第十二話 元英雄候補の迷い
「秩序神クラタイ、運命神ヤ・マーサ、戦神ミーター。これがツールスの三柱神じゃが、ワーダルはかつて、これら三柱と並び、四柱神の一柱であったと言われておる女神じゃ」
老婆キリーが、しわがれた声で語り始める。
「しかしもともと、四柱の神々の中では強い神ではなかったようじゃ。信仰も北東部のみだったようでな。司るのは偶然と鎮魂」
「偶然と鎮魂?」
おかしな取り合わせだ、とイーガンは思った。
「運命の女神ヤ・マーサの妹だったと言われておってな、かの女神と同じように、偶然をあやつり冒険者の運命を動かす神であったようじゃ。と同時に、捨てられた魂を鎮める女神であったとされておる」
「ふうん……」
「まあ、正確なところはもうわからぬ。ワーダルは他の神々によって追放されてしまった神じゃからな」
「なぜ、追放されたんだ?」
「それも全く伝わっておらぬ。ただ、ある時ワーダル信仰は禁じられ、女神像の顔は何者かに削られたのじゃ。正確な時はわからぬが、数百年は前のことであろうの」
「なるほど……」
イーガンは頷いたが、内心では少しも納得はしていない。三柱神と並ぶ神がいた、などという話には何の根拠もなく、実にうさんくさかった。
「ヒヒヒ、微妙な反応じゃの。まあ、正直あたしも、ワーダルがどんな女神だったかなんてどうでもいいんじゃ。大事なのは、この石像のみに、彼女の加護がまだ残っておるということなんじゃよ」
「おいおい、僧侶としては問題発言だな」
「構わんわい。世界にワーダルの僧侶はあたしだけじゃ、女神本人だって気にせんわい、たぶんな。とにかく、ワーダルの加護というのは、受けられる者は限られておるが、相当に便利なんじゃぞ?」
最後のほうはわざとらしくヒソヒソ声になり、キリーはまたヒヒヒと笑ってみせた。
最初の印象とは違い、この老婆は相当現実的であけすけな性格のようだ。イーガンの警戒心は、少しずつ薄れてきていた。
「じゃあ、そろそろ具体的に聞こう。どんな加護なんだ?」
「まあ、受ける者によってかなり違うんじゃが、おまえさんの場合は、加護を受けるとまず、頭の中に<色>が思い浮かぶようになる」
「色?」
「そう。色じゃ。複数の色が浮かぶんじゃ。その色数は人によって違うがの」
「ははあ……」
全くイメージが掴めず、イーガンは曖昧な相槌をうった。
「そして、その色に変われ、と念じることによって、別人になることができるのじゃ。」
「別人になる? なんだそりゃ?」
「他の者から、別人と見られるようになるということじゃよ。おまえさん本人には何の変化もないように思えるじゃろうが、この加護を受けてない人間からは、完全に別人だと思われるのじゃ。絶対にバレはせん」
「ちょ、ちょっと待て。それは……危険すぎる加護だ。犯罪し放題じゃないか!」
「安心せい。この加護は、トラーシュとその周辺でしか働かん。この像からある程度離れれば消えるのじゃ」
じっと聞いていたジルヴィもつけくわえる。
「そしてもうひとつ、同じ加護を受けている者は騙せないのです。だから、このトラーシュの警備隊員の一部や、役人の一部……私や副市長も、ここで祈って加護を受けているのです。万が一不正が起きても見抜けるように」
「ああ、なるほど……」
「その上でさらに慎重に慎重を重ね、ここで働いてもらう人物は元英雄候補かそれに近い冒険者、それも前職の人に推薦してもらう形で、信用できる選ばれた人を少数精鋭で採用しているのです」
テスタロンではアダに絡まれ一緒に酒を飲んだだけなのだが、あれは選ばれたということになるのだろうか。
「とりあえず俺は、その人物チェックには合格したということか」
「まあ、そういうことじゃ。副市長の評価はかなり高いようじゃぞ? さて、もうひとつ、この加護の凄いところは、色を念じて別人になっておるあいだ、おまえさんたちが何かの理由で失った力が、少しだけ戻ってくるということじゃ。全てではなく、ほんのわずか、らしいがな」
「……なんだと?」
「そして、たとえ殺されても、その色が消えるだけで、おまえさんたち本人には何の影響もない。逆に、誰かを殺すということもできぬがな」
とても信じられない。
「これは間違いなく本当のことじゃよ。おまえさんの前任のアダは最初、三十七もの色を持っておったが、冒険者と戦うことをひたすら楽しんでおったわい。むろん、最後は倒されるわけだが、痛みも本来の何十分の一しかないらしくての、それも楽しくて仕方なかったようじゃな。歯を剥き出して笑っておったよ。殺された数分後には本人に戻り、健康には何の問題もないと実証ずみじゃ」
「だが、全ての色が消えたらどうなるんだ?」
「おまえさんはアダに会ったじゃろ? あれが色が消えたあとの姿じゃよ。元気だったじゃろ?」
「ああ……」
イーガンは王都でのアダの記憶を思い返してみた。何かが脳裏をかすめた気がしたが、それが何かは思い出せず、結局頷いた。
「どうじゃ。ワーダルの加護が便利なもんじゃと、納得してもらえたじゃろ」
「代償はないのか?」
「ない、と言っていいんじゃないかの。少なくとも大きな文句は聞いたことがないわい」
「…………」
「どうじゃ、この石像に祈って、加護を願う気になったかね?」
イーガンは長い間、石のように動かず考え込んだあと、首を振った。
「とりあえず、保留だ。今日は、この像に祈ることはしないよ」
「慎重じゃの。……。言っておくが、加護を受けたからといって、トラーシュの面々がおまえさんに何かを強制することは、いっさいないぞ」
「ああ、わかってる。それでも、だ。正式な返事は、二三日考えてからする」
フードの下の老婆の口が、ちょっと呆れた感じで軽く開いた。
「……ま、ええわい。この教会と神像はいつでもここにあるでな。心が変わったら来るがええ」
「すまんな」
キリー司祭に軽く頭を下げると、イーガンは暗い廊下を出口のほうへ戻っていった。
★☆☆☆★
「なぜ、断ったんですか」
トラーシュ城の前を歩いていると、前を行くジルヴィの声が聞こえてきた。
「断ってない。保留しただけだ」
「でも、断るおつもりですよね」
「…………」
ジルヴィの歩調は変わらないが、肩が少しだけ揺れた。ため息をついたらしい。
「はるばる、この町まで来たのに。なぜです?」
「臆病者なんでね」
「…………」
返事がかえってこないので話は終わったのかと思ったら、すこし間をあけて、またジルヴィの声がする。
「いままでの人は、ほぼ全員、すぐに飛びつきましたよ。アダさんも、その前の人も。みなさんここに来たときには、傷ついて、自暴自棄になっていて……。別の自分になれ、かつての力を少しでもまた振るえると知ると、全く躊躇しませんでした」
立ち止まると、半分振り向いて、横目でイーガンをじっと見た。
ああ、それはわかる、と思う。
元英雄候補や落ちぶれた有名冒険者たちの多くは、イーガンと同じように、自分の能力が行き止まりだと知って絶望したのだろう。
全盛期に近い力を一瞬でも振るえるなら、その絶望をいっとき忘れることができる。
そして別人になる。別の人生を演じ、もう難しいことは考えず、町に溶けるように生きてゆく。
イーガンの中にも、その願いはあった。あの、首都の南の名も忘れた農村で眠れぬ夜を過ごした頃から、ずっと心の底に息づいている衝動が。
「……貴方は違うように見えます。昨日も、今日も、一貫して落ち着いていて冷静で……そしてまだ、欲をなくしていない」
ジルヴィの薄い翠の瞳が、眼鏡ごしにイーガンを見つめている。
そういう彼女は、もしかしたら、見かけほど冷静なタイプではないのか、とイーガンははじめて思った。こんな城門の真ん前で、観光客に見られながらする話ではない。
「最初に貴方を見たとき、場違いな人が来たな、と思いました。まるで、冒険者が出張に来たように見えましたから。身体にも気持ちにもどこか張りがあって、油断が見えなくて。さすがは英雄候補武闘大会四位。とても、こんな田舎町で小悪党をやってくれるようには見えなかった。率直なところ、これはだめだ、と思いました」
彼女が初対面のとき無意識にのぞかせたわずかな失望は、そういうことだったのか。謎が少し解けた。
「でも、ワーダルの加護には興味を持っていただけると思ってご案内しました。それをああもあっさりと断られると、私たちとしても、もうお手上げになります。どうして、加護を受けないんですか? ワーダルの加護だけ受けて、チンピラのお仕事は断っていただいてもいいのに。貴方ほどの冒険者になると、私たちの町のとっておきの秘密は、それほど価値がないものですか?」
ジルヴィはいまや、イーガンをきっと睨みつけている。
(ええー? いや、君は俺を勘違いしてるよ……。 ド田舎の村の青果店の息子だぜ? そんな、田舎町を見下すようなご立派な人間じゃないっての……。)
そして、加護を受けるのをためらった理由も、けっして自分が強くて冷静だからではなかった。
さっきまで、自分でも気づいていなかった。あの闘技場の物置の体験以来、イーガンは、自分の中の何かをいじられることに、総毛立つような拒否感を持つようになっていた。
だが、自分の生まれ育ちや、そういった事情を、目の前の女性に説明できる気がしない。すらすらと言葉が出て来るようなら、二十八まで独身でいない。
「さっき言ったのは、本音だ。俺が迷っているのは、臆病者だからだよ」
結局、そう言うのが精一杯だった。
「……そうですか」
ジルヴィはふいっと顔をそむけた。
「私の今日の案内はここまでです。<不朽の大鹿亭>の部屋は、市の費用であと三日取ってありますが、その後は自費で宿泊場所を探していただくことになります。それまでに、いろいろと決断していただけると有り難いです。……では」
一息に淡々と言い切ると、返事を待たずにつかつかと歩み去ってゆく。その後ろ姿をイーガンは見送って、がりがりと頭を掻いた。
「怒らせちゃったー?」
耳のそばで声がして、びくりと横を向く。いつのまにか城門担当のグレイブルが立っていて、ぽんと肩を叩いてきた。
「まあ、今夜じっくり話を聞かせてよ。下町のいい店に連れてくからさー!」
「あ、ああ、うん……」
やけに友好的な警備隊員に、イーガンは引きつった笑いで応えるしかなかった。