僕もどこかでわかっていた
「ごめん。気にしないで。反抗期ってあるでしょう。それにウチの親戚は血さえ繋がっていれば皆自分の子供で、子供達は上の人達が皆自分の親や祖父母って感覚だから。」
「ううん。そうじゃなくて。クロ君のママとクロ君てすっごく仲が良くて、いつも一緒だったでしょう。仲が悪い姿が想像できなくて。顔がそっくりな二人が並ぶと物凄く綺麗で、私はいつも溜息が出るほどだった。」
ガチャン。
二人とも僕を見ている。手元を見る。あぁ、今度は零したのは僕だ。慌てて先ほどの布巾で粗相を拭うが、卓上では重苦しい沈黙が落ちていた。
「えっと、どうしたの?」
尋ねながら右手の指先で自分の頬を触った。
不思議そうに萌が僕の顔を伺うから何か付いていると思ったのだ。
指は濡れた。
僕は涙を流している。
僕は泣いているのか?
「あたしが言った事で何か辛くさせることがあったの?」
萌は眉を顰めた顔つきでティッシュを僕に手渡した。
「いや、辛いことなんて。でも、僕の顔にそっくり?きれい?」
「そっくりよ。肩先までの真っ直ぐなサラサラの髪をして、ものすっごい美人じゃないの。逆に自分の顔に似ているとそんな風に思わないのかな。」
僕はティッシュで顔を拭きながら、どうして僕は両親に見えないものが見えることを話す事をこんなに怯えているのか、という事にも気がついた。
「どうして隠していたのだろう。」
「どうしたの?」
「僕は見えないものが見えるんだ。」
そうだ。見えないものがあることを認められたら、僕はその世界に行くって怯えていただけだ。
親に隠すのは当たり前だ。
「知っている。時々変な事を言うものね。白い小さな生き物が僕を見ているって言った時は、クロ君のお母さんが、あれは武本のお使いだから気にしなくていいのよって。」
萌の言葉に白い動物のぼやけた姿が浮かんだ。
良く見えないがあれは武本の使い?
そして、見ている僕の目を塞いだ柔らかい白い手。
僕からその生き物の姿を消した、体温が低くて冷たい綺麗な手。
あぁ、お母さんだ。
夕闇の前の暗いけれど暗くなり切っていないひと刻。
太陽の赤が残って、そのあたりだけうっすらと淡い青となっている夕方の空。
「夕方の六時を、どうして逢魔が刻って言うの?」
「どうしてそんな言葉を知っているの?」
僕の手を繋ぐ母は軽く笑いながら僕に聞き返す。
「萌ちゃんの持っていた本に書いてあった。妖怪とか化け物を倒す漫画でね。萌ちゃんは秀君と僕が怖いゲームすると泣いて嫌がるのに、萌ちゃんの好きな本は怖いのばっかりだよ。」
母は軽やかな笑い声をさらに響かせる。
そんなに背が高い人じゃないけど、声は高すぎず煩くなく涼しい。
咲ばあちゃんは「鈴を転がすような声」と言っていたなぁ、と僕は思い出した。
細くて色白で、黒い髪は肩くらいに伸ばしてサラサラしている。
「ママの手は冷たいよね。」
「これが白波の体質なのよ。」
彼女は僕の方を見下ろした。
それは、咲子おばあちゃんによく似た、今の僕と同じ顔。
僕の目の真には大きな大人の男の人の手があった。
大好きな孝継伯父さんが指差す方向には、青い水槽の外側から僕に向かってカメラを向けている人がいる。
その人は僕が彼女に気が付いた事を知ると、ガラス越しに僕に最高の笑顔を見せた。
あぁ、お母さんだ。
僕が死者の世界を認めたくなかったのは、僕が自分が別人だと思い込みたかったのは、母が既に死んでいる事を僕は気がつきたくなかったからだった。
僕が殺された日に彼女が消えた事を、僕が知りたくなかったからだった。
「僕は今すぐ帰らないといけないです。」
僕の言葉に萌は何か言いたそうだったが、「仕方ないね。」と微笑んでくれた。
「ありがとう。僕は世田谷の自宅に今すぐにでも帰らないといけないみたいだ。だって、お母さんが僕を待っている。」




