第九話 元英雄候補の面会
トラーシュ市庁舎は、屋上が半球形のドームになっている三階建てで、外見はそれなりに立派だったが、中に入ると天井が低く、およそ飾りっけのない、ひんやり底冷えするような建物だった。
入り口ホールの長椅子にイーガンを座らせると、「じゃあ、担当の人呼んできます!」とダンは跳ねるような足取りで中に入っていく。
さほど待つこともなく、ダンを後ろに従えて若い女性がイーガンに向かって歩いてきた。
どこかの屋敷で家庭教師をやっていそうな、堅物で厳格そうな女性だ、というのがイーガンの第一印象だった。
中肉中背、亜麻色の細い髪を後ろで束ねてかっちりしたシニヨンにまとめ、前髪は真ん中から分けて額を出している。
ふちの細い眼鏡をかけていた。
高襟の白いシャツに胸元の深緑のブローチ、黒い仕立てのいいジャケットを着て、イーガンには呼び名がわからないが、裾が少しだけ拡がった黒いズボンのようなものを履いている。
裾の横が膝のやや下まで切れているので、黒靴下の上のふくらはぎが歩くたびにほんのわずかに覗く。
全身で有能さと物堅さを演出しているのに、そのわずかな露出だけがやけに艶めいていた。
背を伸ばしてつかつか歩く女性の後ろで、ダンは先ほどより少しだけしょぼくれた顔をしている。
おそらく何かで叱られたのだろう。
女性の鮮やかな翠色の瞳がイーガンを捉え、わずかに失望が浮かんだ気がした。
(こういう反応には慣れている。美男でもないし切れ者にも見えないからな。)
イーガンは冷静にそう考えながら、彼女の瞳の冷たさに、この女性との付き合いはなかなか難しそうだ、となんとなく感じた。
「ようこそ、トラーシュへ。イーガン・ロックエルさんですね?」
イーガンのそばまで来ると、女性は落ち着いた低めの声でそう言ってにこりと笑ってみせたが、そこに温度らしきものはなく、作った笑顔なのは即座に見てとれる。
間近で見ると肌はやや青白い。細い眉、眼鏡の奥の切れ長の目、控えめで鼻梁の細い鼻。形だけ微笑みを作っている唇はほとんど赤みがない。
最初の印象が間違っていたことにイーガンは気づいた。
三十前ぐらいかと思っていたが、こうして見ると二十歳をいくつか過ぎたぐらいだろうか。
全体的に造作も色素も薄くて透明感がある。細工物のような繊細な顔立ちに、イーガンは思わず見入りかけ、我に帰ってあわてて答えた。
「ああ、イーガン・ロックエルだ」
丁寧な口調になりそうになったが、思いとどまった。
冒険者稼業をしていると、初対面では下手に出過ぎるのは禁物だと思い知るようになる。
「冒険者証と、私どもが託した手紙をお見せいただけますか」
イーガンが黙って渡すと、女性は眼鏡に手をやり、やや目をすがめて、じっと二つの品を見ていたが、ほっ、とかすかに息をついた。
「ありがとうございます。貴方はたしかに、元英雄候補、武闘大会四位のイーガン・ロックエルさんのようです」
「ああ、信じてくれてありがたい。街門では信じてもらえなかったからな……」
「あ、あ、イーガンさん、それは言わないでください! いま、それで怒られちゃったんですから……。なんで僕が……」
ダンが後ろから声をあげる。
「ダンに怒ったんじゃなくて、バーウッド副長に伝えてほしいことを、ダンに向かって言っただけよ?」
「なら、副長に直接言ってくださいよう。僕が怒られた気分でしたよ、もう……」
女性は言い過ぎちゃったかな、という顔をして、「ごめんね……」と小声でダンに謝った。
「いいんですよ! じゃ、僕帰ります! イーガンさん、これからよろしくお願いします! 冒険のお話きかせてくださいね!」
ダンはにぱっと笑うと、元気よく一礼して、市庁舎を出て行った。
「気持ちのいい子だな……」
「ええ、警備隊の期待のルーキーで、もう町の人気者ですよ」
女性がダンを見送りながらはじめて自然な表情で微笑むのを、イーガンは椅子に座ったまま見上げていたが、この位置関係はまずいと気がついて立ち上がった。
見下されていては、対等な会話などできない。
「さて、これからどうすればいい?」
イーガンが目の前に立ったことで、女性の瞳は少し圧倒されたように揺れた。が、一瞬後にはそれを抑えこんだ。
「副市長にお会いいただけますか。どんなお仕事をお願いしたいかも、副市長からお話しさせていただきます」
「わかった」
「では、ご案内します」
女性は背を向けようとして、はっ、と何かに気がつき、イーガンに軽く頭を下げて言った。
「申し遅れました。私、副市長の秘書を務めております、ジルヴィ・セクレストと申します」
「ああ、よろしく。こちらは一介の冒険者だ。丁寧な言葉はいらないよ」
イーガンの返事にジルヴィは何も言わず、全く表情を変えずに軽く会釈すると背を向けた。
やっぱりこの人との付き合いは苦労しそうだな、と考えながら、イーガンは彼女について市庁舎の階段を上がっていった。
★☆☆☆★
「副市長のセスタス・ナイトレイだ。トラーシュへようこそ、イーガン君」
ソファの向こう側に座っているのは、重厚な風格を感じさせる壮年の男性だ。
がっちりした身体にゆるみはなく、銀のオールバックの髪の下にある緑の眼は、こちらを観察するようにわずかに細められている。
膝近くまであるビロードの長い上着を着て、襟元を青いスカーフで飾っている。市役所の幹部というより、貴族のような雰囲気を漂わせていた。
副市長の執務室のソファテーブルには、ジルヴィが置いたお茶が出ている。
ジルヴィは副市長の隣に、少し離れてひっそりと座っていた。
「皆さんの歓迎に感謝しています」
君づけか、威圧しに来ているな、と思いながら、イーガンは迷ったあげく、丁寧な口調で答えることにした。
お茶に口をつける。
美味い、と思った。渋みがほどよく、わずかに何かの果実のような香りがある。
「その茶はトラーシュの特産のひとつでね。高原で育つ果樹の皮を干して作ったものだ。どうかね?」
「ええ、美味いです」
「そうだろう。私はこんな外見なのに、酒がまるで駄目でね……。かわりに茶道楽なんだよ、ハハハ。……っと、雑談はこのくらいにして、本題に行こうか」
滑らかな口調といい雑談から始める手口といい、世慣れた相手なのは明らかで、まるめこまれないよう注意しなくては、とイーガンは身構えた。
「君はアダから、この町での生活について情報を得たかね?」
「いえ、ほとんど何も。住みやすい町だ、というぐらいです」
セスタスは満足そうに頷く。
「アダは約束を守ってくれたようだね。なにしろ、この話はいささか誤解を招きやすい。私から話したかったのだよ」
ゆっくりとカップを持ち上げて茶を飲むと、セスタスは足を組んだ。
「まず、イーガン君、君は、このツールス王国が、ある一つの使命のためにある、という話を聞いたことがあるかね?」
「ええ、まあ、英雄候補をやっていたので……。<英雄>を生み出すために、この国はある、という話は時々」
ツールス王国の北西の国境にはアプデイルという大きな町があり、その向こうは「魔境」と言われる、魔の者たちの徘徊する地帯になる。
魔の頂点に立つ「魔神」たちを倒すことが人類の悲願であり、そのために「英雄」を育て、魔境に送り出すのがツールス王国の使命とされていた。
いままでに二十人余りの「英雄」が、アプデイルから魔境へ旅立っていったという。
「ツールスには、英雄を育てるという目的に特化した町がいくつかある。その代表が、ツールス第三の町、ジェネレだな。冒険と迷宮の町と呼ばれ、冒険者の聖地となっている」
「ええ、俺も二度ほど行きましたが、すごい賑わいでしたよ。あの町はまさに混沌だ。日々、新しい逸話が生まれ冒険譚が生まれていました」
「……うむ」
自分でジェネレの話をふっておきながら、イーガンの答えにセスタスはむっつり顔になった。
「そして実はな、このトラーシュは、ジェネレを補佐する役目を負っている町なのだ。英雄候補になりかけの者や、英雄候補になりたての者が、比較的良好な環境で冒険し、力をつけてゆく舞台だったのだよ」
「ほう……そうだったんですか」
ジェネレはトラーシュから徒歩で一週間ほど南に下ったところにある。
たしかに、ジェネレへの登竜門としてはいい位置にあるといえた。
「ということは、この町には迷宮があるんですね」
「うむ、ある」
「ほう……」
しかしそれなら、トラーシュはもう少し有名になっていてもいいのに、とイーガンは思った。
魔物を無限に生み出す迷宮は、冒険者にとっても、冒険者を迎える都市にとっても尽きない宝の山のようなものだ。
それなのにさっき歩いてきたこの町の様子は、穏やかではあるがあまりにも鄙びていた。
「迷宮はたしかにある。あるが……うほん、実はな、このトラーシュの迷宮は、入り口がどこにあるのか、わからなくなっているのだ」
「ええっ!? そんなことがあるんですか?」
「うむ、なぜそうなったのか、詳しい事情すらもうわからなくなっている。なにしろ数百年は昔のことだ。以来、多くの人間が必死に探したが、いまだに見つかっておらんのだよ」
「ははあ……。で、俺に、その入口を探せと……」
「いや違う。これまで何人もの高名な冒険者に探させたが、全て無駄だったのだからね。そうではない」
セスタスは腕組みを解いて、うほん、と咳払いをする。
「君に頼みたい仕事だが……」
トラーシュ市副市長は、苦笑いしているような、それでいて苦虫を噛んでいるような、なんとも微妙な表情になって、こう言った。
「君には……この町専属の小悪党……つまり、チンピラになってほしいのだ」