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8 a Zombie  作者: 夜嶋朝人
6/6

―Last Session―

―Last Session―


 ベッドに身を投げ出すと沈んだ気持ちで加重された体がシーツに埋没した。

(……八方塞だ)

 残照に赤く燃える天井にため息がぶつかりはじける。憂鬱な気分に比例してため息に比重が与えられるならとっくに天井に穴が空いているだろう。

(八方塞だ……)

 考えなければならないことは山積みだ。それなのに同じ言葉がグルグルと回る。

 薬の影響か、ここ最近ずっとこんな調子だ。一寸先も見通せぬ濃霧に道を見失った旅人のように己の思考が纏まらない。

 額に手を当てる。熱などあるはずがない。そもそも発熱していたとしても鈍い触覚では感知しようがない。

(まだ、大丈夫か)

 己の行為が虚しいと判別できる内は正気だ。しかし、そう遠くない将来、それすら判断がつかなくなるだろう。

(そうなる前に――)

 思考を断ちきるかのように寝室の扉がノックされた。

「アァ」

 訪問者なら予想がついているので姿勢を変えずに応じる。案の定、デイブが姿を見せた。

「お休みのところすいません。薬と検温の時間です」

「アァ」

 後で飲むと身振りで伝える。

「いい加減学んだら? 先延ばしにしたって一緒だって」

 デイブに続いて入室したメヌエットが放った体温計が放物線を描き傍に落ちる。俺は冬眠から目覚めた熊のようにノロノロと半身を起こすと体温計を脇に挟んだ。

 きっかり三分後にデイブに体温計を返す。

「華氏五十一度。平熱ですね」

 死後硬直が始まりかけた死体と変わらぬ体温だ。しかし、これでも通常のゾンビよりは高いのだ。体温一つ取ってみても俺の中途半端さがわかろうというものだ。

 ゾンビでもなければ、人間でもない。

 その曖昧さにこそゾンビ化を根治する手掛かりが隠されていると考え、ブラウンは躍起になって原因を究明しようとしている。だが、結果は捗々しくない。最初の頃こそ幾つか目ぼしい発見もあったが、最近は行き詰っている。それでも来る日も来る日も検査は行われ、活用されるのかも怪しいデータが蓄積されていく。その量たるや天井まで届きそうなほどだ。研究者を総動員したとしても解読に数年はかかるだろう。

 デイブが記録をつけている体温もその一環だ。これが活かされる日が来るとは思わない。

 それでも飽くことなく続けられている。

(ご苦労なことだ。無駄なのにな)

 手持無沙汰になると時たま夢想する。検査対象が誤っていると伝えたならブラウンはどんな顔をするかと。

 チラリとデイブを窺う。

(あれから一年か……)

 それだけの年月が経過しているにもかかわらず人のままだ。抗体を持っているか、そもそもはじめからゾンビの肉に人を変える力などないかの二つに一つだ。要は、俺かデイブ、どちらかが異常なのだ。

 ブラウンに明かせば即座に適当な者にゾンビの肉を食わせるだろう。そうすれば否応なくはっきりする。知りたい気持ちがないと言えば嘘になる。だが、いくら頭の働きが鈍くなろうとも、その好奇心が命取りになることぐらい弁えている。

 もしゾンビの肉を食わせるだけでモルモットの大量生産が可能だと知れば、ブラウンは躊躇することなく俺を解剖するだろう。だから人類を救えるかもしれない可能性を胸に秘めたまま何食わぬ顔で日々を過ごしている。

(だけど、何のために?)

 生き永らえたところで希望などない。 

(なのに、なぜしがみ付く?)

 繊細なガラス細工のように丁重に扱われたのは初めの内だけだ。今では遊び飽きた玩具みたいに粗雑に扱われている。検査にしろ、薬にしろ、最近はなんの予告もなく新たなものが追加される。副作用か、飲んだ直後にふらつき像が二重になることもある。それでも俺に拒否権はない。もし拒めば鎖に繋がれ本当に実験動物のように扱われるだろう。常に監視の目が光っているとはいえ、こうして一軒家が与えられているのは、辛うじてまだ俺に利用価値があるからだ。しかし、それも今日の話ではいつまでもつか危うい。

「ギリッ」

 知らず知らず歯噛みする。

「あの、そろそろお薬を……」

 デイブがおずおずと盆を差し出してきた。水の満たされたコップの横には手に取るのを躊躇うほど毒々しい色のカプセルが数錠転がっている。

「今さら薬の効能なんか気にしないわよね?」

 面白がっているメヌエットとは対照的にデイブが目を伏せる。未だに俺に対して同情を寄せているのはこの少年だけだ。

(いや、態度が変わらないとの点ではメヌエットも一緒か)

 首尾一貫して斜に構えている。まるで端から期待していないかのようだ。だが、ヘインズをはじめ大半の者は違う。俺の存在により今日明日にでもゾンビ化の治療薬が開発されるのではないかと期待をかけていた。それだけに、一向に成果が得られないと不満が募っていき、声高に反対の声が上がるようになった。

「無駄ではないのか?」

「研究費が高すぎる」

「ゾンビを飼う余裕などない」

 表現が異なるだけで主張はどれも一緒だ。このまま何の成果も挙げられないようでは、研究者としての資質や、指導者としての責任を問われかねない所まで来ている。現に一部の者がブラウンとヘインズの更迭を目論んでいるともっぱらの噂だ。

 まるで火薬庫だ。ちょっとした刺激でいつ爆発するかわからない。

 ヘインズとブラウンは少しでも導火線を長くしようと色々と画策している。その内の一つが俺の血を利用した傷薬の精製だ。直接的な解決の目途が立たないのであれば、間接的に役立てようというのだ。安直ではあるが、時間稼ぎにはなっている。

 血小板や白血球の数が人に比べ極端に高いことを利用し、瞬時に傷を塞ぐほど強力な傷薬の精製に成功したのだ。その点だけ取り挙げてもブラウンが無能でないことがわかる。しかし、今日の検査の結果、俺の血液中に占める白血球の濃度が急激に下がってきていることが判明した。このままでは製薬に支障をきたすとのことだ。

 その危機に対する答えが盆の上に転がっている極彩色の錠剤だ。

 俺は錠剤を摘まむと水で一気に流し込んだ。

「ゴホッ! ゴホッ!」

 咽るとデイブが慌ててハンカチを差し出す。身振りで断り、代わりにメヌエットに煙草を要求する。

「ダメですよ。ブラウンさんからもきつく言われています。不純物を体に入れるのはよくないと。メヌエットもここでぐらい我慢してよ」

 窓から灰を叩き落しながらメヌエットがケタケタと笑う。

「副流煙ごときでいかれるなら明日の朝日は拝めないわね」

 わざとこちらに向かって紫煙を吐き出すと、咥え煙草のままテーブルに足を投げ出した。粗野な行動だ。しかし、彼女が行うと不思議とそこはかとなく優雅さが漂う。深窓の令嬢があえて悪ぶっているかのようだ。独善的なところも我儘に育てられたお嬢様気質の残滓に思えてくる。

(もしかしたら本当にどこぞの令嬢だったのかもな)

 あながち的外れでもないかもしれない。ウェッジウッドのティーカップから拳銃を手に馴染ませるためどんな苦労を重ねてきたかはなんとなく想像がつく。

「なに? やらないわよ」

 メヌエットの勘違いに苦笑すると、デイブが事務的な調子で割って入ってきた・

「明日は治験を行う予定ですので、今夜は血の補充はありません。問題ありませんか?」

「アアァ」

 薬の影響か、日を追うごとに睡魔の感覚が短くなり、今では週に一回は血を飲まなければ眠り込んでしまう。そのため、定期的に輸血用のパックを啜っている。

(ったく、なんてざまだ)

 こうなってしまっては、例え無事にマチルダ達の元に戻れたとしても前と同じ穏やかな生活は望むべくもない。

 トーマスの姿を目にした時点である程度覚悟はしていた。それでも、当初は襲撃の際の混乱に乗じて逃げ出すつもりだった。しかし、一向にトーマスは裏切る気配がなく、一週間、一月、三ヶ月と徒に月日だけが流れた。そして、息子の死により牙が抜かれ、トーマスに叛意がないのだと納得する頃には半年が経過していた。

(もっと早くトーマスの変化に気付いていれば……)

 切っ掛けなら幾らでもあった。しかし、俺は色眼鏡を外すことができなかった。人当たりの良い笑顔も、積極的に住民の相談に乗る姿も、嫌な顔一つ見せず面倒事に応じる姿勢も、全ては信頼を得るための布石としか思えなかった。

 あの時、真実を自分の腹にだけ収めていれば、今でもエドガーは切り取った世界をスケッチブックに描き込んでいただろう。そうすればここにトーマスの姿はなく、マチルダ達を呼び寄せる機会を逸することもなかった。

(いや、呼び寄せたとしても上手くいったとは限らない。むしろもっと悲惨なことになっていたかもしれない)

 俺に対する扱いでサンダースがブラウンとぶつかるのは火を見るよりも明らかだ。煙たがられるだけならまだしも、下手をすれば人知れず消されてしまう。

(誰も幸せにならなかった。だから、これでいいんだ……)

 何度考えても結論は同じ所に落ち着く。なのに気分は一向に晴れない。一層のこと天井に穴があけばと願いながら一際重いため息を漏らした。


 いつも通りシャツを脱ぐと、診察室の中央に鎮座している拘束具付きの椅子に腰かけた。俺の周りを蜜に群がる蜂のように白衣の助手が忙しなく動き、慣れた手付きで枷を嵌めていく。手首や足首は言うに及ばず、額まで拘束され一切身動きが取れない状態となりはじめてブラウンによる診察が開始される。

「変わりは?」

 胸に聴診器を当てたブラウンが尋ねてくる。まるで心音に答えが隠されているかのような真剣さだ。

「アッ」

「フン、そのようだな」

 苦虫を噛み潰したようにブラウンが頬を歪める。元々愛想のいい方ではなかったがここまでひどくはなかった。まるで母親の子宮に笑顔を忘れてきたかのようだ。

「薬は間違いなく飲んだな?」

 ブラウンの視線が俺を通り超し背後に控えるデイブに注がれる。

「はい」

「フン、それでこれか。まったく呆れる」

ブラウンが忌々しげに俺を睨む。どうやら薬による効果も期待外れだったようだ。

 嫌味混じりの詰問調の問診が終わると診察は助手の手に引きつがれる。ベルトコンベアに載せられた工業製品になった気持ちだ。こちらが一切動かなくとも白衣の男女が手際よく器具を付け替え、薬を投与する。皆一様に疲れた表情だが、それでも手元が狂うことはない。

 血を抜かれ過ぎたのか、それとも薬の増加によるものか、頭にかかる霧が一段と濃くなる。そのため扉の外の騒動に直前まで気付かなかった。

(そうか、今日か)

 昨晩、デイブから治験だと伝えられていたが、すっかり忘れていた。

 現在、二種類の薬の開発が並行して進められている。予防薬と、完治薬だ。予防薬はゾンビに噛まれた際に発症を抑える薬であり、完治薬はゾンビ化を根治する薬だ。

 人の喚き声が混じっているので、どうやら今回は予防薬の治験を行うようだ。

 扉が開き、クリスを先頭に整然と迷彩服の男たちが入室する。

 軍人は行進が骨の髄まで沁み付いているのか、集団で行動する際も足運びが乱れることはない。だから歩調の合わぬ者がいるとやけに目立つ。

 前後を挟まれる形で護送されている生贄の男と視線が合った。

「ひぃぃぃぃぃぃぃ」 

「静かにしろ!」

 被験者の腰に巻きついた縄の先端を握ったクリスの部下が叱責するも、半狂乱となった男の興奮は治まらない。貧相な男に比べクリスの部下は肩幅も広く胸板も厚い。額には真一文字に古傷が走り凶悪な面相だ。一喝されれば被験者の男など蛇に睨まれた蛙のように固まってしまうだろう。しかし、命がかかっているため男は黙るどころか更に騒ぎ立てた。

「たすけてくれ! なんでもする。なんでもするから!」

「うるさいぞ!」

 暴れ馬を御するようにクリスの部下が強く縄を引く。期せずして男が踵を返したため二人はもつれるようにして倒れた。

「なにやってんだ。しかっりし――」

「ぎゃああぁああぁぁぁぁ」

 助け起こそうとした兵士の言葉を遮るようにして絶叫が響き、生贄の男の粗末なシャツが瞬く間に赤く染まっていく。

「こいつ!」

「離れろ!」

 首筋に噛みついた男を引き離そうと数人がかりで羽交い絞めにするも、スッポンのように喰らい付いて離さない。男の執念は銃声によってようやく断ち切られた。

「代わりを早く」

 固いクリスの声音に弾かれ幾人かが駆けだす。

「これを」

 クリスが致命傷を負った部下を支えている兵士に胸ポケットから取り出した薬瓶を渡す。

「気前がいいのは構わんが、補充はないぞ。なにせもう作れんかもしれんからな」

「優秀な部下だ。失うのは痛い。いいから使え」

クリスが命じるままに虫の息の部下に薬が与えられる。

(……すごいな)

 一口含んだだけで見る見るうちに傷が塞がっていく。自身の血から製薬された薬の効果を目の当たりにするのはこれがはじめてだ。噂には聞いていたが正直ここまでだとは思わなかった。くすぐったいような気持ちとなる。

 瀕死だったのが嘘のように部下はすくっと立ち上がると深々と頭を下げた。

「申し訳ありません! しくじりました」

 青い顔でクリスに詫びる。それが血を失ったためか、自身の失態に血の気が引いているのか判別がつかぬところまで回復している。

「拾った命だ。捨てたつもりで任務に励め」

「はっ!」

 最敬礼で応じる部下の姿に違和感を覚える。パズルのピースが一ヶ所だけ正しく嵌っていないようなそんなすわりの悪さだ。

 違和感の正体を見極めるべく目を凝らし、愕然とする。

(確かにあった! 間違いなくあった! それが、どこにいった?)

 額にあった古傷が跡形もなく消えている。

「よかったな! 整形する手間が省けたじゃないか」

「男前が上がったぞ。掘られるなよ」

 周囲からの囃し立てる声に救われたように男が頭を掻く。

誰も古傷が癒えたことに違和感を抱いていない。当たり前のこととして受け止めている。その反応が傷薬には過去に負った傷まで含めて治療する効果があると雄弁に物語っている。

 つまり――

(マチルダの目も……治る? 治せる? 治せる! 治せるんだ!)

 興奮が震えとなり全身を貫いた。

 ここに囚われて以来はじめて射す希望の光に久しく感じなかった活力が湧いてくる。

 先天的な疾患である聴覚まで治るかは未知数だ。それでも光を取り戻せるだけで飛躍的に生存率は跳ね上がる。サンダースに万一のことがあっても生き延びられるかもしれない。

(薬を手に入れ脱走しマチルダに渡す)

 言葉にすれば息継ぎなく口にできるほど短い。しかし、それがいかに困難であるかは理解している。厳重に警備されている研究室に忍び込み保管されている薬を盗みだした上で誰にも知られることなく脱走しなければならないのだ。

(監視の目は緩んでる。逃げ出すだけならやれないことはないだろう。問題は……薬か)

 研究室は最も厳重に警備だれている一画だ。おいそれと近づけるものではない。

(となると……)

 小さく膨らんだブラウンの白衣のポケットを盗み見る。クリスと違い、ブラウンが拠点から出ることは殆どない。それでも心配性のブラウンのことだ。肌身離さず薬を携行していたとしてもおかしくはない。

(なんとか確かめられないものか……)

 思案を巡らせていると再び外が騒がしくなった。先ほどと同じように前後を兵士に挟まれた被験者が連行されてくる。違いは、頭からすっぽりと厚手の布を被せられていることだ。

 戒めを解かれ自由になったので俺は椅子を明け渡す。

「うぅうぅううっ」

 声がくぐもり明瞭な発音とならない。どうやら猿轡まで噛まされているようだ。先程のことを考えたら慎重になるのも頷ける。

 男は僅かに抵抗したが、強く押されると諦めたように俺が温めていた椅子に腰かけた。

 正面から拘束された男と向かい合う。痩せ型で背丈はさほど変わらない。肌は日に焼けており、手は荒れている。被された厚い布のせいでなんとも言えないが、おそらく二十中盤から四十手前ぐらいだろう。

 男を観察している間にも助手たちがテキパキと必要な処置を施していく。

 鎮静剤が投与され、無数の器具が取り付けられる。モニターに数値が反映されると、室内の視線がブラウンに集まった。まるでオーケストラの楽団員が固唾を飲んで指揮棒が振り下ろされる瞬間を待っているかのようだ。ブラウンは指揮棒の代わりに注射器を手に取ると、被験者の男の首筋に突き立て、どす黒い中身を注入した。

 全員の視線がブラウンから壁掛け時計へと移る。長針が三周するまでやけに長く感じる。まるで神がこちらを焦らすかのようにわざと時の歩みを遅くしているのではと勘繰りたくなるほどだ。ヘインズが落ち着かなげに室内を歩き回る足音だけが響く。やがて腕時計に視線を注いでいたブラウンが顔を上げると、こちらに向かって頷いた。

 俺はその合図を機に被験者の男のむき出しとなった二の腕にかぶりついた。

「あああああぁああぁああぁぁ」

 狂ったように暴れる男に合わせ拘束具がガチャガチャと音を立てる。しかし、人の力で引きちぎれるものではない。革が食い込み自らを痛めつけるだけだ。

「脈拍二百二十七」

「抗体反応確認までの誤差マイナス二秒」

 親の仇のように被験者を睨み付けるブラウンのもとに矢継ぎ早に報告が舞い込む。

 俺は口元の血を掌で拭うと、少し距離を取り、遠巻きにその様子を眺める。

 実験が成功すれば室内は歓喜に包まれ、ワールドシリーズを制した監督のようにブラウンは揉みくちゃにされるはずだ。狙うならその時しかない。

(頼む! どうか上手くいってくれ!)

 祈りが通じたのか、男の胸が突き上げられたかのように跳ねた。一度、二度、三度、回数を重ねるごとに反動が大きくなる。まるで内側から食い破られようとしているかのようだ。数人がかりで押さえ込むも、完全に勢いは殺せず、椅子がガタガタと鳴る。

 かつてない反応に沸き立つも、電池が切れたように男の首が折れ、ぐったりと動かなくなると、その興奮は萎んでいき、心臓が止まったことを知らせる耳障りな警告音が鳴り響くにいたり室内は沈黙に支配された。


「……心拍停止を確認」

 モニターを注視していた助手の絞り出す声が何重もの被膜に覆われているかのように茫漠と響く。

「失敗か」

「フン、成功に一歩近づいたにすぎん」

 淡々と事実を述べたクリスに対しブラウンが息巻くも、その肩は落ちており虚勢であることは明らかだ。

「す、すぐにデータを纏めます」

「その必要はない」

 今にも白衣の裾を翻しそうな助手をクリスが押しとどめる。

「なんのつもりだ? 構わん。さっさと――」

 鼻先に突き付けられた銃口がブラウンの言葉を遮った。

「聞こえなかったか? 必要ないと言ったのだ」

「貴様! 狂ったかっ!」

「心外だ。まともだからこその決断だ」

 クリスに倣い銃を抜いた部下がヘインズをはじめ幹部を拘束する。

「クリス君……これは一体……」

「実験ごっこもここまでです。これ以上の浪費は共倒れになる。まだ余力を残している内に立て直さなければなりません」

「クーデターだぞ! こんなことを民衆が許すと思うのか? 軍部の横暴だ! 皆この研究にかけている。中止になど絶対させん!」

「民衆が望んでいるのは安心して暮らせることだ。我々は彼らの安全に対して責任がある。これ以上の浪費は弱体化を招く。より強いリーダーのもと早急に再建しなければならない」

「フン、それが貴様だと言うわけか。とんだ自惚れだな」

 ブラウンの皮肉にクリスが苦笑を浮かべる。

「私は指導者の器ではない。それぐらい弁えている」

「なら……まさか!」

 扉が開き姿を現した人物をクリスが最敬礼で迎える。

「これまでの献身痛み入ります。後は我々に任せてご勇退ください」

 慇懃に頭を下げたトーマスをブラウンが燃えるような眼で睨み付ける。

「貴様か! 黒幕は! 私に引退しろとどの口が言うか!」

「先生が無理のない範囲で研究を続けられることに関して何も申し上げるつもりはありません。ただ限られた資源を後先考えず放逸に使われては困ります」

「人類の、人類のためだ! あと一歩のところまで来ている。今日だっ――」

 トーマスに次いで連れてこられた子供の姿にブラウンが絶句する。

「人類のため、ですか。では、このゾンビが死んだとしても研究は変わらずに続けられますね」

「アアァウァァ」

 鎖で繋がれたゾンビに向かって駆けだそうとしたブラウンの首根っこをクリスが押される。

「放せ! 娘に指一本でも触れてみろ! 殺してやる! 殺してやるからな!」

 ブラウンの脅しに対しトーマスが慈母のごとく慈しみ深い笑みを浮かべる。

「いけませんね。先生は科学の徒だ。主観で眼を曇らせるようなことがあってはならない。今のあなたでは私に指一本触れられません。これまでの研究もそうやって希望的観測に流されていたのではないですか? 本当は治療方法などないのに」

「貴様に何がわかる!」

「わかりますよ。遊びは終わりだってね」

 トーマスが振り返りゾンビを連行してきた部下に合図を送ると、光を反射したサバイバルナイフの切っ先が少女の左胸に吸い込まれた。

「ウゥゥゥエゥッ」

 口の端に溜まった血が泡沫となり弾けゆっくりと少女が崩れ落ちる。

「ミラ! ミラ! ミラ! ミラ! ミラ! ミラ! ミラ! ミラ! ミラ! ミラ!」

 半狂乱となったブラウンの肩にトーマスが労わるように手を重ねた。

「子供に先立たれることほど辛いことはありません。私も経験したからわかります」

 自ら引導を渡しておきながら平然とブラウンを慰める姿にデイブやヘインズが息を呑む。

「どこで間違ったのか? 何がいけなかったのか? どうすれば防げたのか? 来る日も来る日も答えのない問いに苛まれました。私は少しあなたが羨ましい。復讐に囚われることなく逝けるのだから」

 ブラウンの背後に回り込んだクリスが首に巻きつけた腕を捻ると、枯れ枝が折れるような乾いた音が響いた。ゾンビ化の根治を目指し研究に一身を捧げた男の鎮魂歌としてはあまりにも軽い音に周囲から啜り泣きが漏れる。

 耳朶打った『復讐』との言葉に口の中の水分が急激に奪われる。唾と共に不安を呑み込もうとするも、まっすぐとこちらを射抜いてくるトーマスの視線がそれを許してはくれない。

 一歩ずつ迫ってくるトーマスの確固たる足取りに予感は確信へと変わる。

(どうして? なぜ? どこで?)

 スケッチブックに残したメッセージは全て破棄した。時間に追われながらも見落としがないよう慎重に進めた。だから俺に関する記述は残っていないはずだ。

「どうしましたか? 顔色が優れませんね」

 出来の悪い生徒に模範解答を示すようにトーマスが胸ポケットから取り出した紙片を広げる。

「どうですか? そっくりでしょ。ああなってしまってから絵だけが楽しみでしたから」

 力強さと繊細さが同居したタッチは一度見れば忘れない。間違いなくエドガーの作品だ。

「これは日記帳に残されていたスケッチです。そこに何もかも書かれていました。人の意思を有したゾンビから、その者に頼んだおつかいの内容まで、全てです。唯一、あの子が記せなかったのは死を選んだ理由だけだ。教えてくれませんか? なぜ息子は死ぬ必要があったのかを」

「アァゥアッ」

 もし言葉に重みが備わっていたなら衝撃で仰け反ったことだろう。スケッチブックばかりに目を奪われ日記帳を見落としていた。痛恨の失態だが悔いたところで遅い。

『自分の胸に手を当てて考えろ』

 手だけが別の生き物のように動き、メモ帳に書き殴る。

「それは違う。知らなければよかったのです。知る必要などなかったのだから。そうは思いませんか?」

 言われるまでもない。何度となく自問しだ。本当に正しかったのだろうかと。だが、答えなど出るはずがない。

「答えられませんか? なら教えておきましょう。世の中には知らない方がいいこともあるのだと。例えば、自らが殺した者の正体とか」

 やおらトーマスが被験者の男の布袋を剥ぎ取った。その瞬間、世界から色が失われた。

(サ、ン……ダース……)

 皮膚は爛れ、眼窩は落ち窪み、頬もこけている。一気に十も二十も年老いたかのようだ。それは中途半端に止まったゾンビ化のせいばかりではない。顔に刻まれた皺の深さにサンダースが忍んできた苦労の跡が窺える。

(……どう、して……)

 無意識の内に一歩踏み出すと遺体との距離が縮まった。その当たり前が恐ろしくて硬直する。

「久しぶりの友との再会なのですから遠慮する必要はありません。どうぞ手を取ってあげてください。あなたが殺した親友の手を」

 トーマスの言葉が深いリバーブをかけられたように耳の中で渦巻く。

(……俺が、殺した……)

 体を折り、えずこうとするも、涙ばかり溢れ、血は一滴も吐き出されない。

「ふむ、同年代の男性の血は好みではありませんでしたか? なら、もう一人用意できますよ。名は確か、マチルダ、でしたかね?」

「ガァッ!」

 殴りかかったつもりが、拳が届く前に天地が引っくり返った。圧し掛かってくる兵士を撥ね退けようとするも、関節が固められており骨が軋むだけだ。

「当初は彼にあなたを殺させるつもりだったのですが、予備の被験者が必要となり急遽計画を変更する必要に迫られました。まさかここまでとは。嬉しい誤算です」

 口調とは裏腹に能面のようにトーマスの表情に変化はない。

「あなたが懐に転がり込んできてからずっと考えていました。どうやって人の痛みを思い知らせるか。ゾンビは痛覚が極めて鈍いとのことですので、単純に痛め付けたところで徒労に終わるでしょう。それに、肉体の痛みではあまりにも釣り合わない。もし、世話係の二人と心を通わせるようなことがあったなら、彼らをもって痛みを教えるつもりでした。だが、そうはならなかった。それならせめて研究の礎になればと思い自分を抑えていたのです」

 トーマスの言葉に対して、デイブとメヌエットが対照的な反応を示す。片や血の気が失せた頬を引き攣らせ、もう一方は挑戦的に口角を持ち上げる。人質として価値が低い二人まで拘束されている理由がこれでわかった。サンダースだけで十分な効果を挙げられなかった場合の保険だったのだ。

 狂気が常に熱を孕むとは限らない。機械のように冷めていながらどこまでも狂っていることだってあり得るのだ。

(わかっていたはずだ。同じじゃないか……自分と……)

 頭の片隅で苦笑が渦巻く。己でもあり、別人にも思える。

「何を笑っている?」

 いつの間にか声を立てていたようだ。小波のように寄せては返す笑いの波動に抗しきれず横隔膜が震える。

「クククッアハハハハッ」

 込み上げてくる笑いのままに声を上げると、俺を押さえ込んでいる兵士の息遣いから困惑が滲んだ。

「どうやらここまでのようですな。そろそろ終わらせるべきかと」

 クリスの助言にトーマスが同意する。

「そうしよう。椅子に縛り付けろ」

 俺は両脇を抱えられ無理矢理引き起こされる。

「動け!」

「クククッ」

「いつまで笑ってやがる!」

 尻を蹴飛ばされよろめく。トーマスの命を受けた部下が数人がかりでサンダースの拘束を外しにかかっているが慣れていないため四苦八苦している。

(まだだ、逸るな)

 どれだけ思い入れたっぷりにギターソロを奏でようともバンドの演奏と合っていなければ不協和音にしかならないように、タイミングを逸すれば全てが水泡に帰す。

 俺以外に誰もサンダースの死体に注目などしていなかった。だから、気づいていない。

 再びサンダースの指先がぴくりと震える。注意を逸らすべく一際派手に笑い声を立てると再び尻を蹴飛ばされた。

 幾度かそんなことを繰り返すと、左足を残しサンダースの拘束が解かれた。

「あっ?」

「なんだ?」

「今、動かなかったか?」

「バカ言うな。いいからさっさ――」

 サンダースの指先の震えに兵士が言葉を呑みこむ。飛び退こうとするよりも早く、上半身を起こしたサンダースが兵士をかいなに抱いた。

「ぎゃあぁぁあああ」

 絶叫に背中を押され、俺は拘束している兵士ごとサンダースに向かって身体を投げ出す。新たな獲物にサンダースが齧り付き、生暖かい血が胸や顔を汚す。それらを拭うことなく俺はトーマスへと迫る。

 完璧なタイミングでの不意打ちだ。いくら相手が優れた軍人であろうとも躱せるはずがない。

(殺った)

 そう確信した瞬間、世界が反転した。

「ガハッツ」

 背中から床に叩きつけられ息が詰まる。涙の滲む視界に、銃弾を浴びせられぼろ切れのようになったサンダースが映る。

「狙いは悪くありませんでした。しかし、時には最大限の努力を払ってもなお届かないことがある。貴重な教訓とすべきです、惜しむべくはそれを活かす機会がないことですね」

トーマスを振り払おうともがけばもがくほど身動きが取れなくなる。

 トーマスをゾンビに変え、メタル・ゴッドの時と同じく混乱に乗じて逃げ出すつもりだった。それがあっさりと覆された。

(くそがっ! 放せ! このペテン師野郎が! テメェのナニを食い千切るぞ!)

 悪口雑言に怯んだわけではないだろうが不意に戒めが緩んだ。

「ばか、な……」

 愕然としたトーマスの呟きが至る所で共鳴する。俺も言葉を発せられたなら同じように口にしたことだろう。馬鹿な、と。

 上半身はまるで蜂の巣だ。なのに左足の拘束を引き千切ろうとサンダースが暴れている。

「グアァアアゥウゥ」

「なんで生きてるんだ!?」

「ボケッとするな! 撃て! 撃て! 撃て!」

 再び銃声が交響楽を奏でるも、拘束を引き千切ったサンダースには命中することなく椅子を粗大ごみと化しただけだ。

「なっ! 速い!」

 誰かが漏らした感想を裏付けるかのごとく瞬く間にサンダースが距離を詰める。

サンダースだけではない。最初の犠牲者がゾンビとして起き上がると、同様に俊敏な身のこなしで手近な兵士を血祭りに上げた。

 常識を覆す事態になす術もなく一人また一人と倒れる。

「ここは危険です! 退いて態勢を整えましょう」

「くっ、ならせめて!」

 撃鉄の落ちる音に死を覚悟する。しかし、銃弾は心臓を逸れ肋骨の間を抜けていった。

「なにをする!」

 トーマスに体当たりを喰らわせたデイブが俺を庇うように立ちはだかった。その腕に残る生々しい噛み跡に拳銃を拾うべく腰をかがめたトーマスの動きが止まった。

「もう、すぐ、僕も、あいつ等の仲間だ。どう、しますか?」

 肩で息をしながら見栄を切る。

「限界です! もうもちません!」

「……ここは放棄する。総員退却」

 トーマスの下知に従い生き残っている兵士が一塊となり逃げだす。脱兎のごとき退却だ。その後をサンダースをはじめ大半のゾンビが追い掛ける。

 残ったのは死体を貪っている数匹だけだ。

「っつ」

 痛みに耐え兼ねデイブが呻いたことにより注意を引いてしまった。

 先ほどと反対に俺がデイブを庇い、飛び掛かってきた一匹の顔面を殴りつけるも、怯むことなく突進してくる。

(くっ、なんだこいつは!)

 それまでの愚鈍で鈍重なイメージを払拭するかのような軽い身のこなしだ。トーマスたちが手を焼いたのも無理はない。まるで別の生き物だ。ただ、お頭の具合は変わっていない。我先にと獲物に飛びつこうとするため、互いに足を引っ張り合っている。相手が一匹だけだったならデイブを守り切れなかっただろう。

 デイブを見捨てることが人類にとって大きな不利益となることは承知している。だが、こうしている間にもマチルダに危険が迫っていると思うと、このまま差し出してしまいたくなる。しかし、それが出来ない理由もまたマチルダのためだ。デイブには生きていてもらわなければならない。

チラリと足元に視線を落とす。誰のとも知れない千切れた右腕が後生大事に拳銃を握りしめている。

 一か八かそれを拾おうとして横から掻っ攫われた。

 銃声が三発。それで決着がついた。

「ナッ!」

 あれだけ銃弾を撃ち込まれても死ななかったのが嘘のように脳天に風穴をあけたゾンビが崩れ落ちた。

「ゲームのルールが少し変わっただけ。野球とクリケット程度の違いよ」

 涼しい顔でメヌエットが嘯く。その意味を悟り驚愕に目が見開かれる。だが、そう考えれば心臓が止まったにも関わらずサンダースが生きていたことの説明がつく。それに、以前ブラウンが言っていた。ゾンビの脳は人であった頃に比べ極端に活動領域が狭くなっていると。だが一ヶ所だけ、人間だった頃よりも活発に働いている箇所があったはずだ。

(確か――)

「遺言は? ないなら手早く済ますけど」

 メヌエットがデイブの額に狙いを定めたので俺は慌てて二人の間に割って入った。

「なに? 一緒に逝きたいの?」

 ブンブンと顔の前で手を振る。あたふたとポケットを弄りメモ帳を探すも、さっきの立ち回りで落としてしまったようだ。仕方なく指先に血を擦り付け、返り血が飛び散っていない壁面に血文字を記した。

『抗体持っている。ゾンビ化しない』

「はっ? なんの冗談?」

『俺、ゾンビの肉食ってなった。デイブ違う』

 文法を無視し要点だけ書き殴る。書いているそばから血が垂れダイイング・メッセージのようだ。

(本当に遺言にならないだろうなぁ)

 棒を呑んだようなデイブと、血文字を睨み付けるメヌエットの様子に不安にかられる。どちらかが豹変し襲いかかってきたとしても不思議ではない。それほど俺の罪は重いのだ。

 胃が痛くなるような沈黙に、途切れることなく響く銃声と悲鳴がまるで遠い世界のことのように感じられる。窓一枚隔て、動と静の対照的な空間が形成されている。しかし、どちらも極限まで緊張が高まっているという意味では同じだ、いや、緊張感ではこちらに軍配が上がるかもしれない。

 膨張した空気が沸点に達する刹那、メヌエットがふっと肩の力を抜いた。

「要は保身に走ったってことでしょ。別にいいんじゃない。同じ立場ならあたしもそうしただろうし」

 あまりにも物わかりのいい態度に思わず耳を疑いたくなる。

「こいつが知ったところで本当にワクチンが作られたかなんて怪しいし」

 メヌエットが足元に転がっているブラウンの亡骸を爪先で蹴る。それで本来の目的を思い出した。白衣の胸元を漁り薬瓶を取り出すと、予想通りそれは俺の血から精製された傷薬だった。

薬瓶を布で包みポケットに仕舞い、窓際から街並みを見下ろす。大量の血痕が禍々しい道路標示を描き、食い散らかされた四肢が至る所に散乱し、ゾンビと化した住民が新たな獲物を求め徘徊している。まさに地獄絵図だ。

 町の中心に位置しているこの病院から放射状に騒動が広がっている。しかし、火の手が風向きに影響されるように、ゾンビの広がり方も人口密度によって濃淡が生じる。

 民家が密集している北側の丘陵地帯は煙が上がり一際凄惨な様相を呈しているが、一転してマチルダが囚われている南東に位置する留置場の辺りは静かだ。

「どう? 国一つ滅ぼした気分は?」

 メヌエットの皮肉を無視し再び指先を血で湿らすと、一文字一文字刻みつけるように文字をしたためる。この提案にマチルダの命運がかかっていると思うと指先に力が籠る。

『安全な場所を知っている』

「ふ~ん、安全、ね。この世で一番高価な商品を売りつけようってわけ。で、言い値は?」

『子供の面倒を見て欲しい。女の子だ』

 デイブとメヌエットの表情が動いた。一方は困惑、他方はあけすけな興味を示す

「子供……ですか。いったい、どういった――」

「なに? ペドフィリア?」

『妹みたいなものだ。約束してくれるか?』

 口約束などに何の意味もない。それでもデイブの誠実さと、メヌエットの打算に縋るしかない。

 マチルダの許に薬を届けるだけなら二人の協力は必要ない。むしろ、足手まといになる。しかし、問題はその後だ。仮に目が治ったとしてもまだ子供だ。独りで放り出されて生きていけるはずがない。庇護が必要なのだ。

 俺が守ってやれるなら何も言うことはない。だが、それが現実的でないことぐらい弁えている。

 立ち眩みを覚え、慌てて拾い上げた腕にかぶりつく。少しでも血を失えば途端に眠気が襲ってくる。そうでなくとも一週間もあけずに睡魔がチャイムを鳴らすのだ。こんな状態でマチルダと行動を共に出来るはずがない。

 なによりも、目が治れば全てが白日のもとに晒される。

(他にどうしようもない。そうだろ?)

 答えが返ってくるはずもない。それでも自問せずにはいられない。

(これしかない……。これしかないんだ)

 募る不安に思わずサンダースの姿を求めると、メヌエットと目が合った。

「聞こえてる? 乗ったって言ったの」

 明瞭なメヌエットとは対照的にデイブが視線を伏せた。

『デイブもか? 二人揃ってじゃなきゃ意味がない』

 メヌエットが力なら、デイブは良心だ。その両輪があってはじめて機能する。どちらか一方では片翼を失った飛行機のように墜落してしまう。

「ゾンビすら撃てないのに必要?」

『だからこそだ』

「そう、そういう考え方するの。救いたいって気持ちに嘘はないってわけね」

「僕は……」

「なに? 意外と根に持つタイプ? もしかしてあたしのことも恨んでる? なんたって無理やり食わせたんだから」

「それは……」

 糸で引っ張られたように持ち上がった口角とは反対にメヌエットの眦が下がる。こうなった時の彼女の恐ろしさは骨身に染みている。

 やがて圧力に屈するようにデイブの首がカクンと落ちた。


 こちらの手招きに合わせ二人が生垣の陰から飛び出す。その姿を視界の端に捉えつつ周囲を警戒する。ここまで人影はおろかゾンビにすら遭遇していない。不気味なほど静まり返っている。

 息をはずませたデイブに続き、メヌエットが通りを渡り俺が伏せているトラックの陰に駆け寄ってきた。

「で? どうするわけ?」

 メヌエットが正面の建物に向かって顎をしゃくる。

 飾り気のない質実剛健な造りがいかにも田舎の保安官事務所だ。表の駐車場に古ぼけたパトカーが一台とまっている以外に遮る物はなにもない。屋上から狙撃されたら一巻の終わりだ。

 その懸念をメヌエットが鼻先で笑う。

「あのさ、聞こえる?」

 耳を澄ますと散発的に響く銃声が風に乗って届いてきた。

「わからない? 徐々に間隔が伸びてる。的が減っているのでなければ撃ち手が欠けていってるってこと。ネズミ算式に増えるゾンビをこの短時間で間引けるわけがないのだから答えは明らかでしょ。そんな状況でこっちに人員を割くわけないじゃない。行くわよ」

 なんの躊躇いもなく身を晒したメヌエットの後を慌てて追う。狙撃されやしないかとビクビクしながら小走りに駆け抜けると、メヌエットに白い目で見られた。

「慎重と臆病の違いもつかないで生き延びられるのだから楽なものね」

 メヌエットの皮肉を背中に受けながら扉を透かして中を窺う。

 正面に受付があり、左手に奥へと続く通路が見える。人の気配は一切しない。

「あたしは足を確保する。ジーザズ、あんたもよ」

「デイブだよ。いい加減そのあだ名よしてよ」

「逆ね。あんたがいい加減慣れるべきなの」

 埃を被ったパトカーへと歩み寄る二人を呼び止める。

「アッ!」

 身振りで予備の弾倉を要求する。さすがにチャンバーに入っている一発だけでは心許ない。

「必要ないじゃない。どうせ誰もいないんだから」

(そんなのわからないだろ!)

 頭から決めつけるメヌエットに食い下がる。

「こっちは子守りしなきゃならないの。死なせるわけにはいかないでしょ」

「僕なら――」

「その一、生き残りたいならくちばしを挟まない。その二、誰もあんたの意見なんか聞いてない。その三、口を閉じてろ」

 メヌエットの迫力に蛇に睨まれた蛙のようにデイブが身を竦ませる。

「そういうわけで敵がいたら愛と勇気と知恵でどうにかして。ああぁ、そうそう、十五分。それ以上は待たないから」

 一方的に宣告するとメヌエットが華奢な手首に似合わぬ無骨な腕時計のボタンを押した。

「なに? 待ってても空から銃弾は降って来やしないわよ」

 グズグズしていては本気で置いて行かれかねないので意を決し扉を押し開けた。

 受付の陰に隠れていたトーマスが襲いかかってくることも、通路の先から銃弾が飛来することもなく、身構えていたのをあざ笑うかのように静まり返っている。メヌエットの指摘通りこちらに兵力を割く余裕はないのかもしれない。

 俺が知る限り捕虜は全て奥の留置場に収容されている。マチルダがいるとしたらそこ以外は考えられない。

(もうすぐ、もうすぐだからな!)

 意気込みとは裏腹に先ほどから言葉にするのもおぞましい想像がチラつく。そればかりではない。一歩進む毎に得も言われぬ不安が足元から這い登ってくる。

 もし、マチルダがここに居なかったら? もし、ゾンビと化していたら? もし……死んでいたら。否定すればするほど鮮明な映像が脳裏に浮かぶ。

(やめろ!)

 激しく頭を振ったため淀んでいた空気が撹拌され何者かの気配が運ばれてきた。

 通路の壁に背を預け角の部屋を覗き込むと、書類やごみが散乱した室内をゾンビが一匹あてもなく彷徨っていた。倒れたファイルキャビネットの棚に引っかかりこけるさまは愚鈍そのものだ。どうやら今回の騒動で感染した個体ではないようだ。

(ちっ、そうだった)

 治験に利用されるゾンビもここで飼われているのだ。何かの拍子にその内の一匹が逃げ出したのだろう。

 貴重な銃弾を消費するまでもないので、サバイバルナイフを引き抜くと、足音に反応したゾンビの胸を正面から刺し貫いた。

(楽なもんだ)

 新種だったならこうはいかなかった。それでも余計な道草を喰ったことにかわりはない。遅れを取り戻すべく急ぎ足で奥へと進む。

 休憩室や全面ガラス張りのチーフ・オフィサーの執務室を抜けると、徐々に通路が狭くなる。一度だけ一晩豚箱で過ごしたことがあるが、その時の経験から目的地に近付いていることを肌で感じる。

(まったく、人生に無駄なんて一つもないとはよく言ったものだぜ)

 ブーイングに切れたマークが客席に向かって中指を突き立てたのが原因で乱闘になったのだ。俺はなるべく被害が及ばないようにステージの袖に避難したのだが、最後の方は取っ組み合いの渦中にいた。

 その時に出来た後頭部の傷を撫でるも、指先に触れない。

(あれ? いつの間に消えたんだ?)

 違和感の正体を掴む前に留置場へと続く廊下に出た。横手には所持品の受け渡しを行う小部屋があり、開きっ放しの扉からトランプやビールの缶が覗く。監視の任務に就いていた者達の休憩室として利用されていたようだ。

(誰もいないか……)

 ここまでもぬけの殻だと却って不気味だ。

 仕切りの鉄格子を抜け留置場へと足を踏み入れる。収監された都会の警察署では監視の目が行き届くように扇状に配置されていたが、こちらは小ぢんまりとした監房が二つ隣り合っているだけだ。手前の居室にはゾンビの死体が堆く積み上げられており、マチルダが居るとしたら奥しかない。

「マァ」

 呼びかけたところで彼女に聞こえはしない。それでも自然と喉が震える。

「アァ~」

 逸る気持ちに身体がついていかず本物のゾンビのようにギクシャクとした足取りで進む。

(頼む……)

 徐々に牢内の様子が明らかになる。隣の房と同じく家具は壁際に備え付けられたベッドだけだ。その上に丸まった人影を発見し、指先が白くなるほど鉄格子を握りしめた。

「アァアァアアアアアアア!」

 細く差し込む陽ざしに照らされたその姿に改めて一年という歳月の重さを突き付けられる。

蕾が芽吹き、美しい花を咲かせようとしている。

 不揃いに切り揃えられていたおかっぱは肩まで伸び、プックリと膨れた唇はあどけなさを残しながらもほんのりと色香を湛えはじめている。山頂に降り積もった雪よりもなお白い肌はくすんだ監房全体を照らすかのようだ。目に包帯を巻いていてなお、その美しさは損なわれていない。むしろ、不完全であるがゆえに想像をかき立てる。

 小さく上下するオーバーオールの胸に膝から力が抜けた。

(生きてる! 生きてる! 生きてる!)

 胸の内で連呼された言葉を噛みしめると、これまでに感じたことのない多幸感に包まれた。今なら散々唾を吐きかけてきた神に感謝を捧げてもいいくらいだ。

だが胸で十字をきっている暇はない。

(鍵があるとすれば控室だ)

 そう当たりをつけ踵を返しかけた足が止まる。なんてことない、鍵穴からキノコのように真鍮の鍵が生えていた。監視の任務に就いていた者が解放する直前に、ゾンビの襲撃を警戒し思い直したのだろう。

 賢明な判断に感謝しつつ鍵を捻ると、こちらを招じ入れるかのようにゆっくりと扉が開いた。

(マチルダ……)

 自分の願望が生みだした幻ではないかとの益体もない想像が浮かぶ。自らを奮い立たせるも、一歩踏み出すと消えてしまうのではないかとの恐れに足が竦む。勇気が出ずにいると、不意に背後から突き飛ばされた。宙を泳ぎ、踏ん張りがきかずに倒れ込む。

「ガハッ」

 胸を打ち息が詰まった。酸素を求め喘ぐと、床に赤い斑点が飛び散った。それが己の口から吐き出された血だと認識するまで数秒を要した。

(なんだ……これ、は……)

 事態が呑み込めぬまま身を起こすベく床に手をつくと、胸部から広がったしみに掌がべっとりと濡れた。

「急所は外してる。死にはしないだろ?」

 頭上から降ってくる声に顔を上げようと上体を逸らす。それだけで全身が悲鳴を上げる。

(……トーマス)

 軍服を脱ぎ捨て、元の色が判別できぬほど血に塗れたシャツを羽織っている。

 変わったのは服装だけではない。眼窩は落ち窪み、顔色は紙のように白い。ヒステリックな笑いを上げた際に白い歯が覗かなければ同一人物だとわからなかったほどだ。

(まるで、死体だ)

 それでトーマスの隠れていた場所の見当がついた。隣の房のゾンビの遺骸に埋もれていたのだ。

 サンダースが左右に身体を揺すると、あわせてシャツの右腕の肘から先がそよいだ。

「ああぁ、これか。切り落としたよ。まったくおまえの友人にも困ったものだ。お蔭で全部おじゃんじゃないか」

 恬淡とした口調とは裏腹に、獲物を前にした猛獣のように目だけが爛々と輝いている。

 腕を伸ばし、転がった拳銃を掴もうとした刹那、手の甲を靴底で踏まれた。

「感心しないな。ここにきて無駄な抵抗は」

 トーマスが拳銃を奥へと蹴る。

「まだまだ元気じゃないか。もう少し血を流してもよさそうだな」

 トーマスがサバイバルナイフを振り下す。痛みはない。それでも刺し貫かれる度に異物感が広がり死の足音が高くなる。

(マチ、ルダ……)

 ズボンのポケットに仕舞った薬瓶を握りしめる。

 朦朧とする意識の中、死神よりも恐ろしいものがヒタヒタと忍び寄ってくる。

(だ、メ、め、ダ……)

 このままでは睡魔に引きずり込まれてしまう。そして、それこそがトーマスの狙いなのだと悟る。

(おれに……コロ、させる……か)

 異変を感じ取ったマチルダが身を起こす。

(に、ゲろ)

 だが、彼女は奥の壁に背をつけると、身を守るように膝を抱えた。

 その膝小僧の白さに視線が吸い寄せられる。。

「グワァアァァァアアッツ」

 拳を床に叩きつける。指が折れ、骨が飛び出るも、痛みは襲ってこず、睡魔が深まる。

「アアッァ」

 衝動に突き動かされ肘で這うようにしてにじり寄る。

(ヤ、メ、ロ……)

 本能に意識がねじ伏せられる。もはや自らの意志では落ちる瞼を止められない。

(モう、二度ト、ごめンだ)

 視界が闇に呑まれる刹那、吐息のように過去の記憶が零れた。

(ああぁ、そうだ……俺が、食ったんだ)

 あいつは最後までゾンビの肉を口にしなかった。だから俺を見捨てさえすれば人の輪に戻れた。なのに、「こいつがゾンビじゃないと証明してみせます。三日、いや一週間僕らを閉じ込めてください。それでもこいつは僕を襲いません。なぜならゾンビじゃなく、マークという人間だからです」

 争い事は苦手で人一倍臆病な奴だった。それが、銃を手にした連中に囲まれても一歩も引かず力説した。あの時、俺はあいつの陰に隠れるしかできなかった。もし、運命を受け入れていたなら、その後の悲劇は防げたというのに。だが、どうしてももう一度ステージに立ちたかった。そのため一縷の望みに縋った。その結果があのざまだ。

 だから、俺は自分を騙し、狂った。あるいは最初は振りだったかもしれない。しかし、いつしか本当の狂人と成り果て、己をあいつだと思い込み、自身の生み出した自己と対話するようになった。

「グガァアアアアアアアアア」

 咆哮が空気を震わせる。鎖から解き放たれた野獣のようにマチルダに覆い被さる。

「アガッアガガガァ」

 マチルダの抵抗を押さえ込み、強く抱き寄せる。

口内を満たす生暖かい血液に思わず笑みがこぼれる。

(へっ、よせよ。こんな冷血漢の血が温かいなんて何かの悪い冗談だぜ)

 背後のトーマスにマチルダの首筋に噛みついたように見えることを祈りながら己の左手首を噛み切ると、かき抱いた右手で背中をなぞった。

『遅くなった。クリスマスプレゼントだ』

 息を呑んだマチルダの手に薬瓶を握らせる。

『飲んだら表に行け』

 それだけ伝えマチルダから離れる。

 少しでも気を緩めると瞼が下がってくる。とっくに意識が闇に呑まれていてもおかしくはない。なんとかもっているのは、あいつを貪った時の身を焦がすような後悔が胸の奥で燃えているからだ。その熾火の熱さが膝を折ることを許してはくれない。

(わか、ってる、まだ、だ)

 トーマスを処理した返す刀で己を始末するまでは睡魔に屈するつもりはない。

 よろけつつ、鉄格子に背を凭れ両足を投げ出しているトーマスの元へと向かう。濁った眼がこちらの動きを追わなければ一足先に天に召されたものと思っただろう。足元にはサバイバルナイフが落ちており、抵抗する気力は残っていなさそうだ。

(残念、だったな。おまえの、おもい通りに、ならなかった)

 勝ち誇る俺をトーマスが嘲るように笑った。

(つよ、がりを……)

 まっすぐ歩けば十歩にも満たない距離だ。それがハドソン川を渡るよりも遠く感じる。

視界の隅で日差しを受け鈍く光る拳銃が反射した。一瞬、そちらに足が逸れるも、この状態で狙いを定めるのは至難の業なので、予定通りナイフで決着をつけることにした。

(拾う、刺す、貫く。ひろう、さす、つらぬく。ひろう……さす……つらぬく……)

 胸の内で取るべき行動を反芻し、襲いかかってくる眠気を振り払う。

(ひろう、ひろう、ひろ、う、ひ、ろ、ひ……ろ……)

 つま先に触れた刃に辛うじてなすべきことを認識し腰をかがめると、そのまま膝から崩れ落ちた。

「アェ?」

 まだ意識は闇に呑まれていない。なのに体の自由がきかず芋虫のように這いつくばる。ナイフの柄を掴もうにも指一本動かせない。

(な、ンだ?)

 狐につままれた気分でジワジワと胸を濡らす鮮血を眺める。とっくに傷口は凝固していたはずだ。それが、汲めども尽きぬ湧水のように後から後から血が噴き出る。

「うぅぅ」

 嗚咽に視線を向けると、空よりも深い紺碧に吸い込まれた。

 想像以上の美しさに息を呑む。見開かれた蒼い瞳から零れる大粒の涙はまるで真珠のようだ。

「アアァ」

 歓喜に震え、絶望に戦慄く。相反する感情に身を引き裂かれる。

(これが、ねらい、か)

 答えるように頭上で老木が倒れた。命の灯が消えたトーマスの体が傾いだのだ。見ずともわかる。その顔には会心の笑みが浮かんでいることが。

 トーマスの目論み通り、俺は一介のゾンビとしてマチルダに撃たれた。

 そのことに衝撃を受けたが、怒りは覚えない。一抹の寂しさを感じたが、絶望はしていない。本当に恐ろしいのはマチルダが誤解に気付くことだ。その小さな背中に重い十字架を背負わせるぐらいなら、このままゾンビとして朽ち果てた方が遥かにましだ。

「ヴゥッ」

 どうにかして伝えたい。これこそが俺の望みだったと。

 ずっと、探していた。あいつの代わりに引き金を絞ってくれる人物を。それがようやく果たされたのだ。だから、負い目を感じる必要などない。

 しかし、思いは言葉にならず、吐息と共に命の息吹が零れ闇が広がる。

 漆黒の彼方でサンダースが手招きする。その顔に過保護な親を前にした教師のような苦笑が浮かんでいる。『そんなに弱い子じゃないさ』とでも言いたげだ。

(だけど……)

 あるいは、マチルダを信じてやれないことこそが俺の弱さなのかもしれない。もし自分が聴覚に続き視力まで失ったら早々に自殺していただろう。

(そウ、か)

 やっと理解する。俺なんかよりも遥かに強いのだと。

(だカら、だイじょウ、ブ、ダ)

 波立っていた心が落ち着き、これまでの全てが遠ざかる。羊膜に包まれたような安らかさを感じつつ、視界が完全な闇へと閉ざされる。

 瞼の裏に浮かんだのは、食卓を囲む俺たち三人の姿だ。彩り豊かな食材を前にして何から手にするべきか迷っているマチルダの背中をサンダースが優しく押す。マチルダが意を決したように収穫したばかりの林檎に齧りつく。芯まで食べてしまいそうな豪快な食べっぷりにサンダースが微笑み、俺は声を立てて笑う。やがてチャイムが鳴り、サンダースが立ち去り、俺も後ろ髪を引かれながらも後にする。独り取り残されたマチルダが心配で何度も振り返るも、それが杞憂だとすぐにわかった。

(頼んだぞ)

 すれ違う人影に胸の内で語りかける。渡されたバトンの重さを確かめるようにデイブはしっかりと頷き、力強い足取りでマチルダの元へと向かう。それに比べメヌエットは気のない様子で煙草を吹かしこちらを見下ろしている。

(戯言に聞こえるだろう。だが、おまえには二人が必要だ。二人におまえが必要な以上に)

 メヌエットが顔をしかめると年相応のあどけなさが浮かんだ。それでようやく彼女が一回り以上も歳が離れている子供だと実感した。

(いずれわかるさ。だから、それまで……)

 語り足りない言葉を補うように笑いかける。

 耳朶を打つ足音を子守唄に、俺は意識を手放した。


――Aftermath

「まったく、何がそんなに幸せなんだか」

 メヌエットは足元に転がっているゾンビの死体を爪先で蹴る。苦悶は浮かべておらず安らかな死に顔だ。

「ちっ」

 その幸福そうな笑みに苛立ちが募る。

「ねぇ、まだ? ここで死体の仲間入りする趣味はないんだけど」

 放心した少女相手に言葉を尽くしているデイブが振り返ると首を振った。

「ダメみたい。たぶん耳が聞こえないんだと思う」

「荷物よりましなのは足がついているだけってわけ?」

 余計な重荷との印象が強まる。自分一人ならこの時点でなんの躊躇いもなく投げ捨てている。だが、デイブは絶対に首を縦に振らないだろう。

「筆談でも何でもいいから早くして」

 あのゾンビの言うことが本当だとしたらデイブこそが人類の救世主だ。無下に扱うのは得策ではない。

 理性ではそう判断しているが、感情はデイブの甘さに反吐が出る。怒りのままに鉄格子を蹴り新たな煙草に火を着ける。

 甘さは錘だ。切り捨てなければ沈んでしまう。未だにそれすら理解できない奴を目の当たりにすると虫唾が走る。

「ちっ」

 メヌエットは短くなった煙草を乱暴にもみ消すと、苛立ちの原因と理由がセットとなり近付いてくるさまを睨み付ける。この先いらぬ厄介事を引き受けなければならぬ予感に、早くも次の一本へと手が伸びた。


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