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ただいま

 警護の人は二人いて、交互に僕に付いてくれるが、今日の人も呉羽大吾だった。

 もう一人と違い、呉羽は自分の厳つい顔を気にして大学構内では僕と一定以上の距離を保つ人でもある。


 そして、もう一人と違い呉羽の運転する車の中では、僕は座席に転がって寝ていたりスマートフォンでゲームをしていたりと、だらけることが出来るのが不思議だとも思っている。

 それなのに、大学で隣にいてと呉羽にお願いできないのは、気安くなった人に拒絶されることが怖いのであろうか。


「あの。」


「何でしょう。」


「今日はこのまま世田谷に向かっていただけませんか。実家に帰りたいのです。」


「かしこまりました。」

「かしこまらないでください。」


 呉羽が吹き出している事に嬉しさを感じながら、僕は良純和尚にスケジュール変更のメールを送った。


「呉羽さんと世田谷に戻るので迎えは大丈夫です。」


 何かあったらメールは、僕が立松という男に誘拐されて殺されかけてから、良純和尚に徹底させられている事の一つである。

 しかしながら、メールを打つ相手がいて、その相手が僕の帰宅を待っているという事実が、今の僕には命綱のようにも思えた。


「ハハハ、それにしても初めてですね。突然ご実家に帰られるのは。」


「あれは実家じゃないです。僕が記憶喪失になる前に住んでいたのは賃貸の古いマンションで。そちらに行っていただけますか?僕は死んだ母の思い出に逢いたいのです。」


 キキーと耳障りな音を出しながら車が急停止して、運転していた呉羽が僕に振り返った。


「え?世田谷のマンションにいるお母さんは?え?」


「父の再婚相手です。白波の娘は亡くなった母の方なのです。今の母は本当の母ではありません。」


 僕の言葉に呉羽は顔を曇らして、「すまない。」と僕に謝った。

 彼が謝る事などないのに、なんていい人なんだろう。


「それで、その昔住んでいた所の住所を教えてくれますか?」


 彼は車を再発進させた。

 行き先は僕の最初の地。全ての始まりの地、だ。


 父が母との結婚で武本に出した要求は、「夢を追う」だった。

 父は武本物産に入らずに学者になる道を選んだので、結婚していても父は学生で研究者であるから母は貧乏暮らしに耐えなければならなかった。

 たぶん白波の援助もあっただろうが、武本からの援助は父のところで止まっていたはずだ。

 母は僕が幼稚園に行っている間にパートに出かけていたのである。

 母と少しでもいたい僕は、延長保育が嫌だと何度も泣いた。


「こういう暮らしも面白くていいものよ。」


 母の言う違う暮らしは当時の僕には知らなかったし、外で会う祖母達が母と僕を連れ出して夢のような人達に逢わせてくれたが、僕に現実感はなかった。

 僕自身は今も昔も貧乏人なのだ。


「えぇっと、本当にここが君の本当の家ですか?」


 目の前にある建物は、一戸建てのひしめく住宅街に無理矢理建てられたような狭小で、四階建てなのにエレベーターも無い年代物の安っぽいハイツであった。

 安っぽいだけでない。

 真っ黒く焦げ付いて、立ち入り禁止の張り紙もそこかしこに貼られているという、ただの廃墟である。

 まるで今の僕自身のような、空っぽで燃え尽きた使い物にならない建物。


「はい。父が自分のお給料で家族を養うにはここが精一杯だったのです。好きな人と別れさせられて、無理矢理母と結婚させられた父の実家への要求が、「家を出る」だったそうです。小さい時に祖母と父の口げんかを盗み聞きしたことによりますとね。」


 呉羽はハハハっと笑い、そして肩を竦めてボソッと気安そうに言った。


「親がお金持ちっていうのも大変なんですね。」


「母さんは自分と別れたいからだって、僕が六年生になったばかりの頃は父と別れようとしていました。僕への虐めも酷いから新潟に帰るのも丁度いいって。でも、僕のせいで踏ん切りがつかなかったのでしょうね。僕は武本の跡取りでいなければいけないから。」


「入ったら危ないですよ。」


 背中に心配そうな呉羽の声を受けながら、僕は三年前に放火された無人の廃墟の中に踏み出した。僕の家は四階だった。見晴らしは一番良いけれど、エレベーターがないから一番安い部屋。真っ黒く煤けた階段を登り詰めると、やはり煤けた真っ黒の外廊下。


 僕は煤けて真っ暗な真っ直ぐの道をただ歩く。

 これは僕のための黒い道だ。

 黒い道の突き当りには僕の家だった部屋があり、部屋のドアは開いていた。


「僕をずっと待っていたんだね。お母さん。」

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