発注はもうないからね
しかし、僕の憂いなどなんのその、有名な絵画のビーナスのような風貌をした年齢不詳の美女でもある女王様は、慈愛の微笑を顔に貼り付けて楊の姿を目線で追い回していた。
楊しか目に入っていないだろうって程に。
「甘いねぇ。甘すぎ。葉子はちびのおばあちゃんに完全になったね。」
「おばあちゃんて何よ。でもね、玄人のお陰で夫の骨が手に入ったのだから、しばらくは玄人様々なのよ。」
楊の肩を気安く叩いて葉子はふふっと機嫌よく笑い、最近栗色に染めた豊かな髪までも輝き弾んで、彼女の美貌を一層引き立てていた。
「本当にDNA鑑定されたそうですね。」
居間のソファで寛いで、自分の家のように好き勝手にやっている破戒僧の声はかなりの上機嫌だ。
良純和尚が僕を連れて松野邸を訪問したのは、松野邸の昼食と僕の祖母目当てだったが、既に祖母は青森に帰郷しており、しかしながら彼に贈り物を残していったのである。
それは、僕の育児手当だ。
金額は知らないが、彼のあの上機嫌ぶりを見ればかなりのものだったのだろう。
祖母は武本物産そのものより金持ちで、彼は誰よりも金に汚い生臭坊主でもあるのだ。
葉子は良純和尚の言葉に悪魔のような微笑を見せた。
もう、口が裂けたんじゃないかというくらい口角をあげて、ニカーと気味が悪い位の笑顔になったのだ。
「完全に、間違う事なく、雅敏の骨と鑑定されたわ。不思議な事に表面に他人の骨が全然付いていなかったそうよ。本当に雅敏だけが私の為に私の所に来てくれたのね。」
楊と良純和尚が視線を合わせ、そして仲良く肩を竦めていた。
共同墓地の骨の中から葉子の夫の雅敏の骨を取り出すのに僕が葉子に協力したのであるが、それが少し彼等には理解できない方法だったからなのだろう。
「骨をね、ようやく雅敏を手に入れたら、気持ちが落ち着いたのよ。異性の友人知人が出来る度に新しい男だとか騒がれるから煩くてね、それで髪を染めずに放っておいていたのだけれど、そんな周囲の騒がしさも流せるような心持ちになって。不思議ね。」
「ずっとボッティチェリのビーナスみたいだって思っていましたから、その髪色は凄くお似合いですよ。」
「玄人はいい子ね。」
葉子は美しく僕に笑いかけ、僕はそこで気がついた。葉子にストーカーのように纏わりついていた雅敏の霊がいない。
いつも彼女と挙げた結婚式の時のモーニング姿で、執事よろしく彼女の脇に控えていた幽霊だ。
ストーカーの女王様に纏わりつくストーカーの幽霊など、ぞっとしないだろう。
ぱしん、と再び頭を叩かれた。
「痛いです。」
「猫みたいに余所見されると怖いじゃん。」
猫を拾うが猫に愛されない楊である。
葉子が最近飼い始めた茶色いエキゾチックショートヘアは、我が家のように葉子宅を使う楊に一切懐かないどころか、彼の姿を見ると逃げ去って、広い屋敷のどこかに隠れてしまうのだそうだ。
僕を軽く叩いた楊の手の甲には、親交を試みて失敗したみみずばれが一本走っていた。
「また無理矢理にミーちゃんを抱き上げようとしたんですか?だからかわちゃんを見ると彼女が逃げるんですよ。」
「ほんとうに。逃げたら逃げたで、みーちゃんみーちゃんって探して追いかけるなんて、小さな子供よね。」
「う、うるさいよ、葉子まで。でさ、話は戻すけど、道は移動できたのか?」
「道は移動どころか消えました。それよりも、ごめんなさい。あの土砂崩れでたぶん遺体が沢山出るはずです。でも、道が壊れたから、これ以上の殺人は起こらないはずだから。」
「え?」
驚く楊の胸元で、急にスマートフォンの呼び出しが鳴り出した。
鳴り響いている。
土地そのものが発注した儀式は沢山の人を貯水池に沈めた。
けれども、誰も最終目的地点に遺体を持ってくる後半部分をしなかったのだ。
当たり前だが、第二の発注が起こる。
たぶん、そこには貯水池に沈められた遺体数と同数となるべく殺された遺体が出てきたはずだ。
…… おそらく、五体ほど。