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8 a Zombie  作者: 夜嶋朝人
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―2nd Session―

―2nd Session―


 燦々と照りつける太陽に肌が焼かれる。じんわりと体の芯に広がる熱に目が覚めた。

 寝ぼけ眼を擦り固いベンチの上で大きく体を伸ばす。

 いつの間にか微睡んでいた。その事実がうまく咀嚼できず馬鹿みたいに大口を開ける。

 ゾンビに睡眠は必要ない。最初の頃はやっきになって寝ようと試みたが、いくら目を瞑っても睡魔が襲ってくることはなかった。

(なのに、どうなってんだ?)

 腕時計のデジタル表示は昼過ぎを指している。舟をこいでいたのは五分に満たない。

「ハハ、ハッ」

 人間だった頃の習慣の残滓が確認できたことを喜ぶべきか、はたまた驚くべきか判断がつかず乾いた笑いが漏れた。

(……笑いごとじゃないな)

 眼下にピッツバーグの街を一望できる山頂の展望台だ。物資が転がっているような場所ではないので生存者が訪れるとは考えにくい。それでも寝室代わりとするのは褒められたものではない。

「チッ」

 舌打ちし、双眼鏡へと歩み寄る。投入口にクォーターを押し込むと、川を挟んだ対岸の都市にピントが合った。傾けていた上体を起こし、再度周囲に人影がないことを確認したのち再びレンズを覗き込む。

 雲一つない晴天だ。遠くまでよく見渡せる。

眼下に見下ろすのは二つの川が合流する三角州に造られたダウンタウンだ。ゴールデントライアングルとの愛称に恥じぬ丸みを帯びた三角形の頂点には大きな噴水がトレードマークの公園があり、その背後に高層ビルが広がる。かつては鉄鋼で栄えた街だが、その面影はUSスチールが本社を構えていることぐらいでしか偲ばれない。

ニューヨークやロサンゼルスなどの大都市に比べれば見劣りするが、地方都市としては最大規模と言える。それは、四大スポーツの内、バスケットボールを除く三つのスポーツチームが本拠地を構えていることからも窺える。

 人の姿を求め双眼鏡の首を振る。だが、映るのは緩慢な動きを繰り返す者ばかりだ。

 都市は今や死者の街だ。それでも物資を求め危険を顧みず足を踏み入れる者が後を絶たない。乗り込む前にそういった動きを把握しておきたい。

 しかし、いくら首を左右に振ろうとも物資を漁っている生存者の姿は捉えられない。

(やっぱ表面をなぞっただけじゃ駄目か)

 見えているのは一部だけだ。建物の陰や、裏通りの様子などはさっぱりわからない。それでも諦めきれずしつこく双眼鏡を覗きこむ。もうすぐ利用時間が切れそうなので硬貨を求めポケットを弄っていると、不意に背中に固い物が押し付けられた。

「へそ以外に穴を開けたくないなら動くな」

 男の声によって、『固い物』が銃口であると判明した。

「ちょっとでも怪しい動きをしてみろ。容赦はしねぇぞ」

 承諾の意味を込め頷きたいが、引き金を絞る理由を与えそうなので堪えた。

「これはいったい何の冗談だ?」

 男が背中のダンボールを乱暴に揺すると、連動して肩にかけた紐が引っ張られた。

 背後には『バンドメンバー募集中』と大書されている。だが男に本当に読んで欲しいのは表に記された、『文字による意思疎通のみ可能』との文言だ。

「おい! 答えろ! おまえのバンドは何人だ? 仲間はどこにいる?」

 ひときわ強く銃口が押し付けられた。頭からすっぽりとフードをかぶっているため、ゾンビだと気付いてないようだ。だが、声を上げれば一発でばれてしまう。

 ゴクリと喉が鳴る。しかし、このまま黙り込んでいても事態は悪化するだけだ。ダメもとで発声するしかない。

「ア――」

 声に被さるようにして、けたたましいクラクッションが鳴り響いた。男が悲鳴にも似た叫びをあげると、「ルイーズ!」と連呼しながら駆けだした。

 展望台に面した路上に駐車されている車にゾンビが群がっている。男がその内の何匹かを撃ち殺すと、腰に下げた長刀を抜き放ち躍りかかった。しかし、多勢に無勢だ。数匹をなぎ倒したところで仕留め損なった一体に足を噛まれ、たちまちゾンビの波に呑まれた。

 車のドアが蹴り破られるように開き、飛び出してきた女が転がった拳銃を拾い上げやたらめったら発砲する。銃声と絶叫に肉を貪る音が混然一体となり、午後の長閑な一時を撹拌する。それも女がゾンビの海に沈むとおさまった。

 俺はフードを目深にかぶり直すと、即席のレストランと変わった現場に歩み寄る。腸を引きずり出された二人の死体を横目に車内を漁る。

 後部座席に積まれたバックパックを手当たり次第ひっくり返し中身をぶちまける。汚れた洗濯物に混じり転がり出たのは齧りかけの乾パンやドッグフード、それにポラロイド写真の束などだった。念のためグローブボックスも浚ったが、収穫は九ミリ弾が数発だけだった。

 改めて二人の死体を一瞥する。あばらの浮いた骸骨のような体に、貪り食らっているゾンビもどこか不満げだ。

(弱肉強食だ。今回はあんた等が食われる番だったな)

 恨めしげに見上げてくる虚ろな瞳に語りかける。ポラロイドに写った被写体を目にした後では同情する気にはなれない。どの死体にも明らかに拷問と見て取れる跡が残っている。

(ちっ、胸くそ悪ぃ)

 腹いせに思い切りドアを叩きつけると、何かが視界を横切った。どうやら振動でサンバイザーに挟まっていた紙の束が落ちたようだ。

 拾い上げると、それは地図だった。

 辿ってきたと思われるルートに蛍光マーカーで線が引かれている。ピッツバーグを中心に半径二百マイルの地域を彷徨っていたようだ。

 地図と共にルーズリーフが束ねられていた。内容は途中で立ち寄った場所の覚え書きや道中で見かけた生存者の寄り集まったコミュニティーについてなどだ。それによれば、都市部はどこもゾンビに占拠されており、生存者は周辺にへばりつくようにして暮らしているようだ。それ以外にも、所々乱れた筆致で、『どこでもいい。俺たちを受け入れてくれるところはないのか?』や『クソッ! 何がおまえ等は信用できないだ! テメェ等も一週間ろくに何も口にしなけりゃ俺と同じ目つきになるだろうが!』、『信じられるのは血を流した奴だけだ』、『狂気だけが正気を保たせる』など、血を吐くような言葉が綴られている。

 どこかに意識を保ったゾンビの記載はないかと目を皿にしたが、関連するような記述はなかった。

 俺はメモと地図をパーカーのポケットに押し込むと展望台に戻った。

 煙草に火をつけ紫煙を吐き出す。

(そう簡単に見つかりゃ苦労はないよな)

 家を出て――正確には消し炭にしてだが――三週間ほど経った。

 生存者との接触を避けなるべく夜に行動してきたが、それが災いし、昨晩野盗と鉢合わせしてしまった。おかげで命からがら逃げる羽目になった。闇は俺が人間でないことを隠してくれると同時に、相手からも警戒心を奪う。遠目に俺がゾンビだとわかれば奴らも不用意に近づかなかっただろう。

 だから方針を転換し太陽のもと大手を振って歩くことにした。それに俺は仲間を見つけたいのだ。それなら、多少危険だろうとも、相手を見分けられる時間帯に動く方が賢明だ。二枚の段ボールを紐で結えた急ごしらえのメッセージボードもその一助となればと思いあつらえられたものだ。

 どこかに同じ境遇の者がいるはずだ。探し当てたところでそいつが楽器を演奏できる保証はないが、人間とバンドを組むよりはまだ現実味がある。

 友との約束を守る。そんな青春映画のようなセンチメンタルな気負いがあるわけではない。ただ、ステージからの風景を見れば何かが変わるのではないかとの淡い期待を抱いているだけだ。

(やっぱ木を隠すなら森の中だよな)

 肉眼で対岸のダウンタウンを睨むと、根元まで吸い尽くした煙草を投げ捨てた。


 血管のように走る橋を渡り都市の心臓部へと入る。かつてはビジネスマンや買い物客で賑わっていたメインストリートは変わらずごった返している。ただ、徘徊している者たちは高級ブランドや自家製ワインが名物のレストランには見向きもしない。彼らが探し求めているのは人肉のみだ。

 路上にはみ出たゾンビを避けながらノロノロと運転する。

 都市の惨状を目の当たりにするのはこれが初めてだ。覚悟はしていたが、それでも思わず目を背けたくなる。

 道端には焼却された死体が堆く積まれ、軍や警察の車両が横倒しとなり、黒こげとなった骨組みだけの車が乗り捨てられている。外壁に肉片がこびりつき現代アートのような模様を描いている店もあれば、ヘリがオブジェのように突き刺さったビルもある。トラックのタックルにより根元から折れた信号機が運転者ごと車の屋根を押し潰している。ショーウィンドウはことごとく割られ、一軒として略奪を免れた店はない。

 地獄の方がまだましだ。骨格だけは近代社会が残っているが実質は石器時代と変わらない。石斧の代わりに拳銃を手に、マンモスではなくゾンビに怯えながら暮らしているのだ。

 世界が崩壊したことは理解していた。ただ、こうして文明の終焉を目の当たりにすると死神の鎌で首筋を撫でられたように産毛が逆立つ。

 目抜き通りを過ぎ、ダウンタウンの外れまで来た。軒の低い雑居ビルが建ち並ぶごみごみとした区画だ。中心地に比べあまりゾンビの姿も見かけない。

 木を隠すなら森の中。そう考え、都心を探すことにしたが、虱潰しにするには広すぎる。高層ビルなら優に五十階以上ある。当然エレベータは止まっている。階段を使い一階ずつ見て回るとなると、それだけで一仕事だ。それも生存者と鉢合わせしないか常に気を張ってだ。神経が先に参ってしまう。

 見込みが甘かった。腰を落ち着けじっくりと取り組む必要がある。

 適当な物件を求め車を走らせる。どれも一夜の宿としてなら不足はないが、暫く滞在するには不向きだ。いい加減首を左右に振るのに疲れると、不意に視線が一点に固定された。

 両側を雑居ビルに挟まれた十ヤードほどの路地の奥に、空を映したような鮮やかな色合いの三階建ての家が建っている。しかし、視線が引き寄せられた理由はその特殊な立地条件でもなければ、目の覚める色彩でもない。

 まるで砂糖に群がる蟻のように、玄関へと続く路地にうじゃうじゃとゾンビが蝟集しているのだ。その数は百匹ではきかないだろう。この区域のゾンビが殆ど集められていると言っても過言ではない。

(ゾンビの生簀ってか。冗談じゃねぇぞ)

わざわざゾンビを集めた上で数台のトラックを利用して路地を塞いでいる。並大抵の労力ではない。

(そこまでする理由はなんだ?)

 ゾンビの群れを透かして観察すると、玄関先に尖った鉄パイプが四十五度の角度で設置されており、先端には串刺しとなったゾンビがオブジェのように飾られている。

(家には上げたくないってわけか)

 アクセルを踏み周囲をぐるりと一周する。どんな些細なことも見落とさぬよう細心の注意を払ったつもりだ。それでも勝手口や裏口への抜け道は発見できなかった。

 念のためもう何度か周回し、玄関以外に出入り口がないと確信すると、俺は車から降り立ち、被っていたフードを取った。

 もしこの世にゾンビで蓋をされた家に好き好んで住む者がいるとすれば、それは同朋だ。ならば姿を晒してしまった方が話が早い。万一違ったとしても、これだけゾンビで溢れていれば容易く逃げられる。

(弾も尽きかけてるしな。二日続けて香港映画の真似事はごめんだぜ)

 俺は手櫛でリーゼントを撫でつけると、ゾンビの群れへと踏み出した。


 トラックの荷台を乗り越えるとたちまちゾンビの海に沈んだ。肩が触れ合い、息がかかる。

 大海原に浮かぶ無人島のようなものだ。『船』がなければ辿り着けない。

 問題はその『船』が何であるかだ。

 ゾンビの波をかき分け奥へと進むごとに確信へと変わっていく。

(いる。間違いなく誰か住んでる)

 空き家になると家は驚くべき早さで傷む。しかし、正面の家屋からは荒廃は感じられない。三階の窓辺に揺れるカーテンの陰から今にも誰かが顔を覗かせそうだ。

 鉄パイプに刺さったゾンビの肩を借りポーチに上がると、玄関の把手を回した。予想通り施錠されており開く気配はない。少し迷ったのちドアノッカーを叩いたが応答はない。

(出直すか?)

 時間だけは潤沢だ。留守なら戻ってくるのを待てばいい。

 玄関から離れ、何の気なしに窓を見上げ、驚きのあまり棒立ちとなる。窓辺の少年も面喰っているようでありポカンと大口を開けている。

(人……だと……)

 陸の孤島だ。生身の人間が自由に出入りできるはずがない。しかし、いくら瞬きしようとも少年が消えることはなかった。

 白昼夢でも幽霊でもないと確信すると金縛りが解けた。こちらが思いつきもしない『船』が用意されているのだ。

 人が住んでいるのならば長居は無用だ。慌てて踵を返す。

「ちょっと待って!」

反射的に振り返ってしまった。

「やっぱり言葉がわかるんだ。いったいどうやって中に? そもそもゾンビなの?」

 少年は窓から身を乗り出さんばかりにして叫ぶ。

 矢継ぎ早の質問を無視し背を向けると声が追いかけてきた。

「僕は半年間、毎日ここから外を眺めてる。奴らに障害物を乗り越える知恵はないから顔ぶれは変わらない。お蔭で一人一人見分けられるようになった。パイレーツのキャップがアンディ。往年の名選手を彷彿とさせる風貌でしょ。その横がキャプテン。もちろんアメコミのヒーローに似てるからだよ」

 少年が次々と俺の周りにいるゾンビのあだ名を挙げていく。

「僕は未だにロッカーってあだ名をつけた覚えはない。だから、断言できる。あなたは余所者だ。いったい何者なの? ハロウィンの季節はとっくに過ぎてるし、ゾンビの仮装じゃ目立てないよ」

 ユーモアにはいつだって人の足を止める力がある。俺は振り返ると、喉を指差し、両腕を交差させた。

「しゃべれないの? なら、ちょっと待って。どこにも行かないでよ!」

 少年は一旦奥に引っ込むと、ロープを手に戻ってきた。

「悪いけどよじ登ってきてくれる。これしか家に入る方法がないんだ」

 窓から蜘蛛の糸のようにたらされたロープと少年を交互に見遣る。

「言いたいことはわかるよ。でも、ゾンビが徘徊する世なんだ。玄関から家に入る時代は終わりを告げたんだよ」

 その言い草に思わず吹き出す。

 まだ笑える。その発見に、凝り固まっていた口元の筋肉だけでなく、心までもが解れた。

「これしかないんだ。頼むよ。上がってきて」

 少年の哀願に押され、俺は馬の尻尾のように垂れているロープを掴んだ。荒縄などではなく登山用のしっかりとしたものだ。これなら途中で切れる心配もないだろう。

「固く縛ったから大丈夫なはずだよ」

 ロープを握り直し、掌をジーンズで拭う。汗腺が死んだ今となっては意味のない行為に苦笑が漏れる。

 腕に力を籠め体を持ち上げる。初めはぎこちなかった動きもリズムが掴めるとなんとかさまになった。

 最後の力を振り絞り、窓枠を掴み一気に室内に身を投げ込むと、拍手で迎えられた。

「実写版アンチャーテッドだね。僕が思ったよりもずっと手際が良かったよ」

 少年の腿の上には護身用の拳銃が置かれている。だが、それよりも俺の目を引いたのは、車椅子と、膝下から失われた両足だ。

 こちらの視線から心の内を読み取ったのか、少年が苦笑を浮かべた。

「ウォッカで胃の中をくまなく消毒して自分をアイルトン・セナだと思い込んだバカがここをモナコだと勘違いしたんだ」

 俺はもごもごと口の中で「お気の毒に」と呟いた。当然、「ウ~ア~」との音に変換される。しかし、少年には通じたようだ。

「ありがとう。僕はエドガー・アンデルセン。あぁ、この銃なんだけど、気を悪くしないで欲しいな。さすがにこの状況で手放すほどの勇気は持ち合わせてないんだ」

 俺は承諾の意味を込め頷いた。

「よかった。話の分かる人で。え~と、喋れないんだよね。そこのスケッチブックを好きに使ってよ」

 俺は机の上に積み上げられているスケッチブックを手に取り、パラパラと捲った。

 力強い線で描かれているのはこの窓から見た景色だ。しかし、朝露に濡れる路面も、カンカンと照らす太陽も脇役にしか過ぎない。絵の主役はあくまでも徘徊しているゾンビだ。一人一人が細部にわたって描き込まれている。

「記憶にも記録にも残らないでしょ。ならせめて僕だけでも覚えていようと思って。まぁ、退屈を持て余してるってのが一番の理由だけどね」 

 照れたようにはにかむその顔は年相応のあどけなさを残している。

 俺は白紙のページを一枚破り取ると、簡単な自己紹介を書いて渡した。

「これはご丁寧にどうも。へ~、ミュージシャンなんだ。僕もロックは好きだよ」

 エドガーが壁に貼られたポップパンクバンドのポスターを指差した。

「それで、なんで我が家に? 父さんの知り合い?」

 首を横に振り、簡潔に仲間を探していることを記す。

「そっか、ゾンビに護られた家だものね。人が住んでるとは思わないよね」

 聡い少年だ。一を聞いて十を察する。

『俺と同じような奴に心当たりはないか?』

 エドガーが大人びた仕草で肩を竦めた。

「あいにくこの状態だからね。外のことには疎いんだ。逆に教えてもらえないかな? もちろんロハでなんて言わないよ」

 喋りながらも少年は巧みに車椅子を操ると、部屋の隅の段ボールを漁り、スティック菓子の袋を無造作に放って寄こした。未開封のためずしりと重い。外にはこの一袋のために民族浄化すら厭わぬ連中がゴロゴロとしている。

 袋を開け棒状の菓子に齧りつく。サクッとした食感に、薄れかけた記憶が刺激され、舌先にバターの豊饒な香りが甦った。もちろん幻想だ。それでも懐かしさに人目も憚らずがっつく。

「口に合ったようで何より。まだまだあるからいくらでも持って行ってよ」

『気持ちだけで十分だ。食事は必要ないから』

「そう? なら電池とかは? さっきも言ったけど情報を只で教えてもらおうとは思ってない。ギブ・アンド・テイクでいきたいんだ」

『それなら九ミリの銃弾をわけて欲しい』

 さすがに断られるかと思ったが、案に反してエドガーはあっさりと承諾した。

「弾なら机の引き出しに入ってる。足りなければ取ってくるよ」

 虎の子の銃弾ですら気前よく分ける姿勢に罠ではないかとの疑念が生じる。しかしニコニコと笑うエドガーの様子に不審な点はない。

「どうしたの? 遠慮しなくていいよ」

 覚悟を決め引き出しを開ける。矢に射抜かれることも、毒ガスが噴き出してくることもなく、銃弾の詰まった小箱に迎えられた。六箱ある内の半分をポケットに押し込む。

「それだけでいいの? 他に必要な物は? なんなら車とかどう? 何台か余ってるよ」

 臨終間際の愛車を騙し騙し使っているので、その申し出は魅力的だ。映画などで主人公が運転席の下に潜り込み魔法のようにエンジンをかけるが、現実ではそうはいかない。まともに走れる車を探すのは骨の折れる仕事だ。

 喉まで出かかった『それはありがたい』との言葉を呑み干し、代わりに、『ポマードはないか? なければヘアスプレーでも構わない』と書き記した。

 エドガーがこちらの頭をしげしげと眺め、ポンと拳を掌に打ち合わせた。

「ああぁ! わざわざセットしてるんだ。てっきり意識を保ったゾンビは自然とリーゼントになるのかと思ったよ。そんなわけないか」

 ひとしきり笑ったのち、エドガーは顔をしかめた。

「そのロックンロール魂に敬意を表したいところだけど、残念ながら整髪料はないなぁ。父さんも一度にサルベージ出来る量が限られてるからどうしても必需品が優先になるんだ」

 手持ちが寂しいのでついでに補充できればと思っただけだ。『気にしないでくれ』と伝えたが少年はしきりと恐縮した。

「これでも昔は人並みに身だしなみに気を使ってたんだけどね。出不精になってすっかり気が抜けてたよ」

『構わない。銃弾だけでお釣りがくる。それで知りたいことっていうのは?』

 ゴホンと空咳を挿むと、エドガーが居住まいを正した。

「世界がどう変わったか教えて欲しい」

『世界は何も変わっていない。ただ、より露骨になっただけだ。付け加えるなら、主役の座が人類からゾンビに移ったぐらいだ』

 エドガーが唇を歪ませる。

「人類は脇役ってわけね」

 まさにその通りだ。天才的な作曲家だろうが、アカデミー賞を総なめにした女優だろうが、一代でダウ上場を果たした企業家だろうが、皆が等しくゾンビの陰に怯えて暮らしている。フカフカのレッドカーペットの上を気取って歩くことも、煌びやかなスポットライトを浴びることも叶わない。

 スケッチブックのページを捲り力強い線で描かれた絵を眺める。時代が時代ならエドガーは高名な画家になったかもしれない。しかし、文明の崩壊したこの世界で、この絵に便所紙以上の価値を見出す者は殆どいないだろう。

 不意に鼻の奥がツーンとした。涙は零れないとわかっていても思わず裾で目頭を擦る。

「大丈夫?」

 何でもないと身振りで伝え、ポケットから先ほど手に入れたメモを引っ張り出した。

 メモを渡すと、エドガーは貪るように読む。その表情が徐々に険しくなり、時たま「むぅ」と言葉にならないうめき声を発する。

「……これが現実なの?」

『全てではない。だが、一部と断言するのも躊躇われる。それぐらいには狂気と暴力が支配している』

 エドガーは唇を噛みしめると俯いた。

(ちょっとイキのよすぎる資料だったかな……)

 少年には少し刺激が強すぎたかもしれない。どう執り成したものかと書きあぐねていると、不意にエドガーが顔を上げた。

「お願いします。僕を外に連れ出してください」


「父さんは陸軍の特殊部隊に所属していた軍人で、アフガンにも参戦してたみたい。詳しくは教えてくれないからよくは知らないけど」

 俺はベッドサイドのテーブルに並べられている写真立ての一つを手に取った。

 庭先で軍服の男が幼子を抱えている。穏やかな笑みに我が子を慈しむ父性が横溢している。いずれの写真も父子が主役であり、母親と思しき女性は写っていない。

「僕は生まれる前から中々頑固だったみたいでね。母さん体が弱くて難産に耐えられなかったんだ。父さんは男手一つで僕を育ててくれたよ。僕が事故にあってからは軍も退役してつきっきりで面倒を見てくれてる」

 自嘲にエドガーの頬が歪む。

「障がい者の息子を抱えての生活は一筋縄じゃない。こんな世界なら尚更だよ。父さんは自分が物資調達で留守がちになるからって、危険を顧みずこの環境を構築したんだ。ゾンビよりも人間の方が遥かに危険だってね」

 エドガーに釣られ窓の外へと視線を向ける。眼下では無数のゾンビが蠢いている。

「父さんは屋根に出て、背面のビルの配管をつたって屋上まで登るんだ。毎回落ちないかってハラハラするよ。でも、そのお蔭で僕は一歩も外に出ることなく快適に暮らせるってわけ。ゾンビに守られてね」

 はじめてエドガーの表情に暗い影が差した。

『親父さんが心配?』

「まぁね。外は『マッドマックス』ゾンビ版って感じでしょ。そこに、『ソウ』の要素まで加わったんだ。心配にもなるよ。でも……」

 はじめてエドガーが言いよどむ。続く言葉を探すように視線が宙を彷徨う。

「正直、僕には父さんがゾンビや悪党に後れを取るところは想像がつかない。もちろん不死身の超人じゃないのはわかってる。でも、あの人に勝てる人間なんている気がしない。僕が本当に心配なのは……」

 そこで大きく息を吸い込むと、胸に溜めた空気と共に懸念を吐き出した。

「もう気付いてるだろうけど、僕の家には信じられないぐらい豊富に物資があるんだ。食料、弾薬、薬に衣類、あと本とかね。父さんはジャックポットを探し当てる名人だよ。……僕はそれが怖いんだ」

『怖い?』

「本に血がついてたことがあってね。ゾンビの血だって言うんだけど、たぶん、違う」

 吹き込んできた風がエドガーの不揃いな前髪を乱した。

「父さんがどうやって物資を手に入れてるのか僕は知らなくちゃならない。だから、どうか僕を外に連れ出してください。そして一緒に探してください」

 エドガーが深く頭を下げる。

「もし、この生活が誰かの犠牲の上に成り立っているなら、僕は……僕は……」

 エドガーの握りしめた拳が小刻みに震える。カッと目見開くと一気に捲し立てた。

「お願いを聞いてもらえるなら、僕がスポークスマンになるよ。仲間を探してるんでしょ? なら、生存者とコミュニケーションを取れた方が絶対に有利だ。僕と一緒ならあんたの話に耳を傾けてくれる人もいる。それに、車椅子を押すゾンビを撃つ奴なんていないよ」

 現実的な提案ではない。エドガーを連れてここを出る方法などなければ、そもそも父親を探す手がかりもないのだ。聡明な少年が気付かないはずない。しかし、眼差しは真剣そのものであり、迷いは微塵も感じられない。

『おいおい、本気かよ?』

 頭の中でマークの茶化す声が木霊する。

『お人好しも大概にしろって。別にこのガキを縛り上げて物資を奪えとは言わねぇけどさ。もっと賢いやり方はいくらでもあるだろ』

 マークの言う通りだ。骨折り損のくたびれもうけになる公算が高い。それでも――

(分別がつくなら最初からロックンローラーを目指したりしないさ)

 俺は嘯くと、写真立てから最新の一枚を抜き取った。

『親父さんの行動パターンについてわかる限り教えてくれ。それと、これは宝くじを買うようなものだ。それも当選金額すら不明なね。更にどうやら俺は運の悪い星の元に生まてるみたいだ。だから期待はしないでくれ』


 ターンパイクに合流してからは平坦な道がどこまでも続く。無人の料金所をやり過ごすと、バックミラーに映っていた高層ビル群がいつの間にか点景と化していた。

 助手席に広げた死んだ男が遺した地図に視線を落とす。地図には赤い点で生存者が寄り集まって暮らしている拠点が示されている。その横には人数や武装状況が簡潔にまとめられている。それによれば、この先に五十人規模のキャンプが設営されているようだ。

(まさかこんな形で役立つとはな)

 この地図がなければ今頃途方に暮れていただろう。

 エドガーによれば、父親はローラー作戦と称して一区画ずつ塗り潰すように丹念にサルベージしているという。エドガーはまだしも、外の世界を知っている者ならばそんな出鱈目に騙されやしない。ゾンビが吹き溜まっている所もあれば、他の生存者と鉢合わせすることもある。その都度柔軟に対応しなければならない。そのため、必ず歯抜けのように探索できなかった箇所が出る。それが一切なく、すべてが計画通りに運ぶなど絶対にない。なのに、父親は二日に一回探索に出かけ、毎回戦利品を山ほど抱えて帰ってくるという。突如神が慈愛に目覚め配給でもしていない限り有り得ない話だ。

(十中八九、奪っている)

 しかし、それだけでは説明がつかないのも確かだ。手頃な獲物を探すのは愛想の良い役人に巡り合うよりも難しい。そうそう都合よく事が運ぶとは思えない。

(何かカラクリがある)

 エドガーの説明に耳を傾けながらそう考えている時に不意に思い出されたのが昨晩偶然耳にした野盗の会話だ。それによると、三週間ほど前に小規模のキャンプが何者かによって襲われ、根こそぎ物資を奪われたとのことだ。自分たちが目をつけていた獲物を横から掻っ攫われ地団太を踏んで悔しがっていた。

 生存者が寄り集まり、侵入者を警戒し武装している拠点を単独で襲う。もしエドガーの父親が一般人だったなら馬鹿げた妄想だと一蹴しただろう。だが、特殊部隊の元隊員なら話は別だ。戦利品をエドガーに疑われぬよう小分けにして持ち帰っているとしたら全て説明がつく。

 考えれば考えるほど疑わしく思えてくる。しかし徒に不安を煽っても仕方がないのでエドガーには伏せた。告発するなら証拠がなくてはならない。そのため、デジタルカメラを借りてきた。都合よく決定的な瞬間を激写できるとは思っていないが、何かしら判断材料を写せるかもしれない。

(あるいは悪い方に想像力を働かせ過ぎなのだろうか?)

 エドガーの父親が神に愛された聖人だという可能性だってないわけではない。薄氷よりもなお薄い希望だと重々承知しているが、それでも縋りつかずにはいられない。

 しかし、現実はいつだって容赦なく氷を踏み抜く。

 俺は目的地の方角と一致する空に棚引く黒煙に深いため息をついた。


 車のボンネットに広げた地図を指先でなぞる。拠点まで指呼の間だ。車なら十分とかからない。しかし、徒歩で行くとなると優に一時間はかかる。

(まいったなぁ)

 一段と濃くなった黒煙を見上げ舌打ちする。何かよからぬことが起きているのは明らかだ。一刻も早く確認しなければならないというのに、目前には打ち捨てられた車両が列をなしており身動きが取れない。

 渋滞の原因は横倒しのトラックだ。周囲の車を巻き込み完全に道路を塞いでいる。反対車線に迂回しようにも胸の高さまではあろうかという分離帯で区切られておりままならない。引き返して下の道を使うことも考えたが、間道が入り組んでおり下手すれば歩くよりも時間がかかりそうだ。

(仕方ない……) 

 このまま手を拱いていてもはじまらないので、折り畳んだ地図をバックパックに仕舞い車の間を縫うようにして進む。本来なら一台一台入念に調べたいところだが、先を急ぐ必要があるので諦めざるを得ない。

 渋滞の先端に近づくほど状況は悲惨になっていく。ガラスの破片が至る所に散らばり歩くたびにジャリジャリと音が鳴る。車内に残った死体を目当てにゾンビが彷徨っている。

 ゾンビを掻き分けようやく元凶であるトラックの元まで辿り着いた。接触している車を足場によじ登ろうとして体が強張る。普段の運動不足がたたって足がつったわけではない。遠雷のように轟くエンジン音を耳にしたためだ。

 咄嗟にバックパックをトラックの陰に隠しゾンビの群れに身を投じる。

 音は瞬く間に耳をつんざく大音量となり全身に風を感じた。

 トラックの陰から鼻先を現したのはフロントがへこんだネズミ色のセダンだった。パンクした後部車輪が路面と擦れ耳障りな悲鳴を上げている。場末のポールダンサーよろしく安っぽく尻を振ると分離帯に衝突した。

 目前で展開されるB級映画のようなアクションに、メガホンを手にした監督の「カット」との声が聞こえてきそうだ。だが、生憎これは現実だ。そのため、途切れることなく次のシーンへと移行する。

 白煙を吐く車のドアが開き、中から栗毛の女が転がり出てきた。生まれたての仔馬のように足を震わしながら駆けるも、すぐに転んでしまった。

 その鼻先に二人乗りのハーレーが回り込む。

「どうした? そんなんじゃミラジョボビッチの座は脅かせないぜ」

 もし誰かにバイカーギャングとはどんな人物かと説明を求められたら迷うことなくハンドルを握っている男をサンプルとして挙げるだろう。赤く日に焼けた首筋、ビア樽を思わせる腹、髪との境目がつかないぼうぼうの髭。革のチョッキから突き出た丸太のような腕には当然のように髑髏のタトゥーが彫られている。これでチェーンでも振り回してくれたら完璧だったのだが、生憎手にしていない。

 男が背後に向かって顎をしゃくると、小柄な相棒が猿のように身軽な身のこなしで飛び降りた。

「あ~あぁ、折角の高級車がおしゃかだ。さすがにサンケツは無理でっせ」

 倒れた女の髪を掴んだ小男が恨めしそうに車に眼を向ける。

「テメェは馬鹿か。そいつが乗るんじゃねぇ。そいつに乗るんだ。ニケツでな」

 男は下卑た笑みを浮かべバイクから降りると、小男が引き摺り起こした女の胸を形が変わるほど強く揉んだ。嫌悪に女の表情が歪む。

 女は二十代中盤ぐらいだろう。華のある外見ではないが、小ざっぱりとした身なりをしており、やつれたところもなく健康的だ。このご時世それだけで魅力的に映る。

「ここはちとまずくないっすか?」

 激しく抵抗する女を羽交い絞めにしながら小男が不安げに周囲を見回す。騒動に釣られ集まってきたゾンビがどうにか分離帯を超えようと格闘している。いずれも徒労に終わっており、傍目には事件現場に群がる野次馬のように映る。

「なんだぁ? タマキンが縮みあがっちまったか? なら指でも咥えてろ」

 男が相棒を払いのけ女の肩に腕を回す。

「そりゃないっすよ。誰が後輪撃ち抜いたと思ってんすか」

「俺様の運転があればこそだろ。あんなの十三のガキだって外さねぇ」

「そいつは聞き捨てならないっすね」

口論により注意が逸れた隙をつき、女が肩に回された手に噛みついた。

「いてぇ! このアマ!」

 血走った目と視線が合う。すなわち、女がこちらに向かって駆けてきているのだ。

「それ以上近づいてみなさいよ! 噛まれてやるから!」

 髪を振り乱しながら叫ぶ女に向かってゾンビが殺到する。一人だけ棒立ちでは不自然なため仕方なくその流れに身を任せる。

(こんなことしてる場合じゃないんだけどなぁ)

 女の身を賭した恫喝に、小男は台詞をど忘れした大根役者のように右往左往し、欲情と復讐の間で揺れる男も結論を下しかねている。両者が睨み合う中、ゾンビだけが興奮の絶頂にあり、中央分離帯の僅かな隙間に無理やり腕をねじ込む。削がれた腐肉がボトボトと落ちるさまはリリース直後にワゴンセールに直行するB級ホラーのようだ。

「近づくなって言ってんの! それとも異種交配を試したいっての? この変態が!」

 一歩踏み出した男に向かって女が唾を飛ばす。覚悟を示すように震える指先をゾンビの鼻先にかざすも、腰が引けており、噛まれそうになれば手を引っ込めるのは明らかだ。

 案の定、女は噛みつかれそうになる直前で腕を引いた。カスタネットのようにカチカチと歯と歯が打ち鳴らされる。

「つまんねぇ真似すんなよ。なにも殺そうってわけじゃないんだ。ちょっと俺たちを気持ちよくしてくれりゃいいだけだ。一度俺のを味わちまったら他の奴のじゃ満足できなくなるぜ」

 一転男が猫なで声を出す。

「鏡見たことある? あんたなんかと懇ろになるなら豚の方がましよ」 

 男が大仰に肩を竦める。

「わかってねぇな。そりゃ前時代の考えだぜ。ゾンビに囲まれた時に顔面偏差値がたけぇのが役に立つか? 男前見てりゃ腹が膨れるか? ろくに力瘤もねぇカマ野郎は餌になるだけだ。これからは本物の男だけが生き残る。俺みたいなな」

 男が見得を切るように拳で厚い胸板を叩いた。

 その自身たっぷりな態度に女が揺らぐ。その隙を見逃さずジリジリと横合いから距離を詰めていた小男が飛びついた。

「きゃっ!」

 二人はもつれるようにして倒れる。腰にしがみついた小男を引き離そうと振り回した女の腕を男が掴んだ。

「このクソアマが! なめた真似しやがって!」

 男が問答無用で女の脇腹を蹴りつける。男は激しく咳き込む女の髪を掴むとゾンビの前に突き出した。言葉にならない悲鳴を上げ女が抵抗するも、固太りの男の力は強く、死との距離がじりじりと縮まる。

「異種交配といこうじゃねぇか」

 一番手前のゾンビがまさに女の鼻先に噛みつこうとした刹那、男が力を緩めた。それにより辛うじて死の接吻が避けられ再び歯が打ち鳴らされる。今度は先ほどに輪をかけ姦しい。興奮が最高潮に達し、殺到するゾンビの内一匹が転ぶと、分離帯の隙間に強く額を打ちつけた。図らずも周囲のゾンビがそれを押し込む形となり、精肉工場でひき肉が捻り出されるようにして頭骨を削り取られた頭部がひり出される。

(うへぇ、勘弁してくれよ)

 死体の処理に慣れてしまった俺ですら思わず目を背けたくなる光景だ。凍りついた時が解凍されると、女が悲鳴を上げ崩れ落ちた。股の間に水たまりが広がる。

「こいつ! 汚ねぇな!」

 男の顔に露骨な嫌悪が浮かぶ。失禁により女としての価値が急速に褪せたのだろう。懐から拳銃を抜いた。

 銃声が二発。続いて更に二発。それでおしまいだ。

 俺は硝煙に煙る拳銃をホルスターに戻すと、分離帯を乗り越えた。

 屈みこみ死体の懐を漁る。革チョッキにはバイクのキー以外に煙草が収まっていた。一本咥え、次いで小男のポケットから飛び出しナイフを回収する。

(ちっ、貴重な銃弾を四発も消費したってのに、しけてんな)

 俺はメモ帳に殴り書くと、腰を抜かした女の鼻先に突き出した。

『敵じゃない。拠点のことを教えてくれ』

 女は首筋を痛めるのではないかと心配になるほど何度もメモ帳と俺を交互に見遣る。理解が追いつくのを待っていては日が暮れるので写真と共に新たなメッセージを示した。

『この男を探している。知らないか?』

 今度は明確な反応があった。

「どこでこれを? あなた……なに?」

 肩を竦め、写真を裏返して見せた。そこにはエドガーの字で、『父さん、彼は新たな友人です。信じられないかもしれませんが、ゾンビのまま人の意識を保っています。彼と話をしてください。親愛なる息子より』と記されている。万一父親に見つかってしまった場合の保険として一筆書いてもらったのだ。

「信じられない……。ゾンビじゃないっていうの?」

『まだ常識に裏切られていないのか?』

 女が小さく肩を揺する。笑うと白い歯がこぼれた。

「その通りね。でも、なんて言うべきかしら。……ワォ。あと、ありがとう。助けてくれたのよね?」

『有益な情報を聞けると思ったまでだ。で、何があった?』


『イージーライダー』に象徴されるようにロックとバイクは切っても切れない関係にある。だからだろうか、ロッカーならばバイクを転がせられるものと見做されている。しかし、俺はこれまで一度としてハンドルを握ったことはない。それどころか人の後ろに乗るのも初めてだ。そのため、手の置き場に迷い肩に触れるとバイクが大きく蛇行した。

 この体に慣れてしまい時たま自分がゾンビであることを忘れてしまう。肩から手を放すと軌道が安定した。

 速度が上がり、向かい風にリーゼントが乱れる。この分では目的地に着く頃には落ち武者になっていることだろう。

「ハァ」

 迫ってくる黒煙を前に重いため息をつく。ステファニーと名乗った女の話が本当ならばエドガーには悲報を届けることになるだろう。

「一ヶ月ぐらい前かな。アンデルセンさんが私たちのキャンプに危険を知らせに来てくれたの。『悪名高い連中がここを狙っている』って。最初は誰も信じなかったわ。どうせ上手く取り入ろうとしてるだけだろうって。だけど間を置かずして襲撃があって、アンデルセンさんは率先して戦ってくれたの。わたしたち全員が彼のことを疑いの眼差しで見てたのにね。あの人がいなかったらって考えると今でも震えがくる」

 そう言ってステファニーは自分の両肩を抱いた。

「薬品を保管していた倉庫だから頑丈な鉄条網が張り巡らされてた。それでゾンビは寄せ付けなかったの。だから慢心してたのね。人も容易く撃退できるって。でも実際は違った」

 そこまで喋るとステファニーは唇を噛んだ。

「アンデルセンさんにアドバイスもらって色々と改築してたのよ。なのにその矢先にまた襲われるなんて。あと少しで見張り塔だって完成したのに……」

 建築資材調達のため半数近いメンバーが出払っている隙を突かれ、エドガーの父親の応戦も及ばず、ダムが決壊するように野盗の侵入を許してしまったとのことだ。

「身一つで逃げたから他のみんながどうなったかはわからない。でも、アンデルセンさんなら必ずあいつ等を追っ払ってくれる!」

 いくら元特殊部隊とはいえ無理な相談だ。それでもステファニーは心底信じているようだ。そうでなければ襲撃現場に戻ろうとはしないだろう。

 ステファニーは黒煙の手前でハンドルを切ると森に通じる小道にバイクの鼻先を突っ込んだ。

「この森を抜ければ拠点の裏手に出るわ。所々に落とし穴が仕掛けられてるから気をつてね。わたしの後をついてくれば問題ないから」

 ステファニーを先頭に木漏れ日が筋となり降り注ぐ森に足を踏み入れる。歩くたびに落ち葉がカサカサと鳴り、靴底を通して湿った腐葉土の感触が伝わってくる。耳を澄ますも他に物音はしない。すなわち決着がついているのだ。

(遠目から確認するだけだ。それで野盗がのさばっているようなら後は見なくともわかる)

 父親の死に悄然とするエドガーの姿がありありと目に浮かぶ。どのような慰めの言葉をかければいいのか今から頭が痛い。

『おいおい、そうじゃないだろ。考えるべきはどうやってガキをあそこから連れ出すかだ。約束通りスポークスマンとして活躍してもらおうぜ』

 マークの言う通り通訳者がいれば仲間を探し出せる可能性はぐっと高まる。半ばボランティアだったおつかいが俄かに意味のあるものとなった。

 そこまで考え頭を振る。

(すっかり毒されているな)

 父親の代わりは荷が重い。それに言い方は悪いが荷物が増えれば動きも鈍る。二人して野たれ死ぬのが関の山だ。

「ちょっと!」

 ステファニーに注意を促され我に返った。踏み出しかけた足を引っ込め、彼女に倣い迂回する。

 そうやって罠を避けつつ進むと、やがて視界が開けた。


 木の陰に身を寄せたステファニーと肩を並べ鉄条網に囲まれた倉庫を注視する。

 積み木を重ねたように四角四面な建物だ。一、二階部分に窓はなく、中を窺うことは出来ない。

「……静かね。もう少し近づいてみましょう」

 腰を浮かしかけたステファニーの裾を引っ張り押しとどめる。間一髪で裏口から出てきた男に見咎められることはなかった。

 男はこちらに背を向け金網によりかかると紫煙をくゆらせる。広い背中のどこにも力は入っておらず自然体だ。肩の辺りには達成感すら滲んでいる。

 顔を確認できたのは一瞬だ。それでも見間違うはずがない。念のため目顔で問うと喜色満面のステファニーが頷いた。

 今にも駆け出しそうなステファニーの手に写真を握らせる。いきなり俺が姿を現してはいらぬ誤解を招く。事前に彼女の口から説明してもらうのが得策だ。

「わかった。ここで待ってて」

 写真を託し繁みに身を隠す。

 喜びを抑えきれずスキップするような足取りでステファニーが駆けだす。少しでも早く気付いてもらおうと写真を持った右手をブンブンと振る。

 不意にその手が止まった。エドガーの父親が裏口から半身を覗かせた藪睨みの男と肩を叩きあう。まるで難しい仕事をやり遂げた同志がお互いを労っているかのようだ。

(なんだ? 仲間じゃないのか?)

 ステファニーの強張った背中に混乱する。

 人相の悪い男だ。拠点の住人というよりは野盗の頭目と言われた方がしっくりくる。

 そこまで考え、全く別の可能性に思い至った。

(拠点が襲撃されたのはメンバーの半数近くが出払っている時だ。それが偶然ではなく必然だとしたら?)

 流れるはずのない冷や汗が背中をつたう。

 人相の悪い男が煙草の火を求め忙しなくポケットを弄る。エドガーの父親が差し出したジッポに腕が当たり鈍色の物体が宙を舞った。二人の視線がそれを追いかけ、ほぼ同時に腰に手を伸ばす。

『走れ!』そう叫んだつもりだ。しかし、忠告は銃声にかき消された。

  

 エンジンを切り閑散とした通りを眺める。

 夕暮れに紅く染まったアスファルトが否応なしにステファニーの死にざまを想起させる。銃弾に食い破られた写真が紙吹雪のごとく舞い散る中、まるで躍るようにクルクルと舞った。木漏れ日がスポットライトのように降り注ぎ美しいとすら思える光景だった。

 不意に窓を叩かれ我に返る。どこから現れたのかゾンビが一匹張り付いている。

(消えろ! 餌じゃねぇ)

 そう念じたところで伝わるわけがない。ハンドルを回し窓を全開にしてやるとようやく納得したのか突っ込んできた鼻先を引っ込めた。

 ゾンビの姿が角に消える。その先がエドガーの家だ。きっと現れた人影に淡い期待を抱いたことだろう。

 俺は助手席に投げ出されたバックパックを漁りデジタルカメラを取り出す。エドガーが待ちわびている答えが写っている。これさえ見せれば聡明な少年は自分がどのような犠牲に依って生きているか悟るだろう。

(真実が常に正解とは限らない)

(だからって放っておくのか?)

 散々交わされた議論が性懲りもなく再燃する。まるで自分の頭の中にそれぞれの立場を代表する小人が住み着いてしまったかのようだ。しかし、いくら侃々諤々議論を戦わせようとも堂々巡りだ。それがわかっているだけに俺は第三者に仲裁を求めた。

(マーク、どうしたらいい?)

『俺に訊くまでもないだろ』

(見捨てろって言うのか?)

『これ以上鼻を突っ込んでも感謝されることなんかねぇよ。正論が常に正しい訳じゃないってのは今さらだろ。それとも奴に報いを受けさせるか?』

(報いか……)

 その概念を持ち出しては破綻する。なぜなら、最も報いを受けるべき者がこうしてのうのうと大手を振っているのだから。

 胸に重ねた掌を通して力強い鼓動を感じる。一定のリズムに身を委ねているうちにマークの気配が去った。それを潮にキーを捻るとエンジンが激しく咳き込んだ。

(おい! どうしたよ!)

 力一杯捻れば捻るほど不機嫌となり、ドラ猫が喉を鳴らすようにゴロゴロと不穏な音を立てる。やがてエンジンが白い煙を吐くに至って俺はキーを抜いた。

(おまえらのせいだからな)

「ア~」

 胸の内で吐いた捨て台詞が通じたわけではないだろうが、車を取り囲むゾンビが一様に不満げな声を上げた。


 波が伝わるように手の震えが腕に伝播し全身に及んだ。まるで視覚から入った情報に体が拒絶反応を起こしているかのようだ。

 俺は足元に転がったデジタルカメラを拾い上げ、モニターに写った写真が再びエドガーの目に入らぬよう電源を切った。

 こうなることは予想がついていた。

 赤の他人である俺ですら目を背けたくなるようなおぞましい一枚だ。肉親であるエドガーにとっては正視に耐えられないだろう。

「……父さんなの?」

 ステファニーの死体に馬乗りになり心臓を抉り出している姿を真正面から捉えている。疑問の余地はない。それでも質さずにはいられないのだろう。俺は小さく首肯した。

「殺したのも?」

 瞬時迷う。だがここまできて嘘をつく方が愚かだ。再び頷く。

 俺の答えにエドガーの魂が少しずつ抜けていく。やがて空っぽになると不意に腹を抱えた。

「あは、ははは、わかってた。わかってました。そんな都合よくいくはずないって……」

 エドガーが放心したように虚空を見つめる。秒針が三周したところで声をかけようとすると体を折り曲げえずいた。

「うぇえぇ、げぇええ」

 必死に吐こうとするも流れるのは涙ばかりだ。

「この服も! あの本も! 今朝食べたハムエッグも! 昨日のピーナッツバターも全部血がべっとりだ。そうなんでしょ? こんな! こんな!」

 エドガーが自分の胸を掻き毟るようにして服を破こうとする。止めに入るも予想外に力が強く撥ね退けられた。

「この! この! この! この!」

 自らを痛めつけるようにエドガーが机を殴りつける。雪崩をうって落ちたスケッチブックを拾い上げ画用紙一杯にマークの言葉を記す。

『生きることは奪うことに他ならない。世界は何も変わっていない。ただ、より露骨になっただけだ』

 エドガーの虚ろな視線が文字に止まる。

「奪う、生きる。それは同意義。この先も父さんは奪う、奪う、奪う、奪う、奪う、奪う」

 徐々に目に光が戻る。ただ、それはこちらが期待したような健全な色ではない。雨で氾濫した河川のように濁っている。

(しっかりしろ!)

 拳を開いたエドガーの指先が鈍色の拳銃の台尻に触れる。その冷たさに我に返ったのか視線が定まった。

『大丈夫か?』

 スケッチブックを貫くような強い視線にたじろぐ。

「……父さんはこれからも奪う。なぜなら僕が生きているから。奪う、生きる、奪う、奪わせない。絶対に」

 エドガーの決意を前に初めて声帯を失ったことに感謝した。徒に空虚な言葉を口にしないで済む。

 物資を拒否しハンガーストライキを行っても結局はどこかで折れることになるだろう。それでも流されるだけの俺よりは遥かにましだ。

 奪い、奪われもした。踏みつけ、踏みつけもされた。なのに、答えは持ち合わせていない。マークのように肯定したわけでも、エドガーのように否定できたわけでもない。先延ばしにし罪悪感を薄めながら生きているだけだ。

 エドガーの態度をミルク臭い正義感だと笑うのは簡単だ。しかし、腐肉に護られた温室の外がどのような環境か理解できないことは少年の罪ではない。地獄の業火の熱さは実際に焼かれてみなければわからないのだ。そして、心優しい少年は一度触れれば焼き尽くされてしまうだろう。今のように。あるいは、だからこそ軟禁したのかもしれない。外の世界と距離を置くことにより、純粋であるがゆえに脆い心が壊れぬよう守っていたのだ。ハンディキャップはそのための方便にしか過ぎない。

 そのことに思い至ると早合点したことに気付いた。

「早まるな!」との叫びは「エ~ウ~」との間延びした呻きに変換される。

「父さんは僕がいる限り『生きる』ことを止めません。なら、僕がその理由を奪います」

 憑き物が落ちたようにすっきりとした表情のままエドガーはこめかみに押し当てた拳銃の引き金を絞った。乾いた銃声よりも転がった車椅子のタイヤが空転するカラカラとの音がいつまでも耳を離れなかった。

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