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交錯する想い、嵐の前夜。

 グラスに口を付けようとして何を思ったのか止めて、山羊の黄カビチーズからおもむろにナイフを抜いたティスはそのナイフをかざして眺めた。

 その様子をラピズは傍らに腰掛けて黙って見ていた。

 グラスに注いだ甘い酒を舐めるように飲みながら、ティスの次の言葉を待っているようだった。

「このナイフは頂き物ですか?」

 ティスはそう聞くと、その投げナイフでチーズを削ぎ始めた。

 銀色の柄、金色の刃の短刀は鋭く研ぎ澄まされていて抜群の切れ味だった。柄には彫物の飾りが施されていた。彫物は2頭に分かれた鷲と流れる滝の文様だった。

「そうよ」

 ラピズは削がれたチーズを摘まんで口に運んだ。ティスはそんな些細な仕草ですら気品を感じさせるラピズに胸が疼いた。

「このナイフをラピズに贈った方がラピズの片想いの相手…ですか?」

 ラピズはチーズが残っている口へ琥珀色の液体を流し込み、赤く充血して来た瞳でティスを見た。その表情が柔らかく口元に笑みが漂うのは、酔いが回っている所為だったのかもしれない。

「そうだって言ったら、ティスはどう思うの?」

 ティスはチーズの塊に再びナイフを突き刺すと、その見事な飾り柄をラピズの方へ向けた。

「いえ、私は何とも思いません。誰が誰を好きになるかなんて、止めようもないですから」

 そう言うと、グラスの酒を一息に飲み干してしまった。炭酸水で割ってあるとは言え、アルコール度数は高い酒だ。喉から胃まで焼けつくような感じがして、その後に口腔内に薔薇の香りと甘い味がふんわりと広がった。

 そうだ。自分だって。ラピズに初めて会って、雑談をしたり手合せをしたりしている内に好きになってしまった。恋に落ちる瞬間も、恋に落ちてからのスピードもとても速い気がしていた。

 今、こんな風にその好きな相手の部屋で酒を酌み交わすことになろうとはつい200日前なら思いもよらなかった。それもこれもジルギス閣下とガーシニア閣下の2人の将軍のお陰だと改めて思い返す。

「ティスの好きな人って、この城内にいる人?」

 ラピズのダークブラウンの瞳が揺らめく灯りに透けて見え、まるで皿の上の山羊のチーズと同じ色だと思った。

「それは…、そう、あの、ぐ、軍の関係者です」

 酔っているせいもあってか、ティスは間違いではないけれど思い切りぼやかした言い方をしてしまった。

「軍の関係者?たくさん居過ぎて分からないわね。私のナイフの御方はばればれだったのに」

 ティスは顔を赤くしながら言った。

「ラピズ!誰だってこのナイフを見たらばれますって!」

「ええ、まあね。それは否定できないわ」

 ラピズは削ったチーズの細い切れ端を摘まんでは食べ、摘まんでは食べている。

「この蜂蜜薔薇酒はジルギス閣下が漬けたものよ」

 そう言って更に酒を自分とティスのグラスにストレートで注いだ。

「え?ジルギス閣下が、ですか?」

「そうなの。ジルギス閣下からの頂き物よ」

 ティスは凝った造りのガラスのボトルに詰め込まれた蕾を覗き込んだ。

「あ、もしかして、これって…」

「そう、南の城の庭園に咲いている食用薔薇の蕾なんだけどね」

 言葉を切ってその薔薇酒を少し舐めた。舌で酒を少しだけ掬うラピズに妖艶さを感じて、ティスは背筋がぞくぞくした。

「薔薇を摘んだのはうちの閣下らしいのよ」

 思わず酒を吹き出しそうになったティスは必死で堪えた。

 すぐにティスの頭にはジルギスにカゴを渡され、一生懸命に庭で新鮮な蕾だけを摘んでいるガーシニアの姿が浮かんだ。しかもカゴが一杯になる前にジルギスに持って行き、

『全然足りないじゃない、こんなんじゃお酒を漬けられないでしょ!』

 と叱られたガーシニア閣下の情けなくとぼとぼ庭園へ再び向かう様子までが見えた。

「閣下らしいですね。きっとよく働いたんでしょうね」

 ティスは頷きながら口の中の酒を飲み干し、ピンク色に輝く流星砂糖菓子を口に入れた。

「それがね、ジルギス閣下が庭の食用薔薇をどうすればいいか相談したら、自分でカゴを担いで取りに走って行っちゃったんですって」

(そっちか!)

 ガーシニアの場合はそういう事もありうるのだ。

 ジルギスにお願いされたのならいう間でもなく、張り切って薔薇園へでもどこへでも飛んで行ってしまいそうだった。

 ティスは思わず笑ってしまった。

「不思議じゃない?」

 ラピズは3杯目を飲み始めた。

「え?何がですか?」

「閣下がジルギス閣下に逆らわないこと」

 ラピズの言葉を聞いて急に心臓が早鐘のように鳴りだした。

(この事はラピズにも言ってはだめよ。だって誰にも知られてはいけないのだから。もし秘密がばれたら、アルはクビよ。いいわね)

 あの時のジルギスの言葉がティスの頭の中を駆け巡る。忘れようと思っても忘れられない言葉だ。

「…そうですよね。過去に何かあったとか…」

 喉の渇きが激しくなって来て、自分でグラスを作り始めた。

「んん、そうね。あの2人には何か違うものを感じるのよね。やけに息が合うし、話さなくても分かり合えるみたい。ああ、これは伝令とは違うのよ」

 ラピズは酔いが回ってきたようだった。ティスは頷きながらも黙っていた。

 まさか将軍2人が婚姻関係にあるとも明かせない。でも結婚しているからと言ってあんな風に理解し合えるものなのだろうか。しかも長い間一緒に暮らしたことがないとガーシニア閣下は言っていた。そんな結婚もあるのだろうか。

 それなのに、2人っきりでいる時にはガーシニアはまるで初恋の相手みたいにジルギスにベタ惚れで目も当てられない。ガーシニアが捕まった時のジルギスの心配する様子も同じだった。ガーシニアのことで頭が一杯で居てもたってもいられないほどイライラしているジルギスを初めて見たことは驚きだった。

「閣下が好きな人ってジルギス閣下かしら?」

 ラピズのペースが速い。もう4杯目が底を尽きそうである。ティスのグラスにも酒を足して作ってくれた。

「え!ま、まさか!いくらなんでもそれはないんじゃ…」

 グラスを渡されながらティスの動悸は増々激しくなってくる。気付かれた?いや、何も言っていない筈なのに。

「そう?前からそんな気がしていたんだけど。やっぱり親友ってことなのかしら?」

 ティスは少し首を傾げた。

「親友、かもしれませんが、ライバルかも」

「ライバル?」

「ジルギス閣下はガーシニア閣下と初めて出会った場所が戦場だって仰っていました」

 ラピズはへぇー、戦場かぁと溜息をついた。

 ティスも自分で言ってしまってから考えてみる。戦場で初めて会った2人はどんな出会いだったのか?敵か味方か。それがなんで結婚することになったのに一緒に暮らしていないのか、以前から秘密にしていたのか、は依然として謎だった。

 ざざっという音に気付いてそちらを見たら、ラピズが椅子からずり落ちそうになっていた。

「ラピズ!!」

 急いでラピズを支えた。

「え?寝てます?もしかして」

 ティスは長い睫を閉じている先輩の顔を覗き込んだ。気持ち良さそうにティスの腕の中に身を持たせているだけのラピズは軽く寝息を立てていた。どうしようかとティスは少し焦った。こんなに無防備なラピズを見たことが無い。

 柔らかいラピズの体を抱えて、すぐそこの寝室のベッドに座らせた。そうすれば倒れてもケガをしないだろうと思ったのだ。

 手に握ったままのグラスを取り、テーブルに置いてきてから、ラピズをゆっくりと寝かせた。

「いつもはこんなに酔わないのに。今日はヤケ酒かなぁ」

 酒に強いラピズの酔った姿を直付仲間では誰も見たことがないだろう。異動してから、何回か非番の時など2人で飲んだり、直付みんなで飲むこともあったけれど、ラピズはいつも仕切っているイメージがあった。

 ベッドに赤茶色の髪が広がり白いシーツとのコントラストはティスの胸をぎゅっとしめた。

 目の前に無防備に寝ているラピズを見ていると妙な気分に囚われてくる。早く部屋を出なくちゃ。

 焦ったティスがラピズに毛布を掛けようとした時に自分のナイトガウンの裾をラピズがしっかり掴んでいた。

「!」

 ティスは酔いが急に回ったような気がした。目が回ってラピズの隣にへたり込んだ。

「ねぇ、閣下は明日も帰ってこないし、今夜はティスが私の添い寝役をしてくれない?」

「…ラピズ、それは…、ほ、本気ですか?」

「本気よ」

 ラピズの瞳は酔ってはいなかった。

 ティスは直感で分かったが、自分は既に飲み過ぎてしまっていた。それだけを今、後悔しながら、ラピズの隣にするりと潜り込んだ。


「兵舎で何するの?」

 さすがに手を繋いで公の場は歩けないので、ジルギスは渋るガーシニアの手を解いて先を歩いた。

「部屋に籠っていてもいい案は浮かばないわ。体でも動かしましょ」

 ジルギスは道の途中、少女のようにくるっとガーシニアを振り返ってにこっと笑うと先を急いだ。

 こういうジルギスの何気ない動作は、いつでもガーシニアの心臓をぎゅっと掴んだ。鷲掴みである。

(なんて、可愛いんだ!!)

 と思ってしまう自分に悪態をついてしまう。ヴィースは自分の配偶者ではないか。何を今更。

「どうしたの?怖い顔して」

 いつの間にか兵舎の前まで来てしまっていた。

「え?怖い顔、してた?ごめん、いや、なんでもない」

 ガーシニアは慌てて否定する。

 兵舎では2人の将軍の姿を確認して兵士全員があっと言う間に整列した。

「敬礼!」

「ご苦労様。ガーシニア将軍が是非、兵舎を見たいって」

 ジルギスの台詞にガーシニアはちょっとびっくりしてジルギスを振り返ってから、咳払いをした。

「あー、そうそう。皆さん、ご苦労様です!この中で一番新米兵は誰?」

 ガーシニアが慣れた調子でひと声かけると、隊列の中から進み出た兵が3人いた。

「じゃあ、ちょっとこっちへ来て。私と手合せしてもらおうかな」

 若い男女3人は驚いて声も出ない。当然、他の兵達も同じだ。

 皆、静まり返ってガーシニアを見つめているが、当のガーシニアは帯剣をジルギスへ無言で渡すと既に手頃な偽剣を選んでいた。

「し、将軍閣下と手合せを?実力が違いすぎます!!」

 ジルギスはガーシニアが何を言ってもさして驚いたりはしなかった。渡された帯剣を黙って持ったまま、その行方がどうなるかを側で見守っているだけである。

「大丈夫よ。あなた達は今使っている剣でもいいし、真剣でもいいと思うけど、ねぇ」

 このジルギスの言葉にガーシニアは苦笑した。

「おいおい、私を殺す気かい?」

 手合せは外の闘技場で行う。

 ガーシニアは将軍マントを外し、選んだ偽剣を握って位置についた。

「いいぞ!」

 戸惑いのある若手3人にジルギスは声を掛けた。

「あなた達、3人で位置につきなさい。大丈夫だと思うわ。だって偽剣でしょう?偽剣では彼女を殺せないから」

 女性兵が2人と男性兵1人は対局の位置についた。そこには本来なら1人で立つ筈の所である。

 外野に兵士達が集まって静かに闘技場を取り囲んだ。野次を飛ばす者は1人もいなかった。

 ジルギスは好奇心一杯で他の兵士達に混じって観ていた。

 ガーシニアが言い出すことも、やり出すことにも一々驚いていたらとても彼女と人生など歩めない。だから今回も面白くて仕方がなかった。

 審判役が咳払いを一つして、緊張をほぐそうとした。

「えーごっ、ごほん!!では試合を開始します!」

 ガーシニアは落ち着いて構えた。

 3人も思い思いに構えた。

「構えよし!それでは、始め!!」

 審判役が叫ぶと3人は揃って前へ出た。

 ガーシニアは動かなかった。気で相手の間合いを読み取っているようだ。

 男性兵が奇声を発しながら、ガーシニアに斬りかかった。

 瞬時にガーシニアは最小限の動きですれすれに剣を躱した。男性兵は勢いが付いたまま闘技場の端まで駈けて行った。

 女性兵の1人が掛け声と共に斬りかかって来て、もう1人もガーシニアの横を狙って切って来た。

 ガーシニアは正面の剣を後方へ下がって避け、鮮やかに右に回転し横側の女性兵の脇を取った。

 正面から来た女性兵と後方から先程の男性兵が突っ込んで来て、ガーシニアは上へ飛ぶと、男性兵の後方へ着地し、後ろから取り、続いて正面の女性兵も難なく突きで取った。

「そこまで!」

 審判役の合図と共に、3人の新米兵はその場にへたり込んだ。

 外野は拍手喝采である。頑張った新米兵に対しても、見事な技を披露したガーシニアに対しても、惜しみなく拍手を送った。

「なかなかいい腕をしてるな」

 ガーシニアは座り込んだ新米兵を見下ろして大口を開けて笑った。心から愉快な気分だった。

 ジルギスがガーシニアに将軍マントを付けてやり、帯剣を渡した。

「さすがね」

「どう?良かった?なんて言ってもさ、新米相手じゃかわいそうだったかなぁ」

 ジルギスは微笑みながらそうね、と答えた。

 ガーシニアは3人を個別に呼んで話をしたいと言った。

 ジルギスはどうぞ、と言うと小隊長と話すからと行ってしまった。

 畏まって神妙な面持ちの若い兵を前にガーシニアは相好を崩した。

「まあ、そう固くならず。剣はこれから覚えれば良い。もし3人で息の合った連係を取られたら私も敵わなかったであろうな」

 野外に設置された休憩用の椅子に腰掛けてガーシニアは3人に様々な話を聞いた。

 新米兵の3人は、ほぼ100日前の公募で南の陸軍を受けたと言った。同期兵である。

 男性兵はリック、女性兵で背の高いひょろっした方がカリサ、標準的体型で栗毛を短髪にしている方がシスコと名乗った。

 南軍全3万の内、2万は水軍で残り1万が陸軍になる。入隊には試験が必要で、誰でもなれる訳ではない。それは他の職業と同じである。

 特に将軍はともかく、将軍に直接お仕えする直付は圧倒的な人気職で、一兵卒からの叩き上げしか認められない。直付を狙う兵達は大勢いる。もしかすると全員が狙っている可能性さえあった。

 そのような所以を考えれば将軍が大人気であることも頷ける。南の将軍であるジルギスの軍人らしからぬ優しさと圧倒的な強さ、西の将軍であるガーシニアの人並み外れた行動力と似合わない程の童顔は王国内でも特に人気だった。

 しかし、当の本人達はまったく知らないことというか、気にしていないというか、関心が無かった。

 リックが頬を紅潮させながら話す様子は緊張してガチガチで、思わずガーシニアも苦笑した。

 カリサやシスコの方が度胸はあるようだった。

 とうとうガーシニアは3人に剣の指南を始めた。椅子から立たせ、剣を構え、気を読む。剣の選び方、振り方、その時の足から足への体重移動の仕方。

 夢中になって指導している。

 ガーシニアが熱心に指導しているのを少し離れた場所で小隊長とジルギスは眺めていた。

「ガーシニア閣下は指導に熱心ですね」

 ジルギスより少し年上の小隊長は感心しているようだった。

「ええ、ガーシニア将軍は元々、傭兵隊を率いていたこともあったから、人を纏めたり指導したりするのは好きなようね。子供達にも結界の貼り方を教えたりして」

「子供に、ですか?」

 小隊長は驚いてジルギスを振り返った。

「子供の方が邪念も無く、純粋でいいんですって」

 そう言うとジルギスは目を細めた。ガーシニアが無類の子供好きなのは知っている。それなのに自分達の間には子供を作らなかったのはガーシニアの放浪癖が関わっていた。

(今度こそ観念してもらうわ、アル)

 ジルギスは改めて決心を固めていた。


 一汗かいたガーシニアはすっきりした。さっきまで悩んでいたことなどとっくの昔に忘れていた。

「ヴィース、お湯貸してくれ!」

 城に帰るなり、ガーシニアが騒ぎ出した。暑くて堪らなかったし、汗を掻いて気持ち悪かったのだ。

「もう、バニラが用意してくれたわ」

 ガーシニアが湯浴み場まで行き、脱衣所に到着する前にマントから上着からどんどん脱ぎ散らかして歩くので、後ろから歩くジルギスとバニラはせっせと拾って歩いた。

「ラピズに聞いていますので、驚きませんけれど、」

 ここで一息ついたバニラはジルギスに聞いた。

「ガーシニア閣下は昔からこういう方なのですか?」

 ジルギスが拾い上げた衣類をバニラは受け取った。

「一緒の兵舎だったことが無いからよくは知らないけれど、そうね、泊まる時はいつもこんな風だったと思うわ」

 バニラは将軍用洗濯室へ回しますと言って、ガーシニアの衣服を下着まですべて持って行ってくれた。ジルギスは着替えを部屋へ取りに行き、プライベートの湯浴み場へ向かった。

 ガーシニアは鼻歌混じりに素っ裸で体を洗っていた。

「アル、もう体は洗ったの?」

 ん?とガーシニアが振り返った先に真っ白な素肌を晒して金髪を下ろしたジルギスが立っていた。

「なっ!!ヴィースも入るの?」

「あら、お邪魔だった?」

「いや、その、そんなことないよ、まさか来るとは思ってなくて」

 1人で慌てふためくガーシニアを後目にジルギスは自分の手に体用洗浄液を泡立てると、ガーシニアの肌を手で洗い始めた。

 ガーシニアは大人しくされるがままになり、湯浴み場の椅子にぎゅっと目をつぶって腰掛けている。

 自分の肌を優しく滑るジルギスの掌と指先の感触に背筋がぞわぞわした。

「ヴィース、その…」

 ガーシニアが何かしゃべろうとするのを、ジルギスはゆっくりと自分の胸にガーシニアの顔を埋めて黙らせた。柔らかく弾力のある生の肌で顔全体を覆われ、あまりの嬉しさで今しも卒倒しそうになった。

 いくらここがジルギスのプライベートな場であるとは言え、直付が来ないとも限らないのに。顔を胸に当てられたままガーシニアの両腕が洗浄液の泡だらけで裸のジルギスの腰を探し当て抱き締めた。

 ジルギスは自分の胸からガーシニアを解放するとその唇に口づけた。

 ああ、だめだ、いけない!

 ガーシニアは自分の獣性を理性の鎖に縛り付けておくことが難しくなってきた。

「あの…ヴィース、この続きは…また夜にでもしよう」

 やっとの想いでジルギスの肌を引き剥がして、ガーシニアは哀願した。

「そう?いいの?夜は眠ってしまうかも…」

「いや!そんなことはない!大丈夫!は、早くベッドに入ればいいんだ!明日は出撃かもしれないし!!」

 珍しく真面目にガーシニアがジルギスの肌を撫でながら言った。

「いいわ、アル。待ってるから」

 そう言うとジルギスはガーシニアの瞼に口づけをして、自分の体を洗い始めた。

「アル、先に出てもいいわよ。それとも、お湯の中で待っている?」

 ガーシニアは少し考えてから言った。

「ああ、待ってるよ」

 体中の泡を丁寧にジルギスに湯をかけて落としてもらうとお湯の中にちゃぽんと入った。

 変な感じだ。食事を途中で止めてしまったような、走り出したのに急に歩き出したかのようなそんな感じに似ていた。

 そんな不完全燃焼の想いでいる隣にすっとジルギスが音も無く入ってきた。

 ジルギスの全裸をまざまざと見ていると先程のことも蘇ってきて体が言うことを聞かなくなりそうだった。

「我慢できそう?」

 誘惑するかのようにジルギスがお湯の中でガーシニアにふんわりと抱き付いて来た。

「…ヴ、ヴィース…、我慢できる。夜までなら」

 お湯の中でも肌と肌が直接触れる所は熱い。それなのに、ジルギスは楽しむかのようにガーシニアにべたべたと絡まってくる。

 ガーシニアがどこまで耐えられるかを試しているかのようだ。

 そんなガーシニアが思わず手を伸ばしてジルギスの肌を舐めるように触る。溜息が出そうだった。

「本当に耐えられるの?」

 ジルギスは嬉しそうに微笑んでガーシニアの首に腕を掛けた。

 お姫様抱っこの体勢になった。

 細い絹糸のような理性だけを頼りにガーシニアがジルギスにキスをしようとしたところで、

「ああ、だめ。もう耐えられないわ。私、先に上がるわね。湯あたりしてしまうわ」

 と言い切ったジルギスが海から上がる竜よろしく、勢いよくお湯から飛び出し、ガーシニアの腕から去って行った。

「…」

 ガーシニアはぽつん、と1人湯の中に取り残され、愛しい彼女の可愛い尻を見送った。

「なんなんだ、一体…」


 入浴後、会議室でジルギスは使者が帰ったと聞いて報告を受けていた。

 少し不満げなガーシニアも後から入って来た。

「直付の方は明日の昼過ぎを指定してきたわ。将軍はいつでもいいらしいって」

 ジルギスは使者達を前にしてガーシニアに言った。

「そうか。将軍はどんな感じだった?」

 ジルギスの横に座りながらガーシニアは使者に聞いた。

「は、閣下。育ちの良さそうなインテリ風な若い男性でした」

「育ちの良さそうなって…」

 ガーシニアは天井を仰ぎ見た。

「その、何と申しますか、軍人らしくないのです。帯剣もしていませんし、軍服すらつけておりませんし、どちらかというと貴賓人のような雰囲気でした」

 どうもしっくりこない。将軍と言えば、軍全体を動かすトップではないか。帯剣もしない将軍などいるのだろうか。

「分かった。ご苦労様。2人とも休みなさい」

 使者達を下がらせると、ガーシニアは腕組みをして黙り込んだ。何かが噛み合わない。でもどこか噛み合いそうだった。こうなると彼女はてこでも動かない。

 ジルギスはジルギスで考えがあった。

「ヴィース、私に考えがある。ちょっと手伝ってくれないか」

 先に声を掛けたのはガーシニアだった。

「私の作戦とどっちがいいかしら」

 2人は机上に地図を広げると作戦を練り始めた。

「直付達を呼ぶ?」

 というガーシニアの声に応えるかのように、そこには既にバニラやウィル、ギャン達が揃っていた。

「作戦会議に私達を入れないでどうしようと言うのです?」

 ウィルが自分の上司に向けて敬礼した。

 あれれ?という顔をしたガーシニアを見てジルギスは笑った。

「さっき使者が帰るのと入れ違いに私が呼んだのよ」

 手回しがいいな、と内心やられた感で一杯のガーシニアが苦笑いをした。

「じゃあ、始めよう!晩飯までに終わらせるぞ!」

 このガーシニアの喝に一同大受けだった。

「はい!」


 会議はそれ程長引かなかった。

 というのも、2人の意見はほぼ同じだったからで、少しだけ違ったのは兵力くらいである。

 思ったよりも早く引けてガーシニアは満足すると、庭を散歩するからとさっさと会議室を出て行ってしまった。

 ジルギスは残った直付達とゆっくりお茶を楽しんだ。ウィルが後を追いかけようとしたのをジルギスは止めた。

「庭なら大丈夫よ。警備兵もいるし、兵舎もすぐ側にあるから。そこまで追い掛けないで、自由にしてあげて」

 ウィルはジルギス閣下の仰せならば、とそこへ一緒に腰掛けた。

(あの人をたまに1人にしてあげないとだめなのよ)

「ジルギス閣下はどうやってガーシニア閣下と知り合ったのですか?」

 ウィルが出されたお茶を啜りながら何気なく聞いた。

「この間も誰かから聞かれた気がする質問ね」

 すぐには質問に答えず、ジルギスは黙ってお茶を飲んでいる。他の直付達も皆黙っていた。

「彼女とは戦場で会ったわ」

 -私と、ガーシニア将軍はその時、敵同士だったのよ。噂は聞いていたけれどね。私は貴女たちのような直付の補佐をしていて、彼女は傭兵隊の隊長だったわ。お互いにまだ若くて戦場では駆け出しだった。

 たまたま、ね。私が最初に仕えていた王国の北の地方に、隣国から雇われたガーシニア将軍が小隊を3手に分けて攻め込んで来て。

 戦場ですぐに彼女が隊長だって分かったわ。彼女も私がすぐに分かったって言っていた。直付はその時、将軍に従って王城へ行ってしまっていたから、補佐だった私が先に戦場に行って持ちこたえておこうと判断したというわけ。

(懐かしいわ。本当に、お互い若かったのね)

 そこまで話すとジルギスは満足そうにお茶をお代わりした。

「どっちが勝ったんですか?」

 ギャンがずっと聞きたいと思っていたことをぼそっと聞いた。

「うーん、そうね。一応は私、かしら。肝心の将軍や直付が帰って来る前に平定してしまったし」

 考えるように首を傾げながら、でも…とジルギスは続けた。

「アルはあの時、完全に捨て駒として雇われていたし、彼女もそれを知っていたから。だって兵力が全然違ったもの。勝てっこないわ」

 ウィルが驚いてジルギスを振り返った。

「じゃあ、なんで、なんで閣下は処刑されなかったんですか?だって隊長だったのに」

 バニラはウィルを見て言った。

「分からないの、ウィル?閣下がガーシニア閣下を逃がしたと私は思いますけど」

 そうでしょうという自信に満ち溢れた瞳でバニラがジルギスをちらっと見た。

「バニラには敵わないわね。その通りよ。だから、今、生きているでしょ?」

 ジルギスは初めてアルメリアと出会った戦場での一騎打ちと、その後の石牢でのやりとりを忘れられなかった。

「もう、この話はおしまい。彼女に聞かれたら怒られてしまうから」

 そう言うとジルギスは立ち上がった。

「では、明日の朝、またここに集合よ。それまでは自由にしていいわ」

 直付達は全員立ち上がると、ジルギス閣下に向けてきれいに並んで敬礼した。

「閣下はいかがされますか?」

 バニラがこれからの直付に誰を付けるかを聞いて来た。

「私は、庭へあの人を迎えに行ってくるわ。今夜は明日のことを夕食時に2人で確認するから直付は退勤とします」

「退勤??」

 直付達は一斉に素っ頓狂な声を上げた。

「大丈夫だから。ここは居城だし。アルみたいに城から離れて住んでいないでしょう?兵だって皆城に詰めているんだから、ね、ウィル」

 バニラとギャンがお互いに顔を見合わせている。

「いくら城内でも…、将軍が2人ですよ。一応、私室に上がるまではお供しないと、規則ですし」

 バニラが慌ててジルギスを追い掛けようとすると、ジルギスはいいから、と彼女を止めた。

「バニラ。心配しないで。庭からアルを連れ戻してくるだけだし、後は私室で飲むから。飲食の準備は控えの者にやってもらえるし、別に自分で用意しても、ね?」

 将軍マントを翻して夕暮れのオレンジ色に染まる見事な庭園に消え去るジルギスをバニラも他の直付も呆然と見送った。

「あの…バニラ殿。ジルギス閣下もああいう所があったんですね」

 ウィルがバニラの隣に立ってしみじみと言った。

「なんだかね。ガーシニア閣下が一緒だと性格がうつってしまうのかしらね。いつもはもう少し落ち着いているのに」

 でも、悪くないと思った。なんだか、胸の奥がじんわりと温かくなるような微笑ましさを覚えずにはいられないバニラだった。


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