やばい
ねっとりとした泥の大地に転がされた宮辺を楊は助けようと動いたが、楊の腕は髙に捕まれ、髙が嬉しそうに首を振っている。
「いいの?」
「いいんじゃない?」
転がって泥まみれになった宮辺が楊を訴える顔で睨んできたので、楊は手のジェスチャーだけでそっと彼を呼び寄せた。
宮辺は中肉中背のどこにでもいる外見の男でもあるが、中身がどこにでもいない男である。
学歴と能力からもっと良い場所に就職できる筈の男でありながら、彼はアメリカドラマに触発されたと鑑識に入ったのである。
縄の残骸から藻を検出したのも彼であり、その事で三人の死因を確定できたのは彼の手柄だ。
しかし彼はそんな事はどうでも良いらしく、発見した藻がただの藻でなく「藍藻」の、それも「すいぜんじのり」に近い種だと検査室で培養を始めてしまったのである。
警察の備品と経費を使っての趣味でしかない作業を知るにつけて、楊は毎度の事ながら、なぜ管理者の道に進む昇進試験を周囲に乗せられるがままに受け続けたのだろうかと、自分を軽く責めた。
重く責めたら、試験勉強に幾晩も費やした自分が可哀想だ。
そんな楊に呼ばれて宮辺はのそのそと楊の方へと歩いてきたが、宮辺の後ろでは今泉と古賀の舌戦が繰り広げられていた。
「あなたこそ言われた仕事だけをしてください。これが現代の骨でないと鑑定されたのであれば、ぜーんぶ差し上げますから。さっさと鑑定だけしてくださいよ。余計な発掘作業はいりません。」
「何を言っているの!この状態を保全することこそが未来への遺産でしょう。この独特の方法で積み重なった骨を乱雑に掘り起こすなんてもったいない。」
「もったいないって、殺された被害者の人権はどうなるのですか!きっとこの塚の遺骨の人達だって、歴史的資料になるよりも一日も早く墓に入りたいって思っているはずです。」
「そういうエセヒューマニズムが学術の発展を阻害しているってお分かりにならないの!この地方の、この一箇所だけで別の文化があった証拠ではないですか!」
「かわさん。どうするのですか?あれじゃ仕事が出来ませんよ。まぁ、今までもあの古賀先生に仕事の邪魔ばかりされていましたけれどね。」
「でもさぁ、五人の遺体分の作業は終わっているんだよね。」
「古賀先生を呼ぶ前ですからね。もう、どうしてよりによって彼女を呼ぶかなぁ。大ちゃんも、古賀先生はカチカチで面倒な人だって言っていたじゃないですか。」
宮辺の情けない声の訴えに楊が答える前に、楊の隣の髙がくくくと嬉しそうに喉を震わせて笑い出した。
「髙?」
「髙さん?」
髙は楊達に何も答えずに、諍いをしている今泉の所へとすっと歩いていってしまった。
「かわさん。髙さん、やばくない?」
「やばいけど、そのやばい使うの止めて。ちびにそんな変な言葉使いを教えないでよ。」
「えぇ、クロちゃん、俺の真似してるの?可愛い。やばい。やっばーい。」
勉強を教えてあげるどころか、二年間引き篭もりだった早川の方が数学が出来ると落ち込む武本に、楊は渋々と宮辺を紹介したのである。
渋々なのは、三十三歳の優秀な鑑識主任の宮辺がアニメフィギュアをこよなく愛するだけでなく、男の娘系のアダルトゲームも大好きで、武本に近づけるにはとても危険な男でもあるからだ。
「あのさぁ、一応山口に君のちびへの個人指導の話は伝えてあるから。ちびに変なことをしたら大変だよ。わかっている?あいつは正しい使い方のヤバイで本当にやばいよ。好き勝手に動きたいからって、昇進試験を絶対に受けない人間兵器なんだからね。」
「大丈夫ですって。あの可愛いクロちゃんを、俺は絶対に手放しませんから。」
楊が鑑識主任をこの現場に埋めてしまいたい気持ちになったところで、相棒の声で気がそがれてしまった。
髙はほろ酔いかと勘違いするほどの、機嫌の良い声を大げさに上げたのだ。