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8 a Zombie  作者: 夜嶋朝人
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―4th Session―

―4th Session―

 ヘッドフォンから流れる気怠い歌声に徐々に意識が覚醒していく。

「ツッ」

 跳ね起き真っ先に口元を拭う。視線の高さに上げた袖口に付いたしみに心臓が跳ねるも、それが涎であると判明すると落ち着いた。

「チッ」

 ヘッドフォンを外しボサボサの髪を掻き上げる。顔を洗ってすっきりとしたいが、あいにく近くに水場はなさそうだ。

『毎日が閉店セール! エブリデイマート』

 濁った瞳で垂れ幕を見上げる。割れた窓から吹き込む風に弄ばれるさまは、まるで年老いたトドが大儀そうに体を揺すっているかのようだ。宣伝文句通り本当に最後の日を迎えるとは夢にも思っていなかっただろう。

 スカスカの棚には辛うじてハンマーやドライバーが残っている。どうやら金物売場の一画のようだ。

 ウォークマンのスイッチを切りバックパックに仕舞う。単三電池が四本も必要な旧型だ。子守唄変わりに使うには少々贅沢だ。そのため眠気が襲ってきそうな時は使用を控えている。しかし、今回は一切前兆がなかった。

(悪化……してるってことだよな)

 最初は微睡む程度だった。それがいつからか強烈な睡魔に襲われるようになった。一たび眠気を催したら鎖で深海に引きずり込まれるように一切の抵抗は不可能だ。それでもこれまでは眠るまで僅かながら猶予があった。だから眠気を感じるとすぐさま己を車内などに軟禁した。それだけしても目覚めると知らない場所だったことがある。今回のように不意打ちで襲われてはそういった防衛策すら取れない。

(お手上げだな)

 いよいよ覚悟を決めなくてはならないようだ。

(むしろこれまでよく保ったと言うべきか)

 眠気に襲われるようになってから夢と現が溶けあい月日の感覚を失った。パズ達と別れてから一年は経っていないと思うが自信がない。ただあてどもなく彷徨い、日は落ち昇るだけだ。

 最初の内は死に場所を求めていた。しかし、稀に遭遇する生存者の銃弾は悉く外れ、一度など俺が不用意に姿を見せたことによりいらぬ混乱を招き、ゾンビに襲われ全滅してしまった。それ以来、死神に近付く努力は放棄した。どのみち頭上を舞っているのだ。放っておいてもそのうち止まるだろう。

 眠っている間の記憶は一切ない。そのため、どうやってこのスーパーマーケットに辿り着いたのか、なぜここを目指したのか皆目見当がつかない。おそらく他のゾンビと同様に足の向くまま彷徨った結果だろう。

 眠っている間は意識がなく完全にゾンビと化している。だとしたら彼らと同じ食事を嗜なまないと言い切れるだろうか? 生存者を前にすれば我先を争って貪り付くかもしれない。だから目覚めると真っ先に口を拭い血が付いていないか確かめる。最後の一線を踏み越えたなら、それが己の最後の日だ。少なくとも正気は保っていられない。しかし、その日を待ちわびているのもまた事実だ。

 死にたい、死ねない。狂いたい、狂えない。その狭間でもがくのも疲れた。

 シャツのポケットに手を突っ込み舌打ちする。夢遊病になり一番困るのはやたらと物をなくすことだ。わざわざ落とさないようにボタンを留めたのに煙草が消えている。

(冗談きついぜ。まだ半分は残ってたぞ)

「グゥアァア」

 棚の蔭から顔を出したゾンビに追いすがりブルゾンを弄る。固い感触に期待が膨らむも収まっていたのは財布だった。

「ちっ」

 腹立ちまぎれに思い切り尻を蹴飛ばすと、ゾンビが頭から棚に突っ込んだ。尻を突き出した間抜けな格好に僅かに溜飲が下がる。

(けっ、煙草もなしに渡世が立ち行くかってんだ)

 濁った眼と目が合う。それだけならばそこまで強い怒りを覚えなかっただろう。だが不服を訴えるようにゾンビが低く唸るに至って我を忘れた。

 グチャ、ベキ、バキとの音が耳に届くも、それが自分の行為とうまく結びつかない。スクリーンの中で粗暴なチンピラが暴れているのを眺めているかのようだ。

 頬にはねた血に我に返る。襟首を掴んでいた手を離すと額の陥没したゾンビがズルズルと崩れ落ちた。膝からは骨が飛び出ている。

「はぁはぁはぁはぁ」

 手から滑り落ちた金槌が血の沼に沈んだ。その行方を視線で追い、横隔膜が震える。

「アハ、アハハハ」

 拾い上げ、粘つく液体を拭うと、世界一有名な駱駝と目があった。おおかた尻ポケットにでも入っていたのだろう。

 血に染まった両手を見下ろす。最後に弦を弾いたのが遥か昔に思える。

(同じだ。こいつと同じで、残骸でしかない)

 血の沼で這いずり回る姿は俺そのものだ。もがけばもがくほど生き恥を晒すことになる。

(……もうたくさんだ)

 俺は啓示に導かれるようにして鳴り響き始めた銃声の方角へと踏み出した。


(まずいな)

 それが真っ先に浮かんだ感想だ。

 倉庫内には芝刈り機や鉢植え、庭石などが山積みとなっている。サバイバルには直接関係のない品物ばかりのため殆ど手付かずの状態だ。

 それらに埋もれるようにして、ブルネットの髪を束ねた女が後ろ手に娘と思われる幼い少女を庇いながらやたらめったらと発砲している。へっぴり腰から拳銃の扱いに慣れていないのは一目瞭然だ。口径の大きな銃の反動を御せず弾はあさっての方角へ飛ぶ。

「この子には指一本だって触れさせないんだから!」

 威勢の良い啖呵に反して装填する手付きはおぼつかない。辛うじて間に合い間近に迫ったゾンビの胸板を撃ち抜いた。

 危なっかしくて見ていられない。女の目を盗んではゾンビを間引いていく。気取られないよう慎重に一匹また一匹と減らす。

(こんなもんか)

 残すは数匹だ。さすがにこれなら問題ないだろう。あとはこちらの演技力次第だ。

(こんな感じか?)

 横目で盗み見ながら関節が固まったようなぎくしゃくとした動きを真似る。

(案外難しいな)

 ともすればゾンビというよりロボットに近い動きになってしまう。しかし、別にアカデミー賞を狙っているわけではないのだ。大根役者で構わない。なによりも観客に些細な違いを見分ける余裕などない。

「くっ、この! 来ないで!」

 演技指導役のゾンビが膝を撃ち抜かれると、残るは俺だけとなった。

 逸る気持ちを抑え、時にはわざと蛇行しながらも確実に女との距離を詰める。銃弾が乏しくなっているのか、女は先ほどとは打って変わって慎重だ。引き金にかけた指をキリキリと絞るようにして狙いを定める。

(どうした? もう十分だろ?)

 女の額に浮かぶ汗の一粒一粒を見分けられるほど指呼の間だ。さすがに外しようもない。

 女の喉がゴクリとなり、撃鉄がコトリと落ちた。

(やっと、終われる)

『本当にそうか?』

 茶化すマークの言葉が正しいとでもいうように、銃弾は死を迎え入れるべく両手を広げた俺の脇を掠めた。

「あぁぁぁ!」

 悲鳴とも苦悶の呻きともつかぬ奇声が上がる。

「マチルダ!」

 女の腰に抱きつくようにして隠れていた少女が半狂乱でもがいている。ゾンビに襲われたのかと思ったが、実際は肥料の袋に開いた穴から漏れた土が肩に触れただけだ。

「あぁあぁぁあああぁぁ!」

「もう大丈夫。大丈夫だからね」

 女が無防備に背を向け、ガタガタと震える少女を抱きしめる。

「怖くないよ。大丈夫。大丈夫だから……」

「ああああぁ」

 少女の態度が落ち着いていくのに反して女が涙ぐむ。

「天に御座します主よ。どうか御許に我らが魂を導きくださいませ」

「ううぅ! うぅ!」

 降りかかった涙に少女が顔を上げる。それでもその口から意味を成す言葉は発せられない。

「心配ないから。お父さんも向こうで待ってる。また一緒に過ごせるわ」

 母親が娘の頬を両手で包み額に口づける。その拍子に、少女の両目を覆う包帯がずれ、眼球を両断するように走る一筋の傷が露わになった。目が合ったにもかかわらず少女は俺を認識することなく視線は上滑りした。

 喋れないのが聴覚に起因しているのだとしたら、少女は五感の内二つまで奪われていることになる。弱者が真っ先に犠牲になる世界でここまで生き延びられたのは奇跡に近い。それがいつまでも続くとは思えない。

 だからこれは自己満足だ。

 膝を撃ち抜かれてもなお獲物への執着を見せていた演技指導役の心臓をサバイバルナイフで貫き引導を渡す。その断末魔に反応を示したのは母親のみだった。怯えが徐々に驚きに変わる。その探るような視線に対し語るべき言葉は持ち合わせていないので俺は踵を返した。

「待って!」

 以前から薄々勘付いていた。それがウェルの死によりはっきりと形を成した。

 俺は疫病神だ。

 ウェルの死だけではない。過去の様々な失敗が去来する。いずれも俺が原因で上手くいかなかった。だから、他人と関わるべきではない。

 なのに、意思に反して足が止まった。

「言葉が……わかるの?」

 問いかけられたことにより自分がどれぐらい会話に飢えているか自覚した。しかしパズに払われた腕の痛みが振り返ることを許してはくれない。

「お願い! 答えて! ゾンビじゃないんでしょ?」

『おいおい男は背中で語るってか? フィリップ・マーロウを気取るなんて百年早いぜ』

 軽薄な口調にマークが面白がっているのは明らかだ。

『なぁ、最後に会話を交わしたのはいつだ? そんなんじゃいずれ言葉も忘れちまうぜ。ただでさえ自我は崩壊寸前なんだ。これ以上進行させてどうする。試しにゾンビで溢れる場所から物資を調達してきてやれよ。そうすりゃ尻尾を振ってついてくるぜ。それにちょっとマブイよな。もちろんガキのほうじゃなくて――』

 マークの戯言を引き裂くように足音荒く踏み出した。

「ちょっと! 答え――いやぁあぁああ!」

 悲鳴に思わず振り返る。どこから現れたのか這いつくばったゾンビが母親の足首に齧りつかんとしていた。

「くっ! この! この!」

 足をばたつかせ顔面を蹴るも、ゾンビは怯むことなく大口を開ける。

 重ねられた鉢植えが邪魔で心臓を狙えない。駆け寄り引き金を絞ると、白いスニーカーに赤い絵の具を垂らしたように血が撥ねた。

 荷物を跨ぎ息絶えたゾンビをひっくり返す。案の定、陥没した額と対面した。俺が叩きのめさなければこいつは段ボールの陰に隠れるようにして這いずることもなく、普通に歩いていただろう。そうなれば当然結果は違っていた。

「っつ」

 女が痛みに耐えかね大粒の脂汗を浮かべる。齧られた脛から白い骨が覗いている。

 目と目が合う。まるで視線に血が通っているかのように言葉にされずとも伝わってきた。

「マチルダ・エニング。八歳よ。耳が聞こえないのは先天的。目の方はわかるでしょ?」

 黙って頷く。

「そう、言葉わかるの……」

「あぅあぁ! ああああ!」

 生暖かい血の感触に半狂乱となった少女を宥めるように女が優しく抱きしめる。

「マチルダ。私の愛しい子。一足先にお父さんに会いに行くわ」

 十字架のネックレスを外すと祈りをこめるようにして娘の首にかけた。

「主は常に伴に。何も恐れる必要なはいわ」

 自らに言い聞かせるようにして呟くと、ポケットから鈍色の銃弾を取り出した。

「二発だけ残してたの。半分で済むわね」

 ゾンビ化が発症するまでの猶予は体格や噛まれた部位などにより左右されるが、おおよその目安は十分と言われている。一つの指標となるのは頸動脈だ。傍目から見てもわかるほど脈打ち始めると遅くとも五分以内に発症する。

 女は首筋に触れていた指先を放すと、先ほどもたついていたのが嘘のように手際よく弾を籠めた。

「……精一杯、生きなさい」

 まるで言葉が届いたかのように少女は泣き止むと、しがみついていた母親から離れた。

 そして俺にだけくぐもった銃声が届いた。


 口の中に無理やり食べ物を詰め込まれたかのようだ。咀嚼が追いつかず、味が混ざり合い、自分が何を噛んでいるのかすらわからなくなる。

それと同じだ。思考が現実を飲み下せずどう対処すべきか全く思いつかない。

 そんな俺とは対照的に少女はペンダントを握りしめていた手を開くと、ジーンズのポケットから取り出した封筒を虚空に差し出した。三十秒ほどその姿勢を保ち、受け取り手が現れないとわかると、今度は反対側に向き直り同じことを繰り返す。

 音も光もない世界で、いるかもわからない相手に向かって必死に助けを求めている。

 誘われるようにして一歩踏み出すと、マークの冷ややかな声に押し留められた。

『酷なのはわかるぜ。でも、悪いことは言わねぇ。放っておけ。どう考えても無理だ。第一、おまえ、ガキが好きじゃないだろ』

 確かに子供は苦手だ。歯に衣着せぬならマークの言う通り嫌いだ。子供が体現している無邪気さや内包している無限の可能性が眩しく直視できない。

『なっ? 行こうぜ。それとも残り半分を使うか?』

 母親のコートからこぼれた銃弾を拾い拳銃に籠める。

『まぁ、それも一つの答えだな。むしろ慈悲深いよ』

 至近距離から少女の頭部に狙いを定める。プルプルと震える封筒越しに小さなつむじが覗く。

 引き金を絞り、少女の背後から迫ったゾンビを片付けると、俺は封筒の封を切った。

『マチルダ・エニング、九月三日生まれ、八歳、血液型はAのRH+、親切な方、どうか娘を【朝日の当たる家】まで連れて行ってください』

 メッセージと共に同封されていた地図を広げると、北西に位置する地点に星印が記されていた。現在地を正確に把握していないので何とも言えないが、おそらく車でなら数日で着くだろう。

 不意に腰に違和感を覚えた。封筒を奪われ拠り所をなくした小さな手がシャツの裾を握りしめていた。

 笑おうと必死に努力しているのか、マチルダの頬がぴくぴくと引き攣る。しかし、それは笑顔となる前にダムが決壊するようにグシャグシャとなった。

『重すぎる荷物は身の破滅を招くぞ』

 珍しく真剣な調子のマークの警告が胸の内で泡となり弾けた。


 ラベルを確認している余裕などない。ブルドーザーが土砂を掻きこむように棚に残っている薬品を手当たり次第にバックパックに流し込む。

(他には――包帯か)

 マチルダの包帯は黒ずんでいる。なるべく早く替えた方がいいだろう。

「ヴァアアアア」

 物資の確保に気を取られ死角に潜んでいたゾンビに気付くのが遅れた。辛うじてマチルダとの間に体をねじ込み、手にしたバックパックごと押し返す。中身が派手に零れ、つま先に当たった瓶がコロコロと転がる。

「ギァアアヴェゥ」

 急所を刺し貫いたナイフを引き抜き散らばった薬を集める。

「ううぅあぁ」

 振り返るとマチルダが薬の瓶を抱えながら右往左往していた。無我夢中でいつの間にか手を離してしまったようだ。慌てて駆け寄り抱えた薬を受け取る。マチルダは心底安堵したように微笑むと、俺の利き手とは反対側に回り込む。なるべくこちらの邪魔にならぬように苦心しているさまがなんともいじらしい。再び小さな手を握る。彼女の存在が自分の両肩にかかっていると思うと途端に息苦しくなった。

(送り届けるだけだ。そこから先は関与しない)

 マークに言われるまでもない。この重みに耐えられるほど自分は強くない。

(大丈夫だ。さして遠くないじゃないか。重さを感じる間もないぐらいだ)

 無心で目についた包帯やバンドエイドを詰め込む。

(これで全部か?)

 最後に棚を見回し生理用ナプキンが目にとまった。

(必要か?)

 妹の時を思い出そうとするも全く記憶にない。

(……万一のためだ)

 そう自分を納得させ、気恥ずかしい気持ちを押し殺しバックパックの奥に押し込む。

(後は足だけだな)

 正面のレジを抜けた先の出口にはゾンビが屯している。駐車場へは迂回するしかない。

 柱に掲げられた案内図を睨む。北か南の二択だがどちらが正解かわからず戸惑う。自分一人なら考える間もなく正面突破した。

『やっと実感したか。それが荷物を抱えるってことだ。さよなら大いなる自由。こんにちは足枷。ジャニスだって歌ってるだろ。失うものがなくなってこそ自由だって。土台無理な話だったんだ。選択肢を狭めるな。死ぬぞ』

 チラリとマチルダを盗み見る。まるでその視線に針が含まれていたかのように少女が身を竦めた。

(わかってる、わかってるさ)

 覚悟の上だ、と胸を張りたいところだが、足場が崩れるような感覚に思わず手を放しそうになる。

『だいたい眠気はどうすんだ? あいつ等は行儀よくノックなんてしないぜ』

(それは……)

『よしんばおまえが食わなくたってこの状態だ。腹を空かしたライオンの檻に投げ込まれたも同然だぜ。万に一つも生き延びらねぇよ』

 眠気が襲ってくるのは不定期だ。一日と間を開けないこともあれば、一ヶ月以上音沙汰がない時もある。先ほど目覚めたからと言って安心はできない。

「うっう~」

 こちらの逡巡が掌を通して伝わったのかマチルダが懇願するように呻いた。

『この世界がどんな場所か思い出せ。つむじまで肥溜めに浸かってんだ。今さら綺麗に生きようなんて遅ぇよ』

 これまでマークの決定に異を唱えたことは一度だってない。バンドの方針も、メンバー選びも、曲作りだってそうだ。それは世界がこうなってからも変わらない。マークが果敢な決断を下さなければとっくにくたばっていた。だから、感謝しているとの気持ちに嘘はない。それでも――

(飽き飽きだ)

 母親の死の一因が自分にあるとの負い目だけなら見捨てていたかもしれない。同じくマークへの反発のみなら置き去りにしただろう。その両方が合わさり、はじめて決心がついた。

 俺はマチルダの小さな手を引くと、直感に従い南を目指した。


 食品売り場に差し掛かるとマチルダのお腹がキュ~とかわいらしく鳴った。それにより生命の維持には栄養の摂取が不可欠であるとの大原則を思い出した。

 スカスカな棚を隅から隅までさらい、空箱までひっくり返し、なんとか水とチョコレートバーを少量確保できた。

 今度こそ一直線に出口を目指す。途中でカートを押していたゾンビを処理し、バックパックと共にマチルダを乗っけ、半開きの自動ドアをこじ開ける。

「ツッ」

 太陽の眩しさに目を細める。空の青さを意識したのは随分と久しぶりだ。ずっと地面ばかり見ていた気がする。実際、先週の天気はおろか、昨日の空模様だって思い出せない。豪雨と快晴の違いは蝸牛とナメクジ程度の差しかなかった。

「あう~」

 急に立ち止まったため不審を覚えたのか、マチルダが遠慮がちにカートを揺らす。俺は口の中で「悪い」と呟くと、段差に注意しながら駐車場へと乗り入れた。

 まるでシンナーを吸い過ぎた麻薬中毒者の歯並びのように風雨に曝された車がまばらにとまっている。手近な一台のフロントグラスを掌で拭うと、助手席に落ちている鍵が光を受け反射した。

(幸先がいいな)

 運転席側に回り込みドアを開ける刹那、内側から窓が叩かれた。

「ヴァアアアア」

 ざんばら髪の老女のゾンビが涎がつくのもお構いなしに窓に顔を押し付ける。先客がいるとは予想だにしていなかったので思わず腰が引けた。

「グバァアアアア」

(ったく、そんなにいきるなよ。他を当たるさ)

 まばらとはいえ、この一台に固執しなければならないほどではない。

(あばよ)

 中指を突き立て熱烈な見送りに応える。

 駐車されている車は他にもあるのでたかを括っていたが、端から端まで調べたがまともに動きそうなのは最初の一台のみだった。見落としがないか反対側から丹念に見て回るも、やはりどれもパンクしていたり、ガソリンが抜き取られていたりと、廃車寸前の代物だ。

(冗談きついぜ……)

 占拠しているゾンビを片づけること自体は朝飯前だが、問題はどうやってそのことをマチルダに伝えるかだ。どこか安全な場所で待機させるしかないが、一人にしたら捨てられたと思いパニックになるかもしれない。

 視覚も駄目、聴覚も頼りにならない、となると残るは触覚しかない。俺は周囲の安全を確認してからマチルダの手を取った。

『ゾンビ、倒す。少し、待って』

 小さな掌に指先で一文字ずつ記す。なるべく簡潔に書いたつもりだ。それでもマチルダは考え込むように俯いてしまった。

(……ダメか?)

 これで伝わらなければコミュニケーションは諦めるしかない。

 固唾を飲んで見守っていると、不意にマチルダが顔を上げた。そして、何を思ったのか、両手を開き、一本ずつ指を折っていく。その意味を悟ったのは、両手が二度目のグーの形になった時だ。

『時間?』

 マチルダが頬をほころばす。彼女はどれぐらい待てばいいのか尋ねているのだ。

小さな掌一杯に『5』と記すとマチルダの表情が曇った。

(これでも早いと思うんだけどな)

 人間なら倍以上かかったっておかしくない。しかし、独り残される身になれば確かに長く感じるかもしれない。

 俺が『3』と書き直すと増々マチルダの眉間に皺が寄った。

 今度はこちらが眉根を寄せる番だ。短いことに対して不満を表明しているのはわかったが、その理由がさっぱり見当がつかない。

 蝶が花の蜜を求めるようにマチルダの人差し指が宙を舞い、こちらの掌に止まった。小さな指が滑らかな軌跡を描くも、鈍くなった触覚では繊細な動きを追えず文字がぼやける。繰り返し書いてもらい、指の動きを目で追うことにより、なんとか解読できた。

『短い、危ない、ダメ』

 息が止まった。マチルダが案じていたのは自らが不安に怯える時間の長さではなく、こちらがゾンビの処理に要する時間の短さだったのだ。その心遣いに何かが溶けだす。それがなんであるか判明する前に、俺はマチルダを安全な車の中に押し込むと、ゾンビを処理するべく踵を返した。


 車内を汚さぬよう外におびき出したので少し手間取ったが、特に問題もなく老女のゾンビを片付けた。グズグズしていては生存者と鉢合わせる危険性が高まるので、すぐに後部座席にマチルダを乗せる。

 キーを捻り、思わずハンドルを叩く。

(ちっ、抜かったな)

 連れて行くことばかりに目を奪われ、送り届けるとの目的を失念していた。受け入れ先がどういった所にしろ、ゾンビと一緒の少女を温かく迎え入れてくれるとは思えない。馬鹿正直に正面玄関をノックするわけにはいかないのだ。

(どうする?)

 学校の送り迎えのように車で乗りつけるわけにはいかない。かといって、少し離れた場所で降ろしたとしても、マチルダだけでは真っ直ぐ歩くことすらままならない。

 何も思いつかぬままアクセルを踏む。車を駐車場から出す際に癖で左右を見回すと、助手席に広げた地図が視界に入った。

(朝日の当たる家か)

 真っ先に思い浮かぶのは単調でいながらどこか耳に残るアルペジオだ。名付け親がオールディーズのファンでないとするなら、名前の響きから連想されるのは右派系のキリスト教だ。あるいは、福音主義の系列に連なる連中かもしれない。いずれにしろ、宗教絡みであることは間違いないだろう。

 いつだって絶望を糧に肥えるのは宗教と相場が決まっている。今回の騒動により、どれだけ喰らおうとも食い尽くせぬほどの絶望が生まれた。そのため、キリスト教、イスラム教、仏教は言うに及ばず、その派生系から新興宗教まで雨後の竹の子のごとく勃興した。中には生贄を捧げる悪魔崇拝まがいのものまであったが、拠り所をなくした人々は無分別に飛びついた。数多の終末論が語られ、幾千の神が新たに生まれた。そのほとんどが泡沫のように消えたが、中には人々を惹きつけ共同体として存続しているものもある。

 数は力だ。そして、力こそ法だ。教団はそれぞれ縄張りを主張しあうようになり、信徒や食料を奪い合い、時には野盗顔負けの抗争を繰り広げている。この世界の状況を神からの試練と捉え、互助により乗り切ろうとしている者達もいるにはいるが、その数は決して多くない。

(ここがそういった内の一つだといいんだけどな)

 そうでなければゾンビの餌となったエニング夫人が報われない。

『すっかりほだされたちまったってわけか? 連中が人民寺院の再現を目論んでたって俺たちには関係ないだろ。無責任? おいおい冗談は顔だけにしてくれよ。途中で放り出すならまだしも、連れて行くつってんだぜ。これ以上立派な責任の果たし方があるかよ。第一、他に当てがあるのか? ないだろ。なら置いてくるしかねぇじゃねぇか』

 悔しいが正論だ。俺が唇を噛みしめるとマークが勢いづいた。

『なぁに、いくら世界が糞にまみれているからって、こんないたいけない少女をこれ以上不幸な目に合わせると思うか? もう少し信心深くなれよ。それこそ、名前の通り木漏れ日が降り注ぐような温かい雰囲気の場所かもしれないぜ。上手くいけば人間の心を持ったゾンビも受け入れてくれるかもな』

 軽薄な口調から口にしている本人が毛ほども信じていないことが窺える。まともに取り合うだけ損なので俺は無言でアクセルを吹かした。


 道の両端にトウモロコシ畑が広がる。荒れ放題の葉が風に吹かれ重そうに体を揺らす。

 グローブボックスに収まっていたのは名前も聞いたことないカントリー歌手のCDだ。試しにかけてみたが、景色と調和が取れている以外何一つ聴くべきところはなかった。

 取り出したCDを全開にした窓から投げ捨てる。

「あ~う~」

 後部座席に座ったマチルダが髪を靡かせる風にご機嫌な声を上げる。道はどこまでもまっすぐ伸びており遮る物は何一つない。鼻歌の一つでも口ずさみたくなる。

 マチルダに倣いかつてのバンドの看板曲をハミングする。自然と指がハンドルをハイハットに見立てリズムを刻む。体が覚えているものだ。たぶん一生忘れないだろう。

(それとも、これすら思い出せなくなるのだろうか?)

 だとしたらビートロックの名曲の歌詞の一節ではないが、『老いぼれる前に死にたい』だ。

(とっくにそうなってるはずだったのにな……)

 俺が死んでいればエニング母娘にも違った運命が待っていただろう。より過酷なものとなったのか、あるいは寿命をまっとう出来たのかはわからない。ただ、後ろで髪を押えている少女は今も母親の手を握っていたはずだ。

 考えれば考えるほどパズ達と別れた後に野垂れ死ぬべきだったとの思いが強くなっていく。自分でもなぜ死に切れなかったのか不思議だ。死神の鎌に首をはねられるはずだった。それがどういったわけか素通りされてしまった。

(……そうか、そういうことか)

 死に場所を見誤ったとの負い目が突拍子もない閃きをもたらした。

 ハンドルを切り、林道に乗り入れ、藪の奥に鼻先を突っ込む。ここならば見咎められる心配もない。体を捻り助手席のバックパックを漁る。パンパンに詰め込んでいるため包帯を探すだけで一苦労だ。何とか掴みだすと、その拍子に他の薬などが零れた。その中に見慣れた形状の缶があったので手に取る。派手な蛍光色の黄色に覚えがある。愛用していた油性のポマードだ。気付かぬうちに紛れたのだろう。

『偶然を啓示と見做すようになったら人間終わりだ』

 かつてのマークの言葉が木霊する。だが、何者かが俺の背中を押しているように思えてならない。髪型を整えるのは後回しとし、まずはマチルダの包帯を替えにかかる。

『包帯、替える』

 マチルダが外しやすいように顎を上げた。包帯の下から覗いた傷痕の生々しさに思わず眉をしかめる。顔立ちが整っているだけに、まるで名画をナイフで切り裂いたかのように醜悪さが際立つ。眼球の上を一直線に走っている傷以外にも、目の周囲に幾つも細かい切り傷が残っている。そこに刻まれた悪意に吐き気を催す。

『痛くない?』

「い~」

 マチルダがコクコクと頷く。

『本当に?』

 眼球を圧迫しないように細心の注意を払ったつもりだ。しかし、力加減がわからず強く巻きすぎたのではとの懸念が拭えない。

『本当に大丈夫?』

 くどいほど念を押すとマチルダが俯いてしまった。音も光も断たれた世界にあってなおマチルダは周囲の顔色を窺っている。それが過去の経験からきているのか、あるいは捨てられないための自己防衛なのかわからないが、子供としては些か不健全だ。

『包帯は? 遠慮、いらない』

 おずおずと結び目を緩める仕草に倣い締め付けを調整する。

「あ~」

 先ほどよりも明るい声音に胸を撫で下ろす。今度こそ大丈夫なようだ。

 続いてペットボトルの水を渡すとマチルダが困惑したように首を傾げた。

「う~」

 新品であることを示すため封を切っていない状態で渡したのだが、それがかえって狼狽させてしまったようだ。マチルダは口をつけることなく、抱えるようにして二リットルのペットボトルをこちらに差し出した。

『まだある』

 何度か強く勧め、ようやくマチルダは遠慮がちに喉を潤した。

「あ~」

 こちらに返そうとするのを押しとどめる。

『お腹は?』

「う~」

 ブンブンと首を横に振る傍から腹の虫が主人を裏切った。

 羞恥に頬を染めたマチルダにチョコレートバーを握らせる。この分ではいくら遠慮するなと言って聞かせても無駄だろう。長く共に過ごせばもう少し打ち解けられるかもしれないが、あいにく時間はない。

『好きに食べな』

 そう言い残して運転席に戻る。

(確かに、ほだされたのかもしれないな)

 マークの言葉を否定しきれない自分を発見し、ほろ苦く笑った。


『グラゴー・ベイスン』との名前通り、盆地に造成された町だ。目的地へと急いでいる旅人には素通りされ、採算を重視する大資本には見向きもされない。そんなどこにでも転がっている田舎町だ。

昔ながらの個人商店が並んだ目抜き通りを足早に過ぎ裏道へと一本入る。木枯らしが積もった落ち葉を巻き上げては気難しい陶芸家のように幾度となく散らす。

 俺はサイドミラーでリーゼントが乱れていないことを確認したのち、周囲に人気がないのを確かめ車のドアを開けた。

「あ~」

 ブランケットの下に隠れていたマチルダの安堵の表情にこちらまで顔がほころぶ。誰かが自分の身の心配をしてくれることがこれ程までに嬉しいものだとは知らなかった。

『大丈夫だ。行こう』

 封筒や食料を詰めたバックパックを背負いマチルダの手を引く。

「あ~う~」

 不満げな声に指文字を介さなくとも言いたいことの予想がついた。

『何度も話しただろ。俺は途中までしか一緒に行けない』

「い~あ~」

『心配ない。学校だった』

 目的地の『朝日が当たる家』はカトリック系の高校だった。屋上から『訪れん。さもなければ救われん』と大書された垂れ幕が下がっている以外は特に変わった所もなく、至極真っ当だ。周囲に鉄条網が張り巡らされているので中の様子までは窺えなかったが、カルト教団が根城にしているならもっとおぞましい雰囲気を醸し出しているはずだ。

 不安がないと言えば嘘になる。それでもこのまま旅を続けるのは現実的ではない。いくらマチルダが手がかからないとはいえ、やはり一人とは勝手が違う。排泄時などつかず離れずの距離が測り難く、ゾンビに襲われやしないかとヒヤヒヤした。

(だからこれが最善なんだ)

 自らを納得させマチルダの反論を封じると、車から離れた。


 マチルダの手を引き先ほどの目抜き通りを歩く。予めここら一帯のゾンビは始末したとはいえ、いつどこから新手が湧いて出てくるか知れたものではない。緊張に胃が収斂する。

 スーパーの陰から現れた一匹を処理し、駐車場のバーに引っかかっている間抜けを避け、修理工場の看板に隠れていた奴を始末する。慎重に進んでいるため歩みは遅い。それでも一時間もしない内に目標として定めた地点に着いてしまった。

 道路の真ん中までマチルダの手を引いて行き、膝を折り彼女の背中に二つの数字を書く。

「う~」

『大丈夫。後ろにいる。何かあればすぐ助ける』

 明らかに不安そうだ。それでもマチルダは手にした太い樫の枝を白杖代わりに踏み出した。教えた通り十七歩進み直角に体の向きを変える。

(そうだ。いいぞ)

 少し離れその様子を見守る。ゾンビが迫るか道を誤らない限り手を貸すつもりはない。

(百七、百八、百九)

 ぬかるんだ地面に残った足跡から歩幅を測ったかいがあり、今のところ誤差の範囲だ。このまま行けば、あと三百七十二歩で『朝日の当たる家』の正面に着く。

(そう、そのままゆっくり。焦る必要はない)

右斜め前方の淡いクリーム色の建物が俄かに騒がしくなる。

 発見されることを見越して、俺は少し前から関節が機能不全を起こしたようなカクカクとした歩き方に変えている。ゾンビの物真似も二度目だ。前回よりはましだと信じたい。

 これは踏み絵だ。

 いくら『朝日の当たる家』の外観がまともだとはいえ、中身まで真っ当かはわからない。往々にして狂気は凡庸の中に潜んでいる。だからこそ、身をもって試すしかない。もし、ゾンビに追われているマチルダを見捨てるようならば、例え託した所で碌な扱いは受けないだろう。それならば、他の場所を探した方がましだ。彼女に当たる危険性を考慮せず発砲してきても同じだ。確実に助けたいのなら門を開きわが身を危険に晒すしかない。

 聡い子だ。自分が重荷であることは本人が一番よく自覚している。少しでも負担を減らそうと己の気配を消すかのように常に息を潜めている。落ち着いた先で邪険に扱われれば増々萎縮してしまうだろう。俺はこれ以上彼女が背中を丸めるのを見たくない。

『すっかり保護者気取りだな』

(なんとでも言え)

 出来る限り歩幅を狭め、なるべくマチルダとの距離が詰まらないようにする。それでも徐々に小さな背中が迫ってくる。

(おい! 見殺しにするつもりじゃないだろうな!)

 俺は大げさなほどガクガクと体を上下させて歩く。

(揃いも揃って冷血漢ばかりってか? どうした! 早く来いよ!)

 見栄を切ったところで他に当てがあるわけではない。ハンディキャップを背負った子供を快く預かってくれる場所を探すとなると、それこそ砂漠に落としたペニーを見つけ出すようなものだ。砂を掻き分けている内に肩まで埋ってしまう。

『おまえは良くやったよ。誰も責めないさ。約束は果たしたんだ。もう十分じゃないか』

 マークが甘く囁く。

『いつ睡魔が襲ってくるかもわからないんだ。このまま引き返せって。なぁに、ゾンビが離れれば奴等だって見殺しにはしないさ』

 こちらの心を読んだかのような甘言に足が鈍る。

『そうだ。それで――』

 マークの言葉を遮るようにして鬨の声が上がり、大きく開いた正門から押し出されるようにして人波が吐き出された。

「うぉおおおおおお!」

 言葉にならない雄叫びに空気が震え、路上を蹴る振動に大地が揺れる。安堵、歓喜、恐怖、それに僅かな落胆。一度に処理しきれない感情に身を引き裂かれそうになる。

 異変に気付いたマチルダが立ち竦む。

(心配ない。ここが今日から君の家だ)

 手を伸ばせば背中に触れられる。しかし、俺は胸の内で呟くに留めた。

 集団から足の速い数人か飛び出す。今度こそ運命を受け入れるべく両手を広げる。傍目にはマチルダに襲いかかろうとしているように見えるだろう。

(お別れだ。このクソッタレな世界とも)

 名残惜しさを噛みしめている暇はない。死は目前に迫っている。先の尖った鉄パイプや金属バットが日の光を受け煌めく。衝撃に備え目を瞑ると、足が払われ地面に転がされた。抵抗する間もなく頭からすっぽりと袋を被される。

「確保! 確保!」

「こっちもだ」

「む~う~」

 マチルダの苦悶の呻きから丁重に扱われているとは思えない。袋を剥ぎ取ろうと必死にもがくも戒めは緩まず、手首に枷を嵌められ、なすがままに引き摺られる。

周囲の興奮した様子だけがやけにはっきりと耳に残った。


 自分の頬を抓る。痕が残るほどきつく抓ろうとも痛みは感じない。

(夢か)

 いったいどこからが夢で、どこまでが現実だったのだろうか? 入道雲に頭を突っ込んだかのように境界が曖昧としている。

 ストラップの先にぶら下がっている木目の美しいレスポールに触れ半笑いとなる。

(現実なわけがない)

 ハードロックのアイコンと化しているギターだ。傷や使い込まれた指板のくすみからレプリカではない本物のオーラが漂っている。俺ごときが腕に抱いていい物ではない。

「野郎ども! どれだけこの日を待ちわびたか! ついにロックンロールの神が降臨なされた! 新しい世界! 新しい秩序! そして変わらぬメタル魂! 他に何がいる?」

 ボロボロのジーンズに革チョッキを引っ掛けただけのむさ苦しい男がメガホンを片手に会場を煽ると、体育館を埋め尽くした聴衆が野太い雄叫びで応えた。疾走感のあるデスメタルの音量が一段と上がり、ビリビリと音圧でステージが震える。ひび割れたボーカルに、辛うじてサビで繰り返し歌われる『墓場より復活』とのフレーズだけが聞き取れる。

(現実なわけ……ない)

 だが、夢にしては肌に張り付く熱気をはらんだ空気の湿っぽさが生々しすぎる。それに目を射る照明は太陽を直視したかのように眩しい。

(仮にだ。仮にこれが現実だとしたら、歓迎すべきなのか?)

 情報の洪水に思考が追いついていない。これまでの流れを今一度整理する必要がある。

 椅子に座らされ、袋を取られると、簡素な机を挟んで真っ白な修道服に身を包んだ初老の男と対峙していた。殺風景な部屋で宗教的な雰囲気を漂わせているのはその男だけであり、あとは革のライダーズや袖を切り落としたチョッキを着ているバイカー崩ればかりだ。

「ご無礼を平にご容赦を」

 男が柔和な笑みを浮かべ頭を下げる。その挨拶が自分に向けられているのだと理解するまで少し時間がかかった。

「あなたは他の『意思なき者達』と違うように見受けられましたので、こうしてお呼びたてしました。本来であれば私の方から参上しなければならないところですが、なにぶん外では落ち着いて話も出来ませんので」

 男が目顔で頷くとティーセットが用意された。俺の前にも少年が恐る恐る紅茶のカップを置く。それを呑み干すと、周囲から感嘆とも驚愕ともとれる呻きが漏れた。

「言葉は解されますかな?」

 頷くとさっきよりも大きなどよめきが起こった。

「それは重畳。あなた様こそ私たちが探し求めていた人物かも――」

 手を突きだし男の言葉を遮り身振りでメモ帳を要求した。幾人かの手を経て紙とペンが渡される。俺は大きく『一緒にいた少女はどうした?』と書いた。

「心配なされなくとも大切に保護しております」

 男の言葉に嘘はなさそうだ。ひとまず胸を撫で下ろす。

「本題に戻ってもよろしいでしょうか?」

 男は律儀にこちらが頷くのを待ってから話を続ける。

「自己紹介すらせず失礼しました。私は『朝日の当たる家』の代表を務めております、アーネスト・ミュラーと申します。元々はこの学校の校長でした。今でもプリンシパルと呼ばれています。ただ、世界がこのようになってからは校長職以上に迷える子羊を救うことに身を捧げています」

 いまのところ六四で怪しさが勝っている。だが、部屋の装飾やミュラーの身振りからは狂信的なところは感じられない。それどころか極めて理知的で穏やかだ。気になる点といえば身を固めるボディーガードの粗暴さとミュラーの雰囲気がそぐわないことだ。それも時世を考えれば仕方ないのかもしれない。

「先ほど救うなどと偉そうなことを申し上げましたが、私の信仰心ではこの新たなる局面を迎えた世界を乗り切れませんでした。人々の心はバラバラとなり、私を頼って集まってくださった人たちも歯が抜けるように欠けていきました。信仰を失った者たちがいかに自己本位に振る舞うかはそれは恐ろしいものです」

 その時のことを思い出したのかミュラーが身震いする。

「それでも私には信仰しかよすががありません。必死に神に祈り、そしてついに与えられたのです」

 大仰に両手を天にかざすとハラハラと涙を流した。その様子に感極まったのか周りの信徒も一斉に嗚咽を漏らす。

(あっ、ダメなやつだ、これ)

 一気に怪しさメーターの針が振り切れた。

「ゴホン、申し訳ありません。取り乱してしまいました。新世界に新たな秩序が打ち立てられるのは当然のことでしょう。信仰とて例外ではありません。いえ、信仰こそ真っ先に刷新されるべきなのです。神は新たな秩序をお望みになり、『意思なき者達』を遣わしました。彼らの行動に注意深く耳を傾けることこそが必要なのです。そうです、耳を傾けるのです。そして私は与えられました。聖剣をここに」

 厳かな声でミュラーが命じると何人かが緊張した面持ちで部屋を飛び出した。

 背筋に悪寒が走る。嫌な予感などという言葉では言い表しきれないほどだ。

 隙を窺って逃げようにも出口をがっちりと固められている。それにマチルダの居場所も不明だ。もう少し様子を見るしかない。

 だが、信徒が差し出した聖剣を目にした瞬間、それまでの考えは吹き飛んでしまった。


 自転車の乗り方と一緒だ。一度ネックを握ればおのずと思い出す。

 簡単なリフから始め、徐々にシンコペーションなどを多用したフレーズを弾いていく。ブランクがあると左手の運指よりも右手のピッキングが衰えるものなのだが、三十二連符を要求されるような忙しない曲でも問題なく弾きこなせた。

 軽く流すつもりだったのが、気付けば夢中で弾いていた。久しぶりにギターに触れ血が滾ったのもあるが、聖剣として渡されたギターに引っ張られた面も大きい。

 木目の美しいギブソンのレスポールだ。素人目にもビンテージの逸品だと見て取れる。外見に劣らず音や抱えた感触も素晴らしい。特に指板に指が吸い付くような滑らかな弾き心地がたまらない。どことなくジミー・ペイジの愛器を髣髴とさせる。

(まさかな)

 我に返りギターを弾く手を止めギョッとする。

 俺の前にミュラーを始め室内に居る者すべてがひれ伏していた。

「我らどれほどこの時を待ちわびたことか」

 面を上げたミュラーの声は瞳と同じように潤んでいた。

「バイブルに答えはなく、神は沈黙を続け、私は絶望の淵にいました。そんな時です、過去に生徒から没収した品の中にこれが紛れていたのです」

 ミュラーが胸に抱えたデスメタルのレコードを両手で掲げる。

「聴くのも汚らわしい。以前は愚かにもそう思っておりました。しかし、その時はなぜか導かれるようにしてレコードプレイヤーに針を落としたのです。そして! そして、私は与えられました。魂の救済を!」

 それまでの平坦とした喋り方から一転、音量を調節する器官が壊れたかのように声の強弱が不均等となる。

「暗喩に満ち、時には意味深な歌詞に隠されていますが、現状のすべてが歌われていました。そして人類が進むべき道標も示されていたのです。この第一聖典だけではありません。他にも信徒の手により数々の聖典が発掘されました」

 ミュラーが著名なメタルバンドの名を挙げる。

(そりゃそうだろ)

 終末論はメタルが好んで取り上げる主要なテーマの一つだ。探せばいくらでもそういった曲が見付かる。壮大なブラック・ジョークではないかと信徒の様子を窺うも、全員が神妙な表情でミュラーの言葉に聞き入っている。

「出来る限り聖典は集めましたが、お恥ずかしながらそれを布教するためのミサを執り行うことがままなりませんでした。ボーカルやベース、ドラムなどの担い手は見つかりましたが、ギターだけいつまで経っても現れません、これは鋼鉄神(メタル・ゴッド)が与えたもうた試練であると確信しました。そんな時です、あなた様の噂を耳にしたのは」

 ミュラーが口にしたのはウェルと行ったライブの様子だ。尾ひれ背びれがつき、単なるハロウィンの余興がビートルズの解散ライブよりも派手なものになっている。

「まさにそれは啓示でした。最後の一ピースとして神が迎え入れるべきお方を指し示してくださったのです。そして我らの願いが聞き届けられ、ここにこうして顕現なされました!」

「なされました!」

 一斉に信徒が唱和する。

「さぁ、聖剣を手に降臨の儀を執り行ってくださいませ。祝祭として捧げる供物の準備も滞りなく進んでおります」

 爛々と輝くミュラーの瞳に気圧され、俺は頷くしかなかった。


 セットリストはあのハロウィンの夜をほぼ再現するものだ。そこに二曲ほどメタルの曲が足されているが、どちらも一通りは弾けるので支障はない。問題はリハーサルすらなくぶっつけ本番なことだ。

 ドラムはいかにもどっしりとしたリズムを刻みそうな髭面の男だ。日本製のキーボードの前には神経質そうな細面の男が陣取っている。自らの体をキャンパスにタトゥーで埋め尽くしているベーシストの女は指ならしに余念がない。

 客席を温めるのに忙しいボーカル以外全員がチラチラと窺ってくる。何もそれはバンドメンバーだけではない。観客席からも熱い視線を感じる。

 そこに棘は含まれていない。なのに尻の座りが悪くなるのは崇敬に近い念を感じるからだ。まるで俺が本当にキリストの生まれ変わりだとでも信じているかのようだ。

(冗談じゃないぞ)

 体育館を埋め尽くす人波は優に千は超えるだろう。こんな大勢の前で演奏したこともなければ、期待を一身に背負ったこともない。今にも膝がガクガクと笑いそうだ。マチルダのことがなければ逃げ出している。俺がロックンロール・ジーザスとして振る舞う限り彼女に危害が加えられることはないだろう。だからこそ無様な失敗は許されない。

「ご託宣を受け入れる準備は整ったみたいだな! 存分に喰らいやがれ! ワン、ツゥー、スリー、フォー!」

 ボーカルの男が大仰な身振りで振り返ると、会場中の視線が一斉に俺に注がれた。

(クソッ! やってやる!)

 半ばやけくそで弦を引っ叩き興奮の坩堝へと身を投じた。


 かつてないほどの昂揚感に震える。マリファナなんか目じゃない。一度も試したことがないがきっとヘロインでも足元に及ばないだろう。

 俺が一音奏でる度に観客が飛び跳ね狂ったように頭を振る。ランディ・ローズが目の前で演奏したとしても俺はここまで忘我の境地には達せないだろう。彼らにとって自分がどういった存在か認識すると怖くなる反面、全能感にも似た力が湧いてくる。

 バンドも巧者揃いだ。プロのバックミュージシャンだと言われても納得できる。音の洪水に酔っている内に彼らが『聖なる調べ』と呼んで憚らないセットリストが消化され、最後の一曲となった。

 正直言えば、この曲はあまり好きではない。曲自体というよりもバンドのイメージである悪魔崇拝が苦手だ。それがプロモーション戦略の一環であることは重々承知しているが、ステージ上で子豚の生贄を捧げたりと少々行き過ぎているように思えた。

「野郎ども! ついに次が最後の祝詞だ。不満なのはわかるさ。俺も全く同じだ」

 観客が静まるのを待ちボーカルの男が続ける。

「この瞬間が俺達の中で永遠に刻まれたのは疑いようもない。けどなそれを更に特別なものにするためミュラー様が粋な計らいをなさってくださった。盛大な拍手で迎えてくれ!」

 ステージの袖から現れたミュラーが片手を挙げ割れんばかりの拍手に応える。スポットライトに照らされたその姿を目にすると、耳鳴りがし、次いで眩暈が襲ってきた。あまりの怒りに体が先に反応を示し、感情が後から追い付く。

(ぶっ殺す、ぶっ殺す、ぶっ殺す、ぶっ殺す、ぶっ殺す、ぶっ殺す、ぶっ殺す、ぶっ殺す、)

 ミュラーの一方の手には手綱が握られており、その先には全裸で首輪をつけられたマチルダが這っていた。頬は殴られたことが一目でわかるほど腫れている。ミュラーが手綱を強く引くと、痩せ細った手足を懸命に動かし後をついてくる。その様子にひときわ大きな歓声が上がる。

(殺す、一人残らず、この場にいる奴全員、殺す。何としても、殺す)

 身には寸鉄も帯びず徒手空拳だ。それでも湧き上がる殺意を御しきれない。

 ミュラーはステージの中央で足を止め、まるで物のようにマチルダを蹴って足元に待機させる。ボーカルの男からマイクを受け取り、喉の調子を整えるように咳払いをした。

「この場に集まっている信心深き信徒諸兄、欠けていた月が満ちるように、時もまた満ちました。その奇跡を起こしたのは他でもない、貴兄らの弛まぬ信仰心であり、祈りです。今宵、この夜を特別なものにするため尊き生贄を捧げます。この少女はそこにおわせましまするロックンロール・ジーザスが獲物と見定めていた逸品。きっと鋼鉄神もお気に召してくださいますでしょう」

(誤解だ!)

 必死に首を振るも一切伝わらず、客席が異様なほど盛り上がる。

「メタルこそこの世界を灯す新たな光です。その篝手として選ばれた我々はそれに恥じぬ振る舞いが求められます。そのことを忘れないためにも、今一度誓いましょう。メタルを我が手に!」

「メタルを我が手に!」

 一斉に拳が振り上げられる。

「メタルこそ!」

「世界を照らす真理!」

「メタルに導かれ!」

「メタルに奉仕する!」

「メタルによる救済を!」

「もたらす! もたらす!」

 コール・アンド・レスポンスにより膨れ上がった熱気はミュラーが短剣の鞘を払うと最高潮に達した。

「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」

 統合された意思に支配されたかのように会場が一つの言葉で埋め尽くされる。

 俺は弦が切れるのもお構いなしにピックを叩きつけると、あらん限りの力でギターを吠えさせる。奏でられた不協和音がハウリングを起こし、耳をつんざくような騒音が会場の意思を断ち切る。

 ギターを弾く手を片時も休めることなく、露骨に不興を浮かべるミュラーのもとへ歩み寄る。俺が一歩距離を詰めるたびにパフォーマンスだと勘違いした聴衆から歓声が沸く。

「悪く思わないでください。鋼鉄神に捧げることこそ大いなる意思に基づいた行動です。きっと理解していただけると信じています。食料であれば私共の方でいくらでも用意させていただきます。年頃の少女が良いのであれば仰ってください」

 無駄とは思いつつ手を差し出す。身振りで短剣を寄こせと伝えるも、ミュラーはやんわりとほほ笑んだだけだ。

「ご自身の手で引導を渡したいとの思い、痛いほど理解できます。しかし、これは使徒たる我が務め。こればかりはお譲りするわけにはいきません」

 柔らかい口調に反して表情は硬い。本音がどちらであるかは一目瞭然だ。

「あなた様には他に重要な責務がございます。どうかこの神聖な儀式の介添えを願います。弦が切れてしまっておりますので替えましょう」

 俺は辛うじて巻きついているだけの四弦をペグから外す。いつだって切れるのは四弦だ。その気になれば人の首を締め上げることだってできそうなほど太いのに。

 弦の端を手の甲に巻きつけると、素早くミュラーの背後へと回り込んだ。

「ぐぅぇっ」

 マイクを通して増幅された呻き声が響く。背丈は頭一つ分俺の方が高い。腕に力を籠めると俺とミュラーの間に挟まれたギターが悲鳴を上げた。

 もがくミュラーの手から短刀が零れたのを視界の端に捉えると、俺は皺の寄った首筋に噛みついた。


 血の味を覚えてしまうことが怖かった。だから目覚めると真っ先に口を拭った。しかし、本当に恐ろしかったのは自分に奴らと同じ力が備わっているのを確かめることだ。

 だが、むしろ今はそれを願っている。

 頸動脈から吹き出す血を押え呻くミュラーを客席に蹴り込み、腰を抜かしたキーボードの優男の鼻を噛み千切る。次いでベースの女の腕のタトゥーを引っぺがした。

 短剣を拾い上げ切りつけてきたローディ―をギターでフルスイングし場外ホームランにすると、遠巻きにしていた輪が崩れた。

「銃だ! 銃がないと話にならないぞ!」

「警備兵を呼べ! グズグズするな!」

 辺り一面パニックだ。早くもゾンビと化したミュラーが観客を血祭りにあげており混乱に拍車をかける。このままいけばネズミ算式にゾンビが増え、すぐにでも手に負えなくなるだろう。

 その光景に眉をしかめる。俺はゾンビっぽい人間ではなく、人間らしいゾンビだったのだ。

(……それがなんだ。だからこそ救える)

マチルダに駆け寄り首輪を外す。鬱血した痕が痛々しい。抱き上げると、マチルダがしがみついてきた。

「アァ~」

(もう大丈夫。大丈夫だから。怖い思いをさしてすまなかった)

 言葉も指文字も介していない。なのに、こちらの気持ちが伝わっていると確信が持てた。同時にマチルダが心底安堵していることも感じ取れる。

(しっかり掴まってろよ)

 首に回された細い腕にこもった力に応じるべく俺は駆けだした。


 機材を蹴り倒すようにしてステージの裏手へと回る。出口へと殺到している観客が警備兵の行く手を塞いでいる今こそが逃げ出すチャンスだ。

 構内図によれば、この先には更衣室やシャワー室に繋がる通路がある。そこを抜ければ校舎の裏手に出られる。ただ、裏門は封鎖されているので突破できるかは未知数だ。

(心配するのは後だ)

 今は少しでも騒動から遠ざかることが先決だ。ゾンビが増えればそれだけマチルダに危険が迫る。

途中、更衣室からバスタオルを拝借しマチルダに巻きつけ、無人の通路を駆け抜ける。突き当りの両開きの扉を蹴り開けると燃えるような夕日に目を射られた。

「ひぃぃぃぃ」

 悲鳴に首を巡らすも、眩しさに目がくらみ、辺り一面ぼやけている。

(なんだ?)

 目を細めると、徐々におぼろな輪郭が像を結んだ。それは半裸の男だった。日に当たったことがないかのように肌は青白く、裸足の足がアスファルトを蹴るたびに腹の贅肉が上下に揺れる。両手でずり落ちそうなトランクスを押えているため今にも転びそうだ。

 養豚場から脱走を試みている子豚のような滑稽な姿に思わず失笑するも、男の行く手に一台だけポツンと駐車されているグレーのセダンを認め、笑いが引っ込んだ。

俺が駆けだすと、男が振り返り半狂乱となった。いくら小太りとはいえ向こうは一人だ。思うように距離が縮まらないまま男が車内に滑り込んだ。

 案に反してエンジンは掛からず、男が忙しなく上半身を捻る。どうやら鍵が見当たらないようだ。

 俺が一層ペースを上げると、男かあたふたと施錠した。

(ちっ)

 車を中心に左右に振れた視線が少し離れた場所に置かれている資材の山で止まった。ドラム缶や木材に混じり煉瓦が無造作に積み上げられている。

 進路を修正するため体を捻った刹那、鼻先を何かが掠めた。

「いたぞ! 撃て! 撃て!」

銃弾がアスファルトを砕き、カミソリ代わりにもみあげを整える。

 俺はマチルダを抱え直すと、リーゼントを振り乱しながら車に向け突進する。

 こうなっては窓を割るどころではない。一刻も早く身を隠さなくてはいい的だ。

 あと一息だ。しかし、その数フィートが永遠にも思えるほど遠い。

 俺たちを追い越した銃弾が車に幾つもの風穴を穿つ。その内の一つが後部座席の窓を割った。俺はそこから手を突っ込むと、乱暴にドアを開き、マチルダと共に身を投げ入れた。

(出せ! 出せ!)

 まさに今鍵を捻らんとしている男に身振りで伝える。男の瞳が揺れるも、降り注ぐ銃弾が迷いを断ち切った。エンジンが唸りを上げ急発進する。

「うぁぁぁぁぁ!」

 男は憑かれたように絶叫しながらフェンスを突き破りタイヤを軋ませながら歩道へと乗り上げた。大きくハンドルが切られるたびに座席から転げ落ちそうになる。

「あ~い~」

 マチルダの肩をしっかり抱き、シートに体を押し付け揺れを最小限に抑え込む。

 役目を放棄した信号を通り越し、方角を見失うほど幾度となく路地を曲がり、数えきれないほど草木を薙ぎ倒すと、いつの間にか市街地を抜けていた。

 バックミラーの中で男と視線が合った。

 無駄とは思いつつも「止めろ」と唇を動かすと、速度が落ち、路肩に停止した。

 ハンドルを握ったまま男が肩で息をする。

「はぁ、はぁ、はぁ、ひぃ、ひぃ、ふぅ、ふぅ」

 思わず『産むのか?』と尋ねたくなるようなリズムだ。しかし、真っ青な顔色から男がふざけているのではないことは一目瞭然だ。極度の緊張に心と体がついていかず過呼吸に陥っているようだ。

 俺は半身を乗り出し覗き込むようにして男を観察する。

 髭が顔を覆っておりヒッピーのようだ。しかし、男からは退廃的な雰囲気は感じない。どちらかというと神経質そうであり、ラブ・アンド・ピースや大麻からは縁遠そうに見える。ハンドルを握りしめた指先は白く、労働を知らない手だ。以前の職業が何であれ、ブルーカラーではなさそうだ。年齢はさしてと俺と変わらないだろうが、断言できる。仮に喋れたとしてもこいつとは共通の話題が一切ないと。男の口からはきっと俺が生涯理解できない単語が飛び出すことだろう。メタルを好んで聴くような人種には思えないが、信者でなければあの場にいた理由が思い当たらない。

 特徴的な黄色いキャラクターが人の悪そうな笑みを浮かべているトランクスの中に隠しているのでない限り、男は寸鉄も帯びていない。反抗してくる気配はないので好きなだけ二酸化炭素を吐き出させることにした。

「い~」

 傷に触れるとマチルダが呻いた。触れた感じ骨に異常はなさそうだ。目の傷が開いているようなこともない。大事に至っておらずひとまず安堵すると同時に再び怒りが込み上げてきた。確かに教団には壊滅的な打撃は与えた。しかし、それだけでは治まらない。関わった奴ら全員にマチルダが味わった以上の恐怖と絶望を叩き込む。

「ひっ!」

 グローブボックスに伸びかけた男の手首を掴む。

(まずはおまえだ)

 首筋に噛みつこうとした刹那、男が叫んだ。

「包帯と傷薬が! 中にににぃぃぃ!」

 涙目になりながら男が言葉を続ける。

「お、応急手当、し、しないとととと」

 全身の震えが語尾にまで伝播し不明瞭だが、どうやらグローブボックスの中に傷薬があると言っているようだ。

 男の潤んだ瞳を覗き込む。まるで捨てられた子犬のように頼りなげだ。

(……嘘なら殺す)

 伝わったのか、男が米つきバッタのように首を縦に振った。

 手首を掴んでいた手を放すと、男がソロソロと上体を傾けグローブボックスを開けた。

 拍子抜けする。拳銃はおろか、武器になりそうな物はレンチすら見当たらない。てっきりこちらを騙しているものだと思った。その裏をかき、希望を打ち砕いてこそ、より深い絶望を与えられる。そう考えたからこそ、好きにさせてやったのだ。それが、蓋を開けてみれば、実際に入っていたのは男の言葉通り軟膏と包帯だけだ。

 男が差し出してきた一式を受け取りマチルダの傷口に塗り込んでいく。

「い~」

 ハッカの匂いがきついのか初めの内は少し抵抗したが、すぐに大人しくなった。

 マチルダの包帯を新しいのに替え突き返すと、男があたふたと首を振った。

「あの、あなたの方の傷は、その、治療しなくても大丈夫なんでしょうか?」

 男の視線を追い、そこで初めてシャツの左肩に穴が開き、生乾きの血でしとど濡れていることに気付いた。


『ガイ・サンダース小児科』

 男は自らの名を冠した診療所に俺たちを招き入れると、あたふたと治療に必要な器具を揃えた。

 こちらが不安になるほど何度も「専門外なので」と口にするものだからよほど腕に自信がないのかと思ったが、そこは腐っても医者だ。ロウソクの揺らめく炎だけを頼りに肩に残っていた銃弾を取り出した。

「まだ無理しない方がいいですよ」

 白衣を脱いだサンダースの忠告を無視しシャツに袖を通す。

「幸い骨は外れています。通常であれば徐々に傷口が塞がっていきますが……」

 そこから先を言いよどむ。

(ゾンビだから細胞が再生するかわからないってことか)

 指摘されようやく自分が撃たれていることに気付いたぐらいだ。それに麻酔なしで銃弾をほじくり出されても痛みを感じなかった。サンダースによれば、「普通ならのたうち回ってもおかしくない」とのことだ。

(また一つ完全なゾンビに近づいたってわけか)

 自嘲に頬を歪ませるとサンダースがのけ反った。そんなつもりはなかったのだがどうやら怯えさせてしまったようだ。顔の前で手を振り気にするなと伝えるも、サンダースの表情は強張ったままだ。

(そりゃそうだよな)

 どこからどう見たってゾンビなのだ。気を許せるはずがない。マチルダの存在がなければ治療をかって出ることもなかっただろう。

 子供には相手の警戒心を解く不思議な力が備わっている。特に子供好きが高じて小児科になったというサンダースにとっては砂漠でオアシスを発見したようなものだろう。マチルダに病衣を着せる手付きはガラス細工の壊れ物を扱うかのように繊細だった。

 改めてサンダースにマチルダを診察してもらう。頬の打撲傷は軽傷だが、目の傷に関しては手の施しようがなく、視力が回復する見込みはないとのことだ。

 覚悟はしていた。それでも診断結果として正式に伝えられると少なからず堪えた。彼女は一生誰かの庇護下で生きていくしかないのだ。

「それにしてもいたいけない子供になんてことを……」

 サンダースが診察室の椅子に腰かけ犬のぬいぐるみと戯れているマチルダに憐憫の視線を向ける。

「悪魔でもここまで酷いことはしません。この世界は一体どうなってしまったのでしょうか?」

 俺は答えを持ち合わせていないため肩を竦める。

「子供こそが未来の希望です。それを、こんな……」

 サンダースが怒りに拳を握りしめる。その様子に胸の内で芽生えた考えが急速に育っていく。

(医者だ。そのうえ子供好きときている。お誂え向きじゃないか?)

 問題はなぜあの場に半裸でいたかだ。信者ではないようだが、車内では詳しい話は聞けなかった。そこら辺の事情が明らかにならなければ絵に描いた餅だ。

「すみません。取り乱してしまいました。ここは埃っぽいのでよければリビングに移動しませんか?」

 サンダースの案内に従い診察所に併設されている自宅へと足を踏み入れる。

「どうぞ楽にしてください」

ソファーに並んで腰かけた俺たちの対面にサンダースが座る。

「本来ならお茶の一杯でも出すべきところでしょうが、生憎何もかも切らしておりまして」

 俺の視線を辿ったサンダースが苦笑を浮かべる。リビングには段ボール箱が山積みされており物資が欠乏しているようには見えない。

「散らかっていてお恥ずかしい限りです。何から話せばいいやら」

 どう切り出すべきか迷っているかのようにサンダースが鼻の頭を掻く。やがて一点を見据えると、おもむろに語り出した。

「教団に捕まるまで冬眠中の熊のようにして暮らしてきました」

 サンダース曰く、ゾンビが闊歩するようになってから日の光を浴びたのは二度だけだと言う。一度目は行方不明となった母親を捜しに出掛け、二度目は保存食が底を尽いたため食料を求めて外出した。

「途中に事故現場があったかと思いますが、あの内の一台は母の車です。運転手が発症し暴走したトレーラーに巻き込まれたんだと思います。この惨状を知ることなく逝けたのがせめてもの慰めです」

 そこまで話しサンダースが目尻を拭う。

「すみません。母のことを喋る日が来るなんて思ってもなかったもので……。それで、事故を起こしたトレーラーにはこれが積まれていたんです」

 サンダースが手近なダンボールから乾パンの缶詰めを取り出した。いずれも食べ尽くされており中身は空だ。

「一生かかっても一人じゃ食べきれない量だと思いました。それが三年もたなかったんです。ここじゃ食べるだけが楽しみですからね」

 サンダースが自嘲を浮かべる。

「いっそう餓死しようかとも思いました。でも、ダメですね。自分に語りかけてくるようにお腹がグルグルと鳴るんですよ。それで一大決心をして食料を探しに出掛けたんですが、あっさりと捕まってしまいました。捕えられた時は今よりもかなり太っていたんです。だからてっきり食料のことを訊かれるものと思ったのですが、奴らはそんなことには一切頓着せず、ひたすら私には理解できない音楽について語り、暇さえあれば脳の位置がずれるのではないかと心配になるほど首を振っていました」

『他にも囚人が?』

 サンダースが目を細めメモを読む。

「はい、いました。ただ、自分以外は定期的に入れ替わっていたんです。それで、気になって私だけが残される理由を尋ねました。すると……」

 サンダースが何かを飲み下すように唇を噛んだ。

「奴らは毎週金曜日を『鋼鉄と鎖の謝肉祭』と称し、両端に鎖をつけた生贄を大型バイクで引き裂いていたのです。私が残されていたのは単純に体型の問題でした。あまりにも太っており、きれいに引き裂ける保証がないので痩せるまで待っているとのことでした、そして今日がその日だったんです」

 だが、『鋼鉄と鎖の謝肉祭』は俺の登場により急遽『降臨祭』となり、混乱に乗じて逃げ出す機会が生まれた。

「察するに、あなた方のお蔭で忌まわしき祭事は中止となったのではないでしょうか? だとしたら私にとっては命の恩人です。本当にありがとうございます」

サンダースが深々と頭を下げた。

 態度に不審な点もなければ話に矛盾もない。結論を下すのは早計だが、選択肢としては考慮に値する。あとはサンダースがどう反応するかだ。

「あの……」

 サンダースが恐る恐るとの態で口を開いた。

「出来れば私もお二人について教えて欲しいのです。構いませんか?」

「ア~」

 俺は鷹揚に頷く。

「お二人は親子ですか?」

 今度は首を横に振る。

「ご兄妹――でもない。となると、一体どのような関係なのでしょうか?」

 改めて問われペン先が迷う。まだ数日しか経っていないのに俺の中でマチルダの占める比重がどんどん増している。もし睡魔が襲ってこなければ胸の内で吟味しているアイデアも別の形を取っただろう。

 心情を語る代わりにこれまでの経緯を掻い摘んで説明した。

「そんなことが……」

 サンダースが絶句し固まる。改めて振り返ると我ながら中々波乱万丈だ。

「それで、これからどうなさるんですか?」

『俺は彼女の世話係として不適格だ。適任者に譲りたいと思っている』

 予想していたのだろう。サンダースの面上に驚きはない。

「……それは睡眠の問題でということですか?」

『この世界に安全な場所などないことは理解している。それでも時限爆弾の隣よりは大分ましだろ』

 サンダースが顎に手を当て沈思する。額に寄った皺が表情を険しいものとする。

『もちろん全て押し付けるつもりはない。物資の調達など出来る限りの支援はする』

 こちらの提案を目にしてもサンダースの表情は動かない。二つ返事で受けてもらえるとは思っていなかったが、ここまで頑なな態度を取られるのは予想外だ。なんとか翻意させたいがこれ以上説得すべき言葉は持ち合わせていない。

 気まずい沈黙が流れる。空気の重さに耐えかねるようにマチルダが身じろぎした。

(ダメか……)

 諦め腰を浮かしかけるとサンダースが全く予想外のことを口にした。

「……条件が一つあります。三人で暮らす。それを呑んでもらえるなら協力は惜しみません」

 三との数字の中に自分が頭数に入っていると理解するまで暫時要した。

『正気か?』

「狂っていないと生き残れないと開き直ったわけではありません。正直申して私だけでは彼女を守りきれる自信がないのです。腕力もそうですが、これまで隠れて住んでいたので世事に通じていません。お察しの通りサバイバルも苦手です。出来ることといえば診察と治療ぐらいです。それもこの状況ではどこまで出来るか心許ないです。彼女のためだけではない。私が生きていく上でもあなたの存在は不可欠だと判断しました。あなたが必要です」

 真剣な様子に伊達や酔狂で言っているわけではないと伝わってきた。

『しかし、三人でと言ってもどうすれば……』

「それについては追々考えましょう。まずは目下の問題である住居ですね。教団の人間にここは知られてしまっています。あれだけの混乱の後にすぐに追ってくることはないと思いますが、少しでも早く移った方がいいでしょう」

『あてがあるのか?』

「ないことはありません」

 サンダースの返答はどことなく歯切れが悪い。

「叔父の山小屋です。人が気軽に訪れる場所じゃありません。身を隠すならうってつけです。ただ……」

 サンダースが言いよどむ。

「その、ちょっと難しい人なんです。なんせこんな事態になる前から山奥に引き籠って住んでいましたので。母なんかは第二のユナボマーにならないか本気で心配していました。前に一度だけ様子を見に行った時は畑を作って自活していましたので恐らくまだ生きていると思います」

『一筋縄ではいきそうにないな』

「はい。ただ変わっているからこそあなたの存在を受け入れる可能性があります」

 今度は俺が顎に手を当て考える番だ。

 総体的に考えれば悪くない話だ。むしろ渡りに船と言えるだろう。問題はその叔父とやらが俺達を受け入れるかだ。

(難しいだろうな。睡魔のことを知ったら尚更だ)

 だが代替案がないのも事実だ。それに俺が身を引くことにより二人を受け入れてもらえるならそれはそれで当初の目論みと変わらない。

 結局、他に手がないのでサンダースの荷造りを手伝うと、俺たちは車に乗り込んだ。

(これでいいんだよな?)

 迫ってくる山脈を睨みながら問いかけるも、マークから答えはなかった。

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