―1st Session―
―1st Session―
洗面所の床に雨水を溜めたバケツを置き、指先を濡らし、髪を梳きながら毛先を立たせていく。十分に下地が整ったら油性のポマードを揉みこみ掻き上げるようにして整える。ボリューム感のあるリーゼントにするためにはここで手を抜いてはならない。何度も櫛を入れながら少しずつ理想の形に近付けていく。
(こんなもんか)
とさかのようにそそり立ったポンパドールを撫でる。往年のロックスターにだって引けを取らない仕上がりだ。なのに鏡に映る姿はどこか冴えない。
(……染めっかな)
スポットライトを浴びて燦然と輝くブロンドはロックの象徴だ。くすんだ黒灰色ではどうしても見劣りしてしまう。
『やめとけよ。シド・ヴィシャスが金髪だったらパンクは流産だ』
ブロンドとなった自分を想像し独り悦に入っているとマークに冷や水を浴びせられた。
(そうか? 今なら案外いけてないか?)
『目ん玉見開けよ。絵の具じゃねぇんだ、ちょっくら血の気を失ったからって黄色人種が白人にはならないぜ。悪いことは言わねぇからそのままにしときな。それに、黒ほど反骨精神を体現している色はねぇ。ああぁ、腹黒は別だぜ。それは七三分けの連中の専売特許だ』
軽妙な調子に思わず吹き出す。再び鏡に目を向けると黒髪もそこまで悪くない気がしてきた。
(さすがは作詞担当。俺を言いくるめるのなんて朝飯前か)
シニカルでいながら本質を突いた言葉選びはマークの専売特許だ。ありきたりなコード進行でもマークの歌詞がのると輝いたものだ。
マイクを握るマークの後ろでギターを奏でるのはいつだって俺を昂らせた。少ないながらも熱狂的に反応する観客、軽快なリズム、熱気を含んだ空気を震わせる弦の振動。全てが昨日のことのように思い出せる。
瞼の裏に浮かんだライブの風景を振り払うように俺は大仰に頭を振ると、乱れた前髪をなおし、洗面台を後にした。
階下に降りると妹のボニーが檻の中の熊のように食卓の周りをグルグルと回っていた。銀行員との職業柄か、彼女の体内時計は正確に時を刻んでおり、少しでも遅れるとこうして無言の抗議を行う。
(悪いな。でも、わかるだろ? 髪型は兄ちゃんにとって魂なんだ)
目で語りかけるもボニーに通じた気配はない。兄と妹の心温まる交流を諦め、テーブルの上で倒れている携帯ラジオのスイッチを捻った。
妹がラジオに夢中となっている間に両親を探す。お袋は寝室の全身鏡と睨めっこしており、親父は玄関の扉と格闘していた。馬の鼻先にニンジンをぶら下げるようにして好物をちらつかせ二人をリビングまで引っ張ってくると、ザーザーと雑音しか放送しなくなって久しいラジオのスイッチを切った。ノイズが止むと、代わりにガサゴソと耳障りな音が響く。三人が食卓の周りに敷き詰められたビニールシートの上で乱舞しているのだ。
食料の確保がままならないため、少し前から食事の回数を一日一回に減らした。それが不満なのか最近とみに落ち着きがない。三食与えている時はここまでひどくはなかった。
(やれやれ、それでも俺よりは食ってるんだけどな)
だから餓死する心配はないはずだ。そもそも本当に食事が必要なのかすら怪しい。それでも食べさせないわけにもいかないので、ガレージから運んできた食材を食卓の上に投げ出した。初めはそれぞれの分を切り分けていたのだが、どのみち奪い合いとなるので今では一体丸々提供している。
貪り食らう三人から離れ、リビングのソファーに腰をおろし、コーンフレークの箱を抱えるようにしてチビチビと齧る。皿により分けずにいると行儀にうるさいお袋によくどやしつけられたものだ。しかし、今や当の本人が豚のように食い散らかしている。
三人の食事風景を観察してわかったのだが、各々好みの部位がある。妹は頭から豪快にかぶり付き、お袋は腹を食い破り、親父はチマチマと手足を齧る。
(まったく、もう少し味わってくれよな。手に入れるのも楽じゃないんだぜ)
感染していない個体を探すのは骨が折れる。これまでなんとか近所で見繕ってきたがさすがにもう限界だ。車を出さなければならない。
(ついでに物色してくるか)
必要な物をざっと思い浮かべるだけですぐに買い物リストが真っ黒となった。
(ジッポのガス、洗剤、キッチンペーパーは――まだいけるか。それに、ゴミ袋。あとは、電池か……)
食料と医薬品に次いで店頭から消えたのが電池だ。近所の家に忍び込み、それこそテレビのリモコンからベッドの下に隠されていた大人のおもちゃまで中身を抜き取ったが十分な数を確保したとは言えない。
(ったく、ギターアンプはなんだってあんな電池を食うんだ?)
最近はもっぱらアコギを抱えているが、日に日にディストーションが恋しくなる。腹に響く重低音は何物にも代えられない。
電池の確保まで視野に入れるとなると探索先は限られる。真っ先に思い浮かぶのは車で二十分ほどの距離にある大型のショッピングモールのサウスヒルズだ。大抵の物なら揃うが、その反面、磁石のように生存者を引きつけてしまう。
(と、なるとノックウッドの方が無難か?)
個人商店が肩を寄せ合うようにして集まっている小規模の商業施設だ。地元民にしか知られておらず、流れ者と遭遇する可能性は低い。
(どうしたものかな?)
無意識の内に転がっていたギターを抱えつま弾いていた。グレッチのホロボディーが奏でる豊かな倍音に三人が振り返るも、食欲が勝り食事の手が止まることはない。
つま弾く程度だったのが、いつの間にか熱中していた。弦をはじく指先に力が籠り、心の赴くままにギターを歌わせる。全盛期のジミヘンにも勝るとも劣らない演奏だ。自分の中にこれほどの鉱泉が眠っていたとはついぞ最近まで気付かなかった。この演奏ならばオーディションで、『まるで機械が弾いてるみたいだ。それも産業革命以前の機械が』と辱められることもなかっただろう。
消化不良の怒りが指先を狂わし不協和音を奏でた。必要以上に強く弾いてしまい弦が根元からぷつりと切れた。
切れたのは細い一弦や二弦ではなく巻き弦の四弦だ。不思議なことに太いはずの四弦が一番よく切れる。そのため予備が心許なくなっている。
(こりゃサウスヒルズで決まりだな)
楽器屋と呼べるほど上等な代物ではないが、レコードショップの一画でピックや弦などちょっとした小物を売っている。品揃えは物足りないが、このさい贅沢は言っていられない。
俺は弦の切れたグレッチをソファーに寝かせ、机の上に投げ出された新聞を手に取った。一面は歴史的な逆転勝利を飾ったスーパーボウルの話題で埋め尽くされている。この時期になると半数のアメリカ人が発情した雌鶏のように奇声を上げながらテレビに齧り付き楕円形のボールの行方に一喜一憂する。その熱狂を一度として共有したことはなかったが、今となっては懐かしく思い出される。
記事の内容なら一字一句暗唱できる。それにもかかわらず目が文字を追う。往時の幻が至る所に散りばめられており、それを拾い集めているうちに隅から隅まで読み終えてしまった。紙面には未だにアメリカが息づいており、耳を澄ませばその息吹が聞こえてくる。
(まだ半年か……)
もう何年もこの無味乾燥な暮らしを続けている気がする。しかし、季節は冬から夏に移ろっただけで一巡もしていないのだ。その事実に軽い眩暈を覚えた。
俺は力なく首を振ると、この国が発行できた最後の新聞を畳んだ。
食事の用意に負けず劣らず大変なのが片付けだ。
腹を空かした野良犬がゴミ箱をぶちまけた後と言えば想像がつくだろうか? あるいは情熱と技術をはき違えた美術部員が心の赴くままに絵の具を塗りたくったキャンバスとでも言えばいいだろうか?
要は食い散らかして酷い有様なのだ。
床や壁に飛び散った血を拭き取り、肉片を詰め込んだゴミ袋を抱えガレージと食卓を往復する。
(さすがにそろそろ捨てるか)
堆く積まれたゴミ袋をビンテージとの言葉では糊塗できない色褪せたキャデラックのトランクに片端から突っ込み、溢れた分は後部座席に投げ込む。車高が地面を擦るギリギリまで積み込んだが、まだ半分近く残っている。
(ポンコツをゴミで満たし、最後に一番でかい廃棄物が乗り込む。まったく最高だぜ!)
マークではないがシニカルな気分に襲われる。このまま何もかも捨て去れたらどれほど楽だろうか。だが、そうもいかない。
『おいおい何を今さら孝行息子ぶってんだよ? どれだけ不義理をしたと思ってるんだ? それに肝心なことを忘れていないか? 約束は――』
俺は必要以上に強くドアを閉めマークの言葉を遮った。
エンジンが喘息患者のように咳き込む。いつもよりもしわぶきが激しいのは積載量をオーバーしていることに対する抗議だろう。騙し騙し使っているポンコツだ。機嫌を損ねれば動かなくなることも珍しくない。
祈りを込め強くキーを捻る。思いが通じたわけではないだろうがぐずりながらもエンジンがかかった。ガレージから鼻を突きだすと今にも泣きだしそうな空模様に迎えられた。窓から入ってくる空気は湿っており雨雲の到来を告げる。
ドライブウェイの半ばで停止し、煙草に火を着けながらガレージを閉めるために車を降り、ひっそりと静まり返った近所の様子を紫煙越しに眺める。
手入れに人を雇わなければならないほど広大ではないが、かといって放置できるほど狭くもない庭に囲まれ、隣家との距離は適度にたもたれている。二階建ての家は四人家族が互いのプライバシーを尊重しあいながら暮らすには十分な広さだが、さりとて生活音から遮断されることはない。ガレージに収まっているのは国産車や日本車であり、舌を噛みそうなイタリアの車ではない。要は、労働者階級から頭一つ抜け出したが、ハイソの仲間入りをできない者たちが肩を寄せ合い暮らす地域だ。日曜には欠かさず教会に通い、プレスリーよりもハンク・ウィリアムスを好み、共和党というだけで票を投じ、神に唾吐く言葉を口にした日だって夕食時には「アーメン」と唱える。電化製品に毒された以外は『古き良きアメリカ』の幻影がそこかしこにこびり付いている。
ロックに出会い、幼馴染のマークからお古のギターを譲られ、自分の中で感じていた息苦しさに言葉が与えられると、迷うことなく捨て去った黴臭い暮らしだ。
『うんざりなんだよ! 動物園の熊の方がまだ自由だ! この檻の中にもう一秒だっていたくない。俺たちならロックの階段を二段飛ばしで上れる。親父みたいにはならねぇ!』
そう啖呵を切って飛び出した日を昨日のことのように思い出せる。その時も泣き出しそうな空模様だった。マークと門出にしては冴えない天気だと愚痴ったのを覚えている。
だが本当は空など目に入っていなかった。バックミラーの中で小さくなる泣き崩れるお袋と、その肩を抱く妹の姿しか見ていなかった。
自然と首が左右に振れる。往時の面影を探し求めるも、その努力をあざ笑うかのように荒廃ばかりが目につく。青々と茂っていた芝生は荒れ果て、割れていない窓を探すほうが難しい。右斜め前のジョーンズ家など消防車が突っ込み半壊している。近所で家としての体裁を保っているのは我が家と二軒隣りのディラン家ぐらいなものだ。これでも火事で殆どの家屋が焼け落ちた二町ほど先の通りに比べればまだましだ。
脳裏に燃え盛る通りが浮かび、お袋と妹が業火に包まれる。
(違う!)
しかし、いくら頭を振ってもそのイメージが拭えない。まるで無理やり瞼をこじ開けられ直視させられているかのようだ。
『本当に違うと言い切れるのか? 全てを焼き尽くす業火を望んだことがないとは言わせないぜ。この町を、この通りを、この家を、この息苦しさを、誰でもいい、何でもいい、壊してくれと夜な夜な願ったのはどこの誰だ? 他でもないおまえ自身だろ?』
(ガキの頃だ!)
『何も変わらないさ。またおまえは檻に閉じ込められてるんだよ。このままずっと縛られて生きるのか? 後どのくらい時間が残っているかもわからないのに? グズグズしてると約束が果たせなくなるぞ。それとももう諦めちまったか?)
いつの間にかマークから自分の声に取って代わられる。
(それは……そんなつもりは……)
(強がるなよ。おまえは家族を理由にしてるだけだ。最初から約束を果たすつもりなんかないんだよ)
(違う……)
弱々しい否定をかき消すかのようにあざ笑う声が木霊する。
(違わないさ。態のいい言い訳に使ってるだけだ。いつだってそうじゃないか)
(違う!)
証明すべく煙草を芝生に向かって弾くも、おりしも降り始めた雨にあっさりと鎮火された。
カーステレオを震わせるゴリゴリと図太いベースラインに煽られ自然とアクセルを踏む足に力がこもる。スピードメーターの針は百を超え、百二十マイルに迫ろうとしている。ネズミ取りに引っかかれば一発で免停だ。しかし、パトカーの姿はおろか、一般車すら一台も走っていない。かつてはひっきりなしに車が行き交い交通が途絶えることのなかった幹線道路が見る影もない。
この情景に合わせカーステレオが『すべては地獄に落ちちまったのさ』と歌う。
それ以上の説明が必要だろうか?
誰か答えてくれるなら『なぜ』と問い質したい。しかし、神は沈黙を続け、代弁者たるメディアもとっくに存在しない。
笑いが込み上げてくる。正確には笑いに似た何かが喉の奥を震わす。
核戦争でも、巨大隕石の衝突でもなく、B級映画のような理由で世界は滅んだのだ。これが笑わずにいられるだろうか? 性質の悪い冗談だ。しかし、いくら頬をつねったところで夢から覚めることはない。現実は悪夢との言葉に置き換わったのだ。
便宜上ゾンビと呼んでいるが、あれがなんなのか正確なところはわからない。判明していることは噛まれたら一巻の終わりだということだけだ。予防薬も、治療法もない。
奴等は本能に刷り込まれた人肉に対するあくなき欲求に突き動かされ昼夜の別なく徘徊する。音に反応するのも、その方角に人がいると見做してだ。言葉は解さず、いかなる手段でも意思の疎通ははかれない。
あれが生きているのかと問われれば、「死んでいる」と答えるだろう。ただ、心臓が動いていることだけをもって生命と定義するならば、生きていることになる。
心臓が奴らにとっての全てだ。脳を破壊しようとも、手足を切断しようとも、胴体が泣き別れようとも、心臓を潰さない限り動き続ける。
ハンドルに拳を叩きつけた衝撃で車が左右に振れた。
(心臓を一突き。それだけだ!)
何度考えただろうか。実際にサバイバルナイフを手にしたことも数えきれない。だが後は刃を突き立てるだけというところで全身がこわばってしまう。
面影が残っているのだ。いくら顔色が紙のように白くなり、皮膚がただれ、何本も血管が浮かびあがっていようとも、両親と妹には違いない。彼らの顔を見ているうちに思い出が駆け巡り指先から力が抜けていく。
とっくに痛覚はなくした。なのに、胸を走る痛みだけはいつまでたっても去らなかった。
白線を跨ぐように車を止め、フロントガラスを叩く弱い雨を睨む。
ニューヨークやシカゴのように交通網の整備された大都会ではない。車こそが生活の足だ。そのため人の集まる商業施設には必ず駐車場が用意されている。その中でもここの広さは別格だ。東西南北の入り口に面してそれぞれ駐車場が用意されており、徒歩で一周しようと思えば優に二十分はかかる。正確な収容台数は数えるべくもないが万は下らないだろう。
今でもそのうちの十分の一程度が埋まっている。かつての買い物客の置き土産だ。半年近く野晒しにされているため、どの車も埃をかぶりひどい有様だ。
周囲にいずれも廃車寸前の車しかないことを確かめると、俺は音を立てぬよう細心の注意を払い素早く降り立った。バックパックを背負い、車の間を縫うように駆ける。幸い自動式拳銃の引き金を絞るような事態に陥ることもなく入口に辿り着いた。
死体がドアストッパーの役割を果たし半開きとなった入口から内部の様子を窺う。通路に人影はなく、両側に連なった店舗も静かなものだ。角度が悪く一番手前の花屋の奥は見通せないが、人が隠れている様子はない。
ガラス戸を一気に引き開け身を躍らせるようにして飛び込む。倒れた観葉植物をまたぎ花屋と床屋の境目で息を殺す。委細を聞き漏らすまいと耳に全神経を集中する。これほど集中して音を拾おうとするのは初心者の頃にチャック・ベリーのソロを耳コピしようと試みて以来だ。
足音に心臓が跳ねる。息を詰め角を睨むも、ヌッと現れた土気色の顔に力が抜けた。
溜めていた息を吐き出し、拳銃を懐のホルスターに戻す。ゾンビが徘徊しているということは近くに人がいない証拠だ。
目前をダッフルコート姿のゾンビが通り過ぎる。彼の中では時間が止まっているのだから季節はずれの格好を笑っては失礼だ。
散らばっているガラス片で足を切らぬよう注意しながら進む。ゾンビ映画のお約束のように生存者にモールが占拠されているのではないかと懸念したが、どうやら杞憂だったようだ。
予想していたよりも遥かに徘徊しているゾンビの数が多い。以前に一度物資の調達に来た際はここまでいなかった。どうやら探索に訪れた生存者が捕食され戦列に加わっているようだ。
(ミイラ取りがミイラか……)
同情はするが手を差し伸べられるほどこちらに余裕があるわけではない。俺は当初の目的通り、ドラッグストアで愛用しているポマードをバックパックに詰め込むと、三件隣りのレコードショップに向かった。
(こりゃ派手にやったな)
店内で闘牛が開催さたような有様だ。棚は倒れ、バンドのノベルティが散らばり、踏み割られたCDが散乱している。目ぼしい商品を回収しつつ奥へ進むと、申し訳程度に楽器が並べられている一画に出た。入門用の廉価なギターに混じりピックや弦が売られている。
(思ったよりも少ないな)
生活必需品ではないため誰も興味を示さないだろうとたかを括っていたが、予想外に在庫が減っている。ピックはまだしも、弦は全て掻き集めても十セットに満たない。俺はその内の一弦の太さが010と011から始まるものを二つずつ確保した。
四セット。もって半年だ。今日のように切れたならもっと早く尽きる。
腕が最も数が多い009のセットに伸びる。だが、結局はそのままにして店を後にした。
『甘ちゃんだな』
マークに詰られる。それでも、どうしても根こそぎ奪うことに対して罪悪感が拭えない。別に聖人君子を気取っているわけではない。ただ、そう、『ハングリーさに欠ける』のだ。
(まるで俺の音楽そのものじゃないか)
『パンチが足りない』『小手先だけで演奏している』『ただ音符をなぞっているだけ』『大量生産の菓子のように味気ない』
事前に示し合わせているかのようにありとあらゆる表現で同じ意味の寸評を頂戴した。要約すれば俺の音には決定的に何かが足りないのだ。
自分には音楽しかないと思っている。なのに、その気持ちが音で表現できない。そのもどかしさに悶えているうちに二十代が過ぎ三十の声を聞いた。
狂おしいほどロックを愛している。なのに、一度としてロックは応えてくれなかった。いつしか屈折が俺の音楽について回るようになり、人前で演奏するのが怖くなった。ステージに上がる気力が萎え、情熱までも失った。
「潮時だ」
そう告げた際のマークの表情は生涯忘れない。末期癌を宣告されると同時に子供の誕生を告げられたとしてもあそこまで複雑な色は浮かばないだろう。
まだ裏切り者と罵られた方が楽だった。しかし、マークは何も言わなかった。だから地元まで車で送るとの申し出を受けた際、心底驚いた。しこりが残らなかったと言えば嘘になる。なによりもマークは既に新しいバンドを始動させており、ライブもいくつか決まっていた。それだけに片道三日のドライブにつき合わせるのは忍びなかった。
口の中でモゴモゴと断る理由を並べると強く肩を叩かれた。
「おまえの決断に口を挿まなかったんだ。おまえも何も言うなよ」
反論を封じられ、頷くしかできなかった。しかし、結果的にはそれが誤りだった。
(あの時、断ってさえいれば……)
益体もない想像が駆け巡る。
マークは笑おうとしていたのだろうか? あるいは身を焼くような苦痛に顔を歪めただけなのだろうか? それすら定かではない。ただ、最後に遺した言葉。それははっきりと聞こえた。ため息とも、吐息ともつかぬ調子だったが、こう告げたのだ。
『立てよ。ステージに、もう一度』
喉の奥に刺さった小骨のように果たせぬ約束に心がざわつく。集中しなければと思うほどかえって注意が散漫となる。
(クソッ! だめだ)
ちょっとした憩いの場となっているベンチに腰を落とし頭を抱える。
(あいつだってこうなるとわかっていればあんな無茶を言わなかったはずだ)
すっかり青白く変色した己の両手を見つめる。
(そりゃ変わらず、いや、前なんかとは比べ物にならないほど達者に弾けるさ。だけどよ、こんな状況でどうやってバンドを組めってんだ! ステージに立つなんて夢物語だ)
マークからの返事はない。
(はっ、でたよ! 都合が悪くなった途端にだんまりだ。何か言えよ!)
しかし、いくら待とうとも返事はない。俺自身が答えを用意できていない問いかけには口をつぐむのだ。
諦め天を仰ぐ。ガラス張りの天井に雨が滴り、まるで泣いているようだ。
(……帰るか)
食料となる死体なら目星はつけた。徘徊しているゾンビでは手が届かぬ場所に安置されていたので綺麗な状態だ。良心が痛むが背に腹はかえられない。
回収する算段を描きつつ腰を浮かすと、肩に葉が触れた。ベンチに沿って背の高いプランターが配置されている。子供の頃、両親の買い物に待ちくたびれ、マークと共に花を手折ってこっぴどく叱られた情景が甦る。
懐かしさに思わず手が伸びた。すっかり萎れた花弁に触れるとぼろぼろと崩れた。これが現実だ。過去の幻想は甘やかであるがゆえに溺れれば命取りとなる。
頭の隅に残っている冷静な部分が長居しすぎだと警告を発する。わかってはいる。しかし、感傷が蔦のように絡み付き足が動かない。
そして、いつものように後悔を一つ積み上げることとなった。
背後からの爆音に咄嗟に身を伏せる。まるで飛行機が墜落したかのような衝撃だ。恐る恐るプランターの陰から顔を出すと、中央の柱にめり込む形で大型のジープが止まっていた。周囲に散乱する破片やゾンビの肉片が衝突の激しさを物語っている。
車を追ってなだれ込んできた武装集団が運転席を囲むようにして展開する。そのうちの一人が勢いよくドアを開くと、反動で運転手の体が傾ぎ、クラクションが鳴り響いた。乗り込んだ男が慌てて死体を蹴り出す。
「乱暴に扱うのは止せ!」
統率を取っていると思われる髭面の男が怒鳴る。車内から何か言い返したようだが、ここまで声は届かない。
「まずいよ!」
小柄なうえに中途半端に伸びた髪を後ろで結んでいるのでてっきり女かと思ったが、甲高い声は変声期の少年特有のものだ。他の者が曲がりなりにも銃器を手にしているのに少年だけ金属バッドだ。いかにも頼りない。
「あんたは下がってなさい! デニー! お願いね!」
「任せとけ! いい的だぜ」
少年を庇うようにして男女が左右から迫ってくるゾンビに発砲する。的確に心臓を撃ち抜く腕前から場数を踏んでいることが窺える。しかし、押し寄せてくるゾンビの数は一向に減らない。それどころか爆竹が爆ぜるような発砲音に釣られ増々集まってくる。初めは数えるほどだったのが、あっという間に両手足の指では足らないまでに膨れ上がった。
「まだか? 早くしてくれ!」
リーダーの男が堪らずに車に乗り込んだ小男を急かす。何か言い返したのだろう。フロントグラスを通して小男が半身を捻るのが見えた。その間にもゾンビの輪は狭まり一団を飲み込もうとする。
「どっから湧いてくるのよ! このウジ虫が!」
「やばいぞ! 弾がもたない!」
「いいぞ! 脱出だ!」
車に乗り込んだ小男がボストンバッグを引っ提げて飛び出して来たのを潮に、一点に集中砲火が浴びせられる。包囲網に穴が空き、そこから一団が薬莢を撒き散らすようにして抜け出す。しかし、ゾンビの輪は予想以上に厚く、幾人かが引き倒された。
その中にデニーの姿もあった。女と少年の足が一瞬止まるも、断末魔を振り切るようにして駆けだした。ゾンビの興味が逃げ出した獲物から残された餌に移り追ってこないと知ると一同の足が緩んだ。
(ひい、ふう、みい、よ)
肩で息をする者たちの数は当初の半数以下にまで減っている。生き残ったのはリーダー格の無精髭の中年男に、まだあどけなさが残る少年と若い女、それに戦利品のボストンバッグを後生大事に抱えている小男だけだ。
己の迂闊さに思わず舌打ちしそうになる。固唾を飲んで見守っていたためすっかり逃げ出す機会を見誤ってしまった。こうなっては息を殺し四人が通り過ぎるのを待つしかない。
顔を伏せ死んだふりをする。周りには死体が転がっており不自然ではない。
(死体だ。あんたらの興味を引くものなんて何もない死体だ。無駄弾を使う必要はないからな。通り過ぎろ! 通り過ぎろよ!)
しかし、その願いも虚しく、至近距離でピタリと足音が止まった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、おまえ達、大丈夫か?」
数フィートと離れていない頭上から声が降ってくる。位置的にプランターが邪魔になり向こうからはこちらが見えないはずだ。俺は少し体をずらすと、プランターとプランターの切れ目から様子を窺った。
無精髭の男が少年と女を抱き寄せている。愛情のこもった仕草に肉親の情が滲む。
「父さん、デニーが……」
「見るんじゃない」
父親が肉厚な手で少年の目を塞いだ。
「アンナ、おまえも怪我はないか?」
「大丈夫。でも、もう弾が……」
アンナと呼ばれた痩身の女が弾倉を抜き出して見せる。
「私もだ。でも、心配ない。クラークが車から鞄を持ち出してくれた。弾丸だけは腐るほどある。何か物資が残ってないか探――」
毛を逆立て威嚇する猫のように小男の振り上げた散弾銃に父親が言葉を呑みこんだ。
「……どういうつもりだ?」
「これは俺が命がけで取って来たもんだ! 指一本触れさせねぇ!」
小男の剣幕に三人が息を呑む。いち早く立ち直った少年が食って掛かる。
「そんなこと許されるわけないじゃないか! デニーやみんなの物だ!」
小男に掴みかからんばかりの少年を父親が羽交い絞めにする。
「デイブ! やめるんだ! 私たちが争っている場合じゃない」
「でも!」
「はぁん? まともにゾンビも撃てねぇ奴が何いきってんだぁ? テメェがもう少し使えりゃあいつもひき肉にならずに済んだのによぉ。かわいそうにな」
小男の嬲るような調子にデイブが青ざめ苦しげに胸を押える。少年を庇うようにして一歩踏み出したアンナの腕を父親が掴んだ。
「アンナ、クラークは気が動転しているだけだ。仲間を失えば誰だった悲しい。世界には自分しかいないような気がしてくる。特にクラークはミリンダを亡くしたばかりだ。おまえだって愛しい人を亡くす辛さはわかるだろ? 私たちみんなその痛みを知っている。だけど力を合わせれば乗り越えられる。だから、クラーク、馬鹿な真似はよすんだ」
アンナに語りかけていたのがいつの間にか小男に向けた説得となっていた。
クラークの瞳が揺れるも、それはすぐに猜疑のこもった光によって打ち消された。
「力を合わせた結果があれだってんだから、とんだお笑いだぜ。ジェイクを見捨てたみたいにどうせ俺も置き去りにするんだろ? あんたが欲しいのはこのバッグだ。俺じゃない」
「馬鹿なことを言うな! おまえだって見たじゃないか。ジェイクは噛まれたんだ。他にどうしようもなかった!」
「ガキでもか? 噛まれたのがガキだったとしても同じ決定を平然と口にできたか?」
「……っ」
「それが何よりの答えだ。あそこで餌になってる連中の中に息子と姪がいなくてほっと胸を撫で下ろしてんだろ? 口では全員家族とか言ったって所詮そんなもんだ。捨て駒にされるのは真っ平ごめんだぜ」
反論を探すかのように父親の手が虚空を掻く。しかし、何も掴めず酸欠の金魚のように口をパクパクとさせるばかりだ。
「へっ、せいぜい足掻けよ」
クラークが三人を起点に半円を描き始めたので俺は慌てて顔を伏せた。小男に周囲まで注意を配っている余裕はないだろう。それでも万一に備え懐の銃把に触れる。ズルズルと引きずるような足音が少しでも乱れたら躊躇せず抜くつもりだ。
「――になればいいでしょ」
その一言にクラークの動きが止まった。
「……なんだって?」
「本当の身内になればいいだけでしょ。あたしと結婚して」
聞き間違いではなかったようだ。あまりにも情緒に欠けるプロポーズにクラークが乾いた笑いで応じた。
「はっははっ、あんたはまだ頭のネジが緩んでないと思ってたんだけどな」
「何が不満なわけ? これでもパートナーを探すのに苦労したことは一度だってないわよ」
アンナが体のラインを強調するように胸の下で組んだ腕を持ち上げた。汗で黒ずんでいるが整った顔立ちであることは疑いもない。
ゴクリとクラークの喉が鳴り、誘われたように一歩踏み出す。その前に立ち塞がるように父親が割って入った。
「アンナ! 自分がいったい何を言っているのかわかっているのか!」
「わかってないのはおじさんの方よ。これで全部丸く収まるの」
「こんなこと誰も望んではいない。姉さんも悲しむ」
「ママならむしろ背中を押してくれるわ。覚えてるでしょ? 最後の言葉。あたしはその通り生き延びようとしてるだけ。どんな犠牲を払ってでも」
「それは、しかし、こんな……」
「あんた親代わりだろ。よく言って聞かせてやりな。このご時世、口約束なんてちり紙よりも価値がないってな。アホらしぃ」
すっかり冷めた態度でクラークが吐き捨てる。
「待って! 証拠が欲しいんでしょ? ならついてきて」
「何をするつもりだ!」
「邪魔しないで」
アンナは父親代わりである叔父の手を振り払うと脇目も振らず正面の寝具店に向かった。
大胆に採光されているので曇天でもモール内は十分に明るいが、さすがに店舗の奥までは光が届かない。闇に紛れゾンビが蠢いていたとしても不思議ではない。しかし、アンナは躊躇することなく扉を開くと、闇に呑まれるようにして店の奥へと消えた。その後を追いクラークが半ば夢見るような足取りで続く。視界から二人が消えると、父親が膝から崩れ落ちた。
「ああぁ、姉さんになんて……顔向けできない」
「……お姉ちゃんを信じよう」
肩を寄せ合う親子の注意が正面に向いている隙に俺はそろりそろりと後ずさる。
寝具店は親子から見て右斜め前、すなわちこちらからは真正面となる。なんとしても事が済む前にこの場から離れねばならない。今だってアンナかクラークが少しでも首を捻れば視界の隅に芋虫のように這いずっている人影が映ることだろう。
焦りを押し殺し腕の力だけで体を後ろへと運ぶ。しかし、逆回しの匍匐前進は亀の歩みよりも鈍く遅々として進まない。
(頼むから三擦り半でイクなよ)
好色そうではあったが、なにしろ状況が状況だ。男として機能しないことだってあり得る。
自分の体をモップ代わりに床を掃くこと数分、つま先がプランターの切れ目に触れた。
(あと少しだ)
最後の力を振り絞る。しかし、その矢先に希望を打ち砕く絶叫が響き渡った。
「ぎゃあぁああぁああぁあ」
心臓が口から飛び出しそうになる。辛うじて悲鳴を呑み込み、駆けだした親子の背中越しに入り口を凝視する。
優雅な足取りで店から出てきたアンナは何かを吐き出すと、赤く染まった口の周りを袖で拭った。切られたトカゲの尻尾のように食い千切られた男性器が力なく転がる。
「ア、アンナ……」
「取り返してきたわ。だってこれはあたし達の物ですもの」
アンナが地面に置いたボストンバッグの中身を検める。
「よかった。食料も三人なら暫くもちそう」
こともなげに一人少ない人数を口にする。まるで初めから四人目など存在しなかったかのようだ。呆気にとられ硬直している親子を尻目にアンナは弾丸を補充すると、無造作に引き金を絞った。
目前の床が砕け反射的に目を瞑る。
「なにしてるんだ!」
「そいつ、生きてる。その、ナップサック背負ったイーター」
「これだけ騒いで襲ってこないわけがないだろ。見間違いだ。そんなことよりもクラークは? 殺したのか?」
「男としては死んだも同然ってところ」
平然と言い放つアンナに父親が絶句する。
「なんてことを……」
「父さん! イーターが!」
低いうめき声が辺り一面に木霊する。騒動に誘われゾンビが集まり始めている。
「話はあとだ。デイブおまえは反対を」
父親は息子と共に両側からアンナの肩に腕を回すと、引きずるようにして駆けだした。発砲音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
俺はのろのろと上体を起こす。気配に誘われ数匹のゾンビが足を止めるも、同類だとわかると興味をなくし虚ろな行進を再開した。
(同類か……)
青白い掌に視線を落とす。未だに毎朝鏡の前に立つのに少しばかり勇気がいる。最初の頃のように鏡に映ったゾンビに飛び上がることはなくなったが、それでも慣れはしない。
(こっちはおまえらを同類なんて思っちゃないぜ)
仮に奴らと同じなら、服の埃を払いはしないだろう。目の前を通り過ぎた一匹などべったりと付着した血がパリパリに乾いたシャツを着ている。とてもじゃないが俺には耐えられない。いや、文明社会で育った人間であれば汚物と区別のつかない服を着て平然としていられるはずがない。その点だけとってみてもあれが『人』でないことは確かだ。
(なら、人でないものに同類と見做され、襲われることのない俺はなんだ?)
手の甲で額を拭う。案の定、一滴も汗をかいていない。ライブ前など緊張でハンカチが湿るほどだった。それが命の危機に直面しても冷や汗一つかかない。
失ったのは汗腺の機能ばかりではない。味覚は僅かに舌先に残る記憶だけが頼りだ。いずれ甘いや辛いがどんな味だったか忘れてしまうだろう。ガレージで腐臭を嗅がなかったように嗅覚も喪失した。残りの五感も人だった頃と比べ少なからず変化している。過敏なほど音に敏感になり、夜でも昼と変わらぬ視界を保っている。唯一鈍ったのは触覚だ。針などで皮膚を刺しても痛みは一切感じない。
それ以外にも変わったところを挙げればきりがない。声帯は潰れ、どのような言葉を発しても、「ウ~ア~」との唸り声に変換されてしまう。そのため、先ほどのような状況を交渉によって切り抜けることは絶望的だ。奴らと違うと証明する前に心臓を撃ち抜かれるだろう。なによりも、もう二度と鼻歌を口ずさめないのが寂しい。
ゾンビ化の影響は肉体だけに留まらない。少しずつだが心も浸食されている。そうでなければ顔色一つ変えずに食事を用意できるわけがない。
ホラー映画は苦手だった。それが、ハムエッグを焼くのとさして変わらぬ感覚で死体を食卓に並べている。普通に考えれば吐くような光景だ。にもかかわらず、心が波立つこともなく食い散らかしを片付けられる。
だが、感情をなくしたわけではない。熱いロックを聴けば未だに滾るものがある。
(だから、違う! 同類なんかじゃない!)
胸の内で叫んだ言葉を証明するため、俺はのろのろと行進するゾンビを足早に追い越した。
(遅くなっちまったな)
アンナたちや他の生存者を警戒し、食料集めは殊更慎重に進めた。そのため、すっかり日が暮れてしまった。
(しかし、噛み切るかね……)
思わず股間を押える。機能してないとはいえ、それでも失うことを考えると震えが走る。
あれこそ生存が目的となった人間の姿だ。生き延びるためならどんな犠牲も厭わず、『何のために』との命題が抜け落ち、『生きる』ことだけに固執する化物に成り下がる。
(はっ! 他人のことを言えた義理かよ)
自嘲に唇が歪む。
ささくれだった気持ちにアクセルを踏む足に力が籠る。頬に風を感じ、膨張した闇に呑み込まれる。傾斜のきつい坂道を下るのはまるで怪物の胃へと落下していくようだ。我に返り、アクセルを緩め、安全運転に戻る。雲間から顔を覗かせた月が弱々しい光を路面に投げかける。
文明が死に絶え、もっとも力を取り戻したのは闇だ。街を照らすネオンサインは絶滅し、血流たるヘッドライトは死に絶え、家庭の灯りも消えた。
フロントガラスを通して深く沈みこむ闇に触発され、どこからともなく印象的なシタールの旋律が聞こえてきた。
人の営みたる灯りが失われ、世界はまさしく黒く塗り潰された。闇を払拭する光は遥か彼方の記憶だ。むしろ人は積極的に闇に同化しようとしている。闇に溶け込んでいる限り滅多なことでは危険に出くわさない。闇を恐れ焚火でも熾そうものなら、誘蛾灯のように悪しき者を引き寄せる。野盗を筆頭に、ならず者の集団や、アンナのように生き残るために手段を選ばない連中だ。奴らの方がゾンビよりも遥かに性質が悪い。
テールランプも割っているので闇に同化しているはずだ。それでも、口の周りを赤く染めたアンナの姿がこびりついて離れず、何度もバックミラーを確認してしまう。
『生きることは奪うことに他ならない。世界は何も変わっていない。ただ、より露骨になっただけだ』
不意にマークの言葉が甦る。自分に言い聞かせるようにことあるごとにこの台詞を口にした。それはもはや祈りだった。しかし、祈りも回数を重ねるごとに陳腐化し、やがては奪略した後の言い訳程度でしかなくなった。
奪わなければ死ぬ。それがわかるだけに咎めることができなかった。実際、マークが手を汚さなければとっくにお陀仏だった。
(生き残ったところで何がある?)
砂を噛むような食事を終える度にその疑問がのど元までせり上がってきた。しかし、すんでの所で呑み込んだのは、何があってもマークがピックを手放さなかったからだ。口には出さなかったが、あいつがもう一度ステージに立つのを夢見ているのは明らかだった。
死ねない理由ができると罪悪感が薄れた。そして、『生き残るため』との言葉を免罪符にすることにも慣れていった。だから、忘れていた。罪には罰が与えられるということを。
ギリッと歯軋りし、目の前の闇を睨む。すると、突如光に射抜かれた。
咄嗟にハンドルを切ると、脇腹をかすめるようにして対向車が過ぎ去った。バックミラーに遠ざかるテールランプが映る。
思わず額を拭う。車が飛び出してきたのは我が家へと通じる小道からだ。紙一重で正面衝突を免れたのは運でしかない。まさに間一髪だ。跳ねあがった鼓動がおさまるまで待ち、相手が戻ってこないのを確認してからハンドルを切った。ドライブウェイに尻から突っ込み、ガレージを開けるために降りる。
違和感が言葉となる前に足が反応した。次いで思考が追いつく。
(閉めたはずだ……)
それが洞のようにガレージが口を開けている。
その事実と、飛び出してきた車が結び付く。そこから導き出される答えは一つしかない。
それは斧で叩き割られ半壊した玄関を目の当たりにし確信に変わった。
ドアを軽く押す。大して力を入れたつもりはないのにやけに大きな軋みと共に開いた。
誘われるようにして足を踏み入れる。
妹は玄関脇で、両親は台所と風呂場でそれぞれ息絶えていた。賊はゾンビの処理に慣れていないのか、顔や体のあっちこっちに刺し傷が散見される。
(心臓を一突き。それで済むのにな)
三人をリビングに並べて横たえる。
ソファーに深く腰を下ろす。窓から差し込む月明かりが遺体を神々しく照らす。
涙は流れない。三人の死よりもその事実の方が悲しい。
無事だったグレッチを手に取り、鎮魂歌を奏でようとしたが、四弦が切れているため、物憂いアルペジオはすぐに途切れた。
衝動に任せギターを床に叩きつける。砕け散った木片を蹴散らし、最低限の身の回り品と、愛器であるゴールドトップのレスポールをハードケースに仕舞い、電池で駆動するギターアンプと共に車に積み込んだ。
ガレージから灯油缶を抱えリビングに戻ると、死体を中心にまき散らした。机に置かれた新聞紙を手に取り、記事を一顧だにすることなく着火する。それを火種に煙草に火をつけ、次いで足元に投げ捨てた。瞬く間に炎が大蛇のようにのたうち室内が昼間のように明るくなった。
三人に火が燃え移る。同じようにわが身もくべるべきではないかとの問いが脳裏で爆ぜる。
数歩踏み出す。熱も痛みも感じない。内部も氷のように冷めたままだ。この程度の炎では溶けない。それがわかると、俺は踵を返した。