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8 a Zombie  作者: 夜嶋朝人
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―5th Session―

―5th Session―


 三回、次いで一回、最後に強弱をつけ二回ノックされる。そっくりそのまま真似て叩き返すと南京錠を解錠する音に続き扉の隙間から朝日が差し込んできた。

「おはよう」

「ヴァ~」

「うん、今日も申し分のない天気だ」

 サンダースが早朝の澄んだ空気に劣らぬ爽やかな笑みを浮かべる。連日の畑仕事のため肌は健康的に焼け、体重も落ちたため以前の腺病質な雰囲気は微塵もない。農作業着の上から羽織ったランチ・コートと斜めに被ったテンガロンハットも板についている。

「芋とマチルダが待ってるよ」

「ア~」

「昨日見ただろ。二人じゃ食べきれない量さ。行こう」

 サンダースがこちらの背中を押すようにして歩き出す。

 一歩納屋から出ると湿り気を帯びた外気に包まれた。山間から顔を覗かせた朝日が朝露に濡れる草花を輝かせ、名も知らぬ鳥が過ぎ去る秋を惜しみ高く鳴く。刈り入れが終わり残った僅かな作物が肩を寄せ合うようにして到来する冬に備えている。

「すまない。本当なら毎食三人分を用意できる予定だったんだけど、天候がね……」

 俺の視線が畑の上で長く止まったのを無言の非難と受け取ったのかサンダースが謝罪を口にした。

 長雨が続いたのはサンダースのせいではない。俺が慰めを口にするよりも早くサンダースが自嘲気味に言葉を紡いだ。

「いや、言い訳だね。雨を見越して肥料を抑えればよかっただけだ。僕の経験不足だよ」

 気にするなと顔の前で手を振るもサンダースの表情は冴えない。

「そういう訳にもいかないよ。畑からの収穫だけだったら僕もマチルダも叔父貴と同じ運命を辿ってた。いくら感謝の言葉を並べても足りないくらいだ」

 人里離れた山の麓にひっそりと建つこの山小屋に辿り着いた時には既にサンダースの叔父は絶命していた。サンダースによれば、ベトナム戦争に従軍していた叔父は、『カーツ大佐になり損ねたような人』とのことだ。確かに世界が崩壊する以前からこのような山奥で半ば世捨て人として生活していたのだから変わり者であることは間違いない。しかし、だからといってベトナムのジャングルに帝国を築いた人物と比較されるほどなのかと疑問に思ったが、遺された日記を紐解き言わんとすることが理解できた。

 サンダースの叔父はゾンビが徘徊するようになったことに絶望などしていなかった。むしろ動く的をおおっぴらに撃てるようになった喜びで溢れていた。記述を鵜呑みにするならば少なくとも千匹はゾンビを狩っている。戦場でなら間違いなく勲章が授与されただろう。だが、残念ながら賞賛はおろか、余人に知られることすらなかった。

 それがサンダースの叔父を絶望に追いやった。

 日記には繰り返し『名誉勲章』や『銀星章』との単語が登場し、最後の言葉は、『この負傷が名誉戦傷章に値しない世界に生きる価値はない』だった。自らが仕掛けた罠を踏み抜いた足の甲には親指大の穴が空いていた。

「大丈夫? もしかして眠い?」

 上の空となっていたようだ。サンダースが心配げにこちらを覗き込んでいる。

「ア~」

 俺がはっきりと頭を振るとサンダースが肺を空にするように大きく息を吐き出した。

「ふぅ、心臓に悪いな。でも本当に大丈夫かい? 最近心なしか顔色が冴えないからね」

「ウアァ?」

「忘れたのかい? 僕の前職を。これでも近所で評判だったんだよ」

 白衣を着てもっともらしく振る舞っているサンダースを想像しようにも、あまりにも初対面の印象が強烈なため半裸の姿しか思い浮かばない。その上から無理矢理白衣を着せると変質者以外の何者でもなかった。

 思わず吹き出すとサンダースが眉を持ち上げた。

「何を想像したかは言われなくてもわかるよ。肩に穴が開かなかったのは運が良かったってわけだ?」

「アァ~」

 それを持ち出されると弱い。銃弾が残っていたならここまで綺麗に傷が完治することもなかっただろう。俺が神妙な顔で拝むとサンダースが破顔した。

「あははは、冗談、冗談。むしろ拝まなきゃならないのは僕の方だ。本当に感謝してるんだ。こんな陳腐な言葉しか出てこない自分がもどかしいくらいにね。なんなら毎週日曜日を『感謝の日』とし、『ありがとう』以外の言葉は口にしないようにしてもいいぐらいだ」

 生真面目なサンダースならやりかねない。俺は慌てて首を振った。

「嫌かい? ならこれ以上僕とマチルダの感謝の貯金箱を溢れさせないでくれ。切り詰めればこの冬は越せる。畑だって軌道に乗った。来年には自給自足できる。もう躍起になって探索に行く必要はない。君が留守の間生きた心地がしないよ。マチルダなんて一日中ソワソワしてる。見てるのが辛いぐらいだ」

 直截的な表現を避けるサンダースらしくないむき出しの言葉だ。それだけ心に響く。後ろめたさに視線を逸らし、ライダーズ・ジャケットの懐からメモ帳を引っ張り出すのに手間取るふりをしながら時間を稼いだ。動悸が治まり指先が震えないと確信が持てると俺は反論を書き連ねた。

『心配してくれてるのはわかる。でも、俺も同じように二人が心配なんだ。物資は増々欠乏してる。今の内に集められるだけ集めておかないと手遅れになる』

「それは――」

 手を上げサンダースの反論を封じる。

『何も物資だけを言ってるわけじゃない。情報だってそうだ。いつまでも仙人のように山籠もりしているわけにはいかない。いつかは輪を広げなきゃならない。その際にどこの門戸を叩くのか、あるいはどういった人達を迎えるのか、一生を左右する問題だ。メタル・ゴッドの二の舞はごめんだろ?』

「二つの点に関しては同意する。まず第一に、選択肢が多いに越したことがないという点。第二に、ファック・ザ・メタルゴッド!」

「ヤ~!」

 ヘッドバンキングしてみせたサンダースが一転して冷静さを取り戻す。

「だけど輪を広げることには反対だ。少なくとも今はまだその時じゃない。まずは三人での生活の基盤を固めないと。何度も言ってるだろ」

 この一年の間に意見が対立したことは数えるほどしかない。その内の一つがこれだ。

 サンダースは外部との接触に対して消極的だ。慎重であることに対して文句はない。ただ必要以上に臆病であるべきではない。好むと好まずとにかかわらず変化は訪れる。その時になってから慌てたのでは遅い。今の内から心積もりはしておくべきだ。

 この点に関して意見が平行線を辿っているのは、ひとえに俺の眠気に対する認識の違いからだ。ここで生活を始めてから一度も眠気に襲われていないため、サンダースは甘く考えている。こちらが強硬に主張しなければ毎朝のノックも止めてしまうだろう。

 夜になると俺は離れの納屋に自らを軟禁する。こうすれば万一意識を失いゾンビと化しても二人を襲う心配はない。決められた通りにノックを返すのは覚醒の証だ。それ以外にも、常に腰から手錠をぶら下げ、猿轡代わりとなる布を首に巻いている。僅かでも眠気の兆候を感じたなら自らを拘束し猿轡を噛むつもりだ。

 根本的解決でないことは重々承知している。だが、原因がわからないのだから対症療法でしのぐしかない。サンダースは極度のストレスが眠気を誘発したと考えているようだが、その意見には同意できない。むしろ――。

 反射的に肩に掛けたショットガンに手が伸びる。ほぼ同時にサンダースもホルスターから拳銃を抜いた。

 ガサゴソと揺れていた繁みが割れ立派な鼻が顔を覗かせた。俺が譲るとサンダースが狙いを定め猪の脳天に風穴を開けた。久しぶりのタンパク質だ。しかし、それを祝うよりも先に俺たちは駆けだした。


「あぅああぅあ~」

 予想通り飼育小屋の前でマチルダが右往左往していた。散乱したキャベツの葉っぱを拾い集めようと這いつくばっているためジーンズは泥まみれだ。

「あい~あ?」

 気配でこちらに気付いたのだろう。悪戯を咎められた子供のように反省と反発が入り混じった表情を見せる。

「こら! ダメじゃないか! 餌をあげる時は一緒にって言っただろ」

 微妙な空気の震えから怒られていることを感知しマチルダが頬を膨らませる。

「マァ~」

「いや、今回はしっかりと言い聞かせないと、甘やかすのはためにならない」

 サンダースが膝を折りマチルダと同じ目線となる。

「いいかい? いくら小型とはいえ相手は野生なんだ。突進されて打ち所が悪ければ大怪我につながる。わかるね?」

 噛んで含めるように言い聞かせる。音声ではなく、肩に置かれた手に籠められた力から真剣さが伝わりマチルダが項垂れた。

「う~」

「君に何かあったら、僕は、僕等は――」

「ヴァッ」

 俺の制止にサンダースが言葉を呑みこんだ。例え仮定でも口にすべきではない。

「ア~」

 拾い上げた白杖の泥を払い小さな手に握らせる。コツンコツンと地面を叩く杖の音に説教を封じられたサンダースが恨めしげな視線を送ってくる。

 肩を竦めて見せると、呆れたと言わんばかりにため息が返ってきた。


「あいあい、あーめう」

 食卓を囲みマチルダの祈りに合わせ唱和し湯気を上げているスープを一口啜る。

(美味い)

 味覚は舌先だけで感じるものではない。忙しなくスプーンを口元に運ぶマチルダの様子や、それを温かく見守るサンダースの表情、窓から差し込む暖かな日差し、小鳥のさえずりなど、五感を総動員して味わうものだ。

 サンダースの話に相槌を打ちつつマチルダのサインを見逃さぬよう横目で窺う。おかわりを我慢している時はスプーンを握っている右手に力が入るのですぐにわかる。今日は対面に座るサンダースがいち早く気付き、そっとマチルダの皿に追加のスープを盛った。

「食べ盛りなんだから、食べるのが仕事だよ」

 何度そう伝えてもマチルダは遠慮して最低限しか口に運ばない。ただでさえ小柄なのだ。これ以上発育が遅れては将来に差し障りが出る。だからこそ、こうして俺も食卓につき、  食料は心配する必要がないとメッセージを発しているのだ。

 喉を通る温かいスープに惹起され、不意に口の中に甘みが広がった。思わずスプーンを置き口元を袖で拭う。

「口に合わなかったかい?」

「イヤ~」

慌てて顔の前で手を振る。

「そう? ならいんだけど。それで、今日はどうする?」

『例の所に行くつもりだ』

 俺の返答にサンダースが眉根を寄せる。

「猪の解体との最重要任務を差し置いてもかい? さっきも言った通り僕にはそこまで切迫しているとは思えないけど」

 サンダースの視線を追う。部屋の隅に置かれた段ボールの中には食料や生活物資が詰まっている。方々を駆け巡り掻き集めた血と汗と涙の結晶だ。爪に火を灯すようにして生活しているので物資の減り方は緩やかだ。それでも確実に中の空間は広がっている。補充しなければ春先には空っぽになるだろう。それに――。

『クリスマス。マチルダには必要だ』

 去年はここに移って来たばかりで何もしてやれなかった。クリスマスだけじゃない。ハロウィンや誕生日すらろくに祝えていない。そろそろ人間らしい生活を取り戻しても罰は当たらないはずだ。サンダースも同じ思いなのだろう。渋々とではあるが頷いた。

「それに関して異論はないよ。文化的生活は不可欠だ。だけど――」

「ア~」

「あ~」

 俺が口を挿むと、奇しくもマチルダの『ごちそうさま』と美しいハーモニーを奏でた。その様子に強張っていたサンダースの頬が緩んだ。

「……絶対に無理はしない。少しでも危険だと思ったら近づかない。いざとなったら身一つで逃げる。物資なんかで代えられないんだから。いいね?」

「アッ!」

 胸の奥で疼く良心をねじ伏せるようにして俺は殊更強く胸を叩いて見せた。


 カーステレオのメモリを目一杯捻ると歪んだギターが窓を震わせた。

『おいおい今さら自己嫌悪とか冗談だよな?』

 マークに応じる代りにアクセルを踏み込む。スピードメーターの針が鞭を入れられた馬のように跳ね、車窓を流れる景色が線と化す。

『それが答えか? 次の瞬間にも眠気が襲ってくるかもしれないぜ? そうなったらガードレールとお休みのキスをしておさらばだ。それとも寝ないとの確信でもあるのか?』

(……おまえが一番よくわかってるだろ)

 足を緩めると風の音が小さくなった。

『そうだな。いつ効き目が切れてもおかしくねぇ。なんせ一年だ』

(仮説が正しいとしてだ。まだ決まったわけじゃない)

『はっ、こりゃ傑作だ。一年だぜ、一年。わかるか? それまでは平均すりゃ一週間に一回は眠ってただろ。それなのに急になんで一切眠気に襲われなくなった? 何が違う?』

(それは、サンダースも言ってるように、精神の……)

『信じてないことでも言い続ければやがては本当になるってか? 末期癌の患者が霊水に縋るのと変わらないぜ。全然ロックじゃねぇな』

 マークがせせら笑う。

『期待してんだろ? 適当な獲物に出会えないかと。じゃなきゃ反対を押し切ってまで探索に出る必要はねぇもんな。心配すんなって。その時が来たら俺が背中を押してやるよ』

 ハンドルを握る手に力が籠ったことを悟られたくなくてそっと掌をジーンズで拭う。

『生きることは奪うことに他ならない。世界は何も変わっていない。ただ、より露骨になっただけだ。さぁ、存分に血を吸おうぜ。とびっきりの眠気覚ましになるだろうよ』

 いくらアクセルを踏み込もうとも低く笑うマークの哄笑から逃れる術はなかった。


 探索地をどこに定めるかは死活問題だ。目につくスーパーやモールからは物資が消え殆ど何も残っていない。かといって個人宅を虱潰しに探していたのでは著しく効率が悪い。前は地図にも載っていない小ぢんまりとした商店を見つけては漁っていたが、それも粗方探し尽くしてしまった。今では半径百マイル以内で知らない道はないほどだ。

 必然的に行動範囲は広がっていかざるを得ない。助手席に広げた地図に従い車線を変更し高速を降りる。暫く道なりに走ると森が途切れ視界が開けた。

『ヒュー』

 マークが口笛を吹きたくなる気持ちもわかる。一面の青空を背景に色とりどりの曲線が走るさまは中々壮観だ。

『ギネスは伊達じゃねぇな。まるで血管だぜ』

 観光案内によれば保有するローラーコースターの数は世界一とのことだ。激しい高低差と連続するループは見ているだけで眩暈を覚える。

『おい見ろよ。未だに楽しんでる奴らがいるぜ』

 ループの頂点で逆さまにひっくり返ったライドに取り残された乗客が強風にあおられ左右に揺れる。遠目にはマークが皮肉ったように満喫しているように見えなくもないが、ゾンビと化した彼らにスリルを感じる感覚は残っていないだろう。

 標識に従い正面の駐車場に乗り入れ、目立たぬよう大型車の陰に車をとめた。

『こりゃ長蛇の列だ。もっとも並ぶって習慣はないだろうけどな』

 広大な駐車場は七割がた埋まっている。来園者は多いだろうと予想していたが、これほどまでとは思わなかった。周囲を柵に囲まれ出入口が一ヶ所しかないため逃げ遅れたのかもしれない。いずれにしろ好都合だ。

 ゾンビで溢れていれば生存者も迂闊には近づけない。このぶんなら土産物屋や医務室などの物資が荒らされず残っているはずだ。期待に胸が膨らむ反面、裏を返せば人と遭遇する可能性はぐっと低くなるといことだ。それを残念に思う自分を発見する前に急いでドアを開けると、大型のバックパックを肩に車を後にした。


 日に焼け変色したパンフレットによれば、敷地の形が南部最大の州に酷似していることから、『リトル・テキサス』との愛称で親しまれているとのことだ。園内はそれぞれ特色が異なる四区画に分かれており、北から時計回りに『アドベンチャー・ランド』、『ミステリー・アイランド』『ワンダー・ゾーン』『ゴールデン・エイジ』となっている。

 ゾンビを掻き分けるようにしてメリーゴーランドなど家族向けのアトラクションが並ぶ『ワンダー・ゾーン』を過ぎ、ぬいぐるみショーが開催されていたステージを横目に、唯一ゾンビが徘徊していても不自然ではないお化け屋敷を横切ると、さながら西部劇の決闘が行われそうな開拓時代の街角を模した一画に出た。広い通りの両側にログハウスが建ち並び、油の切れた風見鶏がキイキイと鳴く。

 ひときわ大きな看板を掲げる土産物屋の両開きの扉を押し開け一歩店内に足を踏み入れると思わず舌打ちが漏れた。棚は倒れ、商品は乾いた血だまりに没している。食い散らかされた死体の頭上では蠅の大群がダンスを舞い、ゾンビが気ままに闊歩する。

 手付かずとまではいかないが、もう少しましかと期待していただけに落胆も大きい。

 気を取り直して比較的被害の少ない一画を中心に見て回り、クッキーの缶や遊園地名がゴシック体で大書されたティシャツなどを詰めていく。最終的にはバックパックだけでは足らずに、レジの下にあった紙袋を引っ張り出す必要があるぐらいには回収できた。

 すっかり重くなったバクパックを背負い、おのぼりさんのように両手に紙袋を提げたところで大事なことを忘れているのに気付いた。死体に足を取られぬよう注意しながら引き返し棚に寂しく座っているマスコットのぬいぐるみを手に取る。

(ウサギ……だよな?)

 埃を払い矯めつ眇めつ眺める。

 耳は長く、毛並みは白い。熊でないことは確かだ。しかし、無駄に鼻がでかく寄り目がちなため、人相の悪いウサギと豚のあいの子のようだ。ありていに言えば可愛くない。

(大丈夫か? これで?)

 マチルダの触角は侮り難い。指先が触れた程度で俺とサンダースの区別がつく。彼女なら触覚を頼りに正確にぬいぐるみの形を思い描けるかもしれない。しかし他のは綻んで綿がはみ出たり、血だまりに浸かっていたりと、散々な状態だ。辛うじてプレゼントとして態をなしているのはこれしかない。

 チラリと腕時計に視線を走らせる。日没まで猶予はあるがいつまでも迷っているわけにもいかない。

(行儀よくしてろよ)

 俺はぬいぐるみに言い聞かせ紙袋の奥に押し込んだ。


 医務室、警備員の詰め所と回り、最後に牢獄をイメージしたレストランに辿り着いた。鉄格子の嵌った窓から店内の様子を窺うも、自らが食材となり食い散らかされたシェフの死体が転がっているぐらいで土産物屋に比べれば綺麗な状態だ。

(これは期待できるかな)

 間口の狭い入口を抜け、ひっくり返った椅子やテーブルに足を取られないように注意しながら厨房へと回る。

 店内に比べ手狭に感じるのは中央を大きな作業台に占拠されているからだ。勝手口の前には冷蔵庫や椅子がバリケードとして積み上げられ、更にはドアノブにはチェーンが巻きつけられている。そこまでして侵入を阻止したかったようだが、一匹ゾンビが徘徊している時点で試みが失敗に終わったことは明らかだ。

 コンロにかけられたままとなっている特大の中華鍋を覗き込むと、苔むした得体のしれない料理が根をはっていた。流しに溜まった食器も黴と同化してしまっている。錆びた肉切り包丁を手に取ると、コック帽を被ったゾンビがまとわりついてきた。

(あんたの職を奪うつもりはないよ)

 庖丁を元に戻し隅に備え付けられた物置を覗き込む。

『あんだこれ?』

 マークが素っ頓狂な声を上げるのも無理はない。箒やバケツに混じりウサギの生首が鎮座しているのだ。

『ハッピーバースデー!』

 首と泣き別れた胴の埃を払うと薄れかけたメッセージが読めた。どうやら誕生日の客にマスコットに扮して料理を振る舞っていたようだ。

『クスリでご機嫌なウサギにしか見えないぜ』

 マークがくさす通り、着ぐるみの瞳のペイントが剥げかけているため焦点が合っていないように見える。チロッとはみ出した舌もチャームポイントというよりは弛緩したジャンキーのようだ。

 不安になり紙袋からぬいぐるみを取り出し比較する。さすがに着ぐるみほどひどい状況ではないが、それでも一度植えつけられたイメージは容易に拭い去れない。

(おい! どうしてくれんだ? 禁断症状をていしたウサギにしか見えなくなったぞ!)

『こんな世の中だ。ウサギだって一発決めなきゃやってられねぇんだろ。好物が「キャロット」じゃなく「ショット」になったのさ』

 大して出来のよくないジョークに腹を抱えるマークには取り合わず、洗剤など使えそうな物を回収する。

(こんなところか)

 目一杯物資を詰め込んだ紙袋を持ち上げた瞬間、ブチッとの音と共に重さが失われた。持ち手から解放された紙袋が重力のなすがままに倒れる。

「チッ」

 散らばった中身を拾い集めるべく腰をかがめると、リュックが調理台に引っかかった。調味料の小瓶などは隙間に入り込んでしまっているので這いつくばらなければ取れそうにない。そうなるとホルスターもつっかえて邪魔だ。仕方なく壁際に荷物一式をまとめる。

(どいてくれ)

 先ほどのコック帽をかぶったゾンビを押しのける。物資は予想よりも広範囲に散乱しており思うように拾い集められない。

「ヴァアアア~」

(邪魔だつってんだろ!)

 執拗に纏わりついてくるゾンビに腹を据えかね思わず包丁を掴むも、落ちた品物を血で汚すわけにもいかず、振り上げた拳を下せない。

「ヴァアアァ~」

(いい気になるなよ)

 腰に提げた手錠を外しゾンビを排水管に繋いだ。

「ガァアアアアア!」

(テメェにくれてやるほど気前は良くねぇよ。終わったら外してやる。大人しくしてろ)

 激しく暴れるゾンビを尻目に再び腰をかがめる。念のため店内の方も見て回るがさすがにここまで転がってきてはいないようだ。ついでにテーブルクロスやナプキンなど有用な物を回収しつつ何気なく壁に目を向けると再びウサギと目が合った。全部で四匹描かれており、それぞれがギターやトランペットなど楽器を抱えている。その中の体毛が紫色の一匹がスティックを片手にカウントを取っている。

“1,2,3,GO!”

 吹き出しのカウントに合わせるかのように大音量のロックが鳴り響いた。


“Kick out the jams mother fucker”

 その一声からなだれ込むようにしてバンドの演奏が始まる。

 聞き間違えるはずがない。パンクの元祖と名高いMC5の名曲だ。ライブ盤であり、音も演奏も荒いが、それゆえに直接バンドの放出する熱を感じられる。少しでもこのエネルギーにあやかろうと一時期ライブ前に必ずこの曲をかけていた。

 音の源は外に備え付けられているスピーカーだ。迷子や、アトラクションの待ち時間の案内に使われる物がどうして大音量のロックを奏でているのか理解に苦しむ。何かの拍子に非常電源が入ったにしても冒頭に放送禁止用語を叫ぶ曲がプログラムに組み込まれているとは考え難い。

(何が起ってるんだ?)

 こちらの困惑をよそにそれまで店内を思い思いに彷徨っていたゾンビが見えない糸に導かれるようにして外に出ていく。窓辺に寄ると他の建物からも同様にゾンビが吐き出され、たちまちスピーカーの下に黒山の人だかりができた。まるで砂糖に群がる蟻のようだ。こうなってはちょっとやそっとのことでは離れないだろう。

 逸る心臓を抑え、正門の方を注視する。

(問題は何人かだ。少人数なら――)

『少人数ならなんだ? 襲うのか?』

(……やり過ごせる)

『そうは問屋が卸さないだろ。入念に準備してるぜ』

 マークに指摘されるまでもない。スピーカーの電源を確保するだけで相当な労力だ。組織的な活動と見て間違いない。

(……来た)

 整然と隊列を組んだ一団が足並みを乱すことなく迫ってくる。その迫力に思わず息が詰まる。中央で指揮を執るのは白髪を短く刈りこんだ強面の男だ。遠目からでも厳格な雰囲気が伝わってくる。その手慣れた指揮ぶりから元軍人である可能性が高い。男の指示に従い、数人のグループに分かれ、三十人ほどいた人数はあっという間に散開した。手元には数名の護衛が残っているだけだ。

『こりゃ厄介だな。どうする?』

 指揮官の男が陣取っているのは各施設の入り口が見渡せる場所だ。当然、このレストランも例外ではない。普段ならゾンビに紛れ幾らでも隠密行動が可能だが、今出ていけばパドックを疾走するシマウマ以上に目立つ。となると、取るべき行動は一つしかない。

(これ以外あるなら教えてくれよ)

 俺は足元の死体から汚れたコートを剥ぎ取り、それを被るようにして倒れ伏した。


 死体として悩ましいのは死に方だ。微動だにしないとの鉄則を守りつつ、いかに周囲の状況を把握できる姿勢を取れるかが鍵だ。うつ伏せは楽だが十分な視野が確保できず、かといって仰向けで目を見開いているわけにもいかない。結局、俺は壁に背中を預けること にした。

 両足を投げ出すと、それを跨ぐようにして新たな客が入店してきた。間一髪のタイミングに浮かびもしない冷や汗を拭いたくなる。

 薄目を開け様子を窺う。

 全部で四人。一人だけ大きなボストンバッグを下げ無腰だが、残りは武装している。

(若いな……)

 全員十代だろう。銃を手にしていなければ休みに遊びに来た学生のように見える。

「なにぼさっと突っ立ってんの? いくら待ったってボーイは来ないわよ」

「わ、わかってんよ。危険がないか確認しただけだ。おい! ここは安全だ。さっさと仕事に取り掛かれ」

大柄なあばた面の少年に小突かれ鞄を抱えた少年がよろめくようにして数歩進んだ。

「ぅんだ、そのへっぴり腰は! 重くなんのはこれからだぞ」

「そうだぜ! どうすんだ。そんなんで? 持てるのかよ?」

「荷物持ちがろくに運べねぇんじゃ目も当てられねぇな」

「目も当てられねぇぜ」

 あばた面がオウムのように自身の罵詈雑言をなぞっている中肉中背の少年の頭をはたいた。

「うるせぇよ。てめぇもだ。さっさと探せ」

 二人があばた面に押し出されるのを横目に、紅一点の少女がポニーテールを揺らしながら奥へと進む。

「おい、勝手に行動すんな。リーダーは俺――」

「しっ!」

 少女の剣幕に呑まれあばた面が口を噤むと、少年たちの耳にも奥で蠢いているゾンビの気配が届いたのだろう。一様に緊張した表情で銃を構え直す。へっぴり腰のあばた面とは対照的に、少女は特に気負ったところもなく軽やかともいえる足取りで厨房へと消えた。

「ヴァァァアァアア!」

 獲物を前に猛り狂うゾンビの様子に残された三人の腰が引ける。最も大きく仰け反ったあばた面が誤魔化すかのように荷物持ちの少年の背中を叩いた。

「様子見てこい!」

 少年が鞄を盾代わりに胸に抱え恐る恐る進む。その鼻先に鈍色の物体が突き出されると短い悲鳴を上げた。

「これで頭上の糸を切ったら」

 少女が押し付けるようにして少年に拳銃を握らせる。確認するまでもない。俺の愛銃だ。

「えっ? あっ? えぇ?」

 しどろもどろとなっている少年を顧みることなく少女は器用に片手でマッチを擦ると煙草に火を着けた。落ち着き払って紫煙をくゆらせる態度は歴戦の兵のような風格を漂わせている。

「あのうめき声はなんだよ! アレがいるんだろ? どうなってんだ? せ、説明しろよ」

 あばた面の少年は少女に比べ情けないほど狼狽えている。未だにリーダーを気取っているのが滑稽を通り越して憐れですらあるほどだ。

「そんなに気になるなら自分で確かめたら?」

 少女の挑発にあばた面が唾を飲み込む。周りに自分を助けてくれる者がいないと理解すると、荷物持ちの少年の肩越しに恐々厨房を覗き込んだ。

「ぅんだあれ?」

「ゾンビの見世物でも企んでたんじゃない」

「そんな馬鹿な!」

「そうだぜ。ゾンビなんてそこら中にいるじゃねぇか。金なんか払うもんか」

「おまえは黙ってろ!」

「そうだぜ。おまえは――」

「テメェのことだ!」

 どやしつけられた太鼓持ちの少年がぱちぱちと瞬きを繰り返す。自分のことだとは夢にも思っていなかったようだ。

「手錠ってそんなに丈夫なのかな? あれだけ暴れてるんだから金属疲労で壊れてもおかしくないんじゃない」

 荷物持ちの少年がボソッと漏らした言葉にあばた面が弾かれたように顔を上げた。

「ふ~ん、一応脳みそ入ってるんじゃない。なのに言いなりなの? まぁ、その方が楽だものね」

 少女の辛辣な物言いに荷物持ちの少年が俯く。

「手錠は真新しいように見えたわ。少なくとも今すぐに壊れそうにはない」

「どういうことだよ?」

「さぁ? あの個体だけを隔離しておきたい理由でもあったんじゃない。肉親だとか」

(いや、どこのどなたか一切存じ上げておりません)

 内心で反論するも少年たちに届くはずもなく無用な混乱を招く。

「そいつはどこだ? どこにいる?」

 あばた面が取り乱したように左右を見回す。猿の両脇に餌箱を置いて蓋を交互に開け閉めすれば同じような反応を示すだろう。

「少なくともここはもぬけの殻。ただ――」

「ただ? ただ、なんだ?」

「戻ってくるつもりはあるんじゃない。荷物が残ってたから」

「荷物? 荷物って食料とかか?」

 一転あばた面が喜色を浮かべる。信号機よりも顔色が変わりやすい奴だ。

「マジかよ。ははは、マジか! 見ろよ! これこそが日頃の行いだぜ」

 バシバシと太鼓持ちの肩を叩く。

「なにグズグズしてんだ? 戻ってくるかもしれないんだろ? ならさっさと頂いちまおうぜ。まずは邪魔なゾンビを始末しろよ。繋がれてんなら楽勝だよな。で? どれぐらいあんだ? こんぐらいか?」

 両手を広げたあばた面に少女が紫煙を吹きかける。

「どうぞご自由に。あたしは別に繋がれたゾンビがいくら吠えようとも気にならないし」

 試合中に飛び蹴りを喰らってノックアウトされたボクサーのようにあばた面がポカンと口を開ける。

「ぼ、僕もそれでいいと思う。害はないんだし……」

 意外なことに少女の意見に荷物持ちの少年が同調した。民主主義は死に絶えたが、意見が対立した際に数がものを言う風潮まで廃れたわけではない。劣勢に立たされたあばた面が両手で己が口を塞いでいる太鼓持ちの頭をはたいた。

「てめぇはいつまでそうしてんだ!」

「ブハッ! だってリーダーが――」

「うるせぇよ! おめぇもなんとか言え」

 あばた面の剣幕に押される形で太鼓持ちが少年に向き直った。

「えっと、え~、あっ、そうだ! おまえ! 荷物持ちの癖に一丁前に銃なんて持ってんじゃねぇ……とかですか……」

「自信なさそうに言ってんじゃねぇ! でも、こいつの言う通りだぜ。百年はぇよ」

 あばた面に詰め寄られ荷物持ちの少年は抵抗することなく拳銃を手放した。その様子に少女の目が細くなる。

「同じへっぴり腰なら脳が入ってる方がまだましなんだけど」

「へっ、こいつが撃つもんか。猫に真珠だぜ。これだから新参者はよぉ。わかってねぇな」

 あばた面が両手に拳銃を構えはしゃぐ。ナイフしか持っていない太鼓持ちが指を咥えて見ていることに気付くと、古ぼけた方をおさがりとして渡した。

「俺の愛用していた銃だ。特別に貸してやる。大事に使えよ」

 本当に弾が出るのか怪しい年代物だ。それでも太鼓持ちの少年は小躍りした。その横で荷物持ちの少年の手を取っていた少女が疑問を発する。

「指の腱が切れてるようには見えないけど」

「切れてんのは頭の方さ。てめぇの親父が目の前で食われてんのに満足に引き金も引けねぇフニャチン野郎だからな」

 少女の表情が初めて動いた。持ち上がった口角の角度から、戸惑っているようにも、面白がっているようにも見える。

「てめぇが少し指を動かすだけで仇を討てた。なのに見殺しにしたんだよな?」

「み、見殺しになんて、して、して、して……ない」

 少年が喘ぐように言葉を絞り出す。

「あん? 聞こえねぇな。はっきり言えよ? ならなんで撃たなかったんだ?」

「それは……」

「そうだ! はっきり言え! ゾンビを人間と変わらないと思ってるって」

「このダボが! てめぇが答えてどうする!」

 太鼓持ちをどやしつけるあばた面の声が遠ざかる。

『ゾンビを人間と変わらない』

 その一節に記憶の奥底に埋もれている扉が激しくノックされる。

(どこだ? どこで聞いた?)

 以前にもゾンビを撃てないとの趣旨の発言を耳にした覚えがある。それがどこだったか思い出せず、継ぎ接ぎだらけの映像が浮かんでは消えていく。まるで逆回転の映画を三倍速で見ているような気分だ。不意にその回転数が落ち、股間の辺りがうすら寒くなった。

(そうか! あの噛み切った)

 女が吐き捨てた肉塊の形から芋づる式に関連した出来事が思い出される。武器を巡り対立した男に少年は『ゾンビすら撃てない』と罵倒されたのだ。

(名は、確か――デイブ、だったかな?)

 あの時と違い今は短く髪を刈り込んでいるのでさすがに性別を間違うことはないが、線が細く中性的な印象は変わっていない。手足がひょろりと長く、寸詰まりのジーンズからはくるぶしが覗き、反対にぶかぶかのスタジアムジャンバーの袖は折っている。

「ゾンビも生きてる。そう言いたいわけ?」

 少女の問い掛けにデイブが躊躇いがちに首肯した。

「だ、誰かの父親だったり、娘だったっりするんだよ。それは変わらないじゃないか。僕には、僕には無理だ。撃てない! 撃てないよ……」

 拳を握りしめたデイブの肩が小刻みに震える。

「けっ、フニャチン野郎が」

 露骨に侮蔑を示したあばた面に反し、少女の面上に蔑みの色は浮かばない。むしろ笑みが広がった。だが、そこに温かさはない。見る者を凍りつかせる冷笑だ。まだ面罵された方がましと思える冷たさだ。

 少女は何を思ったかサバイバルナイフの鞘を払うと厨房に姿を消した。再びゾンビが激しく暴れる。

「ギャアアグヮアア!」

「教えてくれる? 人は脳天にナイフがブッ刺さった状態でもこんなに元気なのかしら?」

「アギャアアア!」

「お次は肺。空気が漏れて呼吸がまともにできなくなるからのたうち回るぐらい苦しいわよ。全然そうは見えないけど」

「な、な、何してるの。や、やめてよ」

「どう? まだ戯言を吐くならどこまで細切れに出来るか試してみましょうか?」

「それは……」

「頸動脈。映画みたいに天井まで血が噴き出したなら最高だけど。残念、ボタボタと垂れるだけ」

 目、耳、指、腿、腸、肝臓、腎臓。心臓を除き次々と部位が挙げられる。

 俺の位置から厨房の中は窺えないが、強張ったデイブ達の様子から惨状が目に浮かぶ。

 生きながら解体されているゾンビの悲鳴に耐えかねデイブが耳を塞ぐと、いたぶる手を止めた少女がデイブに詰め寄った。返り血すら一滴も浴びておらず、僅かに頬が上気している以外は特に変わった所もない。そのことが少女の異様さを引き立てる。

「目を逸らして耳を塞げばこの世界がなくなるとでも? あははは、ならいいね。あれもこれも全部夢。ギャハハハハ」

 ひきつけを起こしたように笑う少女に呑まれ呼吸すら忘れる。唐突に笑いが止むと光を失った瞳がデイブを射抜いた。

「アホか。なわけないじゃん。この世界に虹はかからない。それが呑み込めないなら死ね」

 魂まで凍ってしまいそうな声だ。明らかに少女は苛立っている。それも火山が噴火するような激しい怒りではなく、波がじわじわと海岸線を浸食するような静かな――だが深い――憤怒だ。

 度の過ぎた理想は時として人を苛立たせる。特に自らが泥にまみれた自覚を持っている者ほど手を汚そうとしない人間に対し嫌悪感を示す。物資を根こそぎ奪うことに賛同しなかった俺に対してマークが見せた歯がゆさと本質的には同じだ。

「だからって足元ばっか見るの? ぼくは……ぼくは、いやだ!」

 毅然と顔を上げたデイブの頬を刃が撫でる。涙の痕のように一筋の朱が引かれる。

「なら、せいぜい躓かないよう気を付けることね。切っ先はどこにだって潜んでるのだから」

 そう言い残し少女がデイブから離れる。

 再びあばた面が探索を命じたのは、それから暫く経ってからだった。


 口を開く気力すら奪われたのか探索は黙々と行われている。永遠とリピートする曲のメロディーにのって、時たま息も絶え絶えなゾンビの呻きが混じるだけだ。

 その単調なサイクルが不意に乱れた。盛大に腹の虫を鳴らした太鼓持ちが紙袋から転がり落ちたクッキーの缶を凝視する。

「開けんなよ」

「リーダー少しなら――」

「バカヤロウ! ばれてみろ。一生留守番だ。後で分け前がもらえんだ。我慢しろ」

「腹がペコペコでこのままじゃゾンビがご馳走に見えちまいますよ」

「遠慮すんな。厨房なら使っていいぞ」

「そんなぁ~」

 会話に加わらず物資を選り分けていた少女が太鼓持ちの震える語尾を掴むようにして言葉を割り込ませた。

「それも一興ね。一気に食料問題が解決じゃない。どうして気付かなかったのかしら」

 スタスタと厨房へと歩いていく少女の後をあばた面が慌てて追う。

「おいおいおい! マジじゃないよな?」

「なに? 食べたことあるの?」

「ねぇよ! あるわけないだろ! 感染したらどうすんだ」

「だから試すの。火は任せるわ」

 少女が厨房に姿を消すと程なくしてひときわ高いゾンビの絶叫が響いた。

「やべぇよ。おい、やべぇよ。どうすんだよ?」

 あばた面の視線を避けるようにデイブと太鼓持ちが顔を伏せる。

「おまえが食えよ!」

 突如指名されたデイブが激しく頭を振る。

「おめぇの責任なんだ。拒否権なんてあるわけねぇだろ。おい! そいつが逃げねぇように見張ってろ」

 太鼓持ちに監視を言い付けるとあばた面は覚悟を決めたように厨房へと向かった。

 日曜大工で犬小屋を作っているような調理とはかけ離れた音になんとなく想像はついていたが、それでも切り落とした腕の丸焼きを目の当たりにすると胃がムカムカした。

「おえぇ~」

 その禍々しさに太鼓持ちが胃液をぶちまける。

「ウェルダンとはいかなかったけど構わないわよね?」

大部分が腐った魚のような色であり、どう見ても生焼けだ。その焼き加減がかつて口にした親友の歯ごたえを思い起こさせる。太鼓持ちのように戻すわけにはいかないので必死にせり上がってくる吐き気と闘う。

 デイブが突き出された肉を避けるようにして顔を背けた。

「なに? 熱かった? それともベジタリアン?」

 こじ開けるようにして肉を押し付けていた少女がデイブの頑なな態度にため息をつく。

「そう、駄々をこねるわけ。好き嫌いが駄目だってママに叱られなかった?」

 少女の合図にあばた面と太鼓持ちがデイブを組み敷く。

「抵抗したって無駄だってわかってんだろ! 食え!」

 あばた面が頬を殴りつけるも、固く閉ざされた口が開くことはない。

「これ以上血を調味料にしたくねぇなら食え! それとも一生肉を噛み切れねぇように歯を砕かれてぇのか?」

 あばた面の脅しに対しデイブが増々顎に力を込める。歯軋りの音がここまで聞こえてきそうだ。

「それが答えかよ!」

 激高したあばた面が容赦のない蹴りを腹に浴びせる。それでも呻き声一つ上げないのは意地でも口を開かないとの意思表示だろう。

「いい加減にしろよ! 脳みそぶちまけられてぇのか!」

 あばた面がデイブのこめかみに銃口を突きつけた。

「まずいっすよ。命の危険があるとき以外は弾くなって言われてるじゃないっすか」

「うるせぇ! 脅しじゃねぇぞ。どうせてめぇなんかすぐにくたばるんだ。ゾンビの人権を尊重してる奴がいつまでも生き延びられるかよ」

 口角泡を飛ばす様子や、血走った眼に、本当に撃つかもしれないとの危惧を抱く。別にデイブが死んだところでなんの痛痒も感じないが、銃声がいらぬ注意を引くのは好ましくない。増援が送られてくるような事態になっては厄介だ。

「う~う~」

 デイブが口を閉ざしたまま低く唸る。

「あっ? 聞こえねぇよ。言いたいことがあるならはっきり言えや」

 あばた面が引き金を絞る。そう確信した刹那、少女がデイブの鼻を摘まんだ。

「この場合、どっちが太陽で、どちらが北風になるのかしら? 順当に考えるなら力ずくで解決しようとした血の巡りが悪い方が北風よね」

 少女が寓話である『北風と太陽』になぞらえている間にも息を止められたデイブの顔が紅潮していく。

「あはっ、どうしたの? そんなに赤くなって。わかった! 太陽は自分だって言うアピールでしょ。なんせ他人のために自ら実験台になるのだもの。譲るわ。太陽の座」

 永遠にも思える数分が過ぎ、デイブが堪えかね空気を求めた。すかさず少女がその口に肉塊をねじ込む。

「そうそう、よく噛んで。ちゃんと飲み込むのよ」

「む~~」

 喉の奥まで腕を突っ込まれデイブが激しくむせる。

「う~う~」

 あばた面がのしかかるようにしてデイブの肩を押え、太鼓持ちが頭を固定する。抵抗する術を奪われ、やがてデイブの喉が大きく動いた。

嚥下を見届け少女が離れる。吐き出すことを警戒してか、あばた面と太鼓持ちは体勢を変えない。

「どう? 実に晴れやかな気分でしょ。人の役に立つって」

 少女が詩の一節を吟じるように節をつけデイブを嬲る。

 前後の記憶が曖昧なためはっきりとしたことは言えないが、一両日もしない内に俺と同じ状態となるだろう。

「でもよ、大丈夫だとして、その、本当に……食うのか?」

 味を想像したのかあばた面が顔を歪める。

「おめでたい奴」

「あん?」

「『生きる』ことと『生き残る』ことの違いすら理解していないあんたのお頭がよ。くだらない質問をする暇があるなら荷物をまとめたら?」

 炎すらも一瞬で凍りつきそうな反応にあばた面が鼻白む。共にデイブに肉を食わせた連帯感は微塵も感じられない。

「俺に言うなよ。荷物持ちがいるだろ」

 あばた面が叩きつけるようにデイブを放すと、そのまま床に倒れ伏した。

「その状態で? だいたい、それ以上に重要な荷物なんてないじゃない。本人に運ばせるのが一番でしょ」

 ごく自然とデイブを物扱いした。デイブだけではない。少女にとって他人など転がっている石となんら変わらないのだ。利用価値があれば拾い上げ、なければ見向きもしない。

 資源が枯渇するにつれ、少女のような考え方の人間が増えた。しかし、ここまで露骨な例も珍しい。極端な個人主義は和を乱すので煙たがられる。そのため、大抵は隠そうとするものだ。単にネジが外れているだけかもしれないが、開けっぴろげともいえる率直さの裏に独りでも生きていけるとの強烈な自負が見え隠れする。

 器の違いを感じたのか、あるいは生存本能の囁きに従ったのか、あばた面は反論することなく荷物を纏めはじめた。


 時として偶然は神の悪戯かと勘繰ってしまいたくなるタイミングで起こる。荷物を集め終わった頃合い見計らったかのように「ブッッ」とノイズが走り放送が途切れた。

「なんだ?」

 突然の静寂に狼狽え肩を並べたあばた面と太鼓持ちが揃って天井を見上げた。

「あっ、リーダーすいま――」

「ヴァァアアア!」

 肩の触れた相手をあばた面だと勘違いし会釈したことにより首筋を差し出す形となってしまった。厨房から姿を現したゾンビが迷うことなく噛みつく。

「あぎゃあうあぅぅぅl」

 太鼓持ちが無闇やたらと発砲するも銃弾はゾンビを素通りし照明や植木鉢を砕いた。

「たすけて、たすけ……」

 伸ばされた腕の先にある銃口に恐れをなしあばた面が飛び下がると、太鼓持ちの体がズルズルと崩れ落ちた。死体に覆い被さったゾンビが一口頬張る度に皺々だった肌に血色が戻っていく。人体の構造に詳しくはないが、大量の血を失ったからと言ってミイラのように干からびるとは思えない。ましてや他人の血を啜ることにより血色が戻るなど有り得ない。だが、この目で見たのなら信じるしかない。ゾンビは失った血の量に比例し肌が干からび、最終的にはミイラのようになる。手錠が抜けたのはそのせいだ。

 間接的に太鼓持ちの死に対して責を負うべき少女がゾンビの背後からサバイバルナイフを突き立てると、そのまま全体重をかけ太鼓持ちの心臓ごと貫いた。B級ホラーも真っ青なスプラッターにあばた面が股間をしとどに濡らす。

 膝をついた姿勢のまま少女は手首を返すようにしてナイフを放つと、低い唸りを発して迫ってきた白刃が鼻先を掠めた。

(ひぃっ)

 間一髪で外れたナイフに思わず悲鳴が漏れそうになる。

「ばれないとでも思ったの?」

 少女と目が合ったなら全てを諦めただろう。しかし、彼女の視線は俺ではなく、入口付近で固まっているデイブを射抜いていた。

「放心した振りで逃げ出すタイミングを窺うなんて結構したたかじゃない。その調子でちゃちゃっとバリケード作ってくれる」

 入口を通して外を窺うと静寂を破った銃声に釣られゾンビが一斉にこちらに向かってきている。

「逃げないと! 今ならまだ間に合うよ!」

「こいつに説得して欲しいわけ?」

 拳銃をちらつかされデイブは渋々と扉にかけていた手を引っ込めた。

「股間が濡れているのはサボる口実にはならないわよ」

 少女の皮肉にあばた面がフラフラと立ち上がり、デイブを手伝いテーブルや椅子を積み上げていく。少女は二人に目を配れる場所まで椅子を引き摺ってくると、反転させ背に腕をのせた。

「ちんたらやってると日が暮れるわよ。津波に呑まれたくないなら気張ったら」

 あながち誇張ではない。組み上がったバリケードの隙間から雪崩のように押し寄せてくるゾンビが覗く。枝分かれした支流が川下に向かうにつれ合流するように、ゾンビの一団は雪だるま式にどんどん膨れ上がっている。

「やべぇよ! やべぇよ! 余裕こいてる場合じゃないだろ! 手伝ってくれよ」

 あばた面の懇願を通り越した悲鳴に少女が明後日の方向を向く。

「あたし、因果応報って言葉が嫌いなの。弱者が自分の弱さに正当性を与えるためだけの言葉だと思わない? 耐え忍んでいればいずれ因果が巡って悪者は罰せられる。だから嵐が通り過ぎるまでひたすら頭を垂れていればいい。それで何が変わるわけ?」

 少女の問い掛けにデイブとあばた面が顔を見合わせる。

「だから断じて因果じゃない。単に運が悪かっただけ。それ以上でも以下でもない」

 少女はパーカーを脱ぐと、切り落とした袖を包帯のように右足に巻きつけた。黒に赤のラインのトラックパンツのために気付かなかったが、注意深く観察すると太腿から下が一段と色が濃くなっている。

「おい! それって……」

「そこの負け犬の置き土産よ」

 それで分の悪い籠城を選んだ理由に納得がいった。走ることが適わなければ立て籠もるより他ない。

(まさに因果応報じゃないか)

 少女が繋がれているゾンビを痛めつけなければ手錠は抜けず、太鼓持ちが発砲することもなかった。それを偶然と捉えるか、必然と解釈するかの違いだけだ。不必要な行動が招いたことに変わりはない。

「ぜんぶ、全部おまえのせいじゃないか!」

 椅子を床に叩きつけた余勢を駆りあばた面が少女に銃口を向ける。怪我のせいか少女の反応は鈍く銃身は垂れ下がったままだ。

「膀胱を空にした途端強気ね」

 相手の指先ひとつに命がかかっているというのにまるで意に介した様子はない。

「殺す! 殺してやる!」

 血走った目で少女を睨むあばた面の視界を遮るようにデイブが割って入った。

「もうすぐ奴らが来る。争ってる場合じゃないよ」

「ゾンビの肉まで食わされたのに許すって言うのか!」

「それは……生き残りたいなら水に流すべきだって理解してるから」

 デイブの返答に少女が怪我していない方の膝を叩く。

「これからあんたのことをジーザズって呼ぶから髭生やしてよ」

 茶化す少女を相手せず一歩デイブがあばた面と距離を詰めた。

「西部劇の真似はもう十分でしょ。どうやって切り抜けるか考えよう」

「うんなの決まってるだろ! 隊長たちの救助を待つんだよ!」

「で? 何処にいるってわけ? その救世主は?」

 窓の外に視線を向けたあばた面が顎が外れるほど大きく口を開ける。どこにも部隊の姿はなかった。

「……見捨てた? 俺たちを?」

「囮になった功績で墓ぐらいたててくれるんじゃない」

 どこまでも他人事のような少女にあばた面が食って掛かろうとすると嵐に遮られた。

「グワルワァブベェアケェアアァァァ!」

 まるで台風で氾濫した川辺に立っているかのようだ。それほどまでにゾンビの群れの上げる呻き声は凄まじい。合唱のように綺麗なハーモニーを奏でるのではなく銘々の発する高低差もリズムもバラバラな呻きがぶつかり合い、怪鳥の鳴き声のような得体の知れぬ騒音となる。夜中にこれを耳にしたなら年甲斐もなくシーツを濡らしたかもしれない。

 はじめはそのあまりのおぞましさに震えているのだと思った。生きた心地がしないだろうから無理なからぬことだ。だが、それにしても揺れが激しい。まるでマグニチュード九の地震に見舞われたかのようだ。なによりも、あばた面やデイブだけでなく、少女まで震えているのが解せない。怯懦に襲われる玉とは思えない。

(……俺か?)

 その事実に血の気が引く。考えうる限り最悪のタイミングだ。だからこそ納得する。運命の女神が性悪なことは骨身にしみている。

(ふざ、け、るな)

 痙攣する瞼が落ちかかり、底なし沼にはまり込んだかと錯覚するほど体が重い。半醒半睡ながらも辛うじて意識を保っていられるのは扉や窓を叩くゾンビの立てる騒音によってだ。もしこれが静寂に包まれていたなら間違いなく眠りに引き込まれている。

 外の様子に気を取られていたデイブが正面に向き直り目を丸くする。コマ送りの映像のようにその唇が動く。

「うしろぉ! うしろぉ!」

 回転数を落としたカセットテープのように間延びした声だ。なにもそれはデイブが発した注意だけに限らない。振り返ったあばた面の見開かれた眼、少女の面上に走る驚き、全てが水中での動作のようにノロノロと進行する。

(だ、メだ……)

 欲望に突き動かされ一歩踏み出す。もはや己の意志では行動を制御できない。

 接続の悪いテレビのようにぼやけた視界が最後に捉えたのは、漆黒の銃口と、引き金を絞るあばた面のぶよぶよとした白い指先だ。

 網膜に焼付いた黒白の対照性を振り払う前に俺の意識は闇に呑まれた。


 甘い味わいが口の中に広がるにつれ徐々に光が焦点を結ぶ。その光を遮る闇に身の危険を感じ咄嗟に頭を庇うと腕に衝撃が走った。

「こいつ!」

 紅潮したデイブの表情に瞬時に欠落した記憶が埋まる。再び椅子で殴りかかってきたデイブに向かってあばた面を突き飛ばすと二人は縺れるようにして倒れた。

 振り下された椅子を防いだ右腕に僅かに痺れを感じるだけで他に外傷は見当たらない。

(ばかな! 撃たれてないだと?)

 外すほうが難しい至近距離だ。なのに怪我ひとつ負っていない。

 その理由を足元に転がっている拳銃を拾い上げ悟った。

(軽い……)

 肌身離さず携行しているので握った際の感触でおおよその残弾の見当がつく。案の定、弾倉は空だった。弾を抜いたであろう張本人に向かって放り投げると、少女はこちらに狙いを定めたまま器用に空中で掴んだ。

 俺は口元の血を指先で拭い、背後の壁に、『敵意はない。協力できる』と記す。

重たい沈黙に息苦しさを覚える寸前、少女が胸に溜めていた息を吐き出した。

「はぁ~、そこに齧られた奴が転がっている時点で全く説得力がないのだけど。第一、鏡見たことある? 完璧にゾンビよ」

『眠気に襲われるとゾンビになる。血を吸ったから一年は大丈夫だ』

「それを信じろって? 無理があるとは思わない?」

『怪しいと思うなら撃て。だけど今さら一匹処理した所でどうなる?』

店の外には雲霞のごとくゾンビが押し寄せている。俺を殺したとしても焼け石に水だ。

 少女は肩を竦めるとデイブに声をかけた。

「ねぇ、とどめを刺すつもりがないのなら奥のを使ったら。あたしはこっちにするから」

 少女に促されデイブが瀕死のあばた面から離れる。俺が食い千切った喉から流れ出る血がしとど床を濡らす。体格がいいためか、あばた面がゾンビの仲間入りを果たすにはまだ少し時間がかかりそうだ。

デイブはこちらを一顧だにせず、太鼓持ちに覆いかぶさっているゾンビの死体をひっくり返すと、体中に腐肉を擦り付けていく。どうやら二人ともゾンビの死体を利用したカモフラージュを知っているようだ。

 恩を売れる機会を逃し残念な気持ちがないと言えば嘘になる。しかし、それ以上になぜ少女が悠長に構えているのか理解できない。バリケードのお蔭でなんとか侵入を防いでいるとはいえ、いつ破られたとしても不思議ではないのだ。

「その様子じゃ知らないみたいね。あれが使えるのは一体につき一人。つまり、二人助かりたいならゾンビの死体が二ついるってわけ。どう、自分の立場が理解できた?」

 少女の満面の笑みに肌が粟立つ。喉がカラカラに干上がり言葉が絡まる。それでようやく自分が喋ろうとしていることに気付いた。慌てて背後の壁に書き殴る。

『少し待てば――』

「猶予があると思う? 諦めが悪いわね」

 今にも引き金を絞りそうな少女の様子に進退窮まり咄嗟に綴った。

『君と同じだ』

「なにそれ? どんな悪あがき?」

『俺がこんな風になったのは膝に受けた矢傷から感染したからだ』

 ジーンズの裾をまくり傷痕を見せる。実際はマークと遊んでいた際に揃って木から落ち負った傷だ。なんの因果か同じ箇所に傷をこしらえたものだ。

 嘘は傷の由来だけではない。ゾンビの血が傷口から入ろうともゾンビ化を発症する恐れはない。額を深く切ったマークが頭からゾンビの血を被ってもピンピンしていたのだから間違いない。敗血症の心配をした方がずっと現実的だ。

 分の悪い賭けだ。デイブか少女どちらかがその事実を知っていたらお終いだ。普段ならとっくに降りている。しかし、今回ばかりは手札を伏せるわけにはいかない。

 脳裏にマチルダとサンダースの顔がチラつく。

(必ず帰る。どんな犠牲を払ってでも!)

 ブラフが真実味を増すよう俺は厳めしい表情を崩さぬまま少女を睨み付ける。

 感情の回路を遮断したかのように少女の面上から表情が消えている。デイブのようにあたふたと傷がないか確認しろとは言わないが、眉の一つぐらい動かしても罰は当たらないのではないだろうか。絶対にポーカーで同じテーブルを囲みたくない相手だ。

 一呼吸毎に空気が薄くなっていくかのような息の詰まる時間が流れた。やがて少女が薄く笑った。

「残念だけど、あたしの『生き残る』ことの定義にゾンビになっては含まれてないの。あれだけ見栄を切ったのだから秘策があるんでしょうね? ないなんて抜かしたら心臓を抉るわよ」

 脅しでないとわかるだけにゴクリと喉が鳴る。

 ワンペアでフルハウスに挑むような絶望的な気持ちで俺は提案を書き殴った。

『銃は諦めてもらうぞ』


「アァァア~」

「ギギゥヴェェ」

 人間の声音が千差万別なように、ゾンビの呻き声も種々雑多だ。それら一つ一つが聞き分けられる距離でゾンビを掻き分ける。

(ついてきてるか?)

 振り返ろうとすると背中を小突かれた。それが何よりの証拠だ。再びゾンビを押しのけ道をつくる。

 いくら腕をかこうとも一向に前に進んでいる気がしない。噛まれる心配がないとわかっていても気持ちがいいものではない。デイブと少女は生きた心地がしないだろう。しきりと背中を押して来る様子に焦りが滲んでいる。

 正直、功を奏するか半信半疑だった。しかし、今のところ上手くいっている。ようやく指揮官が陣を張っていた地点を通過しただけだが、このぶんならなんとか出口まで辿り着けそうだ。

『で? どうすんだ、こいつら?』

(連れて帰るさ)

『おいおい正気かよ? サンダースが切れるぜ』

(だろうな)

 それは百も承知だ。少女の性格に難があるのもわかっている。だが、背に腹はかえられない。今後は定期的に血を補給しなければならない。その際に背中を預けられる人物がいるのといないのでは天と地ほど違う。戦力は少しでも欲しい。それに、ゾンビ化するとはいえ、デイブの性格なら人畜無害だ。畑仕事にいくらでも人手がいるので、最終的にはサンダースも納得するだろう。

『知らねぇぞ。どうなっても』

(いざとなったら俺が処理する)

『寝首をかかれないことだな。一筋縄でいく奴じゃないぜ』

(肝に銘じとく)

 マークの警告に耳を傾けている内に海原のように広がっていたゾンビの大群が徐々に狭まり川幅程度となった。もう少しで対岸に渡れそうだ。

(ふぅ、なんとか泳ぎ切ったか)

 癖で額を拭うと、手の甲に水滴がついた。

 快晴だ。にわか雨など降るはずがない。それでも不安になり空を見上げ息を呑む。

 桶だ。でっかい桶が頭上でぶらぶらと揺れ水滴がポタポタと落ちてきている。電気仕掛けで底が二つに割れ、定期的に通行人に水を浴びせるアトラクションだ。夏には涼を取ろうと人々が群がる様子が目に浮かぶ。

 気付けば至る所に『頭上注意!』との看板が乱立している。足元にも注意書きが大書されているが、いずれもゾンビを掻き分けるのに夢中で見落としてしまった。

金属疲労か、あるいはスピーカーの復活により一時的に電気が通ったせいかわからないが、今にも中に溜まった雨水をぶちまけそうだ。

「やばい!」

 そう叫んだつもりだ。だが、間抜けなうめき声に変換されただけだ。

それに、どのみち間に合いはしなかった。

 頭上から降り注いだ水圧に膝が屈する。突然の夕立に襲われた犬のように身震いし水滴を撥ね退けると、背後から突進してきたウサギの着ぐるみに突き飛ばされた。その後ろを特殊メイク半ばで無理矢理ステージに上げられた演劇部員のようなデイブが続く。更にゾンビが二人を追っかける。

 怪我と水を吸い重くなった着ぐるみのため思うように動けない少女にデイブが肩を貸す。どちらかというと危険なのは変装が剥がれ落ちたデイブの方だ。鎧代わりの着ぐるみが脱げない限り少女にゾンビの歯が届くことはない。

 今にもデイブの腕に噛みつかんとするゾンビを撃ち抜き、返す刀で着ぐるみに纏わりついていた一匹を処理する。

(行け! 行け! 行け!)

 命がけの鬼ごっこだ。なのに傍目にはこの上なく滑稽に映る。なにせ、ずぶ濡れのウサギの着ぐるみに、メイクアップ・アーティストが途中で匙を投げたゾンビが、歪な二人三脚を行っているのだ。ホラーを志したつもりが、予算不足から急遽コメディーに変更となった映画の一シーンみたいだ。

 怪我の影響か、あるいは肥満体のウサギのせいか、少女の足が縺れる。なんとかデイブが踏ん張り転倒を免れるも、隙が生じゾンビに飛び掛かられた。

 間一髪撃ち倒すと、拳銃が酷使に抗議するように弾切れを知らせた。

(ちっ、ここまできて)

 まだ予備の弾倉が一個残っている。しかし、それを使ったところで二人を守りきれる保証はない。それなら保険として自分のために残しておいた方が賢明だ。

 迷いが判断を鈍らせた。

 バランスを崩した少女に気を取られデイブの注意が逸れる。すぐに弾倉を交換していたなら間に合った。しかし、永遠とも思える逡巡がゾンビにデイブの肩に手をかける猶予を与えた。

「クッ」

 ろくに狙わず引き金を絞ったところで無駄だ。それでも良心の呵責に人差し指に力が籠った。

『くだらねぇ。善人の振りがしたいがために貴重な弾を使うなんておまえらしくないぜ』

(俺……らしく、ない)

 マークの言葉が見えない鎖となり絡まる。引き金にかけた指はぴくりとも動かしていない。それにもかかわらず銃声が響いた。それも一発ではない。立て続けに爆竹が爆ぜるように吠え、バタバタとゾンビが倒れる。

 狐につままれたように棒立ちとなる。

 野太い「撃て」との号令で再び銃声が巻き起こると、今度こそ理解した。

 坂道を転げ落ちるように状況が悪化していることを。


「理解して欲しいのです。我々がいかにあなたを丁重に扱っているか」

 ふっくらとしたえびす顔から受ける印象通り、ヘインズと名乗った初老の男の物腰は柔らかい。新雪のゲレンデを彷彿とさせる白髪に見事な山羊ひげを蓄えている。これで丸眼鏡をかけていたならどこのチキン屋の前に飾っても恥ずかしくない。

「ア~」

 その言葉に嘘はないので俺は頷く。拘束もされていなければ、銃を突きつけられてもいない。それどころか案内された応接室は賓客をもてなすに相応しい調度品で飾られている。腰掛けたソファーは身が沈みそうなほど柔らかく、重厚なローズウッドのテーブルには水割りまで用意されている。

 対面のヘインズが目で味わうように琥珀色の液体をグラスの中で揺らした。

「上質なウィスキーは黄金と等価です。いくら努力してもこれほど薫り高いものをつくれることはもうないでしょう。だからこそこうして記憶に残る機会にお出ししているのです」

『あいにく味覚はとっくになくした。俺よりも相応しい奴が飲む――』

 ノートに書き終わらない内に対角線上から伸びてきた手がグラスを掻っ攫った。

「それじゃあ遠慮なく」

 少女は一息で飲み乾し、叩きつけるようにカツンとグラスを置く。傍若無人な振る舞いだ。しかし、ヘインズは諌めることなく、むしろ孫を見守るような柔和な笑みを浮かべた。代わりに咎めたのはヘインズの背後に控える強面の男だ。

「メヌエット、弁えろ! 勝手な振る舞いは許されておらん」

 ゾンビの群れに向かって『撃て』と命じた時に比べ声量は抑えられている。それでも部屋の空気が震えるほどの大音声だ。自分が叱責されているわけでもないのに少女と並ぶデイブが身を震わせた。

「ラルフ、大目に見てあげなさい。彼らの献身があったからこそ被害が最小限に抑えられたのです。それにしてもデニーとジョンは可哀そうなことをした。亡骸の回収は無理でしょうが、せめて魂は手厚く葬って差し上げましょう」

「承知しました」

 ラルフが軍人らしい謹厳さで慇懃に応じる。

「よろしい。では、本題に入りましょう。まずはお名前をお伺いしてよろしいですか?」

『被験体一号でいいんじゃないのか?』

 俺の回答にヘインズが苦笑を浮かべる。

「聡明な方ほど結論を急ぎがちでいけない。確かにあなたの存在は天からの贈り物に等しいです。生命の神秘の前に神からの遣いだと言われたなら危うく信じてしまうかもしれません」

『神』との単語にメタル・ゴッドが脳裏を掠める。しかし、ヘインズが電波を受信することはなさそうだ。神よりも理性を尊んでいる。だからこそ、別の危険性が懸念される。

「このようなご時世です。そういった非科学的な終末論がはびこるのも理解できます。ですが私たちとしてはブードゥー紛いの世迷言に惑わされるつもりは毛頭ありません。あなたの置かれている状況は純粋に科学的見地から解き明かせると考えています。そのためにもお互い歩み寄って協力関係を築けないものでしょうか? あなたの協力があれば我々の医療班が長年取り組んできた研究が飛躍的に進歩することでしょう」

『俺に拒否権は?』

 野盗のように露骨にすごむことはしない。それでもラルフ達から受ける圧力が増した。

「私どもの言葉に嘘がないとわかれば快く応じて頂けるものと考えております。どうぞじっくりとこの国をご覧ください。失われた秩序と規律の復権を肌で感じてもらえることでしょう。それこそが新世界に必要だとは思いませんか?」

(国……か)

 ヘインズによれば、この町こそがアメリカ崩壊以来はじめて立憲された法治国家だという。確かに規模や物資の潤沢さなどこれまで見てきたどこよりも充実している。周囲を外壁で囲うだけでなく堀まで巡らしており、ちょっとした城砦だ。

「私自身こうなる前は判事を務めておりました。他にも副知事や弁護士など政治や法律に明るい者が多数おります。彼らと力を合わせこれからの人類が進むべき道標を打ち立てたつもりです。もちろん、完璧なものではありません。それでも方向性は示せたと自負しております。人と人がいがみ合っている場合ではありません。手を取り合っていかなければならないのです。真の融和を実現するためにもゾンビの脅威は速やかに取り除かなければなりません」

 気迫でこちらの首を縦に振らせようとするかのようにヘインズが一語一句に力を籠める。

 まだ、言葉に頼っている。しかし、このまま拒み続けたらいつ実力行使に出るかわからない。いずれにしろ、首を縦に振らない限り監禁されるのは目に見えている。

 まずい状況ではある。だが、『監禁』との字面ほど切羽詰まった危機感は覚えない。なぜなら、俺の中で一つの交換条件が浮かんでいるからだ。

 協力を申し出る代りにサンダースとマチルダの移住を認めさせる。

 護送の途上で車窓から眺めると住民の間に笑顔が広がっていた。安全と人権が保証されていなければ笑顔の花は咲かない。新生活を始める場所として申し分ないだろう。

 チラリとデイブを窺う。若干顔色は青いが、まだ本格的に体調は崩していないようだ。

 交渉は被験体が増える前に手早く済ませるべきだろう。

 話を切り出すためペンを手に取ると、窓が震えた。

「丁度いい。戻って来たようですね」

 ラルフの部下がカーテンを引き開ける。あまりに文明から離れてしまい、通りを挟んだ空地に降り立った鉄塊の名前が瞬時に出てこなかった。『ヘリコプター』との名称が記憶の底から浮かんだのは二人の男が降り立った後だ。

 ローターの巻き上げる風に飛ばされるのを心配するかのようにきつく胸にブリーフケースを抱いた小柄な男と、サングラスをかけた迷彩服の軍人だ。

「ブラウン氏です。フォート・デトリックのアメリカ陸軍感染症医学研究所の主席研究員で細菌のスペシャリストです。彼を中心に医療班がゾンビ化の予防と根治の研究に取り組んでいます。隣は副隊長のトーマスです」

 窓越しに近づいてくる小男と軍人をいち早くヘインズが紹介する。

 ローターが静まるのを待ちきれないかのように駆け寄った者達から耳打ちされるとブラウンの表情が険しくなった。話し声が聞こえなくとも、こちらを指し示す仕草から、会話の内容は想像がつく。

「あの様子ではすぐにでも駆け込んで来るでしょう。我々はあなたが思っているよりも遥かに原因究明に近づいています。どうかご協力ください。全ては人類を救うためです」

 深々と頭を下げたヘインズに倣い警備に就いている兵士も一斉に敬礼する。

 人類をゾンビの軛から解き放ちたいとの思いに嘘はなさそうだ。そのための情熱と知識も持ち合わせている。もしかしたら本当にここから歴史が変わるかもしれない。

 胸にこみ上げる熱い思いに頷きかけ、その姿勢のまま固まる。

「どうかなさいましたか?」

 訝しげに問いかけてくるヘインズの声が素通りする。俺の視線はサングラスを外したトーマスへと釘付けとなる。

(アン……デルセン)

 写真で焼き付けた顔だ。いくら月日が経とうとも見間違うはずがない。間違いなくエドガーの父親であるアンデルセンだ。

 俄かには自分の目が信じられない。人違いでないかと穴があくほど見つめる。しかし、凝視すればするほどステファニーに馬乗りとなり心臓を掴みだした姿と重なる。

(なぜ、ここに……?)

 愚問だ。そんなの決まりきっている。

――そう遠くない将来ここは炎に包まれる。

「大丈夫ですか?」

 さっきまで頼もしく響いていたヘインズの声が急速に色褪せた。

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