月夜の魔力。
ガーシニアとジルギスの夜については外伝2の「虹のかけら」にて補足します。載せた順番を前後させています。
開いた扉の向こうにはガウンを羽織ったジルギスが立っていた。窓際から明るい月の光が3人を照らし出し、そのシルエットを浮かび上がらせた。立ち尽くす3つの影は蝋人形を思わせた。
パトリスもガーシニアも無言でジルギスを凝視していた。まるでこの世のものではないものを見るようであった。
「もう、冗談はいい加減にして頂戴、パトリス」
最初に沈黙を遮ったのは、眠そうにしながらもすっと入って来たジルギスだった。
ガーシニアは扉に貼ってあった見たことの無い結界が、ドアノブを中心に砕かれた残骸を見てなんとか声を発した。
「どうやって…その結界を壊した?」
「え?これ?ああ、だって、これは…」
ジルギスは答えようとしたが、つかつかと近寄るとガーシニアのグラスを奪い取って一息に呑んでしまった。
「美味しい!」
ジルギスの瞳に生気が戻ってきたようだ。ぼんやりしていたガーシニアはそこではっとした。
「おい、これは酒なんだぞ!」
グラスを取り上げて、ジルギスを振り返った。
「だって…喉が乾いていたんですもの」
上目使いに頬を赤らめたジルギスと目が合うとガーシニアは興奮して下半身が熱くなりそうになった。しかしそこはぐっと堪え、パトリスに向き合おうとしたジルギスの両肩に手を置いてガーシニアは溜息をついた。
「ヴィース、私は将軍職を辞めようと思う」
「どうして?」
と聞いたのはパトリスの方だった。
「私達の秘密が知られてしまったのだ。妊娠のことまで。すまない、ヴィース。細心の注意を払っていた筈なのに、新人のパトリスに知られてしまってはもうここに居られない」
ガーシニアはがっくりと肩を落とした。また無職になってしまうのか。もう、やさぐれた職業は選べない。なるべく放浪しないような職業で金が稼げるものを選ぼう。ジルギスの収入には遠く及ばないだろうが、子供は無事に育てていきたい。
そんな気落ちした配偶者を正面から見て、すぐにパトリスを振り返るとジルギスは慈愛に満ちた笑顔で答えた。
「あなた、オプサなんでしょう?」
「え?」
きょとんとしているガーシニアと引きつった笑いを浮かべるパトリスを交互に見比べた。
「どうなの?答えて、パトリス」
ジルギスはパトリスの正面に位置した。ほぼ素肌の上に纏ったナイトガウンの裾がゆるりと動いた。
「本当に人に化身できるなんてブルーの冗談かと思っていたわ。妊娠のことも、アルのことも、あの日に私が説明したことですものね」
パトリスは直立したままヴィースに深々と頭を下げた。
「ご明察です、竜使いのヴィース。やはりばれていましたか」
そう言って表情を緩めたパトリスは瞳の色を戻した。完璧なオッドアイ。右目が海のような青い瞳、左は翡翠のような緑。ガーシニアの記憶の彼方から、美しい竜の姿が呼び覚まされた。オプサ。王城付きの美しい姉竜。
「え?オプサ?オプサなの?」
ここで驚いていたのはガーシニア1人だった。
「いいこと、私達のことを他の人間に話したり、変な動きをしたりしたらすぐにダンを呼ぶわよ。それにブルーにも一緒に来てもらいます」
パトリスは静かに首を横に振った。
「それはご容赦願います。せめてアルメリアの近くにいさせて下さい。決して手は出しませんから」
そう言って申し訳無さそうに目を伏せた。
「当たり前でしょ。妊娠中に寝取られるなんて御免だわ」
この2人のやり取りを見ていたガーシニアは酔いも手伝って何が何だか分からなかったが、人間だと思っていたパトリスが実は竜であり、直付に変装(?)して自分の城に潜入したことだけはわかった。
思わずガーシニアは動揺したことを悟られまいとパトリスから瓶を取り上げ、虹のかけらで作った酒を手ずからグラスに汲んで飲んでみた。すっきりした飲み心地、それでいて後味はちょっとフルーティー、しかし甘くは無かった。
「ウマイな」
パトリスは、あーあ、飲みましたね、と苦笑した。
「この後どうなっても知りませんよ」
ガーシニアは何のことか分からずに首を傾げていたが、さあさあとパトリスの部屋をジルギスと共に追い出された。正体が明かされすっかり気の抜けたパトリスが2人を寝室まで送って行った。廊下を歩いて階段を昇るガーシニアは少し千鳥足でふらついていたのでパトリスが支え、ジルギスはそんな二人を見ながら先を歩いた。グラス1杯の酒でそれほど酔ってはいなかった。
寝室の入り口まで来た。パトリスはさっき自分が作った虹のかけらの酒瓶1本を改めてガーシニアに渡した。
「このお酒は特別なんです」
少しずつ酔いが回ってきていたジルギスがパトリスの肩を掴んだ。
「私、虹のかけらの伝説を知っているわ。竜しか取ることが出来ない虹のかけらからはどんな液体でもお酒に変えてしまうことができるんでしょう?」
酔ったジルギスの勢いに知らぬ間にじりじりと後退りしながらパトリスは答えた。
「さすが竜使い。確かに普通に飲んでも美味しいお酒です。でも、どちらかが恋をしている相手とこの酒を酌み交わした時には、どうしようもなく性交をしたくなってしまうのです。しかもその時の快感は凄まじい。お2人共、今夜はお愉しみ遊ばせ」
そう言うと扉に竜の結界を貼ってくれた。
「閣下の結界も素晴らしいですが、私の結界はまた違います。人間だけではなくてあらゆる魔物も竜の一部も入れない筈です。但し、結界を貼った竜と竜使いだけがその解き方を知っています」
それだけ言い残し、瞬く間にパトリスは姿を消した。後には薄闇が月明かりに混ぜられて残り香のように漂った。
「あれは何の術?」
すっかり冷えてしまったベッドにジルギスを横たえると笑われた。
アルったら、本気で聞いているのね。相手が竜だっていうことを忘れているのかしらと思うとジルギスはガーシニアが可愛くて仕方なかった。
「だって、人間じゃないもの。瞬時に姿を消すなんて普通よ。それに竜の姿でいる方が楽だと思うわ。今夜は誰もいないから中庭でとぐろでも巻いているかもしれないわね」
この頃になると虹のかけらで出来た酒の効果が表れ始めた。ガーシニアは妊娠中のジルギスには手は出すまいと決めていたのだが、心の中はもやもやした欲情で一杯だった。
「ヴィース…なんだか、我慢できない」
ガーシニアは慎重に横たえたジルギスの隣に入る前に、自分が着ていたものを取り払った。
「私も起きてしまったからいいわよ」
この後、何が起こったのかと言えば、朝になる頃までにガーシニアもジルギスも竜の言ったことが本当だと思い知った。
ベッドの中で柔肌を重ね合わせているだけで互いに気持ち良かったが、ほとんど眠れなかったのも事実だ。何故眠れなかったのかは、皆様のご明察の通りである。
「今日は休んじゃおうかなぁ」
ガーシニアがジルギスを壊れ物の様に大切に胸の中にまだ抱いていた。
「何言っているの?だめでしょう?」
そう言いながらもぞもぞとガーシニアの胸に顔を埋めて嬉しそうにしていたが、やっと肌から離れる決心をしたようだった。
「今日は南の拠点城へ一度行かなければならないわ。将軍補佐が来るのよ。時間は分からないんだけど」
「待って、ヴィース」
起き出そうとした愛する人の白い肌を背後から軽く抱き寄せて、ガーシニアがなんだかんだと離さないでいたら呆れたジルギスが
「仕方のない人ねぇ」
と言って、ガーシニアに向き直ると同時に思い切り唇を吸ってやった。ガーシニアはそのままジルギスに押し倒されてベッドに沈み込み、マットレスのバネが軋む音を立てた。2人はそのまま裸でいるのをいいことにシーツの中、溺れ合う。
「お早うございます。お邪魔だとは思いますが、そろそろ支度されてはいかがでしょうか?」
パトリスが言いにくそうにしながら、とっくに結界を解いた扉を開けて入ってきた。
ところが2人の将軍ときたらベッドの上でいちゃいちゃするのに夢中で、入って来たパトリスに気付かない。これにはさすがのパトリスも困ってしまった。
(もう、全然気付かないなんて。そんなにあの虹のかけらは効力があったかなぁ。やっぱり人間には効き方が違うのかもしれない)
少しの間、パトリスは立ち尽くしてベッドを見ていたが、これでは埒が明かないと思い返し、大蛇ほどの竜になると2本の口髭で2人を引き離した。竜になるといくら小さくしても人間より大きい事に変わりは無いので部屋一杯にはなってしまうのが欠点だ、とパトリスは思った。
急に引き離された上、裸のまま口髭で宙に浮いたガーシニアは何が起こったのか瞬時に把握できなかった。
「おおお、おい!オプサ!下ろしてくれ」
咄嗟にオプサの名前が出たのは目の前にいたのが小さいがあの美しい鱗の竜だったからだ。オプサの髭に巻かれることは予想していなかったし、素肌にしっかり巻き付いた髭は生温かかった。
「そんなに騒がなくても今、下ろします」
右側の口髭で部屋の天井近くまで持ち上げられたガーシニアをゆっくりと床まで下ろす。
ジルギスの方は左側の髭でやんわりとベッドに捕らえたままにしておいたので、自分で体に巻き付いた髭を外し、ガウンを羽織るとオプサの鼻面を撫でて、おはようと言った。
ガーシニアはジルギスのすぐ側に下ろしてもらい、パトリスの目の前で2人はもう一度だけ軽くキスをした。
「お2人には参りましたね。目の前でべたべたするのは止めて下さい。目のやり場に困ります。もしかして私が人間じゃないと思ってわざとやっているんですか?」
引きつり笑いのオプサの鼻と思われる場所にガーシニアはおはようのキスをした。それは単なる挨拶であり、何気無い日常の一コマに過ぎないものであった。
しかしその瞬間、オプサの体中にぞわぞわするような感覚が走り抜けていった。雷にでも打たれたかのような衝撃で、それはとても久し振りだったから目が潤んでしまった。
「そうかもな、竜ってやっぱり人間とは違うから」
ガーシニアはそんなオプサの変化に気付きもせずに優しく髭を撫でている。
「待って下さい。普段は人間の姿をしているのですから、私にも気を遣って下さい。だって私はアルのことが好きなんですから」
キスで感じ始めた髭をくねらせながら、何とか普通を装ってオプサは答えた。
ジルギスがちらっとオプサを見て、いい加減、全裸のガーシニアにナイトガウンを羽織らせた。
「オプサ、悪いわね。私達、一緒に湯浴みしてくるわ。先に朝食を摂っていていいわよ。出掛ける時にもう一度来てくれない?」
「分かったわ、ヴィース。あ、ここではジルギス閣下の方が良いですね」
「そうよ、パトリス。私も気を付けるわ」
瞬く間に人間の姿に変化したパトリスが敬礼して去って行った。
その後ろ姿を見送ってから、おもむろにガーシニアの左頬をつねった。
「いて!!」
「アル、さっきオプサの鼻にキスしたでしょ」
「いててて、え?キス?」
熱い夜の覚めやらぬ愛はどこへやら、少しの油断が一瞬にして愛の熱をも冷やすのだ、とガーシニアは思った。内心なんで挨拶のキスくらいで怒られたのかも理解できずにジルギスに引きずられて行く。
「したけど…あれは挨拶だよ。人間で言えば、軽くおでこにキスするみたいなものだ」
つねられた頬を撫でながら湯浴み場迄歩くガーシニアに、
「竜の鼻の辺りは性感帯なのよ」
とジルギスは初めて教えた。
「ええ、そう…ええっ!!そうなの?」
そう言うことは早く言ってくれたらいいのに、とぼやくガーシニアに、誰にでも軽々しくキスしないでよ、とジルギスはご不満である。
やっと合点がいったガーシニアは平謝りした。多分、人間で言えば耳介や首筋か太腿の裏あたりになるのだろうと想像した。
「ヴィース、ごめん。体洗ってあげるから怒らないで。怒るなんてお腹の子供に良くないよ」
「そうね。別に怒っているわけじゃないわ。その、ちょっとイライラしただけよ」
ガーシニアは苦笑しながら、ジルギスの手を取って、湯浴み場の床に気を付けて歩かせた。
(そういうのを怒っているっていうんじゃないかな?)
「まあまあ。はい、髪から洗うからね」
ガーシニアにあれこれされて、ジルギスも少し機嫌を直したようであった。
「相手が竜だからってキスしないで」
しかしやはり最後には釘を刺されてしまい、ガーシニアはぐうの音も出なかった。
「わかった、わかった、でも君にはキスしてもいいんだろう?」
ジルギスはお湯の中でわざと配偶者に背中を向けた。すぐにガーシニアがその肩を抱いて張り付いて来た。
「あなたを釣り上げるのは簡単ね」
背中を優しく撫でながら、うなじにキスしてくる配偶者は手を胸まで伸ばしてきた。
「はい、おしまいよ。行きましょう」
これ以上ガーシニアの愛撫を受けてしまったら一生抜けられない気がしてしまった。だからジルギスは思い切って湯の中から外へと先に抜け出たのである。
「ええ?おしまい?待って、ヴィース!」
いつまでたってもこんな風のじゃれ合いは終わりそうも無かった。
時は少し戻って直付達の飲み会へと遡る。
その日、西の拠点城で直付頭主催の親睦会を行う予定の夕暮れ時には部下達はそわそわし始めていた。
南のジルギス将軍は何か重要な任務があるとのことで、暫く王城と生家を往来するのにほど近い西の拠点城で仕事をしていた。この日は王城の竜の巣窟へ行くとかで留守にしていて、西のガーシニア将軍は遅くまで仕事をしていた。
「私は少し残業しなければならない。ラピズ、仕事を上がった者から順に親睦会を行っても良いよ。城の酒蔵に酒を用意してある。好きなだけ飲みなさい。給仕に言ってあるから、夕食はつまみのスタイルで出て来る筈だからね」
城主の部屋でガーシニアは羊の皮をめくるのに忙しくて、ラピズに早く行けと手で合図した。これは彼女なりの優しさでもある。
「ありがとうございます」
上司の仕事の中身など詳しいことまでは部下に明かされない。守るべき秘密もある。ガーシニアがまだ仕事をするというならば、それは部下であっても止めることはできないし、 将軍が自室とは言え仕事中なのに部下だけで飲み会は失礼だった。
考えたラピズは、ガーシニアが仕事を終えるまでは自分達も仕事をすることに決めた。この決定については直付の誰一人として文句を言う者はいなかった。聡明なラピズの言う事は常に現実的なものであった。
その気配を察知したガーシニアも仕事を切り上げた。急いだ為、机の上には丸めた山羊皮が山の様に積まれていたもののそんなことは気にしてはいられなかった。
「では、後を頼んだぞラピズ。皆も楽しく飲むように」
そう言い残して馬に跨ったガーシニアは思ったよりは早く帰路についた。6本足の真っ黒な毛並が地響きを立てて、砂煙を舞い上げ、とっくに太陽のいなくなった灰色っぽい夜の彼方へ駈けて行った。
重量が他の馬より遥かにある神領馬は爆発的なパワーを持つ為に、駆け出しの蹄の音が独特だった。
「お帰りになられましたね」
ぼそっとパトリスが言った。
「寂しいの?パトリス」
隣のティスが顔を覗き込んだ。
「いえ、あの、はい。少しだけ寂しいです」
あまりにも正直に言ってしまったパトリスに、聞いていた直付一同は思わず笑ってしまった。
「パトリス!閣下は無理だって。止めとけよ。そんなことより飲もうぜ!」
エスがパトリスにウィンクすると、ラピズが皆に号令をかけた。
「さあ、私達も仕事を上がりましょう。閣下がせっかく気を遣って下さったのですからね」
同僚や先輩達と一緒に大食堂に入ったティスはふと窓際を見やった。ラピズが昼の陽射しを浴びてきらきらして見えたあの時、自分が言いたかった言葉を先に言われてしまったと少し後悔したのだ。
(ティス…私と付き合ってくれない?)告白された時のラピズがまざまざと思い出された。言いたいことがあると言ってすっと両肩に置かれた手と真剣な眼差しは、ティスの頭の中を真っ白にしてしまった。
「ティス!どうしたの?さあ、早く。みんなもうグラスにお酒を注ぎましたよ」
パトリスがぐいっとティスの上着を引っ張り、テーブルに着かせた。
「西の直付全員揃った所で、恒例の親睦会を始めます」
ラピズが金色の杯に酒を注ぐとそれを掲げて声を張った。
「西に栄光と勝利を!」
「西に栄光と勝利を!」
ラピズに続いて大勢の声が大食堂にこだました。それぞれの手に掲げられた沢山のグラスが食堂の灯りを反射して光り輝いて、まるでシャンデリアの様に煌めいた。
この掛け声は西の拠点城で代々受け継がれている飲み会の掛け声だ。直付頭は金杯の酒を一口飲み机に置いた。
同時に飲み会が始まった。直付達の緊張がほぐれ楽しく宴が催される。この時には直付に付くそれぞれの補佐官達や歩兵、騎兵などそれぞれの軍の要職にある将校達も同席を許されている。更にラピズらしく、城の衛兵達も仕事が非番の者は出入り自由だった。
目の前の食事を取り、酒を酌み交わし、グラスを鳴らす軽やかな音が響き渡る。主である将軍がいないので尚更のこと盛り上がるのは世の常か。
直付達にすれば部下達とは別の気持ちはあった。ここにガーシニア閣下がいたらもっと楽しいに違いないと思ってしまう。上司でありながらそれほどの威圧感も感じず、ちょっと抜けていて、それでいながら仕事には手を抜かない。堅苦しいことが嫌いで、ちょっと面倒臭がり屋さんで、それでいて神経質。酒を飲ませたら、ざるのように飲み、酔うまでに時間はかかるが、タガが外れるといつもの倍は面白いことをするのだ。
「恒例の飲み会ですが、閣下が入ったらまずいのですか?」
ティスがラピズに聞いてみる。
「まずいと思うわ。だって、代々伝わっている軍人達の無礼講だもの。さすがに閣下の前ではねぇ」
ラピズの空になったグラスにすかさずウィルが隣から酒を注いだ。
「ラピズ、飲んだら?いつも閣下に張り付いて一番大変なのはお前なんだから」
一番年上らしくウィルは気を遣った。
「相変わらずね、ウィル。ありがとう。どうなの?伴侶様とお子さんは元気?」
「うん、お陰様でな。城の敷地内に屋敷があるから便利だし、俺も安心できる」
家族の話をする時のウィルは若干照れる。如何にも嬉しそうに顎鬚をごしごしとしごいた。
ここの直付同士は皆、仲が良い。一つのチームを組んでいるようなものなので、ラピズもそれなりに気は遣うが、今では家族同然であった。また将軍同士の仲の良さから、南の直付達と飲み会が開催されることもよくあった。
直付頭のラピズよりもウィルは5歳上である。エスとラピズは同じ歳、ティスはラピズよりも4歳下なので、直付としては珍しく相当若い。しかしバニラはもっと年上でガーシニア将軍よりも確か1歳ほど上だったようだ。
あちらこちらで酒が回って来た将校達が席移動を繰り返しだすと、宴はいよいよ盛り上がって来た。食堂の様子を観察していたラピズはすっかりウィルに捕まっているティスを呼んで、食堂から一度出ると庭に続く道へ誘った。
ウィルはティスにウィンクして手を振った。振り返ると白い歯を見せて笑っていた。それからパトリスとエスの間に割り込んで続きを飲み始めた。
「夜風に当たらない?」
騒めきがどんどん離れて行く。
ラピズはティスを廊下から表に続く道へと誘った。広い城の中庭には誰もいない。ただぽっかりと少し上部が欠けた月が雲より遥か遠くに浮いているだけだった。
2人は知らずの内に手を取り合って中庭へ続く道を歩いた。ラピズの手の温もりがティスにはここに存在している唯一の証だった。
「ラピズ、良かったのですか?私で。閣下のことは忘れられるのですか」
ティスはラピズを握った手に力を込めた。
「貴女こそ。ずっとジルギス閣下のことを好きだったんでしょう?」
「ジルギス閣下を?それは、誤解です」
2人は中庭の中央にある小さな噴水の前で立ち止まった。
ティスはいつになく真剣にラピズを見つめた。
「ずっとそう思っていたのですか?ラピズ」
「ええ。貴女と初めて会った時からそう思っていたわ」
遠くで将校達の宴の音色が風に乗って届いて来る。月明かりに浮かぶ互いの姿を改めて確認した。
「私は…私は確かにジルギス閣下を尊敬しておりますし、今も変わらず憧れの上司です」
ラピズは黙ってティスの話を聞いている。
「でも、私がずっと好きだったのはラピズでした。会った時からずっとずっと好きだったんです」
どんっと音がして走った衝撃を、自分を包んだ温もりの重圧を、ラピズはしっかりと抱き留めた。
「ごめんなさい、ティス。私が貴女を辛くさせていたのね」
ただの可愛い後輩だと思っていた。南の直付にとても若い子が入ったと聞いた時はワクワクしたことを思い出した。ガーシニア閣下はいろいろな理由を付けてジルギス閣下の所へ行く関係上バニラとも仲良しだったから、ティスともすぐに打ち解けたのだ。
「私が閣下を好きだったから、貴女もそうかもと思っていたのかもしれないわ」
ラピズは自分を抱き締める肩が震えていることに気付いた。
「ティス…」
何かを決心したようにティスが竜の洞窟にも似た漆黒の瞳を潤ませてラピズを解放し、正面から見据えた。
「ラピズこそ、閣下のことはもうよろしいのですか?それとも閣下を忘れる為に私を選んだ?」
ティスの頬を両手で挟んだラピズはにっこりとほほ笑んだ。
「貴女が私を好きなんじゃないかって前から気付いていたの。でも勘違いだったら、と思ったら怖くて。閣下のことは最初から諦めていたの。あの人の心はとっくに誰かのものだったから」
ティスの頬に涙が一筋流れ落ち、ラピズがその涙を取り零さないようにキスしてしまうのは同時だった。
月明かりに浮かぶ恋人同士が仲直りのキスをする姿はいつだってロマンチックで、何者もそこには入ることの出来ない聖域だ。
ラピズは自分の想いを詫びつつ、ティスは今迄の想いの丈を吐露するようにキスをした。こんなに想いを込めたキスをしたのは2人共これが初めてだった。できたらこのまま離れずに唇もその中へ入り込んだ赤く縺れ合う舌もそのままでいたかった。
ティスは告白を先にされてしまったことを取り戻すかのように唇を離した。
「ラピズ、今夜は私のものになって下さい。早いかもしれないけれど」
初恋の相手の耳元でティスは声を震わせて囁いた。
これがいつも猫のように懐いてくる可愛い後輩だというのかしら。ラピズには自分の肩をしっかりと捕まえるその腕の力強さも、自分を欲しいと言ってくれるその言葉もとても信じられなかった。
「ティス…後で私の部屋へ来て。部屋番号を間違えないで。一応、結界を貼っておくから」
愛しい黒髪をそっと撫でるとラピズはその額にキスをした。
「宴が終わったら、お伺いします」
ティスのまだ少しぎこちない様子にラピズは手を握って微笑む。
「さあ、戻りましょう。もしかして、もう終わってしまっているかもしれないし」
軍人達は酒が強い。中には朝方まで飲んでいる輩も出る始末なので、ラピズは時間を区切ることにしているのだ。
大食堂に戻ると、案の定潰れている者も数名いたし、まだまだ飲んでいる者も多かった。ラピズは朝と夜の中間の時間、真の闇と呼ばれる頃には大食堂から全員出るように衛兵達に伝えると自分は先に失礼するから、と宴会を抜けた。
ウィルはラピズが帰ってくるのを待っていて、入れ違いに挨拶を交わしすぐに自分の屋敷へ千鳥足で帰って行った。なぜならパトリスはいつの間にか行方不明になっていたし、エスは酔い潰れて衛兵に部屋まで運ばせた所だったからだ。
(おい、ティス上手くやったか?)
すれ違いざまにウィルに肘でつつかれたティスは潤んだ瞳を慌てて擦って、笑顔で頷いた。
ちゃんと自分の想いを伝えられたのだろうか。まだティスの不安はぬぐい切れなかったが、一度でこの長い季節を過ぎ去る程の想いを伝えられる訳がない、と考えた。
そうだ。まだ始まったばかりなのだ。ラピズだけをずっと好きだったのだときちんと伝えよう。言葉でも身体でも。さっきは酔った勢いもあって言ってしまったけど、ラピズはすんなり受け入れてくれたようだった。この会場に直付はもう自分1人だけだった。
ティスは腹を決めた。新しいグラスにそこら辺にあった瓶から適当な酒をなみなみと注ぐと一気に飲み干し、扉に控えていた衛兵にグラスを押し付けた。
「私も部屋へ上がるわ。後はお願いね」
グラスを持たされた衛兵はティスに向かって敬礼をし、ティスはガーシニアがよくやる癖を真似した。手をひらひらと振りながら廊下の向こうへ歩き去って行った。




