応援で吹き、あまりの自分の出来の悪さに失望して落ち込んだことがある。あのとき「もういちど頑張ろう」といって励ましてくれた人がいたことも、不器用な言葉選びも、下手な手つきも、半端な優しさも、この身体と心がすべてを覚えている。
腹に溜めた息吹をわたしは口元に込めた。
フルートが啼いた。つんと空気を裂く高貴な音色が、開け放った窓から世界中に散ってゆく。ころころと転がって足元で花開くアップテンポのメロディに、凍ったままの胸が静かに踊り始める。歌うように、跳ねるように、あの頃のわたしには使えなかった技法を自在に織り交ぜて、二度と吹くことのない曲を吹き奏でた。
誰かの視線がわたしを貫いた気がした。
わたしは構わず、譜面に目を落とした。
くじけたって立ち上がれば、わたしはまた歩き出せる。長年の夢を失って絶望に暮れたなら、次の夢を探して歩けばいい。塁がそうやって次の夢に出会い、わたしのもとを離れたように、わたしも憧れを求めて次の世界へ羽ばたくのだ。
吹き上がった春風はつむじを巻いてト音記号になり、五線譜の第二線にぴったり収まって、新たな音楽を描き始める。
視野の隅に校庭の景色がにじんだ。見慣れたユニフォームの集団の中に、卒業生らしきブレザーの制服姿がいくつも混じって見えた。女の子の付き添いも無視して、わたしのいる音楽室を見上げている人がいる。彼が頬を拭ったような動きを見せたことにわたしはひどく満足を覚えて、冒涜的な自分を嗤いながらフルートの音圧を上げた。
顔を見ていないから確かなことは言えない。けれどもきっとあれは、わたしの手を借りずとも大学に受かり、治った自分自身の右手で未来を切り開いた、わたしの大事な人。わたしを褒めてくれた、必要としてくれた、大好きだった人。本当は誠実で、自意識過剰で、わたしを道具扱いすることに耐えられなくなって離れていった、優しかった人。
さよなら、塁。
もうハンカチを差し出すことも、抱き合うこともないけれど、わたしはいつまでも塁の活躍を応援してる。塁の成功を確信してる。そして永遠に、わたしを忘れさせないから。
目元を這い出した一筋の涙を、わたしは笑って誤魔化した。ほのかに甘い匂いのする涙はたちまち砕けて、蒸発して、ふたたび息吹と音楽を取り戻した世界のどこかへ馴染んで消えた。
お読みくださった貴方の心にも、
悲しい初恋を散らせた彼女のように、
どうか、その息吹で優しく愛を伝えたいと
願う相手がありますように。
2021.4.10
中谷鈴羽(蒼原悠)