第十一話 元英雄候補の散策
「ご気分が優れないようですね」
ジルヴィは眉をひそめてそう言った。
いまは午前十時、彼女は「不朽の大鹿亭」店内のテーブルのそばに立っている。
テーブルにはイーガンが座っていて、青い顔で朝食のパンをもそもそと食べていた。
「ゆうべ、食事をしに下に降りたら、警備隊の人たちが待っててね……。飲まされた。……厳しかった」
「ああ。どうせバーウッド副長でしょう?」
「……うん」
ジルヴィの低い冷静な声が、いまは頭に響かないのでとてもありがたい。
イーガンは酒好きだし、かなり強いと自負しているが、昨夜会った警備隊の面々は桁外れだった。
丸っこい体格に丸顔、つねに豪快に笑っているバーウッドという副隊長。
右頬にひきつれたような傷がある、見るからに渋いヴァイスという痩身の中年の男。
気が短かそうなボブという若い男。そして昼間会った広場担当のメイスト。
いずれも獣人だったが、みなおそろしく酒が強かった。ただし唯一、ダンだけはワインを数杯飲むと寝てしまったが。
話題はアダの思い出話から、町の人々の噂、ヴァイスの娘さんの話など、いかにも酒席らしく一貫性なく移り変わり、その合間に「これも美味いぞ」「この酒は強いが最高だ」などという言葉とともに目の前にグラスが置かれ、やがて目の前にグラスが乱立し、それをいちいち感嘆しながら呑んでいるうちに記憶が吹っ飛んだ。
まあしかし、おおむね最高の夜だったといえる。二日酔いは最高の夜にたいして支払うべき対価だった。
「ワーダル教会の都合もありますので、予定の変更はできれば避けたいのですが」
ジルヴィはあくまで冷淡だった。
「わかってる。大丈夫。こんなのは……慣れっこだ」
そうは言っても、きついものはきつい。
なんとか朝食を腹におさめ、水を何杯か飲み、ジルヴィに続いて外に出ると、小春日和のさわやかな空が睡眠不足の目を攻撃してくる。
目をしょぼしょぼさせながら、イーガンはジルヴィのあとをとぼとぼとついていった。
★☆☆☆★
市庁舎広場は朝でも人が少ない。
ときおり馬車が走りすぎてゆく他は、歩行者は数えるほどしかいない。
広場の中央の小さな噴水の前に立ち、ジルヴィは南東方面に伸びる通りを指差した。
「この通りの先に、トラーシュ城があります。城というより館ですが、町の者は慣習でお城と呼んでいますね」
「その城に、ワーダル教会もあるんだな」
「ええ。では、行きましょう」
二人は今日もそれきり言葉をかわさず、朝の空気の中を縦に並んで歩いていった。
街路樹の葉はみな落ちて幹だけが並んでいる。
寒々しい景色にも見えかねないところだが、道の石畳が美しく、家々も古いながら風情があった。
(うん、やっぱりこの町はきれいだな。このへんは観光客もそれなりに歩いてる……。城を見に行くのか?)
十五分ほど歩くと、道の向こうに、斜めの角度で建つ大きな館が見えてくる。
領主の館にふさわしい華麗さはいっさいなく、大きな灰褐色の塊のように見える。
赤い屋根の尖塔が、かろうじて城らしさを醸し出していた。
(地味な建物だ……。それに、何か妙に壁が凸凹してないか?)
館の前に到着するとそこは広場になっていて、十数人、観光客らしき人々が集まっている。
ここでも真冬だというのにカフェの外にはテーブル席があって、飲み物を啜りながら城を眺める人もいた。
集まった人々はみな、やや目線をあげて城館のほうをぽかんと見ていた。
その目線を追って、はじめて正面から城館を見て……イーガンも思わず口を開けた。
トラーシュ城の正面には塀がなく、たしかに城というより館だった。だが問題は、そこではない。
館の重厚な扉の上に、おそろしく巨大な牡鹿の頭がある。
扉より大きい。というより、城の正面の壁の半分ぐらいは、石で出来ているらしい鹿の頭の浮き彫りで占められていた。
頭の両側に枝分かれしながら広がった角の横幅は、人間を寝かせて並べて十人分ぐらいはあるだろうか。
角の上のほうは城館の屋根あたりまで伸びていた。
この鹿のせいで館の正面には窓が数えるほどしかなく、建物全体が巨大な鹿の頭の剥製のようだ。
突き出した鼻から口は、扉の上で深く長い庇になっている。
石の巨大鹿はじっと目を閉じ、瞑想しているように見えた。
「これは……なんだ?」
イーガンは思わずつぶやいた。
「人間がここに住む前、この北東の地を支配していたという<大鹿王スタグストウ>の浮き彫りです。豊穣をもたらすと言われている自然の守護者ですね」
ジルヴィは久しぶりに口を開くと、たんたんと解説する。
「そうか、昨夜の宿屋の名もこれから取ったのか。不朽の大鹿、か……」
イーガンがうなずいた時、横から声がかかった。
「アダのかわりに来てくれた人かい? こんちはー」
見ると、赤黒い顔をした太めの若者が、ニコニコしながらこちらへ来る。
緑色の制服を着ているので、どうやらダンたちの同僚のようだ。
「おいらはグレイブル。城門担当の警備隊員だよ。昨日は副長と飲んだんでしょー。おいらも誘われたんだけど、行けなかったんだー。残念だなー」
なにげなくこちらに歩いてくるが、身体が非常に柔らかいらしく、ふわふわした足取りには掴み所がない。
実は相当強いのではないか、とイーガンは感じた。
「グレイブルさん。こちらはイーガン・ロックエルさんです。すみません、ワーダル教会に行かなくてはいけないので、今はこれで失礼します」
ジルヴィがイーガンの代わりに、手早く紹介する。
イーガンは話すタイミングを逃して、「よろしく」とひとこと言っただけだった。
「そうなんだ。んじゃまたねー」
グレイブルは気にした様子もなく、ニコニコ微笑んだままゆったりしたしぐさで詰所に戻っていった。
「さて……では教会に向かいます。こちらです」
ジルヴィは館ぞいに北へ歩きだし、イーガンはまた後ろから黙ってついてゆくことになる。
昨夜から、彼女の後頭部の渦巻きばかり見ている気がする。
視線を下に落とせばそこにはお尻があるのだが、目をやることは自制していた。
トラーシュ城の北西の角まで来ると、人が二人並ぶと通れないほどの細い道が、城館の横の壁沿いに伸びているのが見えた。
ジルヴィはすたすたとその小路に入っていく。
おそらく先で行き止まりになっている、ほとんど使われていない路地なのだろう。道を一本入っただけで昼間とは思えないほど暗くなる。
「こんなところに教会があるのか?」
「ええ。ワーダルはこの町ですら、あまり知られていない神ですから。参拝する人もごくわずかです」
埃っぽい匂いのする小路を数分歩くと、右側の館の壁に扉があるのが見えてくる。
ごく普通の、小さな木の扉だった。
「ここがワーダル教会の入り口です」
「……通用口じゃなくて?」
「はい。現在、トラーシュ城の内部に入れるのはここからだけです。正面の扉は固く閉じられ、何十年も開いたことがありません」
「裏のほうは?」
「裏庭があり塀がありますが、魔術結界が張られていて誰も入れませんね。さ、入りましょう」
扉の向こうは真っ暗な廊下だった。
どうも教会を訪れようとしているというより、盗賊かなにかの隠れ家を訪れているような気分だ。
廊下を抜けると、そこにはロウソクの光でほのかに照らされた小部屋があった。
部屋の奥には、中央広場の像と同じ、小脇に水甕をかかえた女性の石像がある。やはり顔はノミかなにかで無残に削り取られている。
横に、ローブを着てフードをかぶった小柄な人物が立っていた。
部屋には石像と、その人物以外何もない。部屋の四方に燭台が立つだけのがらんとした空間だった。
「ここがワーダルの教会です」
ジルヴィの言葉は、イーガンの耳に入っていない。
フードの人物を凝視したまま固まっていた。
(こいつ、似ている……。あの若い男と一緒にいた、ヴェールの女と……。)
マルト、と呼ばれていたあの女のことを思い出すだけで、イーガンの身体は震えだしそうになる。
(騙された……! この教会は、あいつらと同類の何かだ……!)
イーガンはじりっと後ずさり、いま通ってきたばかりの廊下の入り口に位置をずらした。
いつでも走ってここから逃げられるようにだ。
「イーガンさん?」
ジルヴィが訝しげな声を出す。つづけて、しゃがれた老婆の声が聞こえてきた。
「ヒヒヒ、警戒されてしまったかね……? まあ、怪しい感じじゃからのう、無理もないわい」
フードの人物は腕を組み、両肘をさすりながら笑い声を挙げた。
「あたしゃキリー。キリー婆さんとか呼ばれとるわい。失われかけた神の僧侶とかやっとるが、ただのババアじゃよ。警戒されるのは光栄じゃが、あんたが怖れるような相手じゃないわい」
愉快そうなガラガラ声を聴いているうち警戒心は少し緩みかけたが、あの時の記憶は、まだなまなましく残っている。身体は戦闘態勢のままだった。
「イーガンさんが気が向かないようでしたら、今日は礼拝を中止しましょうか」
ジルヴィが平坦な声でそう言った。
「臆病者め」という響きを勝手に聞き取って、イーガンは鼻白んだが、おかげで少し冷静になれた。
ここで立ち去っても何にもならない。まずは情報を得なくては。
「礼拝するかどうかは、話を聞いてから決めたい。まずは、ワーダルのことについて聞かせてくれないか」
「もちろんええぞい。筋金入りの冒険者じゃな、疑り深いのはこいつらの職業病よ、ヒヒヒ!」
キリーと名乗った老婆のしわだらけの口が開いて笑い出すのを見ながら、イーガンはまだ身構えたままだった。