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武本のお使いだから気にしないでいいのよ

 僕が部屋の中に一歩踏み出す度に、僕の足元から部屋は昔の姿を取り戻して行く。1LDKを無理矢理に二部屋に作ったと言った方が正しい、リビングルームもない振り分け式の2DKの小さな空間。部屋はフローリングどころか、台所までも灰色の全面カーペット貼りであり、昭和の香りを漂わせる。壁紙だって勿論、どこにでもある一番安いアイボリー一色だ。


 台所と連なる奥の僕の部屋には、僕が書いた母の絵も飾ってある。僕が爪楊枝で作った怪獣。僕が小学校で工作した帆船。

 本棚には本のほかに僕が拾ってきた特別な石が並んでいる。部屋の奥の鳥籠には文鳥のシロがいた。あの子は、あの頃の様に、僕の帰宅を知って籠にしがみ付いてケンケンと鳴いて僕を呼んでいるではないか。


「シロ。」


 近付くと籠もシロもふっと消えた。そして僕の部屋だった場所はがらんどうだ。


「僕の荷物が消えたら空っぽ?ママの持ち物はどこ?」


 そうだ。母は父の部屋に着替えを置いているだけで、彼女の物はどこにも無いのだ。

 僕の物ばかり大事にする、僕だけが生きがいになってしまった、可哀相なママ。


「ただいま。ママ。」


 六畳も無い狭いダイニングにコタツテーブルを置いて、僕達はそれをちゃぶ台にして夏も冬もそこでご飯を食べた。僕達はいつも二人きりだった。


「パパは今日も帰って来ないんだね。」


 母の向いに座りながらいつもの言葉を言う。

 母は悲しそうに笑う。「仕事だから。」と。

 でもね、僕は知っているよ。彼は休みの日も閉め切った自分の部屋から出てこない。僕達に与えられた空間は台所とそれに繋がる僕の部屋という本当はリビングの部分だけだ。隣の父の自室に僕は入ってはいけない。決して。


「僕達もパパはいらないから、一緒に新潟のおじいちゃん家に行こう。ママ、僕達は実家に帰ろうか。」


 僕は武本を棄てるよ。ママのために何だって棄てる。

 ママは僕の言葉に喜ぶどころか、僕に悲しそうな微笑を返すだけだった。


「一緒に帰れないのよ。あなたは白波の子じゃないから。武本から離れては駄目なの。」


「僕は白波の子だよ。ヘビ神様も見える。」


「あなたはオコジョでしょう。」


 母は思わず言ってしまった言葉に、自分で吃驚しているというような顔をして押し黙った。僕はその時の母の顔を思い出し、母が離婚を決意できなかったのはやはり僕のせいだったと認めるしかなかった。母は僕の為に新潟へ帰らなかったのだ。僕を連れて帰ると僕がヘビ神様に食べられるから。


「絶対に神社は一人で行っちゃ駄目よ。おじいちゃんと一緒じゃなきゃ。ヘビ神様は恐ろしい神様なのよ。」


 母は僕を抱きしめる。鼓動はとてもゆっくりで、僕のとても早い鼓動と全然違う。

 僕はその時に気付いたのだ。

 僕はお母さんより長く生きられない。僕はヘビじゃなくてオコジョだから。


「ごめんなさい。お母さん。僕が、僕のせいで、あなたは長生きできなかった。」


 世界は現実に戻り、僕は煤まみれで黒く燻された廃墟の一室にしゃがんでいた。

 足元がザワザワして、見ると、蜘蛛達が僕を慰めようとしてか擦り寄ってきていた。


「君達はどうして人間を怨みもせずに、そんなに僕に優しいの?」


 その時、部屋を小さな白い光が舞い、それは僕の頭にちょこんと乗った。

 僕が祖父から貰い、雛から育てて可愛がっていた白文鳥のシロだ。


「ごめんね。君をずっと忘れていて。」


 すると頭の上のシロはころっと僕の頭から転がり、床の蜘蛛達の中にぽとりと落ちた。


「シロ!」


 僕は両手を蜘蛛達の中に思わず突っ込んで、一匹を捕まえてしまった。アンズを抱き上げる時のように自然にだ。シロの姿は消えてしまったが、代わりに捕まえられた蜘蛛は逃げずに僕の手の中で安心しきったようにじっとしている。アンズみたいに。僕はアンズにしてあげるように抱きしめて撫でてやった。


「あれ?」


 ぱっと蜘蛛が消えてしまったのだ。

 手の中に蜘蛛の存在を感じながらも、僕はその姿を認識できないのである。


「武本のお使いだから気にしないでいいのよ。」


 僕は左手を目元に当て、母がしたのとは逆に下から上に両目にかざした手を動かした。

 僕は白いオコジョを抱いていた。

 部屋を見回すと黒く燻された部屋の中に数匹の白いオコジョが僕を守るように控えていた。誘拐されて殺されかけた僕を、蜘蛛を使って助けたのはこの子達だったのか。


「ごめんね。いつも傍にいたのに。」


 僕の言葉にオコジョ達は一斉に蜘蛛を掻き分け僕に縋り付き、僕は傍に来た子達を泣きながら抱きしめて撫でてやる。膝にいた子はぴょんと僕の頭に乗り、他の子たちと遊び始めた。すると、わさわさと蜘蛛までも僕の足を伝って次から次へと登って来て、僕に撫でられる度にその姿を白いオコジョへと変化させていくではないか。


「僕のノイズの世界は、墓場なんかじゃなく、君達の育児室だったんだね。」


 良純和尚に祓われなかったのは、彼らが穢れではなく修行途中の魂だからだ。

 呪いだけの彼らは僕の世界で僕を助けながら再び人に縋れるようになり、浄化かあるいは神獣へと昇華するのか。


「まるで僕と良純さんだ。」


 そしてオコジョとなった者達は僕を慰め、僕を慰めるために一つの記憶を運んできた。

 なんていうことだろう。


「武本君。そろそろ帰りませんか?あの、あなたは大丈夫ですか?」


「すいませんでした。大丈夫です。」

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