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8 a Zombie  作者: 夜嶋朝人
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―3rd Session―

―3rd Session―


 売れないミュージシャンにとって常にライブは頭痛の種だ。定期的にステージに立たなければ誰の目にも止まらないが、かといって毎回ライブハウスが埋まる程の観客を呼べるあてなどない。チケットが捌けなければブッキング料は払えず足が出ることになる。

 苦肉の策で一度だけ売れているバンドの名前を騙ったことがある。尻に『シークレット・ライブ』とつけて。

 結果は予想を遥かに超えるものだった。

 返金を求めステージに押し寄せる観客。揉みくちゃにされる俺達。開放弦がなりぱなっしのベース、ネックが折れ悲鳴を上げるギター、蹴倒されるドラム、ハウリングを起こすマイク。地獄絵図に相応しい不協和音が奏でられた。人に押し潰されると恐怖したのは後にも先にもあの時だけだ。

 そして、もう二度とないと思っていた。それが、どうだ。

(クソッ! これに比べりゃあんなのピクニックだったな)

 ステージよりも狭い男子便所に、あの時を超える熱量でゾンビが押し寄せてくる。

圧力に耐えかね背骨がミシミシと軋む。肩から下げた愛器のレスポールはとっくに木屑となり再起不能だ。このままでは遅かれ早かれ俺も同じ運命を辿る。

「ウェ~」

漏らしたうめき声を聞きつけ扉越しに声がかけられる。

「ポンポン痛い?」

 的外れな心配に脱力する。

「だいじょうぶ。もうすぐ、お兄ぃくる」

 それはもはや信仰と言って差し支えない。どんな危機に直面しようとも兄が助けてくれると信じて疑っていない。

 人の肉声にゾンビが一斉に色めきたつ。トイレの個室を護るために突っ張っている両手がプルプルと震える。絶望的なおしくらまんじゅうを続けるのも限界だ。

(火事場の馬鹿力でもなんでもいいから出てこいよ! 今発揮しないでいつ使うんだ!)

 こっちの必死な思いを知ってか知らずか力の抜ける喚声が響く。

「うんこない! 今回はうんこないよ!」

 まるで世紀の大発見のように捲し立てる。それに呼応し更に圧力が高まった。

(頼むから大人しくしてくれ!)

 文字通り絶体絶命のピンチだ。にもかかわらず暢気にはしゃいでいる。その落差に横隔膜が刺激された。

(……始まりも便所だったな)

 苦笑に惹起され、思い出とするには少々鮮明過ぎる記憶がまざまざと甦った。


 表のタンクローリーからは溢れるほどガソリンを汲み上げることができただけに期待してしまった。それだけに空っぽの棚を前にした時の落胆は大きかった。

「チッ」

 舌打ちし、髪を掻き上げる。ヘナッとした手触りがまるで今の気分を表しているかのようだ。ポマードが底を尽いたため、リーゼントがきまらない。心なしか体調まで不調だ。

(穴場だと思ったんだけどなぁ)

 裏通りのガソリンスタンドに申し訳程度に併設されている個人商店だ。食料品は残っていないにしても、整髪料の一つや二つは転がっていると思った。それが、見事に空だ。

 つま先に苛立ちを代弁させると積み上げられた買い物かごが崩れた。

 その音に反応し淀んだ空気が動く。

(見世物じゃねぇっての)

 狭い通路を塞ぐようにして近づいてきた一匹を小突くとあっけなくひっくり返った。そいつをドアマット代わりにして数匹が纏わりついてくる。

(ちっ、うぜぇな)

 ざっと見た限り店内は飴一つ落ちていない。生存に無関係な化粧品などの嗜好品まできれいさっぱりと消えているので、かなり早い段階で略奪に合ったのだろう。そうでなければ、レジの中までさらっていくはずがない。今やベンジャミン・フランクリンの肖像よりも便所紙の方が価値がある。

『二千ドルのケツだ。キスしたきゃしていいぜ』

 百ドル札の束で尻を拭いたマークの台詞だ。当時はまだジョークに笑う余裕があった。

 思い出の中のマークの黄ばんだ歯に触発され過去が洪水のように押し寄せてくる。その高波に呑まれ近づいてくるエンジン音に直前まで気付かなかった。

『隠れる』『逃げる』。その二つの単語が脳裏で拮抗し、咄嗟に判断がつかず棒立ちとなってしまった。その間に薄汚れたバンが土埃を上げながら正面に滑り込んできた。運転と同じくらい荒くドアが開き人影が飛び出すと、空気が震えた。

 周囲のゾンビが吹っ飛んだ勢いに巻き込まれ背中を強かに打った。折り重なる肉塊の隙間からショットガンを構えた黒人の青年が覗き、ようやく銃撃されたのだと悟った。

「挨拶代わりの一発だ! 堪能してくれたか? まだまだこんなものじゃないぜ!」

 歯茎をむき出しにしてドアを叩く。青年の興奮が伝播したゾンビがこちらの顔や手足を踏むのもお構いなしに暴れ出す。

「そうだ! その意気だ! 憎いコーチを思い出せ。真夏に水を一杯も飲ませないでグランドを百周させたあいつだ。それか、あの娘を寝取ったあんちくしょうでもいいぜ。親の仇だと思え!」

 挑発に乗ったわけではないだろうがゾンビが一斉に青年に向かって殺到する。

 青年は自らを鼓舞するように不敵に笑うと、何かを託すように助手席に小さく頷きかけ一目散に逃げ出した。ジーンズ越しにでもはっきりとわかるしなやかな筋肉が躍動し、たちまちゾンビを突き放す。そのまま逃げ切ろうと思えば可能だろう。しかし、青年はあえて全力疾走はせず一定の距離を保っている。

体の上から重みが退いたのを機に俺は這いつくばりながらレジの後ろに回り込んだ。

 カウンターに背中を預け、レイのように首に巻き付いた贓物を払いのける。服の上からあっちこっち体を叩いてみるが特に外傷はないようだ。

 ホッと息をつく。しかし、胸を撫でおろしている暇はない。すぐにでも助手席に隠れていた人物が物資を探しに来るだろう。

 一人がゾンビをひきつけ、残りがその隙に店を調べる。言うは易く行うは難しの典型のような作戦だ。そもそも、囮役のリスクが見合わないため、大抵はなり手がおらず成立しない。なにせ、ゾンビの犠牲になる可能性が高いだけでなく、仲間に置き去りにされる危険性もはらんでいるのだから。しかし、逃げた青年の面上に緊張は浮かんでいても不安は覗いていなかった。強い信頼関係で結ばれていることが窺える。

(姿を現して脅すのは逆効果か)

 野合の手合いならば己に危険が迫れば相棒を見捨てることも考えられるが、今回は藪蛇になる可能性が高い。

(となると……)

 視線が自然と奥の事務所へと通じる扉に注がれる。内側からドアを叩く振動が小波のように伝わってくる。余程慌てて逃げたのかドアノブの下に鍵が落ちている。

 腕を伸ばし拾い上げた鍵を握りしめると、店先に人の気配がした。


「あの~誰かいませんか~?」

 緊迫した場面に似つかわしくないひどく間延びした声だ。

「えっと、えっと、知らない人のお家、入るときはっと……そうだ! ごめんくさい!」

 返答がないにも関わらず律儀に挨拶する。

 張のある太い声から、逃げ回っている青年とさして変わらぬ歳と思われる。しかし、口調は幼い子供そのものだ。そのちぐはぐさも気になるが、なによりも興味を引かれたのはその涼やかな声音だ。一切殺伐としたところがなく、まるで吹き抜けるそよ風のように柔らかい。

(この地獄のような世界で汚れなく生きてるとでもいうのか?)

 そっとカウンターの端から顔を覗かせると、チリチリと縮れた毛が目に飛び込んできた。鉄骨と見間違う筋骨隆々の大男が何を思ったか深々とお辞儀している。

(……正気じゃないな)

 幼稚園の敷地に一歩でも足を踏み入れたら問答無用で通報される背格好だ。それが過剰に礼儀作法を仕込まれた六歳児のように振る舞っている。

 大男が顔を上げそうな気配に慌てて俺は頭を引っ込めた。

 確かに大男にゾンビを引きつける役は荷が勝ちすぎる。しかし、だからといって探索が果たせるとも思えない。そんなことは囮役の青年だって百も承知のはずだ。にもかかわらず無理を押しているのは――。

(代わりがいないのか)

 図らずも最も心配だった懸念点が払拭された。あとはタイミングを見計らいパンドラの箱を開くだけだ。しかし、この分ならそこまでしなくとも済むかもしれない。

何をしているのか大男は入り口付近でまごついている。初めは物色しているのかと思ったが、付近の棚に陳列されているのは空気だけだ。それなのにゴソゴソと物を動かしている気配がする。

「うんしょ、うんしょっと」

 掛け声とともにガチャンと何かが噛み合う音が響いた。それでようやく謎が解けた。笑うべきか呆れるべきか判断がつかずあんぐりと口を開ける。

 大男はさっき俺が倒した買い物籠を元に戻しているのだ。どこの世界に一分一秒を争う状況でのんびりと清掃に精を出す者がいるだろうか。それも死体が転がっていたところで誰も気にもかけない状況でだ。

(……掛け値なしだな)

 ここまでくると突然服を脱ぎだしたとしても驚かない。行動が読めないだけに危険だ。

(背に腹はかえられないか)

 俺は事務所へと通じる扉まで這い進むと躊躇うことなく解錠した。


(どうしてこうなった!?)

 内心で毒づきつつ便所の個室に押し寄せるゾンビの群れに混じる。

 木を隠すなら森の中ではないが、今の俺にとってゾンビの集団ほど適した隠れ蓑はない。当初の作戦では事務所に閉じ込められているゾンビを解放した後、そいつらに紛れ姿をくらますつもりだった。

(それが、なんだってんだよ!)

 姿をくらますどころか、店からすら出られていない。それもこれも大男が全く予想外の行動を取ったからだ。

 ゾンビの群れに遭遇すれば一目散に相棒の元に駆けだすものと思った。それが何を血迷ったのか店の奥の便所に突進したのだ。

 自殺行為と変わらぬ行動に呆気にとられ足が止まった。何か秘策でもあるのかと思ったが、大男は首を引っ込めた亀のように固く扉を閉ざしただけだ。

 誤算はそれだけではなかった。

 異変に気付いた囮役の青年が遥かに早く戻って来たのだ。駆けつける際に、なりふり構わずショットガンの弾を全て撃ち尽くしてくれたことだけが唯一の救いだ。

「おい! テメェら、こっちだ! こっちだって言ってんだろ!」

 背後から挑発が虚しく響く。ゾンビの注意を自分に向けたいのだろうが、一度獲物に喰らい付いた奴らの気を引くのは並大抵のことではない。鼓膜が破れるほどの大音量でも無理だ。唯一方法があるとすれば、より魅力的なご馳走を目の前にぶら下げるしかない。

 喉が潰れるまで叫んだところで無駄だと悟ったのだろう。青年が唇を噛みしめる。

「クソッ! ウェル、もう少し辛抱しろ。絶対助けてやるからな!」

 切迫した青年の呼びかけとは対照的に調子っぱずれな返答が響く。

「お兄ぃ、うんこ! うんこ、くさい! ゾンビもうんこするかな?」

 ハリウッド映画のようにピンチに陥った際にヒーローが助けてくれることはない。ましてや俺達は開始五分でお陀仏となる脇役だ。どう楽観的に考えても絶体絶命だ。それなのに大男には悲観的なところが一切ない。

 首を後ろに巡らせると、決死の表情を浮かべた青年と目があった。

 十匹を超える群れに挑みかかるには青年が手にしているバタフライナイフはあまりにも心許ない。数匹も始末しないうちに血と脂で役立たなくなる。

 薄いベニヤ板が上げるメキメキとの悲鳴に青年は顔を背けると、残酷な現実を直視することなく踵を返した。

(……そうなるよな)

 美しい自己犠牲などそれこそ物語の中だけだ。生き残るためなら肉親だろうと見捨てる。それが生存本能に従った人間の姿だ。ましてや弟の方は明らかにネジが緩んでいる。遅かれ早かれこうなる運命だったのだ。

 兄弟を助けようと思えば助けられた。ホルスターに収まっている拳銃には店内を掃除するのに十分な弾丸が籠められている。もし青年が我が身を顧みずゾンビの群れに突っ込んだなら、引き金を絞るのも吝かではなかった。しかし、そうはならなかった。肉親に見捨てられた者にまで手を差し伸べていては重みで腕が千切れてしまう。

(俺がキリストの生まれ変わりじゃないからって恨まないでくれよ)

 便所の扉がゾンビの圧力に屈し断末魔を上げる。

 さすがに見届けるのは忍びないが、原因の一端を担う者として目を逸らすわけにもいかない。そう覚悟を決め、最後の瞬間を見届けるべく顔を上げると、下から突き上げられた。


 耳を塞ぐほどの轟音と地鳴りに、真っ先に浮かんだのはゾンビの重みに耐えかね地球が割れたとの馬鹿らしい妄想だ。しかし、妄想だと笑い飛ばせない自分がいる。この事態に陥る前に道行く人を捉まえては近い将来にゾンビで世界が滅ぶなどと触れ回れば狂人扱いされただろう。

(それと同じことが起ったって不思議じゃない。その証拠にこの煙はなんだ?)

 辺り一面もうもうと白煙が立ち込め一寸先すら見通せない。床が割れていないか確かめつつ這いつくばるようにして進む。まるで耳の中で小人が半鐘を鳴らしているかのようだ。グワァングワァンと突風が逆巻き、時たま癇癪玉の弾けるような音が混じる。

(クソッ! マジでどうなってんだ?)

 不測の事態に備え腰のホルスターに手を伸ばし、その姿勢のまま固まる。無骨な手触りはいつだって平穏をもたらしてくれた。その頼れる相棒がこの肝心な時に行方不明だ。

 舞い散っていた粉塵が薄れ視界が晴れると、流れるはずのない冷や汗が額をつたった。

 店が辛うじて半壊で保たれているのは、突っ込んできたタンクローリーがつっかえ棒の役割を果たしているからだ。少しでもバランスを崩せばたちまち倒壊するだろう。

 蠢いていたゾンビの大半が衝突の巻き添えとなりパズルのピースと成り果てている。運よく生き残った者も銃弾の餌食となり倒れ伏している。

 青年は振りかぶり髪の毛に降り積もった粉塵を払うと、まっすぐこちらに銃口を向けた。

 両手を上げ降参の意思表示を示そうにも四つん這いのため咄嗟に体がついてこない。

(こんなところで終わるのか……)

 諦観と共に運命を受け入れるべくまっすぐと青年を見返すと、不意に黒い影が俺たちの間に割り込んできた。

「くざい、くざい、お兄ぃ、めちゃくさい!」

 嗅覚は失っている。それでも思わずのけ反るほど大男の姿は悲惨だった。全身が糞尿に塗れ歩くたびにボタボタと茶色い滴をこぼす。

「まえ、見えない。口はいっだ」

 ペッペッと唾を吐きながらあろうことか大男がこちらに向かって一歩踏み出した。

「ウェル! こっちだ!」

 青年が必死の形相で叫ぶ。弟に当たることを懸念して引き金を絞れずにいる。俺にとっては僥倖であると同時に恐怖だった。

「ア~アアッ! アアアアア!!!!」

 かつてこれほど真剣に声帯を震わしたことがあっただろうか。『近づくな!』との警告を発しているつもりだが大男には届かない。突き出されている掌にもべっとりと糞尿が付着している。指先が肩に触れそうになったので慌てて飛び退いた。

「アゥ、アアェウァ!」

 手で追い払う仕草をするも見えていないのか全く効果がない。

「耳、はいっだ。おにぃどご?」

(クソッ! どうしたらそんなことになんだよ!)

 迫ってくる核弾頭から逃れようと後ずさると、不意に世界が反転した。俺が足をとられた瓦礫に大男も蹴躓く。

コマ送りのように倒れ込んでくる大男だけがスローモーションとなり、ヌメッした感触以上にベッチャっと響いた音の不快さがいつまで経っても耳から離れなかった。


 膝まで浸かった小川の水を掬い上げ頬に叩きつける。波立った水面に映る己の姿は泣いているようでもあり、笑っているようでもある。まさにそんな心持ちだ。

 髪まで糞塗れとなり、こうして目を皿のようにしてどこかに茶色い物体がこびり付いていないか探さなければならない。店の奥で石鹸を見つけなければ今頃発狂していただろう。

 首筋にこびりついた糞をこそげ落とすのはなんとも惨めな気分だ。しかし、同時に糞によって救われたのも事実だ。

 少し離れた場所で同じように身を清めている兄弟に視線を向ける。もろ肌脱ぎの兄が鼻をつまみながら弟の体を洗っている。

「だぁー! 動くなっての。髪にまでついてやがる。本当のクソッたれだぜ」

 兄であるパズがぼやきながらゴシゴシと弟の頭を洗う。水浴びを嫌う犬のように髪を振り乱していたウェルもようやく大人しくなったようだ。巨体を折り畳み兄が洗いやすい姿勢を保っている。

「お兄ぃ、くさい」

「我慢しろ。俺の方が臭い」

「うそ! ウェルの方がくさい」

「いいからぐちゃぐちゃ言うな」

「ぐちゃぐちゃ」

 気の抜けるやり取りに思わず吹き出すとパズが肩を竦めて見せた。俺は二人分のタオルを手ごろな岩の上に置き新しい服に着替えた。

「助かる。新品を返すと言いたいところだけど、難しいな」

(気にしなくていい)

 手の甲を振った仕草からこちらの意図を汲んだパズが軽く頭を下げた。

 俺は木陰に腰掛け煙草に火をつける。青空に吸い込まれていく紫煙を眺めていると先ほどの狂騒が嘘に思える。

「……俄かには信じられないけど、そんなに美味そうにくゆらされたらなぁ」

 木の枝に引っ掛けたシャツを手にパズが隣に腰をおろした。俺が人間臭く肩を竦めて見せるとパズが声を上げて笑う。

「クソに感謝を。危うく人を殺すところだった」

 確かにパズの言う通りなのだが、そのことに関して素直に感謝できないのは俺たちの周りを数匹のハエが煩く飛び回っているからだろう。きっとラフレシアにも劣らぬ蠱惑的な香りを発しているに違いない。

 糞塗れになったウェルから必死に逃げる俺に違和感を覚えパズは発砲することなく弟を引き離した。最初は人糞がゾンビに対して有効かと考えたようだが、粉塵の積もった床に俺が文字を書いたことによりその誤解は解けた。

「にしても、本当に貰っていいのか? タオルにしたってそうだよ。俺はそんなに気前よくなれる自信がない」

 結果的にゾンビをけしかけることになってしまったお詫びに、俺は手持ちの物資の殆どを兄弟に分け与えた。万一を考え食料も備蓄していたので二人だけなら優に一ヶ月は持つだろう。

 気にする必要はないと身振りで伝えると、パズが深々と頭を下げた。

「助かる。正直、あそこが駄目ならもうお手上げだったんだ」

 パズの話では二人はかなり規模の大きなコミュニティーの一員とのことだ。

「それぞれが特技や技能を活かしてお互い助け合いながら暮らしてる。互助の精神ってやつさ。林業に従事してた人間が木を伐採して、物流に携わってた奴が運搬計画を立て、建築学科の教授がひいた図面を基に大工の棟梁の指示に従って町を囲う壁を建てた。お蔭でゾンビに怯えずに暮らせてる。この世界ではちょっとしたもんだろ?」

 同意するとパズが得意げに鼻の下を擦った。しかし、すぐにその表情が曇る。

「最初から順風満帆だったわけじゃないよ。それこそ血の滲む思いで軌道に乗せたんだ。内輪揉めだって絶えなかったし、棺桶を作る木材が不足することだってあった。それでも諦めなかった。折れなかった。ゾンビなんかに負けてたまるかってね」

 そこまで喋るとパズが自嘲気味に頬を歪ませた。

「だけど、敵はゾンビだけじゃなかったんだ……」

 パズが唇を噛みしめ、歯の隙間から押し出すように言葉を紡ぐ。

「目立ち過ぎたのさ。景気がいいと思われたんだ。人の努力を横取りするハイエナみたいな連中に目をつけられた。奴らは守護料と称して月に三十人分の食料を要求してきた。ただでさえ人が増えて台所事情が苦しいところにそれだ。たまったもんじゃない」

(撥ね付けられないのか?)

 目で問うとパズが力なく首を振った。

「武装が違う。こっちは拳銃が主力だ。中には南北戦争の名残のブラウンベスを担いでる奴もいる。ゲティスバーグでならリンカーンの目にとまっただろうけど、アサルトライフルやサブマシンガンを相手にするのはきついよ。せめてベトコンぐらいの武器がないとね。竹やりでB52を落とそうとした日本人じゃないんだ。精神論じゃ戦えない。だけど、中には徹底抗戦を唱える奴もいる。一度膝を屈すれば骨までしゃぶられるってね。その危惧もわからなくない。とにかく、連中の脅し以来コミュニティは真っ二つに割れてる。連日話し合いがもたれてるけど、いつまで経っても平行線さ」

 一気呵成に話すとパズが重苦しいため息を吐いた。

「まともに探索隊も組めないから物資は乏しくなる一方だ。小競り合いも後を絶たない。ウェルのこともあるから俺は中立を保ってるけど、一応創立メンバーだし、難しい立場なんだ。まったく嫌になるよ」

 それで無理して二人で物資を探しに来たというわけか。殊勝なことだ。

『それなら焼け石に水だったな』

 メモ帳をかざすとパズが小首を傾げた。

『さすがに数百人の腹は満たせない』

 草を毟るパズの面上に諦めにも似た苦笑が浮かんだ。

「あれだけあれば暫くはウェルを腹いっぱい食べさせてやれる」

 それが何を意味しているか悟り息を呑む。

「……俺を薄情な奴だと思うか?」

 パズの下した決断を責める権利など俺にはない。ただ、障がいのある弟を抱えての旅は想像以上に過酷なものとなるだろう。

『覚悟した方がいい。けして楽な――』

 そこまで書き、俺はメモを破り捨てた。他人が口を挿むことではない。

 話題が尽きたので別れの言葉を探しつつ腰を浮かしかけると、風に舞うメモの残骸を目で追っていたパズが口を開いた。

「いくらウェルが大食いでも二人じゃ食べきれないや」

 言外に含まれている誘いは俺の足を止めるのに十分だった。


 俺が奏でる粘り気のあるリフに合わせて陽気な歌声が車内に響く。パズはハンドルをドラムに見立てビートを刻み、ウェルは助手席が壊れるのではないかと心配になるほど激しく体を揺する。

 流れている血か、二人ともさすがにリズム感がよく、音程を外すこともない。特にウェルは体に見合った声量で堂々たる歌いっぷりだ。何よりも舌を巻いたのはどんな曲でも完璧に歌いこなすことだ。パズ曰く、ウェルは一度でも耳にした曲はメロディーはおろか歌詞まで完璧に覚えるとのことだ。

「どうしてその記憶力が他で活かせないか不思議でしょうがないよ。未だに九九の七の段が怪しいものな」

「お兄ぃ! それ言わない約束」

「なっ? こういったことだけは覚えてんだ」

 車内の和やかな空気に触発され弦を押える指先に熱がこもる。

(すっかり忘れてた)

 これこそオーディエンスの効能だ。誰かが自分の奏でるギターで体を揺らす。それだけのことが力となり、普段は出てこないようなフレーズが飛び出す。俺が渾身のソロを弾き終わるとやんややんやの大喝采となった。

「ヒュー! 最高の曲に、最高のギター! 今の俺たちにこれ以上ふさわしい曲はないね」

 曲名通り高速道路を我が物顔で独占している。ただし、行先は『地獄』ではなく、『ボストン』だ。パズが「眉唾な話だけど」と前置きしたうえで語ったことによれば、東海岸に集まっている大学の研究機関が密かにゾンビの特効薬を開発しているとのことだ。

「噂じゃあと一歩まで迫ってるってさ。もちろん鵜呑みにできる話じゃないけど、どうせ当てのない旅なんだ。目指してみるのも悪くないと思う。治るなら治った方がいいでしょ?」

 正直、生き延びるだけならこのままの方が何かと都合がよい。しかし、バンドを組むとなると話は別だ。俺が素直に頷くとパズが掌を打ちあわせた。

「決まりだ!」

 そんなわけでパズ達の車に乗り込み即席のジュークボックスと化している。

「そのギターの腕前ならゾンビだってステップを踏むさ」

 過分な褒め言葉に照れくさくなる。お世辞ではなくパズが心の底からそう思っていることが伝わってくるだけに尚更だ。

「ゾンビもおどるの?」

「躍るさ。ロックンロールは人種どころかゾンビと人間の垣根だって易々と超えるね」

 自分が似たようなことを信じていたのは何歳までだったろうか? ロックに無理解だった家族や、冷たい世間の目はおろか、世界すら変えられると思っていた。だが、結局変わったのは俺自身だ。ロックに対する信仰を失い、いつしか己すら信じられなくなった。

 背筋を這い登ってくる鬱屈を吹き飛ばすように豪快にコードを掻き鳴らす。車間距離を測るために一定間隔で立てられた標識が飛ぶように車窓を流れる。

 突然ウェルが素っ頓狂な声を上げた。

「お兄ぃ! ちがう! ちがう!」

「おい! やめろ! なんのつもりだ!」

ハンドルに掴み掛らんばかりのウェルに車が蛇行する。中央分離帯に衝突する手前で辛うじて止まった。

「この馬鹿! もう少しでお陀仏になるとこだったぞ!」

「お兄ぃ、ちがう! 道、まちがってる! あっち! あっち!」

 ウェルが必死に指さしているのは先ほど通り過ぎた降り口だ。ちらりと見えた標識によれば、『あなたの町リトル・ウッド』へと通じているようだ。アメリカに五万とある田舎町になぜウェルがこれほどまで執着しているのか理解できないでいると、パズが歯軋りの隙間から言葉を絞り出した。

「ウェル、違うんだ。もう、俺たちは戻らない。ボストンを目指す。説明しただろ?」

「食料、手にはいった。みんな、よろこぶ。かえる」

 ウェルは余程興奮しているのか、説得に一切耳を貸さず、「帰る、帰る」と言い募る。なんとか宥めようとパズが手を変え品を変え説明するが、首を振るばかりで埒が明かない。

不意にウェルの頬が鳴った。

「よく聞くんだ。いいか?」

 ウェルは叩かれた頬を呆然と押えながらも、パズの噛んで含めるような調子に釣り込まれコクンと頷いた。

「俺たち三人なら食料は暫くもつ。でも、コミュニティのみんなのお腹が膨れるほどではない。それに、悪い奴等がいる限りあそこは安全じゃない。ロイを覚えてるだろ?」

「いじわるした子?」

「そう。小学校の時、おまえの玩具を盗った奴さ。ロイがあのまま反省しなかったらどうなった?」

「……ずっとオイラのお腹がいたかった」

 その時のストレスを思い出したのかウェルが顔をしかめ脇腹を押えた。

「そうなったらいくら玩具を持ってたってしょうがないだろ? 食料だって同じさ。盗られたくなかったら逃げるしかない」

 パズの説得になおもウェルが食い下がる。

「お兄ぃは、わるい人たちを倒せるでしょ?」

「ロイじゃないんだ。ぶちのめしてはい終わりにはならない」

 パズが自嘲気味に、「ぶちのめされるのはこっちか」と呟いた声は、ウェルの「うそだ!」との絶叫にかき消された。

「お兄ぃはヒーローだもん! アニーもチャットもこまってる。みんなを助けるんだ!」

 ウェルの地団駄に一際大きく車が揺れる。パズがすすり泣くウェルの頭を抱き寄せ、「俺たちがいなくてもみんな大丈夫だ」と繰り返し言い聞かせるも、本人がその言葉を信じ切れていないためどこか白々しい。

 上滑りする言葉にウェルが激しくかぶりを振った。

「ヒーローじゃないお兄ぃなんていらない!」

「おい!」

 制止を振り切りウェルが飛び出した。頭に血が上りゾンビが目に入っておらず、出口付近にたむろする群れへと一直線に向かっている。

「あのバカ!」

 パズに続きドアを開けようとしたところで視線がバックミラーに吸い寄せられた。ウェルとゾンビを一直線に結んだ先から車影が迫ってきている。振り返ると急速に大きくなるピックアップトラックが見えた。俺がのこのこと出て行っては話をややこしくするだけだ。

 こちらの意図を察しパズが頷く。

「心配ない。コミュニティのキャラバンだ。任せて」

 パズに後を託し、床に伏せブランケットを頭からかぶると、バットで肉を殴るような重い音が響いた。木材で補強されたバンパーがゾンビの群れを蹴散らしたのだと思い至るまで少し時間がかかった。


 切り取られた窓から差し込んでくる日差しに目を細める。半身を起しかけ、棺桶のような窮屈さに自分の置かれている状況を思いだした。

「返事がないから死んだかと思った」

 低く唸るエンジン音を子守唄にいつの間にか微睡んでしまったようだ。これで睡魔に襲われるのは二度目だ。

(ちっ、どうなっちまったんだ)

 いい兆候なのか悪い兆しなのかすら判断がつかない。人だった頃の習慣が戻っているという意味では歓迎すべきなのかもしれないがよからぬ胸騒ぎを覚える。

 苛立ちをぶつけるようにしてメモ帳に書き殴る。

『変わりは?』

 破り取ったメモ用紙を運転席と助手席の間に差し込む。パズが器用に視線だけ動かし読み取る。

「特に何も」

 ウェルを救った探索隊に組み込まれ拠点へ戻る途中だ。逃走を企てたことが発覚すれば制裁は免れないため、兄弟喧嘩のせいで注意が散漫となり出口を見落としてしまったことにしている。もちろん俺の存在は明かしていない。

『最悪ってことか』

「スキャンダル発覚後のアイドルも真っ青だ」

 軽口を叩くもパズの顔色は冴えない。仲間の死や置かれている立場を思えば無理もない。

「アニーが生きてればまだ可能性があった。事実を事実のまま受入れ、それを咀嚼してみんなに伝えてくれた。彼女の言葉になら多くの人が耳を貸した。だけど、こうなっちゃお手上げだ。あんたが姿を見せたら殺気立った連中に問答無用で撃たれる」

 拠点のまとめ役であったアニーとの女性がゾンビに襲われ亡くなったとのことだ。そのような状況下で俺が姿を見せればどうなるかは火を見るよりも明らかだ。わざわざ油を注ぐ必要はない。

「ちくしょう! あのギターさえ聴かせられればな。熱い血潮が流れてなけりゃあれだけご機嫌なロックンロールは奏でられないってのに」

 本気で悔しがっているパズの様子に気恥ずかしさが先に立つ。

「それ!」

 ウェルが割れんばかりに膝を鳴らす。

「コンサートやる。みんなハッピー」

 突拍子もないアイデアに呆気にとられる。大勢の前でギターを弾く自分の姿を想像してみる。確かに一瞬引き金を絞るのを躊躇うかもしれない。だが次の瞬間には蜂の巣だ。俺たちが冗談として取り合わずにいるとウェルが食い下がってきた。

「さっきお兄ぃ笑った、歌った。ずっとむずかしい顔してたのに」

「それは……」

「みんな笑顔、うれしい。誰もなかない」

 説得ともいえない継ぎ接ぎだらけの拙い言葉だ。なのに胸の内でハウリングを起こし激しく俺を揺さぶる。

 口をつぐんでいたパズが大きく息を吐き出すと、ポンとをウェルの肩を叩いた。

「ウェル、俺も本心だよ。本心から、あのギターを聴いて四の五の言う奴は人間じゃないと思ってる」

 パズの言葉に勢いづきウェルが何度もうなずく。

「だけど悲しいかな。今やゾンビの方が多いんだ。生き残るためなら平気で腐肉を漁る連中さ。内面から先にゾンビになっちまった奴らに人間性なんて期待しても無駄だ」

(腐肉を漁る……)

 比喩表現だとはわかっている。それでも心がざわついた。

「ばぁちゃんも言ってただろ。『誇りを持って生きなさいって』。それが出来なけりゃ犬畜生と変わらない。間違いを犯すのも、それを肯定するのも簡単だ。だからこそ俺は誇りを捨てずに生きたい。中にはゾンビの死体を焼いて食おうって奴までいる。そこまでして生きたくない」

 今度こそハンマーで殴られたような衝撃を感じた。俺にパズの清さがあったなら人として生を全うできただろう。しかし、浅ましくもしがみついた結果、このざまだ。

(あの時餓死していた方がどんなに楽だったろうか)

 だが親友の腐肉を口にした日から自分勝手に絶望し、己の胸にナイフを突き立てることは許されなくなった。

「追悼集会で警備が手薄になる。今夜抜け出そう」

 パズの有無を言わせぬ口調にウェルが俯く。

 正論だ。ウェルの世迷言とも思える意見など比べものにならないほど。なのに――。

(このステージこそが俺の死に場所なんじゃないのか?)

 ずっと探していた気がする。償いと約束を同時に果たせる機会を。そこで掻き鳴らす。天国に届くほどの最高のロックンロールを。

 無謀な計画に相応しく俺はメモ用紙一杯に大書したメッセージを二人に示した。

『レッツロック』


 通りを挟んだ小ぢんまりとした教会の前に思い思いの花を手にした参列者が列をなしている。誰も彼もが沈痛な表情を浮かべ伏し目がちだ。外にいるというのに警戒している様子は一切ない。その事実に壁に囲まれたこの町では安全神話が生きているのだと実感した。

 万里の長城に比べるべくもないが、それでも四方を壁に囲まれたさまは中々壮観だ。南北には櫓が建てられ、歩哨が常時警戒にあたっている。そのため、ゾンビは発見次第排除されるとのことだ。万全の警備体制に思えるが、それはあくまでも知能のない相手に限ってだ。人間が敵に回った場合、壁だけで防ぎきれるものではない。

 その事実が参列者に影を落としている。

 俺はカーテンの隙間を閉ざし窓辺から離れる。葬儀から戻って来たパズはキッチンでショットグラスを乾していた。

「どう?」

 パズがこちらの返答を待たず新たなグラスにワイルドターキーをなみなみと注ぐ。

「散っていった者たちに。献杯」

(献杯)

 胸の内で唱和し一気に呷るとアルコールが喉を焼いた。口を拭い、飲み干したグラスを流し台に戻す。

「いい飲みっぷり。もう一杯と言いたいところだけど、最後なんだ」

『十分だ。ありがとう』

 喪服姿のパズの対面に腰掛ける。

「今日が何の日か覚えてる?」

 唐突な質問に戸惑う。曜日はおろか、月日すら定かではない。色づき始めた葉っぱに秋の訪れを感じるぐらいだ。

「トリック・オア・トリート」

 すぐにはその言葉が『ハロウィン』との行事に結びつかなかった。それだけ日常から遠ざかってしまった。

「ここの方針なんだ。なるべく昔を踏襲しようってね。だからこういった堅苦しい格好もしなくちゃならない」

 そう言ってパズが黒いネクタイを緩めた。

「さすがに一軒一軒回るのは無理だから、ささやかな仮装パーティーを開く。ウェルのピエロは子供たちに大人気だよ」

 ウェル姿が見えないと思ったが、どうやら準備に余念がないようだ。

「そこでちょっとした出し物を披露する。幸い体格も同じくらいだし被り物で誤魔化せばばれやしない」

 パズの示唆に戸惑う。車内では終始反対の立場を崩さなかったのにどういった風の吹き回しだろうか。俺が尋ねるとパズが肩を竦めた。

「今でも反対だよ。どうしてあんたまでもがウェルの熱にあてられたか正直理解できない」

 犬死するつもりは毛頭もない。だだ、終わった後に自分の足で立っていることはないだろうと覚悟を決めているだけだ。生死を可否とするならば間違いなく失敗に終わる。それでも決行するだけの価値はある。そう判断しただけだ。そこら辺の事情はいくら言葉を尽くしてもパズには呑み込めないだろう。説明の代わりに俺は率直な気持ちを書いた。

『君たちを巻き込むわけにはいかない』

 メモ帳を覗きこんだパズが鼻先で笑う。

「あんたを見殺しにしたら今度こそウェルに愛想を尽かされちまう」

『しかし――』

「余計なことは心配せず、最高のロックを聴かせてくれ。そうそう、ウェルなら子供たちに人気の曲を教えてくれるよ。あいつそういうのに詳しいんだ」

 反論を封じるようにパズはこちらの肩を叩き台所を後にした。やけに重たい荷物を託されたような気がして俺は暫く立ち上がることがかなわなかった。


 砂糖に群がる蟻のように子供たちが我先にとお菓子の詰まった袋に殺到する。

「おさない、おさないで、みんなの分、ある」

 ピエロに扮したウェルが口を広げた袋をひょいと持ち上げると、足に纏わりついた子供が小魚のように跳ねる。その光景に周りの保護者から笑いが起こる。

 和やかな雰囲気の中、俺だけがフランケンシュタインのマスクの下で頬を引き攣らせる。ボロボロのカバーオールに、ペンキで汚れたジーンズ、手の甲には包帯を巻き、露出している指先には靴墨を塗り込んでいる。

(だからばれるわけない)

 そう自分に言い聞かせるが、西日がさし込んでくる室内は昼間のように明るい。次の瞬間にも誰かがこちらを指差して悲鳴をあげそうな気がしてならない。

 人知れず俺が込み上げてくる不安と闘っていると、不意に袖を引っ張られた。思わず叫びそうになる。

「ねぇねぇ、パズ兄ちゃん? それかざり?」

 幼稚園ぐらいの男の子が興味津々との態でレスポールをつつく。

 俺は答える代りにギターのボリュームを弄り、誰もが耳にしたことのある誕生日の定番曲をつま弾いた。そのメロディーに合わせ、十歳ぐらいの男の子が皆から祝福される。

 曲が終わり一際大きな拍手に包まれる。男の子がプレゼントの包装紙を破き、中から出てきた新品とは言い難い野球のグローブに感極まり声を詰まらせると、ちらほらともらい泣きする者が散見された。

 マスクの下で安堵のため息をつく。パズは、「フランケンシュタインなんだから喋らなくても変じゃないさ」と軽く請け負ったが、危うくばれるところだった。

 それにしても、こんなにも大勢の人に囲まれるのはいつ以来だろうか? 集会所として利用されている大部屋には子供だけで三十人以上いる。保護者などを含めれば百名近くに膨れ上がる。参加者をもてなすためにささやかながら軽食が用意され、紙の皿やコップを手に人々が思い思いに寛いでいる。しかし、一見和やかな雰囲気の裏にどこか余所余所しさを感じるのは、パズからコミュニティの置かれた状況を余すところなく聞いたからだろう。空気の入り過ぎた風船のようにちょっとした刺激で破裂してしまいそうだ。

(早いとこ始めた方がいいな)

 袖口から万国旗を取り出す手品がうまくいかずに四苦八苦しているウェルの背中を突っつくも、夢中なためこちらに気付かない。

(おい! 頼むぜ!)

 少し強めに押すことでやっと振り返った。俺が目配せするとワンテンポ遅れて反応が返ってきた。

「そうだ! フォークを持つほうじゃない」

 ウェルが嬉々として反対の袖口から万国旗を引っ張り出す。口々に別の手品をせがむ子

供たちを前に勝手に演奏を始めるわけにもいかず、俺は振り上げた腕を下ろし損ねた。

 子供たちに揉みくちゃにされながらウェルは腰をかがめると優しく語りかける。

「手品、これで、ぜんぶ。でも――」

「それが自殺行為だっつってんだ! 屈すれば根こそぎ奪われる! 根こそぎだぞ! ガキだって例外じゃない!」

 場に似つかわしくない怒声に凍りつく。騒動の中心に視線を向けると、薄汚れたスタジアムジャンバーを羽織った鷲鼻の男が初老の男性に詰め寄っていた。その剣幕に恐れをなし周囲の者は遠巻きに眺めているだけだ。

「ゲイリー、君の懸念もわかる。しかし、今回の探索でも貴重な仲間を失った。武器を探すとの目的に無理があったからだと考えている。戦いに備えようとするだけでこれだ。実際に争いになったらと思うと考えるだに恐ろしい」

「俺のせいだって言いたいのか!」

 ゲイリーと呼びかけられた鷲鼻が気色ばむ。

「誰もそんなことは言っておらん。子供たちが怯えている。この話はまた別の――」

「あぁ? ここにいる全員の命運がかかってんだ。聞いてもらえばいいじゃないか。なぁ、おまえ達だって知りたいよな?」

 ゲイリーがウェルを中心に固まっている子供たちを睨めつける。その猛禽類を髣髴とさせる鋭い眼光に射竦まれ幼い子供がガタガタと震える。

「よさないか!」

 制止を振り切り歩み寄ってくるゲイリーの前にウェルが立ち塞がった。

「なんだ? 金魚の糞に用はねぇ」

 ゲイリーが吠えるようにウェルを恫喝する。ウェルに比べれば頭一つ低いが、体の厚みでは見劣りしていない。まるでライオンとトラがにらみ合っているようだ。

「おまえ、きらい。かえれ」

「はっ、随分な挨拶じゃないか」

「ゲイリー! ウェルの言うとおりだ。子供たちの前だ。これ以上は止さないか」

 追いすがってきた初老の男性が突き飛ばされ尻もちをついた。

「子供? ここのどこに子供がいるんだ? 子供も大人もねぇ。テメェのケツを拭けねぇ奴はくたばるだけだ。菓子が食いたいなら自分で探してこい。なんのために足がついてんだ? ああぁん?」

 圧力に耐えかね子供たちが一斉に泣き出す。「ひどい」や「乱暴」などの非難の声が上がるも、ゲイリーに睨まれると合唱となる前に萎んでしまった。

「ガキ共だけじゃねぇぞ。テメェ等もだ。誰のお蔭で飢えなくて済んでんだ? それこそ俺たちが死に物狂いで食い物を探してきてやってるからだろうが! 満足に歩哨すら務められねぇくせに一丁前に分け前だけは主張しやがって。この菓子を掻き集めるのにどんだけ血が流れたと思ってんだ!」

 ゲイリーが乱暴にウェルの手元をはたくと、包装紙に包まれたチョコやクッキーがカラフルな雨となり降り注いだ。

「けっ!」

 ゲイリーがつま先に当たったキャンディーを踏み潰す。その挑発にたえかねウェルが腕を振り上げると、迎え撃つようにしてゲイリーがパンチを繰り出した。

 拳と拳が交差する刹那、俺は隙間をこじ開けるようにして無理矢理音をねじ込んだ。その勢いのまま、爆撃機を彷彿とさせるイントロへとなだれ込む。弦の上を縦横無尽に指が駆け巡り左手だけでなく右手までもが指板上を這いまわる。

 獣の断末魔のようなチョーキングが高揚感を煽り、しつこいほど繰り返されるトリルが幻惑的な雰囲気を醸し出す。そのまま力任せに弦を持ち上げ、一転清冽な印象を残すフレーズを奏でる。

(今度は外すなよ)

 祈るような気持ちでウェルに合図を送る。

 打てば響くような素早さでウェルがピエロの赤鼻をもぐと、スポンジが頭に装着された木の棒をマイクに見立て歌い始める。

 電気で増幅されていない生の歌声だ。にもかかわらず、アンプの力を借りているギターが押し負ける。圧倒的な声量に対抗するためいつもよりも強く弦を弾く。しかし、その度にウェルのトーンが上がっていき反対に煽られる。グイグイと背中を押され否応なしに熱量が上がっていく。それに応えるように観客も徐々に熱を帯びる。真っ先にショックから立ち直った子供たちが飛び跳ね、保護者もぎこちなく肩を揺する。外郭を形成する輪がドンドンと狭まっていく。

 音楽だけが残り、一触即発の空気は払拭された。周囲の熱狂に押されゲイリーは、「三階で会合を開いてるからな! 俺らと一緒に立ち上がる奴は来い! タマナシはゾンビの餌だぞ! 覚えとけよ!」との捨て台詞を残して去った。

その背中に向かってウェルが舌を出す。

 PAはおろか、マイクすらない。それでも間違いなく最高のライブだ。これほどまでの高揚感を感じたことはない。自然と笑顔がこぼれ、胸の内で凝り固まっていたしこりが溶け出す。

「つぎ、最後。ありがとう」

 ウェルの言葉に落胆の声があちらこちらから上がる。気付けば十曲以上演奏していた。

「また、つぎ、ありがと」

 ウェルが無邪気に次回の約束を口にする。だがそれが果たされることはないだろう。

 この後、パズが全てを詳らかにする。いくらライブが成功したからと言って俺の存在が受け入れられることはないだろう。場合によってはパズ達にまで非難が及ぶかもしれない。そうなったら迷うことなく俺を撃ち殺してくれと伝えている。

「みんなもしってる曲。いくよ!」

 ウェルの曲紹介に我に返る。雑念を振り払い、シンプルでありながらこの上なくキャッチ―とのお手本のようなリフを奏でる。耳に残るフレーズのためか、曲名だけではピンと来ていなかった人々の間にも笑顔が広がる。

 これで最後だと思うと自然と力が籠る。大げさではなく一音一音魂を込めて奏でる。その重みが伝わってか、笑いながら目元を拭う者が散見される。人の心を揺さぶれたことに満足を覚えると同時に、涙を流すとの感情表現が許されている彼らを羨しく思う。

 いよいよ曲は佳境に差し掛かり、ギターソロとコーラスを残すばかりとなった。

(もっと奏でていたい)

 その思いとは裏腹にフレーズが消化されていく。

 渾身の力で弦を持ち上げ落差の激しいヴィブラートで揺さぶる。音の震えと内心が共鳴しギターがむせび泣く。最高潮のままソロを終えると、辛気臭い気分を吹き飛ばすべく風車のようにグルグルと腕を回し力任せに弦を引っ叩いた。

 最高の盛り上がりを期待するも、こちらの意図に反して静寂が訪れた。

(どうした?)

 訝しみつつ、目を細める。やけに夕日が眩しい。それに急に視界が開けた気がする。

 ウェルが腰をかがめ足元に転がったマスクを拾う。それで初めて素顔を晒していることに気付いた。ずっと取れないように気を配っていたのだが、最後の最後で気が緩んでしまった。どうしていいかわからず、とりあえず受け取ったマスクをかぶり直してみる。重苦しい沈黙を振り払おうとギターを弾くも、シールドが引っこ抜かれたため、ペンペンと気の抜けるような音しかしない。

「どういうことだ?」

 静寂が破かれウェルに視線が集まる。

「説明する! わけがあるんだ」

 駆け込んできたパズに人波が割れる。

「パズ? じゃあこいつは誰なの?」

「なんでゾンビの仮装してんだ?」

「部外者を入れたのか!」

「どういうつもりだ?」

 殺気立った声が四方八方から飛ぶ。

「納得いくまで答えるから。だけどその前に約束して欲しい。なにがあろうとも暴力には訴えないって」

 パズは後ろ手に俺たちを庇うと、取り囲む者の目を一人一人覗きこんだ。大半が躊躇いがちに頷いたのを確認したのち口を開く。

「まず彼が無害であり、なおかつ完全にコミュニケーションが取れることをハッキリとさせておきたい。例えば、そうだな、右手を挙げて」

 俺は言われた通り保護者参観日の小学生よろしく高々と右手を挙げた。

「ピースサインに」

 人差し指と中指以外を折り曲げる。

「そこから二を引くと?」

 メキシコオリンピックの再来とばかりに高々と拳を掲げる。

「ご覧の通りさ。言葉を理解した上に演算処理能力も備わってる」

「だから、どうした? 彼もその……同じなのか?」

 発言者がチラリとウェルに視線を向ける。その眼の色には露骨にハンディキャップが増えることに対する嫌悪が浮かんでいる。

「この世に同じ人間なんて二人といない。だから答えはノーだ。俺が言いたいのは彼の素顔をここにいるみんなはもう見てるってこと」

 角砂糖に紅茶が沁み込むように言葉が蚕食し、理解の早かった者から息をのみ後ずさる。

「抜くな!」

 パズの鋭い叫びに幾人かがホルスターに手をかけたまま固まる。

「人と何も変わらない。それは俺が保証する」

「バカな! ゾンビだぞ! 次の瞬間には襲ってくるかもしれないんだぞ!」

 その指摘に俺たちを取り囲む輪が広がる。

「そんなのこっちだって変わらないじゃないか! 自分が正気だって胸を張れる人間が何人いる? 疑ってたらきりがない」

「化物と一緒にするな!」

 パズが必死になり言葉を尽くせば尽くすほど反発が強まる。

(これまでか……)

 遅かれ早かれ誰かが拳銃を抜くだろう。その時にパズ達に流れ弾が当たらぬよう二人から距離を取るべきだ。俺が身じろぎすると潮の流れが変わるように論調が転換した。

「いや、一理あるんじゃないか? ひょっとするとこいつは人類の希望かもしれないぜ」

 それまで静聴していたヒョロッと背の高い白人が進み出る。

「だって、完全にゾンビにならないってことは何らかの抗体があるってことだろ?」

 勘違いに苦笑する。すっかり俺が噛まれたものとして話が進んでいる。実際のところは真逆だ。ゾンビになりかけている者の肉を食ったことによりこのざまだ。

(そういえば、そこら辺の事情はパズにも伝えていなかったな)

 生乾きの傷だ。触れられないのをいいことに伏せていた。しかし、こうなったらきちんと話すべきだろう。しかし、白熱する議論に口を挿めない。

「例の研究機関で検査したらどうだ? ワクチンの開発が一気に進むかも」

「治るの?」

「そもそも研究機関なんて本当にあるのか?」

「どっちにしろジリ貧なんだ。他に選択肢はない」

「しかし、運んでる間に暴れ出すかも……」

「突然変異で一般人には効果がない可能性だってある」

「いや、それを言い出したら――」

 議論の輪に入れない子供たちが恐々と大人の陰からこちらを窺う。俺と視線が合うとモグラ叩きの的のように首を引っ込める。何度かそんなやり取りを繰り返していると意を決したように癖毛の少年が飛び出した。

「……母さんとステイシーをかえして」

挑みかかってくるような眼差しとは裏腹に消え入りそうなほど小さな声だ。なのに俺の耳にははっきりと届いた。

(すまない)

 自分でも、誰に対して、何に関して詫びたのかすらわからぬまま唇が動いた。

 俺の謝罪に少年は僅かに眉根を寄せたが、まるで表情を変えた己を恥じるかのようにすぐさま無表情に戻ると、子供の手には余る拳銃を握りしめた腕をゆっくりと持ち上げた。

 銃口がピタリとこちらの心臓を狙う。

 俺が頷くと、少年が引き金にかけた指を絞った。


 反動によろけた少年の手から父親と思わしき人物が拳銃をもぎ取る。

「大丈夫か?」

 差し伸べられた腕を取るとパズに引き起こされた。

(また死に損なったか)

 胸に去来するのは安堵よりも虚無だ。それでも命の恩人であるウェルに向かって感謝を示す。直前でウェルに突き飛ばされなかったら今頃銃弾は背後の窓ではなく俺の心臓を砕いていたはずだ。

 銃声に子供たちが泣き出すと急速に座が白けた。この分では二発目を発砲する気概のある人物はいそうにない。

「結論を急がなくたっていいだろ? 一晩じっくりと考えて欲しい。彼の身柄は僕が預かる」

 機を見るに敏なパズがすかさず畳み掛けると消極的な同意が形成された。人々は挨拶もそこそこに引き上げる。すっかりと余熱が冷めた部屋に風が吹き抜ける。

「……俺たちも戻ろう」

 パズに促されギターをハードケースに仕舞う。

「掃除は明日でいいよ」

 砕け散った窓ガラスの破片を箒で集めていたウェルが手を止めた。

「お兄ぃ、きこえた?」

「はっ?」

「ほら、また」

 ウェルに倣い耳をそばだてると、微かに犬の鳴き声が聞こえた。それも一匹や二匹ではない。数匹が連なって吠えている。

「また逃げ出したか」

 目顔で問うとパズが続けた。

「猟犬だよ。投票で食用ではなく番犬として飼われることになったんだ。ブリーダーだった奴が世話してるんだけど、なにせ間に合わせの廃材で作った犬舎だからすぐに逃げ出すんだ」

 吠え声がやまびこのように反響する。どうやらこの建物内にも紛れ込んでいるようだ。

「まかせて!」

 ウェルがパズの返事を待たずに飛び出した。巨躯に似合わぬ軽やかな足音が吠え声を追いかけ彼方へと消える。

「ったく! あいつはまた」

 パズがクシャクシャと髪を掻き上げた。

「やれやれ、悪いけど少し運動に付き合って――」

 語尾が銃声にかき消される。それも一発ではない。立て続けに響く。天井を打つ雨音のように音は上から降り注いできている。

「ちっ、馬鹿どもがパニックになりやがって」

 三階で会合を開いている連中が突然飛び込んできた犬に驚き無分別に発砲したのだろう。

「頭に血を昇らせた奴らがあんたを見たら何をするかわからない。ここで待っててくれ」

(用心してな)

 親指を立てたパズが裾をはためかせ消える。俺はアンプの上に腰掛けギターをポロポロと爪弾く。それに合わせるようにして割れた窓から吹き込む夜気にのり軽快にスネアが乱打される。音の出所は一ヶ所ではなく、複数に跨っている。ツインドラムどころではない。今やいたる所で犬の吠え声と発砲音が鳴り響いている。

『なぁ、ずぅっと疑問だったんだよ。動物がさ、ゾンビに噛まれたらどうなるんだろうって。気にならないか?』

 マークとの会話が甦る。結局、生け捕りにした兎を無駄にするのを恐れ、マークは悪魔的な実験を行うにいたらなかった。疑問を投げかけられた当初は気になったが、時の流れにすっかり薄れてしまった。そもそも、奴らが好むのは人肉であり、他の生物には見向きもしない。だから野生動物が噛まれたのを見たことはない、だいたい、ゾンビのとろさでは野犬どころか豚だって掴まえられないだろう。

(だけど……もし……)

 もし誰かが意図的に動物を噛ませたのだとしたら? そして、動物を介して人にゾンビ化が感染するとしたら? 強力な兵器の完成だ。兎や小型犬ならちょっとした隙間から差し込める。たとえば町を囲う壁の繋ぎ目など。

 そこまで思い至ると俺はアンプを蹴倒し駆けだした。

 すっかり日が落ち、月明かりだけが頼りだ。勢いよく角を曲がると足元に転がっている物体に蹴躓いた。たたらを踏みなんとか踏み止まる。

「グアァウゥッ」

 俺が躓いた物体が抗議の声を上げる。

 子供のゾンビだ。左足の膝から下が噛み千切られているため歩くことが適わず、地面を掻くようにして進んでいる。右手がこちらのつま先に触れ、続いて左にはめた野球のグローブが脛に当たった。

(……ジョージ)

 忘れるはずがない。少し前に繰り返し歌われた名だ。喜びの渦中にいた少年は今や地面を掃く箒と化している。その落差に頭がついていかずにいるとジョージが足に纏わりついてきた。

「グウウゥルァ」

 俺が食料でないことに対して不満を表明すると、かつてジョージと呼ばれた何かが離れていく。

 俺はこの世界を憎む新たな理由を嚥下することができず呆然と闇を見詰めた。


 どれぐらい経っただろうか。おそらく一分もそうしていなかっただろう。背後から名前を連呼され我に返った。

「たいへん! ゾンビ! ゾンビたいへん!」

駆け寄ってくるウェルの腕の振りに合わせアンプが前後に揺れる。肝心のパズの姿はどこにもない。

「お兄ぃ! ゾンビ! ゾンビ! ゾンビ! お兄ぃ! たいへん!」

 言葉を忘れてしまったかのように同じ単語を繰り返すばかりで埒が明かない。こちらの苛立ちを見透かしたかのようにウェルのズボンのポケットから紙切れがこぼれ落ちた。

『三階はダメだ。弟を頼む。北が手薄だ。幸運を』

 乱れた筆致に切迫した様子が伝わってくる。

 俺は頭から二度読み直すと、わななく手の震えに任せメモを破り捨てた。

「馬鹿野郎!」

 思わず怒鳴る。もちろん言葉として正確に発声されたはずがない。それでもウェルが雷に打たれたように身を竦ませた。

「貸せ!」

 半ばウェルから引っ手繰るようにしてシールドを奪いギターに捻じ込むと、アンプの音量を目一杯上げた。

「行くぞ!」

 廊下に反響したEコードの残響を追うようにして俺が駆けだすと、あたふたとウェルがついてくる。パズが無事な保証はない。それでも突き上げてくる怒りが足を動かした。


 まるで『ハーメルンの笛吹き男』になった気分だ。あるいはおのぼりさん相手のツアーガイドとでも言えばいいだろうか。俺が先導の旗の代わりにギターを掻き鳴らすと角からゾンビが顔を出した。

 パズとは似ても似つかぬ体格だ。アンプを小脇に抱えたウェルが災害用の万能斧を振い雑草を刈り取るようにゾンビを薙ぎ倒す。

「お兄ぃ! どこ~?」

 北と南の二ヶ所に階段があるため入れ違いになった可能性は否めないが、これだけ賑やかなのだから何らかの反応があってしかるべきだ。

(クソッ! 手遅れだなんて言うなよ)

 遮二無二ギターを掻き鳴らす。しかし、熱狂的に反応するのはゾンビだけだ。家具の隙間から這い出てくるゴキブリのようにどこからともなく湧き出してはヨタヨタと追いすがってくる。

(まずいな……)

 間引いてはいるがそれでも追い付かず十匹以上連なっている。いくらウェルとはいえこれだけの数を相手にするのは厳しい。

(どこだ? パズ! 返事しろ!)

 ウェルの話では集会が行われていた一室に駆け込んだところでゾンビに襲われたとのことだ。そこから先は要領を得ないので想像するしかないが、おそらくパズが身を挺して弟を逃がしたのだろう。

 首を巡らし追いすがってくるゾンビを観察する。先ほどよりも増えているがパズの姿はない。

(この階にはいないのか……)

 既に三階の大半は捜索した。残すはトイレぐらいなものだが、わざわざ袋小路となる便所に立て籠もるとは思えない。

「お兄ぃ、出てきて」

 ウェルが一際大きく声を張り上げる。

「アッ!」

 俺の注意にウェルが振り返り間一髪で背後から迫ったゾンビを薙ぎ倒す。

「はぁはぁはぁはぁはぁはぁ」

 ウェルが肩で息をする。あれだけ軽々と振っていた斧が重そうだ。

(これまでか)

 息を整えるウェルの袖を引っ張るも何の反応も返ってこない。訝しみ覗き込むと、一点を凝視していた。

「お兄ぃ!」

 駆けだしたウェルについていけずブッツとのノイズを発しシールドが抜ける。モーゼが海を割ったようにウェルは群がるゾンビをアンプで殴り倒し道を切り開く。俺は蠢くゾンビに足をとられそうになりながらもどうにか男子便所に駆け込んだウェルに追いついた。

 二人並べば肩が触れ合うほど窮屈な洗面台の前に先客がいる。

 中肉中背の黒人だ。礼服のように黒ずんで見えたのは全身に浴びた返り血により濃紺のジャケットが染め上げられているからだ。遠目なら見間違えたとしても無理はない。

「ごめんなさい……」

 ウェルは小声で詫びると遠心力を利用し斧を振り下ろした。ゾンビが吹き飛び個室の扉に背中を打ち付けた。

 開いた扉に息を呑んだのは自分だっただろうか? あるいはウェルか? それとも二人同時だったかもしれない。顔は食い破られ、腸もはみ出ている。それでも、着ている上着は間違いなくパズの物だ。

「お兄ぃ、寝ちゃだめ、カゼひく」

 ウェルが肩を揺さぶるのに合わせ便座の蓋がガタガタと鳴る。

 予期していなかったと言えば嘘になる。だが覚悟ができていたわけでもない。

(パズ……俺たちならきっとこのクソッタレな世界でも上手くやれたぜ)

 マークを失って以来はじめて頼むに足る人物に出会った。相棒と呼べる日もそう遠くはなかっただろう。一切れのパンを奪い合い血が流れる世界でそれは奇跡に近いことだ。

(ウェルをどうすんだよ? こいつが生きていけるほどこの世界は優しくないぜ)

 そして感傷に浸ることを許してくれるほど鷹揚でもない。すぐそこまでゾンビは迫っている。パズから引き離すべくウェルの腕を強く引く。しかし根を張ったように動かない。

「お兄ぃ! おきて! おきて! いくよ」

 ウェルなりに死を理解しているからこそ現実を受け入れられず、『眠り』に置き換えている。その心の動きは痛いほどわかるが、生き残るためには現実を突きつけなければならない。

 俺はウェルの脇をすり抜け死体に近づくと、昼間に合唱した曲のリフを耳元で掻き鳴らした。狭い個室内に適度なリバーブがかかった倍音が響く。

 いくら熱を込めようが死体は無反応だ。

(見ろ! これが死んでいるってことだ!)

 顔を背けようとするウェルの襟首を掴み直視させる。

(歌わない、踊らない、笑わない、叫ばない、ロックしない。これが死だ! わかったか!)

 胸の内で語りかけていたつもりが、いつの間にか口に出していた。「ア~ア~ウ~」との間の抜けたうめき声が漏れる。

 体中の力が瞳に凝縮したかのようにウェルの目が見開かれる。これまでと異なる反応に理解したのかと期待したが、口から飛び出してきたのは正反対の言葉だった。

「ちがう!」

(まだわからないのか!)

 怒りに任せ乱暴に引き寄せようとすると、ウェルが自ら食いつかんばかりに死体ににじり寄った。

「ちがう! ちがう! お兄ぃじゃない! ほら」

 ソーセージのように太い指が死体の髪を掻き分け頭頂部を露わにする。

「お兄ぃ、木からおちた」

 こちらの戸惑いをよそに口角泡を飛ばし捲し立てる。どうやら幼いころ木から落ちた際に負った傷が残っていないと言いたいらしい。

(馬鹿な! 服は間違いなくパズのものだぞ)

 襟が深く切れ込んだ特徴的な形のため印象に残っていた。見間違うはずがない。

(どういうことだ?)

 答えに辿り着くよりも早く背後から気配が迫ってくる。俺は咄嗟にウェルを残し個室の扉を閉めた。

「鍵!」

 実際には「ア~!」と間の抜けた音が空気を震わしただけ。それでも通じカチッと施錠される音が響いた。それと同時になだれ込むようにしてゾンビが押し寄せてきた。


 ゾンビの圧力に耐えかね突っ張っている両腕がプルプルと震える。これ以上は一分だってもちそうにない。

 俺は最後の力を振り絞り足元に落ちている拳銃を蹴り込むべく爪先を引く。

(心臓だ……撃ち抜け)

 一発だけ銃弾を残している意味が通じるよう念じ、足を振り下ろす刹那、横から伸びてきた腕に銃を攫われた。

 続けざまに拳銃が歌い圧力が弱まる。返り血で服が重くなるにつれ蠢くゾンビの数が減っていく。やがて俺以外にはパーカーを頭からすっぽりと被った一匹だけとなった。その右手に握られている拳銃に視線が吸い付く。

「そんな警戒しないでよ。噛まれてもないし、気も触れてないよ」

 パーカーのフードを取りパズが白い歯を見せる。

 生きていたことの驚きよりも惨憺たる恰好に目が行く。

 パーカーは元の色が判別できないほど血と贓物で汚れている。首にはレイのように腸が巻き付けられ、カンガルーポケットからは内臓と思われる物体がはみ出している。贓物と血で満杯のバケツを頭からかぶったとしてもここまでひどくはならないだろう。

「お兄ぃ!」

 扉が勢いよく開きウェルの胸中にパズが包みこまれる。

「よく頑張ったな」

 パズの労いにウェルが胸を張る。

「しってた。お兄ぃくるの。でも、すこしおそい」

「ちっ、生意気言うようになったな」

 パズがウェルの胸を小突く。その変わらぬやり取りに頬が緩む。本来であれば再会の喜びを分かち合いたいところだが猶予はない。こちらの表情を読み取りパズが頷く。

「行こう。説明は道すがらする」


 月明かりが駐車場へと通じる小道を照らす。パズの話に耳を傾けている内にいつの間にか外に出ていた。それほどパズからもたらされた情報は衝撃的だった。

(つまり、奴らはにおいで同類を判断しているっていうことか)

 ウェルを逃がしたのち、進退窮まりパズは便所へと逃げ込んだと言う。

「そこに先客がいたんだよ。余程そいつに噛まれて死のうかと思ったけど、そんな時に閃いたんだ。臭いなんじゃないかってね」

 糞塗れとなり、汚れを落とすため小池に向かう途上で遭遇したゾンビは、確かに俺に向かってきた。その前後に起った出来事の印象が強すぎたためすっかり忘れていたが、パズの中では違和感として残っていたとのことだ。

 だからゾンビを倒すと腹を開き血や臓器を体中に塗りたくった。

「もう夢中。気持ち悪いとか考えもしなかった」

 あまりの悪臭に一回吐いたけど、と付け足し小さく笑う。

 釣られて笑うと、解けた靴紐に転びそうになった。しゃがみ込み結び直す。パズとウェルが気付かずに先行する。

 いつの間にか犬の吠え声は途絶えている。まだ散発的に銃声が響いているも事態は沈静化したようだ。

 ひとまずは安心という所だ。しかし、生き残った者達も安閑とはしていられない。水際で堰き止めたとはいえ被害は甚大だ。正面から野盗と構える余力は残っていないだろう。これで屈服する以外に選択肢はなくなった。

 靴紐を結び直し、二人を追いかける。転ばぬよう踏ん張った際に足首を挫いたのか少し引きずるような歩き方になる。

(これじゃまるっきりゾンビじゃないか)

 我ながら苦笑する。

 ウェルが振り返り、目を見開く。一瞬俺をゾンビだと見間違えたのだろう。悪ふざけで両手を突き出す。

「だめ!」

 ウェルの叫びに身が竦む。冗談だよとおどけて見せようとすると、暴走機関車のように突っ込んできた巨体に突き飛ばされた。

 あまりのことに憤怒よりも困惑が先に立った。悪ふざけが過ぎたとは思うが、突き飛ばされるほどのことではない。文句の一つでも言ってやろうとウェルを見上げ、ゆっくりと倒れかかってくる巨体に喉までせり上がっていた言葉が引っ込む。

「ウェル!」

 駆け寄ってくるパズが発砲すると植え込みの陰で男が片膝をついた。その尖った鷲鼻に見覚えがある。

「木偶が、ゾンビ、だぞ」

 肩を押え呻くゲイリーの手から拳銃が零れる。

「ウェル! しっかりしろ!」

 パズに手を貸しウェルを仰向けにする。押さえた指の隙間から止めどなく血が噴き出す。

「だい、じょう、ぶ?」

 これほどまでに喋れないことをもどかしく思ったことはない。俺は憤りをぶつけるように激しく首肯した。

「よ、か、った」

「すぐ手当をしてやるからな! 待ってろよ!」

「こ、これ、からも……いっしょ……」

 ウェルは胸の上で交差する俺たちの手を重ねようとし、途中でその腕から力が失われた。

「ウェル? おい! ウェル! 返事しろ!」

 首が座っていない赤子のように揺すられるままにウェルが前後する。

「てめぇも後を追えや!」

 怒声とマズルフラッシュに現実に引き戻される。こちらを見下ろすようにしてゲイリーが続けざまに引き金を絞る。銃弾がウェルの死に顔を汚すと、放心したように座り込んでいたパズが憤然と立ち上がった。

「自殺か? 自殺だろ? 自殺なんだな? いいぜ! 手伝ってやるよ」

 ゲイリーが唸り、拳銃が吠える。しかし、パズは臆することなく距離を詰める。

「ちっ、傷に響きやがる。それでもこれは外さないぜ」

 腕を伸ばせば届きそうなほど至近距離だ。いくら利き腕の肩に風穴が開いているとはいえ外しはしないだろう。

「残しておけ」

「今さら命乞いか」

「ゾンビに」

「はっ、それはないだろ。あれが違うことぐらい俺にもわかる」

「そうじゃない」

 パズが足を広げると植え込みから這い出てきた小さな影が股の下を通り抜けた。

「ガアァアアァァ」

 獲物を前に興奮するジョージに慌てふためきゲイリーが銃口を下げるも、全ては遅きに失した。脛に噛みつかれバランスを崩したゲイリーが仰向けに倒れる。

「放せ! おい! こいつを早く! 頼む!」

 まるで懇願など聞こえないかのようにパズが転がった拳銃を拾い上げる。

「あぎゃぁぁぁぁ! いてぇ! いてぇよ!」

 思いつく限りの悪態がゲイリーの口から撒き散らかされる。それもジョージが上半身まで這い登り顔を噛み千切るまでだった。


 弾倉に残っていた銃弾をジョージの心臓に余すところなく撃ち込むと、パズの腕から重力に逆らうことなく拳銃が零れた。悄然とした背中が震え低い嗚咽が漏れる。

(パズ……)

 肩に置いた手が乱暴にふり払われる。

「……消えてくれ。まだ、あんたが他の奴と見分けがつく前に」

 腕に走った鈍い痛みに反論の機会を奪われ俺は取り出しかけたメモ帳をポケットに捻じ込んだ。

 かける言葉をもたぬ己の無力さを噛み殺しその場を離れる。暫くして振り返るも、月が雲に覆われ、兄弟の姿は見えなかった。

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