俺がいる
玄人は俺よりも帰宅が遅かった。
呉羽という警護の人間と帰ってきたが、その巡査部長は妙に武本に親切に接している。
まるで弟を見る兄のような目線だ。
いや、それ以上の愛情も敬意も含んでいる。
「さっさと入れ。明日も早いだろ。それでは引き取りますので、本日もありがとうございました。」
呉羽は玄人と名残惜しそうだが、俺の慇懃で威圧的な態度の挨拶を受けてそのまま帰った。
楊だったら「ちびがまた男をたらしこんだ。」と言うところだ。
「ちびのたらしパワーは凄いよ。」
「いいじゃない。かわさん。仕事に差し支えてなければ。」
周吉も帰り、玄人が早川宅に護衛と去った後に楊がぼやき始め、すると俺には何のことやらな会話を二人は始めたのである。
「差し支えあるって。葉山がさぁ、佐藤ちゃんをお断りしちゃったの。あんな素敵な子をね。佐藤ちゃんがガッカリしていて大変よ。」
「くだらないなぁ。署内は同僚との恋愛禁止じゃないのか?どんなに可愛くても葉山にも好みがあるんだろうしさ。」
俺の言葉に髙がガックリとして溜息を大きく吐き、楊が忌々しそうに返答した。
「……ちびが好きなんだってさ。」
「あれは冗談じゃなかったのか?あいつは、だってさ、ノーマルだろ?」
「本人はそう言っている。でも好きだからこれは本気なんだって、山口とケンカ。山口が葉山の所を出たから、俺が葉山の所に行ってる。葉山に文鳥の世話をさせてやる。」
当の玄人は居間でアンズをケージから出してあやしていた。
アンズちゃんが心配だ、と、居間と玄関を何度も往復する彼に俺がうんざりして、とうとう居間にアンズケージの持ち込みを許してしまったのだ。
玄人の傍に胡坐をかいて彼を観察していると、どこから見ても高校生くらいの美少女にしか見えない彼は、寂しそうな憂いを含んだ表情で不気味なモルモットを心あらずに撫でていた。
その頼りなげな風情に無意識に撫でてやろうと俺の右手は伸び、俺はその伸びた自分の腕に呆れ返すしかなかった。よって、自分の行動を誤魔化すために、伸ばした腕でそのまま床に散らばっている牧草を摘んだ。
モルモットが来てから、違うか、玄人が居間の主になってから部屋が汚い。
「お前さぁ。ホルモン剤入れたら男臭くなれるんじゃねぇ。」
やりきれなさに、俺は楊が乗り移ったような言葉遣いになっていた。
「嫌ですよ。僕はこのままでいいです。僕は母とそっくりだったのです。」
「お前、思い出したのか?」
「良純さんこそ、知っていて黙っていたのですか?」
「いや、俺は今日お前の祖父に聞いて知った。記憶喪失のお前を傷つけたくないからと、武本家と話を合わせていたそうだ。だから、お前に余計な事を言わないでくれってね。」
玄人は無言になり、優しく鼠をケージに戻した。
そう、モルモットは鼠なのだ。
正しくはテンジクネズミ。
新大陸に仏教が伝わらなかったのは、インドからのありがたい経典をみんな食べてしまった食いしん坊の鼠がいたから。
それで彼らの名前は天竺鼠、だ。
そんな冗談を聞いた事がある。
玄人は俺に向き直ると、決意を見せた顔つきで告白した。
「良純さん。僕が長生きできないのは、僕が母の実家の神様に食べられるからでした。」
「それなら、二度と新潟に行くな。」
「行かなければいけません。僕は受け入れて変容しなければ。」
玄人は情けなさそうに微笑んだ。
「それでどうする?」
「窮鼠猫を咬むです。僕はオコジョらしいので、オコジョらしく最後まで戦います。」
ふふ、と笑いが出た。
「お前は戦えないよ。お前は楊と同じだ。あいつが警備部にいられなくなったのは、奴が誰も制圧できないからなんだよ。痛いって叫ばれると手を離してしまう。それで警備部の連中にからかわれて、刑事部に移動願いを出しての今だ。」
玄人は凄く納得しているようだった。
あいつは弱いのではなくて優し過ぎるのだ。
優し過ぎて、とことんまで他人を受け入れて潰れてしまう馬鹿なのだ。
「僕は長年培われた卑怯者ですからなんとかなります。」
だが俺の馬鹿は決意を見せて宣言をするではないか。
「まぁ、いいさ。お前が雷の中に立つというなら、俺は一緒に立ってやるよ。神様を調伏できるなんて楽しそうだ。」
玄人は俺を見上げて嬉しそうにふふっと微笑んだ。
「僕は良純さんがいる限りこの世界に留まっていられる気がします。」
「お前には沢山いるだろ。パパ孝継を筆頭に、お前を愛している奴らがよ。」
俺は玄人が鬱にならない限り知り合うこともなかった部外者で、玄人の世界には入れない余所者でしかなく、彼が元気になるまでの仮の宿でしかない。
「でも、僕は良純さんがいないと駄目です。ずっとここに居たいです。僕はもう、実家、いいえ、あの人達の居る場所には帰りたくない。僕は良純さんの家に居たい。」
俺は俺を必死な目で見つめて縋る玄人が哀れで、いたいけで、両腕で彼を自分の胸元に引き寄せていた。
「どうしたんだ。いいよ。ずっといればいい。俺はお前をあの家に返す気がもともと無いから、それは全く構わない。寿命を喰らうヘビ神様が怖いならば、俺がお前の盾になってやる。新潟にだって返さないから大丈夫だ。」
腕の中の玄人はゆっくりと顔をあげた。
「ヘビ神様よりも、僕は、それよりも僕は相談したいことが。」
神様に喰われる自分の寿命を「それより」と言い放つ玄人は、それより重大だと彼が思うことを語り始めた。
時々、殺意と怒りをにじませて。
「お前はどうしたい?どうするか、どうするべきかなんて常識を取っ払って、お前がどうしたいのかだけを言え。」
「――僕は何もしたくないです。」
「だったらそれで行け。お前はもう何も考えるな。俺が全部やるから心配するな。」
俺の言葉に玄人は涙を流し始め、ありがとうございますと、頭を深々と下げた。




