平和の中の不安の種
俺を陥落させたいらしい真砂子は、俺でも齧り付きたくなるような、かなり色気のある美人でもある。それが策士でもあるとは、最凶じゃないか。
「鍵を受け取ったのだから、必ず遊びに来るんだよ。」
策士の姉と違い純朴な葉山がにこやかに玄人を誘うと、玄人は嬉しそうにウンウンと頭を上下に振って頷いた。
皆が幼い子ども扱いをしているが、百六十センチの身長にガリガリの体と童顔のために玄人が十代の少年にしか見えないとしても、六月には二十一歳になる成人だと忘れていないか?
まぁ、その外見に見合った馬鹿だから仕方が無いか。
年を聞いた奴の方が驚くだろう。
彼は本当に馬鹿なのだ。
モルモット妖怪に押し付けられたモルモットに名前をつけてしまい、我が家で飼うハメにさせた馬鹿だ。
そんな馬鹿が無駄に毛深い睫毛に縁取られた黒目がちの大きな瞳を輝かせたところを見て、俺はとてつもない嫌な予感に見舞われた。
「そうだ。僕ね、子供が出来たのですよ。アンズちゃんです。」
彼はそう言うとソファから立ち上がり、彼としては凄く速い動きで部屋の隅に置かせてもらっているペットキャリーへと駆けて行った。
そして、アンズをキャリーから取り出して抱き上げると、ニコニコして山口や葉山に見せびらかし始めたのだ。
何て、馬鹿、と俺は情けなさに目を瞑り、楊宅に向かう前の事を思い出してしまっていた。
通り雨が我が家の屋根に音を立てて降り注ぐ中、いつものように雨音に脅えることもなく、玄人が楊宅に向かう準備だと、いそいそとペットキャリーに鼠を入れていたのである。
ペットキャリーの傍らには大食いのモルモットが腹を空かせないようにと、野菜スティックを入れた小型タッパーまで用意していた。
自分の飯一つよそらない男が、である。
「連れて行く必要ないだろ。」
「この子は寂しがり屋なんです。ただでさえ日中一緒に居ないのだから、お休みの今日は家族サービスをしてあげないとです。」
そう言って玄人は鼠入りのペットキャリーを持って玄関に行くと、雨に脅えることもなく普通に傘を開いて玄関を出て、スタスタと駐車場の方へと歩いて行ってしまったのだ。
驚いたのは俺だ。
俺は慌てて彼の後を追いかけて、彼が気づく前に何事もないように楊宅に向けて車を発進した。
育児手当付のコイツは手放したくはない。
そして、冗談だけではなく、切実に武本家に彼を帰したくないのだ。
彼の祖母咲子は彼の両親による彼への仕打ちを理解したが、理解したからこそ彼女は最愛の孫と住みたがり、都内に玄人と住める高級マンションを物色中なのである。
俺は鬱になった彼を武本家から預かっているだけで、彼の鬱が軽減すれば武本家へ返さなければならない所を、さまざまに理由をつけて我が家に囲っているだけなのだ。
「記憶喪失の玄人の記憶は無理に戻してはいけない。」
これは玄人の祖父武本蔵人の遺言にして、武本家の絶対の決まりごとだ。
意味が判らないが、十二歳の時に殺されかけて以来玄人が記憶喪失であり、彼の記憶を無理に思い出させては彼が死ぬのだそうだ。
そこまで言われれば俺は従うしかないが、彼が実母だと思っている母親が継母であり、彼女が玄人自身の財産を食い潰した今や命までも奪おうと狙っているのが確実であるのに、その縛りで俺が彼にその真実を伝えることが出来ない。
さらに、玄人に知らせないようにして隼夫婦の離婚話が進められているとのことだ。
俺は咲子からその話を聞かされた時には、詩織が捨て身で玄人を殺しに来る可能性をすぐに思いついてしまった。
鬱を診断されたことのある彼では、状況によっては自殺だと言い抜けられる可能性だってあるのだと考えれば、彼を詩織には絶対に近づけられないだろう。