愛情の交錯するところ。
暫くガーシニアと顔を合わせなくなると思うとジルギスは憂鬱だった。しかし、今は将軍補佐官であるクリスティーナに仕事を教えておかねばならないし、自分が留守の間にこの南のジルギス地方が乱れぬよう統治していかねばならない。
考えれば考える程やることがたくさんあり過ぎて眩暈がしそうだった。その時、ドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
ソファに横たわったまま気怠そうにジルギスが応答したのは、急に自分の思考を遮られたことに少々苛立ったからだ。普段ならこんな些細な事で苛立ったりはしないのにと思うと、今度は自分自身にさえ苛立ちを覚えた。
入室してきたのは誰であろうその将軍補佐官クリスティーナであった。黒い将校服に赤毛はよく映えた。
「どうなの?体調は。だるそうじゃない」
ジルギスの前にひざまづいて、クリスティーナが心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫よ。次の診察にはまだ間があるの。バニラとは上手くやってくれている?」
「ええ。彼女はとても有能な部下ね。あんな直付頭に恵まれるなんてあなたが羨ましいわ」
ジルギスは椅子を勧めた。かつての師匠にいつまでもひざまづかせるのはさすがに気が引けた。
「お気遣いありがとう、ヴィース。でもあなたはここの将軍なのよ。部下に椅子を勧めたりする?」
まんざらでも無いという感じでクリスティーナは素直に椅子に腰掛けた。
「いつまでもそこに畏まられても話しにくいじゃない。今日は、確か一緒に兵舎を回る予定だったけれど無理みたい。貧血があって」
「貧血症はまだ治っていないようね。ねぇ、あなたの今の恋人は誰?もうそろそろ教えてくれてもいいじゃない。多分当たっていると思うけど」
ジルギスはその話題になると無口になった。それにこうしてかつてのクリスティーナと2人っきりで部屋にいると知らぬ間に付き合っていた頃のことを思い出し胸の奥が痛くなった。
「兵舎はバニラと回るわ。あなたは休んでいなさいな」
そう言ってさりげなく手を握ってくる。しかし、ジルギスは振りほどかなかった、というより脱力して振りほどけなかった。貧血のせいで体が重く感じられた。
握られているその手の感触は懐かしいというよりクリスティーナの手ってこんな感じだったかしら、というぼんやりした意識だった。思ったよりひんやりと冷たくて、長い指先が自分の手から体温を奪っているような気がした。アルの手はもっと温かくて、少し小さめで、いつも力一杯握ってくる。
「あなたの好きな人は今、このお城の中にいないのでしょう?」
意味ありげに同じ碧眼を細めてジルギスを見つめた。
「そうとも言えるし、そうじゃないかもしれないし」
ジルギスは目を閉じて城の庭園を思い浮かべる。南の城にもフレデリックの弟子にあたる庭師を付けてもらっているが、ガーシニアが来る時は隈なく見てもらう。庭園はガーシニアそのもののようにジルギスには感じられていた。何といっても自分の生家ですら、あんなに植物を愛でるガーシニアのことである。
「まあ、はぐらかして。でも結婚しないで跡取りだけ儲けるだなんて、あなたらしくない」
クリスティーナはジルギスの手をやっと解放し、その金髪を掻き上げた。さすがにそれはやんわりとジルギスも払いのけた。
「後少しすれば体調が回復すると思う。バニラにそう伝えて。後の仕事のことはわかるでしょう?それから、後日王城会議があるの。そこで私の事とクリスティーナの事を一緒に発表しなさいと陛下から言われているわ」
クリスティーナを軽くいなしながらまるで無かったことのようにするジルギスの仕草の意味を彼女はよく理解していた。
ジルギスを落とすには焦ってはいけなかった。10代の頃のような無邪気さや純粋さは既に失われている。そのくらいの時は刻んできたし、ジルギスだって将軍を拝命するほどにまで成長したのだ。
クリスティーナは椅子から立ち上がり側仕えを呼ぶと、お茶を淹れてくるように命じた。
「後はバニラと打ち合わせするわ。ああ、そう言えば」
何かを思い出したようにクリスティーナは椅子に座り直した。
「ねぇ、あの西のガーシニア将軍っていつもあんな風にバニラを口説いているの?」
この台詞を聞いて急にジルギスは可笑しさがこみ上げて来てふふっと笑みを漏らした。
「ええ。いつもよ。間違いなく、いつも彼女を口説いているわ」
そのジルギスの様子を見たクリスティーナは腑に落ちなかったが、あまりにもジルギスが楽しそうだったので敢えて水を差さないでおいた。
もしクリスティーナの勘が当たっていればジルギスの今の恋人はガーシニア将軍だ。そのガーシニア将軍が自分の直付頭を会う度に口説いているなど恋人としては面白く無いのが普通なのに、ジルギスはまるで楽しんでいるかのように微笑んでいる。
なぜ?
クリスティーナには解せなかった。
「ガーシニア将軍は女たらしなの?」
それこそジルギスがもっとも嫌がる種類の人種だった筈である。ジルギスは改めてクリスティーナを見て答えた。
「そうね。女たらしと言えばそうかもしれないわ。あの人は可愛い女の子を見ると声を掛けるのが普通だと思っているらしくて」
ジルギスはバニラだけではなく、ラピズや、兵舎のお気に入りの女兵士や、自分に似ているステアでさえガーシニアがドキドキしている様子が手に取るように分かっていた。何といってもあの竜のオプサにさえときめいてしまう配偶者だ。油断は出来ないが、間違いを起こす筈はないだろうと信じていた。
「ヴィースはそういう軽い人が嫌いでしょう?」
とうとう自分の疑問をクリスティーナは聞いた。
「軽い人?そうなるのかしら?でも声をかけるのはアルの特性みたいなものなのよ。嫌味もないし、本人も何の自覚もなくすぐに声をかけてしまうの。何て言うのかしら。下心があってもなくてもやることは一緒ね」
考えながら話していたが、あっという顔をしてジルギスは付け加えた。
「彼女に限っては、女の子に声を掛けたりするのは嫌じゃないわ」
「へぇー。なんか変わったわね、ヴィース」
クリスティーナは信じられないと言った顔をした。
「そうかしら。彼女とはずっと親友だから」
ジルギスはいつもの調子で答えると、淹れてもらった薔薇茶を一口啜った。そう言えばこの間、ガーシニアの体の毒抜きの為に苦茶を無理やり飲ませて蜂蜜をおねだりされたこともあった、と思い出して妙におかしくなった。
(アルのことは何を思い出してもおかしいことばっかりね)
クリスティーナが目の前にいたものの彼女がガーシニアの話ばかり聞きたがる所為で、頭の中がすっかりガーシニアのことで一杯になったジルギスは言いようの無い安心感に包まれた。
いつも優しくて、我儘で、それでいてジルギスの言うことなら何でも聞いてくれる。心配性で女の子が好きで酒も好き。そんなガーシニアが将軍として第一線で働いていることが信じられないくらいであったが、それはあまりにもプライベートの彼女を知り過ぎているからである。
「王城会議の時なんだけど、クリスティーナは直接王城へ向かってもいいわ。私は西の拠点城に寄ってから行くから」
ガーシニアのことを考えていたら不意に会いたくなった。
「私もお供してはだめでしょうか?西の拠点城にも行ってみたいですし、ガーシニア将軍閣下ともまた是非お話したいですし」
意味ありげにクリスティーナは言った。
「いいわよ」
ジルギスは即答した。ここでもし言い淀めば、変に誤解されかねないと思ったのだ。
「では、アルに伝えておくわ」
「また後で。ジルギス閣下」
そう言い残して、薔薇茶に口も付けずクリスティーナは城主の部屋を後にした。
ジルギスは、ソファから立ち上がって窓際から庭園を眺めた。どの花が何という名前なのか、何度もガーシニアに教わっていたが全く覚えられなかった。それでも咲き乱れる花を見てジルギスは胸が熱くなった。草花の間に愛する伴侶がマントを翻して歩いているように見えていた。
王城会議に入る少し前。ガーシニアが1人寝の練習をしている日々の頃、西の城ではラピズとティスとパトリスが仕事の打ち合わせをしていた。
「パトリス、あの日、閣下とあなたは何で南の城に行ったの?閣下の馬も馬車も置き去りだったから」
ずっと聞きそびれていたことをラピズは聞いてみた。
あの晩、帰った直後にガーシニアに禁じ手の誘い水を向けてしまったことが、未だに自分で信じられないでいた。その結果、まさか閣下が裸で抱き締めてくれるなど思いもよらなかったから、数日間は忘れていたのも事実だった。
「ああ、あの日はですね」
パトリスはちょっと考えた。なるほど、自分が竜だとばらしてはいけない。ガーシニアにくどくどと注意されたことを思い出した。
「急用だったので、南の閣下に竜を呼んで頂いていました」
何ということもなげに言ったのを聞いて、ラピズもティスもそう、としか言えなかった。竜使いのことは詳しく無かったからだ。ティスはかつてジルギスに仕えていたが、その際1度も竜を呼び出したのを見たことがなかった。
「そう言えば、翌日の朝に西の城の裏庭にいた竜もそれかしら?」
ティスが思い出したように付け加えた。
「あ、そうそう。帰って来て少し眠っていたみたいです」
何か納得できるような、できないようなパトリスの説明に2人共、相槌を打つしかやることはなかった。
「だったらいいんだけど」
そう言われれば、なぜ閣下の馬や馬車が城に残されていたか、時間が早かったことも裏庭の竜も全てに説明が付いた。
「パトリスを信じるわ」
ラピズは軽く頷いた。
「ありがとうございます、ラピズ」
嬉しそうなパトリスを見て、ラピズも思わずつられて微笑んだ。パトリスのあっけらかんとした態度は、どこか安心感を催すのだった。
「そう言えば最近、閣下は添い寝役をお呼びになりませんね」
ティスがラピズに聞いた。こんなに長く添い寝役を呼ばないのは珍しかった。
(ジルギス閣下もいらっしゃらないのに、本当に独りで寝ているのかしら。でも他の女を連れ込んでいる様子もないし)
どうしてもその謎はティスには解けなかった。
「さあ。後で閣下に確認してみるわ。不眠症が治ったとか。それは無いでしょうけど」
言ってみたラピズの方は自分が原因かもしれないと気が気ではなかった。
(あの晩のことを気にされている?神経質な閣下のことだからあり得るわ)
「ガーシニア閣下は独りで眠れないのですか?」
パトリスが改めて2人に聞いた。すっかり勘違いして、添い寝役は将軍の夜の相手役だとずっとパトリスは思っていたのだ。
(最近のアルは虹のかけら入り酒を寝酒で飲んでいるようだ。あの酒の成分を上手く利用している。翌日の朝、アルの汗に混じって虹のかけらの甘い匂いが体から発散されているから間違いない)
それは口に出さなかったが、パトリスは添い寝役を賭けてジルギスと決闘をしたこともあった。だから添い寝役はやってみたかったのである。何よりも自分が久し振りに惚れこんだ人間だ。一緒に居たいが為にこんな危険を冒してまで人間の世界に紛れているのである。
「閣下は不眠症なの。薬はあんまり良くないから、誰か女性が一緒に添い寝すると子供みたいに眠れるのよ。だから添い寝役が必要なの」
ラピズはパトリスに説明しながら、やはりこの間の晩は添い寝役の度を越してしまったと反省はしたものの、ご褒美をもらって後悔はしていなかった。
「そうなんですか」
パトリスはしきりに感心したフリをしたが、内心首を傾げていた。
(その割には、この間は2人とも随分と本気だったけど。ああいうこともあるのかしらね。わからないな、人間は)
「閣下の寝つきが悪いなんて信じられませんよね。一緒にベッドに入るとすぐに寝てしまいますもの」
ティスも頷いて同意していた。
「自分もその、添い寝役とやらをしてみたいものです」
パトリスがふざけてではなく真剣に語ると、ラピズは大丈夫と約束してくれた。
「次回はあなたからだと思うわ」
その言葉を聞いて、パトリスは妙に安心した。良かった。できれば竜の姿で寝て、とぐろの中央でガーシニアに寝てもらいたかったがそれは無理そうだった。
パトリスが遠い記憶を辿ると、人間はあの四角い寝床じゃないと眠れないらしい。そう言えば他に地べたで寝ている者はあまり見たことは無かった。王国同士が戦争で争い、人間のほとんどが巣窟(家のこと)を失った時に岩陰や木陰みたいな場所に人間が倒れるように眠っているのは見たことがあった。野良の人間は最近ではお目にかかれなかった。
しかし、この場で野良人について聞くわけにもいかずパトリスは笑ってごまかした。
「その時が来るのを楽しみに待っています」
ティスはティスでラピズにあの晩のことを詳しく聞けないままだった。何か。ラピズが違う気がしたのだ。ただあの朝、竜を見て腰を抜かしてしまいそれどころじゃなかった。
結局その晩、約束通りラピズと飲んだのは良かったが自分が早々に潰れてしまった。聞きたいけれど聞けないことは、ティスにとってはあまりにも恐ろしい妄想であり真実ではありえなかった。
昼食後、ガーシニアは暫く添い寝役を控えるとラピズに言ったところだった。
あの晩以来、ガーシニアは添い寝役を付けず独りで寝る日々が続いていたが、まさかそれが不眠症を人に頼らず眠る練習だったなんて、ラピズは内心、将軍閣下を思いやれなかったことを悔いていた。
城主の部屋は日当たりが良く、眩しい陽光が差し込み部屋全体を熱していた。あまりにも眩しいので、ガーシニアは窓際に薄いカーテンを引いた。
「閣下…それは、この間の事をお気にされてのことでしょうか」
ラピズが硬い表情で聞いた。聞きにくいことも、きちんと聞けるのがラピズの直付頭としての才能でもある。
「そう言うと思ったのだが、ラピズ。それは違うんだ。あれはあれで…その、いいんだ」
ガーシニアは少し言いにくそうに笑いながら答えた。あくまでもラピズを傷付けたくなかったのである。
「閣下。すべて私の所為です」
ラピズが頭を下げた。
「違うって。ラピズ、お前が謝ることでは無い。いや、その、もう大人だし、1人で寝る練習をしようと思って」
我ながら変な言い方だとは思ったのだが(特に大人の部分が)、これは本当の事だった。
しかし実際は不眠症がそんなに都合よく治ることなど無かった為、虹のかけらを入れた酒を寝酒にしていた、というのが真相であった。誰もいなければ欲情のしようがないし、眠気が半端なく襲ってくる虹のかけら入り酒は丁度良かった。
(ヴィースもいないし)
そう思ったら虹のかけらを飲んでも別に良かったのだが、問題はこの酒を飲んだ後は誰にも会ってはいけないということである。それなので、鍵をかけ厳重に結界を貼り、窓もカーテンも閉めた寝室で寝酒するようにしていた。
添い寝役を主に務めるラピズと次に一緒に寝たら今度こそ自分が持たないような気もしたし、またパトリスに見つかるかもしれない。そのことで、パトリスが実は竜だったなんてことが知られたらそれこそまずいし、何よりヴィースの耳に入ったら離婚を言い渡されてしまう可能性もあった。
いやいや、あれは浮気なんかじゃない。一歩手前だったのだ。
ガーシニアは頭を振った。ややこしい話はごめんだった。そういうことにはとても疎いのである。ヴィースに相談すれば話は早いが、今回は相談できそうになかった。
「眠れなかったら、また薬をもらってきて眠ってもいいし」
「薬を使うくらいなら、私が添い寝します」
すかさずラピズは真面目に答えた。それは本心でもあった。
「わかった。ラピズの気持ちはよくわかったから。薬はやめておこう」
ガーシニアは振り返って不動の部下に視線を移した。ラピズの表情がちっとも緩んでいないばかりか、眉間に皺さえ寄っているのを見てガーシニアは自分がとてつもなく悪いことをしたような気になった。
「どうすればいい?」
仕方なくガーシニアは再度ラピズに問うてみた。こんな時、ガーシニアは自分が将軍だという概念は無く、ただ1人の人間としてラピズに聞いている。本来は自分が指針を示すべきなのだが権力に任せたやり取りを彼女は好まなかった。
「今迄通りでお願いしたいのです。人選は閣下にお任せしますし、次回からはパトリスも入れて下さい」
躊躇せずラピズは答えた。心に決めた答えを言うのは、彼女にとって楽な事だったに違いない。
「パトリスを?」
ガーシニアは目を瞑って押し黙った。しかしその時間は長くは無くすぐに返答した。
「分かったよ。直付頭のお前が言うことだ。間違いはないだろう」
ラピズは真面目な顔のまま敬礼すると部屋を出た。
後に残されたガーシニアは椅子に座って、足を組むと両腕を伸ばして背筋を反らせた。
「いつかはこうなると思っていたからなぁ。考えてもいい案は浮かばないし。やるしかない」
そう独り言を言うと、その格好のままで頭の中の考えを追い出し、何も考えないことに終始した。そういう時間はガーシニアにとって決して無駄な時間などではなく、必要な時間であった。
ぼんやりと椅子にそっくり返っていると何もかもがどうでも良くなってくる。
この間ラピズを裸で抱いてしまったことも今となっては夢か現か確信が持てなかった。ヴィースの時のようにしてやれなかったのは残念だったけれど、もし1回でもそういうことになれば、決して後戻りはできない。
ヴィースのことも子供のことも、離れているとまるで現実味がなかった。
そんなことを言ったら怒られる?いや別に怒られはしない。新婚時代からふらふらして好きに放浪させてくれていたのは誰であろう、配偶者のヴィースであるし、どちらの親達もうるさく言わなかった。それは皆、ガーシニアの性格をよく知っていたからだった。そしてそのことを嫌というほどガーシニアは理解していたし、感謝もしていた。そんなに鈍感では無かった。
ガーシニアは椅子から立ち上がり、肩を回して骨を鳴らすと部屋を出た。やっと動く気になったのであった。
王城会議の日はあっという間にやって来た。
前日に西の拠点城に寄ると言う短い伝令がジルギスから届いたガーシニアはなぜか心臓がバクバクした。
伝令ではジルギスとクリスティーナが一緒に来るとの事であった。翌日は自分と王城へ同行する筈だ。直付はバニラ以外だろう。だとすれば、直付の事も考え城に泊まって貰った方が良い。ゲストルームも城はなら完備されているし、直付同士は久し振りに飲みたいだろう。
落ち着かないガーシニアはあれこれ考えを巡らせた。
取り敢えず、ジルギスだけは邸宅に連れ帰りたかった。城に泊まれないこともないが、どうもしっくりこないのだ。勿論、城主専用の寝室もある。
そこは昼寝か仮眠時にしか使わない部屋だ。なんならクリスティーナにそこに泊まって貰っても良かった。
当日、陽も高く昇った頃、南の城からジルギス閣下が到着したと合図があった。
城の門までガーシニアは自らわざわざジルギスを出迎えに行った。直付はギャンが務めていた。
「久し振りだね。どうだい、体調は?」
ガーシニアは本物のジルギスを目の前にして抱き締めたい衝動に駆られたが我慢した。すぐ後ろにクリスティーナが控えていた。
「ええ、順調よ。少し出て来たような気がするでしょう?でも本当に少しよ」
「ああ」
ガーシニアもジルギスもクリスティーナが一緒だと妙に気を遣った。
城内に入り、直付達にクリスティーナを紹介するとジルギスを休憩させるために城主の続きの間に入れた。この間、クリスティーナの相手はラピズに任せた。
「いつが検診だって?」
ガーシニアはジルギスのお腹が気になって仕方が無い。
「明日、王城会議を終えたらその足でタクミ先生の元へ行くつもりよ。あなたも来て」
「行っていいの?」
「ええ、勿論」
ソファに身を投げ出したジルギスはすこぶる機嫌が良かった。久し振りに会うガーシニアが自分と子供の身を案じていることにとても満足していた。
「その後、どうする?クリスティーナはずっとくっついて来る?」
「いえ、タクミ先生の元には来られないし、私が留守の間、本当は南の城に居てくれないと困るからすぐに帰城してもらうわ」
隣に座ってガーシニアは考え考え言った。
「今夜はどうする?ヴィースには一緒に来てもらいたいけど」
ジルギスの手を取ってさすってみた。いつもながら冷えている。武器を扱う剣ダコが指の内側に出来ていた。古いので固くなっている。その剣ダコをいじりながら思わず人差し指をかじった。
「もう、指を食べないで頂戴。お腹が空いてるの?」
「随分とヴィースを食べていないからね」
「今はだめよ」
ジルギスはガーシニアの唇を指でつまんで笑った。
「おいおい」
ガーシニアの手の感触はやはりクリスティーナとは全然違う、とジルギスは思った。温かいのだ。いつも温かくて触られている間は気持ち良かった。それに意外と小さかった。背は自分よりも大きいのに手だけ小さいのである。そのアンバランスさが妙につぼだった。
「今夜は邸宅まで行くわ。城からそんなに遠くないし。馬車も調整したから。クリスティーナとギャンには城に居てもらおうかしら」
「うん。それがいい」
ガーシニアはジルギスが自分と同じ気持ちだったことに安堵した。
一通り西の城を案内されたクリスティーナは会議室で西の直付達と歓談していた。そこへガーシニアが現れた。
「閣下。今、クリスティーナとお話していた所です」
「ああ、そうか。ケーキスタンドは用意しなかったのかい?」
お茶の準備に余念のないガーシニアが聞くと、ラピズが答えた。
「今、用意されてくると思います」
「さすがだな」
ラピズの気の回し具合がガーシニアは気に入っていた。だからここの一癖も二癖もある直付達を纏めていけるのである。
直付達の間に割り込むように座ったガーシニアにティスがお茶を新しく淹れて勧めた。
「ありがとう、ティス。さて、クリスティーナ、どうかな?西の城の感想は?規模は南の城の方が海に面して開けてはいる」
薔薇茶を啜った。絶妙な熱さ加減にガーシニアは感服した。
「良い城だと思うわ。兵舎は充実しているのね。武器や馬や馬車や用具の宝庫だった」
それを聞いて直付達は爆笑した。
「武器や馬、用具などは閣下の趣味ですよ。庭いじりの為の道具なんだか、馬車を直す道具なんだか、さっぱりなんです。武器もすぐ集めて来るから、武器庫がすぐに一杯になってしまって」
ウィルが肩を竦めるとギャンが羨ましいと言った。
「うちの閣下は武器の上限を決めてしまわれているし、道具に関してもきっちり管理されている」
ガーシニア自身はきょとんとして皆の話を聞いていた。
「武器庫や用具入れは整理してあっただろう?」
「数の問題です、閣下」
ガーシニアは憮然として茶を飲んでいたが、クリスティーナに提案した。
「今夜はギャンも来たことだし、直付達と酒でも飲まれたらいかがですか?」
「閣下、私もそう思っていました!」
ウィルが嬉しそうに応じた。
「お前らはそうしたいだろう?ギャンも」
「ありがとうございます、ガーシニア閣下。西の城に来るのが久し振りな気がします」
ガーシニアはクリスティーナをちらっと見た。パトリスが助け舟を出した。
「いいじゃないですか、将軍補佐官殿。暫くは一緒に仕事をする仲ですし。ジルギス閣下はお食事が難しいのでしょう?お酒は無理でしょうね」
ジルギス将軍の妊娠の事は既にガーシニアから直付達に連絡されていた。どのみち明日の王城会議では各将軍に周知される。その上で国防や政治に関しての話し合いになる予定なのだ。
ここまで直付達に押されてはクリスティーナも嫌とは言えなくなって来た。そうでなくても陽気な直付達のことであり、客人が来れば酒を酌み交わすのは軍人として当然の慣わしであった。
「分かったわ。今夜は御相伴に預かりましょう。これも何かの縁ですし」
微笑んだクリスティーナもこうして仲間扱いされるのは嫌いではなかった。
「私も最初少しだけお供します。ジルギス閣下はこの城に慣れていますから、本人に任せておきますが、夜の飲み会には呼びませんよ」
そう言うとガーシニアは笑った。
何とか上手くいった。このままクリスティーナを西の城にギャンと共に泊めてしまえば良い。しかしクリスティーナは侮れない。
ガーシニアは隣にいるラピズに耳打ちした。
「ラピズ、今夜は補佐官の接待を頼みたいが、一人は邸宅へ戻ってきてもらいたい。誰にする?」
ラピズは少し考えて言った。
「…そうですね。ではティスをお供させます」
ウィルとエスはギャンと合わせて盛り上げ役にしておかねばならないし、接待となると自分が抜ける訳にもいかない。ティスかパトリスになるが、やはりここは心配なくティスが適役と判断したのだ。パトリスには接待そのものに慣れてもらいたい気持ちもあった。
「わかった。私は本当に初めだけ出席するから、後を頼む」
「御意」
ガーシニアは最後まで気が抜けないと思っていた。クリスティーナはあの時からずっとジルギスを愛していたに違いない。彼女の瞳を見る度にそう思えて仕方が無いのだ。あのどこか勝っているというような、ヴィースのことは自分が握っているとでも言いたげな表情はガーシニアを知らずに不安にさせるのだった。




