将軍の妊娠。
パトリスは落ち込んでいた。
「閣下を怒らせたのでしょうか…」
エスを筆頭に2人もパトリスを慰めに掛かった。
「閣下は怒ってないって。ご機嫌だったよな?」
とエスが濃縮麦酒をグラスに注ぐと、2人も深く同意した。
「そうそう、パトリスのことを”お前”って呼んでいたじゃない」
「だって…黙ってお酒飲んでろって仰って、帰ってしまわれたし」
それを聞いて3人は堪え切れず笑ってしまった。
「あれは、なんていうか、閣下の照れ隠しですよ」
「ちょっと不器用な所のある人ですから、あのようにしか言えなかったけど、後は好きにしなさいってことでしょう。気を遣ったのよ」
ラピズとティスはパトリスを挟んで座り、エスも向かい側に座り直した。
「上司抜きで楽しめってことで」
エスがラピズとティスにも酒の入ったグラスを渡して仕切り直しをした。
「とにかく、飲み直そう」
「そうしましょう」
パトリスにもやっと笑顔が戻って、ティスも内心ほっとした。
「では、ようこそ西の将軍の下に!」
4人はグラスを合わせて飲み直した。
ジルギスは手術に行く前に生家に立ち寄り、その時に家にいたステアに言った。
「1人で行けるから平気よ。帰りにまた来るわ。ブルーが出掛けているし」
「気を付けて行くのよ」
ステアは娘を信じていた。
「行ってきます!」
生家から病院まではそんなに遠くは無い。それなので生家からも誰も付けずジルギス1人で手術にやって来た。
今回は特別に直付を付けない極秘任務になっていた。その為に将軍という身分も隠してあったし、ヴィースとして病院へ入った。
この件に関しては、南の直付達は皆随分心配したし、直付頭のバニラもなかなか首を縦に振ってくれなかった。しかし、ジルギスの頑固さが並大抵ではないことも家臣一同よく知っていたので、最終的には伝令を毎晩飛ばしてくれることで承諾してもらったのである。
「閣下。閣下にもしものことがあったら、我ら直付一同、責任の取りようがありません。しかもお付きを断る極秘任務など。なぜお引き受けになったのですか?」
会議室で自分の目の前に一列に並んだ7人の直付達。その中でもすらっと背の高く純白の将校服に金髪をまとめたバニラがジルギスの前に進み出て言った台詞が突き刺さった。
その時のバニラの渋い表情を思い出すと、ジルギスは胸が痛んだ。でもまさか、自分の子を作るためだとも明かせない。
「国王陛下直々の勅令なの。私なら大丈夫よ。そんなにやわじゃないから」
バニラは溜息を一つついて、ジルギスの澄んだ碧眼を見据えた。
「閣下、必ずご無事でお戻り下さい。それから、毎日夜には伝令を。こちらからも報告を上げます」
ジルギスはこんな時、バニラが本当の姉のように思えた。年上の貫禄というものだろうか。ガーシニアがやたら懐くのもよくわかる気がした。
「わかったわ。バニラに伝令を飛ばすから。後はお願い」
直付7人が揃って敬礼した。それは一糸乱れぬ見事な敬礼であった。
自分の城のことを思い返している内に病院に着いてしまった。
病院ではタクミ先生が待ちかねていた。
「あら、ヴィース1人?アルメリアは来なかったの?」
「はい、仕事がありますから」
ふーんと言いながら、タクミ先生は手短に手術の内容と進め方を説明した。
「受精卵はすぐにできた。あなた達は遺伝子の相性もいいみたいね」
ジルギスが一瞬なんのこと?という顔をしたのを見て、
「ああ、いいわ、気にしないで。着床手術の前に今の子宮の状態を検査する。その結果で手術するか決めるから」
タクミ先生は早速検査に取り掛かった。
結論から言えば、タクミ先生の読みは間違っておらず、子宮の状態は最高で着床手術は順調に進んであっけないほど簡単に終わり、ジルギスもすぐに帰宅出来た。
彼女が帰ってから、タクミ先生は手術内容を羊皮紙に書きこむとくるくると丸めて硬い竜の鱗で出来たケースに仕舞った。
「驚くほど遺伝子の融合が早かったですね」
と、手術に携わった准医師がタクミ先生に話し掛けた。
「ええ。卵子の核を融合させるのにまるで求め合っているみたいに一つの受精卵が出来てしまった。あんなことってあるのね」
准医師も軽く頷いた。
「それに着床手術ですよ。今迄で最短じゃないでしょうか?受精卵が行くべき場所を知っているかのようにすっと着床してしまいましたね」
タクミ先生もこれには同意せざるを得なかった。
「あの二人も、もっと早く子供を作ったら良かったのに。まったく。こういうことって相性以外で何かあるのかもしれない」
もっとも、それが相性以外の何なのかは2人の医師にも説明はできなかったし、世の中には理屈や科学で片付けられない事実があることも知っていた。
ジルギスは手術が思いの外早く終わったことと、後はちょくちょく診てもらうだけでいいらしいことで安心した。帰りに王城の竜を見に寄ろうとふと思ったが、術後なので止めてまっすぐに生家に向かった。着床がきちんと確認できるまでは無理できないのではないかという心配もあった。
(こんな時、アルが近くにいてくれれば…)
結婚する時にある程度覚悟していたとは言え、子供のこととなれば、もう1人の親であるガーシニアに相談したい気持ちもあった。
しかし、そこはヴィースである。例え何があってもこの子だけは産みたい、という気持ちの方が優っており、多少の不安は自分の中に抑え込むことができた。血筋を守ることでは無く、ただ単純にアルメリアとの子供が欲しかったというのがヴィースの本音だった。
結婚してすぐの頃からずっと子供が欲しいと思っていたし、実はアルメリアが大の子供好きだということも後から知った。婚姻証書が公式の文書とは言え、あのなめしてペロンとした山羊の皮の裏側にサインをしただけだという思いがヴィースの中から消えなかった。もっと確固たるアルメリアの愛の証が欲しかった。
子供ができれば、アルは絶対に自分と子供を大切にしてくれるだろう。一生をかけて守ってくれる。はっきり言えば、証書なんてどうでも良かったが、形式的な縛りは必要だった。親の手前もあるし、自分が先に将軍職を約束された身分だとか、竜の一族の後継者問題もあったから一応サインをしただけだった。
いざとなったらあんな皮の裏に書いた文言やサインなんか何の役にも立たないことはヴィースが一番よく知っていた。人間は己の欲望に一番忠実な欲深い獣である。もしも愛の炎が消えかかれば、通常通り「離婚」という手続きを踏むことでアルとはお別れになってしまう。今は自分に夢中なアルがいつそうなるか未来のことは見当も付かない。
彼女を信じていないわけではない。アルが自分にぞっこんなのは知っているし、他の女に声をかけているのはただの冷やかしだということも見抜いている。だが万が一の不安がないわけではない。
(それに…あの人の放浪癖が…)
溜息が知らない間に出た時にはもう生家に着いていた。
アルの気まぐれな性格と放浪癖に今迄何度やきもきしたことか。久し振りに会っても、眠っている間に部屋を出ていなくなることが度々あり、それが不安でベッドの中ではアルを捕まえて抱きついて眠るのが癖になってしまった。
プライドの高いヴィースは、相手が年上であってもお願いはしない。お願いではなく「これをこうする」という実行命令なら何度もしていた。
そこら辺をアルメリアはよく理解しているようで、正面から逆らってケンカになったのは結婚してすぐの付き合い始めだけ。その後はイニシチアブをヴィースに渡し、自分の気の向くままに生きるのは変わらなかった。
「ただいま、帰ったわ」
ヴィースが生家の門をくぐると、2人の親が揃って出迎えた。
「お帰りなさい、ヴィース。さあ、入って。どう?体の調子は?違和感は無い?」
「ご飯は食べられそうなの?アルには?伝令を飛ばしたの?」
ステアもブルーも両サイドからヴィースに矢継ぎ早に質問してきた。
「ねぇ!2人共!そんなに一度に話されても聞き取れないし、分からないじゃない!ゆっくり話してよ!」
とうとうたまりかねたヴィースが叫んだ。
3人の笑い声が竜の一族の邸宅に吸い込まれるように消えていった。それはそれは幸せな笑い声だった。
ガーシニアは数日間、やきもきして過ごしていた。それというのも肝心のヴィースに全然伝令が繋がらないし、その上返事もなかったからだ。
伝令は脳内がリラックスモードの時にしか受け取れないので、緊張した状況や眠っている時などは繋がらない。
繋がらないが、痕跡は残る。痕跡を思い出すような感じで辿れば誰から伝令が来ていたかわかる…筈なのだ。
(返事が来ない…。おかしいな。今頃どこにいるんだろう?ヴィースが返事してこないなんて)
仕事を終えて帰って来ると、いの一番に湯浴み場で湯を浴びた。いらいらした時も、考え事をする時も、何かある時のガーシニアはすぐに裸で湯に浸かりたいのだ。
長かった髪もこの間肩までに切って揃えたので編み込みは難しくなった。その髪をもしゃもしゃと洗って、髪の水気を絞り、体でも洗うつもりで湯桶を取ろうと手を伸ばした。
桶が急に宙に舞った。
「私が洗ってあげるわ」
「ん?」
ガーシニアが顔をあげた先にはジルギスが裸体で立っていた。
あまりにも驚いて声を上げそびれたガーシニアの目の前で、屈んで桶に湯を汲んだジルギスの姿にたまらずガーシニアが抱き付こうとした瞬間だった。
「閣下、お背中を流しましょうか?」
今度は本当に心臓がびくつくほど驚いたガーシニアが背後を振り返ると、真っ白な着衣でパトリスが立っていた。
湯浴み場には女の子を入れないという約束を確かにしていたのに、とジルギスの中で警戒音が脳内に鳴った。
「湯浴み場でいつも何をしているの?」
ジルギスの乾いた声が響いた。
「な、何もしていない!パトリス!毎回来なくて良いと言っているだろ!」
全裸のままガーシニアは立ち上がって、パトリスに向かい合った。
「だって…体を洗って差し上げようかと思いまして」
「だから、それはいいって。ラピズからも聞いてるだろ?」
このように断り続けるとあまりにもパトリスがしょんぼりするので、いつもはガーシニアが折れて洗ってもらっていたが、さすがにジルギスの前でそんなわけにはいかない。
「ああ、この子が新しい直付ね?」
ジルギスは急に思い当たり、裸のままパトリスの方を向いた。
「ジルギス閣下、ですね?閣下のお背中も流しましょうか?」
というパトリスに、ガーシニアは入り口を指さして言った。
「パトリス、ここはいいから下がって。後で改めて呼ぶ。その時にジルギス将軍に挨拶してくれ。いいな」
「はい、かしこまりました」
パトリスは嬉しそうに2人に敬礼すると、うきうきした足取りで去って行った。
ジルギスが納得いかない顔をしながら、ガーシニアの胸を洗い始めた。
「そこから洗うのかい?」
あまりにも急だったのでガーシニアはぞくぞくするのを我慢して洗ってもらっていた。
「あの子…どこかで見たことあるような無いような…」
「その…ヴィース?どうしてここに?いつから来ていたの?」
密着するほどの距離で体を洗われていると、だんだんガーシニアも妙な気分になってくるのを実感した。互いに裸でいるのも要因だが、ジルギスの手の平が優しくガーシニアの肌を泡立てながら滑る快感を我慢している。下手をすると理性が吹っ飛んでいきそうになるのをぐっと堪えた。
さっきはヴィースに抱き付かなくて良かった。うっかりしてパトリスに見つかってしまうところだった。また何があるか分からない。
「ああ、私?さっき着いたら、あなたがここだって聞いたのよ。だから一緒に入ろうと思って」
ジルギスはそう言ってガーシニアの泡を流してやり、最後にその額に軽くキスをした。
「先にお湯に浸かっていて。私は後から入るから」
「ん?ああ、そうする」
ガーシニアは毒気を抜かれたように湯に浸かって、自分の伴侶が体を洗っている姿に見惚れていた。一体何をジルギスに聞きたいのかすっぽ抜けてしまって、ガーシニアはぼんやりとしていた。
(可愛いなぁ)
結婚してからどれくらい経ったのかさえおぼろげで、付き合い始めの頃のことも、その後の時間の流れも、ガーシニアにとってはどうでもいいことのように思えた。重要なのは、現在ヴィースが自分の伴侶だということだけだった。
2人が部屋に引き上げてから、改めてパトリスが呼ばれた。
「先程は失礼致しました」
パトリスは紺の将校服を着用して来た。
「ああ。こちらが南のジルギス将軍だ。今日は休暇で寄った。隣の主賓2番ルームを使うから用意しておいて」
「初めましてパトリス。私がジルギス地方管轄の将軍よ」
ふんわりとした薄い夜着を身に付けたジルギスが挨拶した。
「将軍閣下、今後ともよろしくお願い致します」
パトリスは片膝をついて挨拶した。
「ところで、パトリス。あなた、ここに来る前にもっと北東の国で養成兵舎にいたことない?どこかで会ったような気がするんだけど」
ジルギスが何かを思い出そうとしていた。その表情に見覚えがあったガーシニアは数日前にフレデリックも同じことを言っていたことに気付いたが、今はそれどころではなかった。
「いえ、私はそちらの出身ではありませんので」
パトリスは笑顔で答え、部屋の用意をすると下がって行った。
「おかしいわね。確かにどこかで会っているような気がするんだけど」
ジルギスは椅子からソファに移り、考え込んでいた。
「ヴィース。ところで、その、着床手術はどうしたの?終わったんだろう?」
ガーシニアがいつになく真剣な顔をしてジルギスを見つめている。
「え?あ、そうだったわ。ふふ、順調よ。着床手術はとっくに終わったけれど、経過観察をしてタクミ先生から合格を頂いたわ」
「おおっ!それじゃあ…」
「妊娠したのよ」
ガーシニアはこわごわとジルギスの下腹部に手の平を当てた。
「いるの?生きてる?」
ジルギスはくすくすと笑った。
「まだ、分からないわ。生きているのは確実だけれど、分かる程の大きさじゃないのよ」
そう言ってガーシニアを見たら、彼女は両目を潤ませて泣きそうになっていた。
「ああ、ヴィース。どうしよう。今夜は私のベッドに寝て。そちらの方が大きいから。私は2番ルームで寝る」
驚いたヴィースがガーシニアの襟首を捕まえて乱暴に隣に座らせた。
「ちょっと!一緒に寝ないの?」
「だって!何かあったら困るだろう?そんな、まだ妊娠初期だって言うのに!結界もちゃんと貼る。心配は無いよ。私はすぐ隣の部屋で寝ているし」
ジルギスはガーシニアの襟首を掴んだまま締め上げた。
「…ヴィース…な、何が気に入らない?」
「一緒に寝ないこと」
「は、放して…死んじゃう…」
ガーシニアはようやく解放されぜいぜいと息を切らせた。
「お腹に何かあったらどうするんだ?」
「それを守るのがあなたの役目でしょ?」
ソファに座ったまま2人が言い争いをしているところにノック音がしてパトリスが顔を出した。
「お取込み中、申し訳ありません。支度が整いました」
ガーシニアは今迄の話が聞かれなかったかどうか、背中に冷や汗を垂らしたが、ジルギスは妙に落ち着き払って言った。
「ありがとう、パトリス。私はもう休むから下がっていていいわ。今から結界を貼ります」
パトリスは敬礼して下がった。
「かしこまりました。では、おやすみなさいませ、両閣下」
「おやすみ」
パトリスの足音が聞こえなくなるまで2人は動かなかったが、ジルギスが溜息をついて言った。
「いいわ。じゃあ、あなたの言う通りに寝ましょう」
そういうとご機嫌斜めのままジルギスはガーシニアの主賓用ベッドに横になった。
「だって。私の言うことがわかるだろう?なぁ、ヴィース?怒ったの?」
上から薄い毛布を掛けてやりながらガーシニアが聞いたが、ジルギスはもう返事をしてはくれず背中を向けられてしまった。
ガーシニアはとぼとぼと隣の2番ルームのベッドへ行き、少し狭いそちらのベッドに横たわった。ヴィースと一緒にいる時には寝る時も一緒なのが当たり前だったから、こうして別々に寝るとなるとなんだか落ち着かないのはガーシニアも同じだった。すぐそこに伴侶がいるのに。
でも同じベッドで寝たら、自分はすぐにヴィースの生の肌に触れたいと思ってしまうし、そうなったらとても制御できないことを知っていた。彼女を抱いたまま何もしないで朝を迎えるなんてことは特別に疲れている時ですら難しいし、まして今は彼女が普通の体では無い。そんなことをして、もし流産にでもなってしまったら大変だ。
ガーシニアはガーシニアで複雑な気持ちを抱えたまま眠れるわけもなく、ぎゅっと目を瞑ったまま転がっていた。
灯りを消した暗い2番ルームでガーシニアはまんじりともしなかった。
どのくらい横になっていただろうか。全く落ち着かなくて、目を瞑ってもいつものように眠りに引きずり込まれない。
(ああ、どうしよう。ヴィースにあんなことを言った手前、今更だし。こんなことじゃ明日仕事にならないし)
何度か無駄な寝返りを打ってみる。
このままでは、いつになったら朝が来るのか気が遠くなりそうだった。
こっそりとトイレに行き、その帰りに隣にある自分の主賓室ベッドを覗きに行ってみた。いつもは窓を開け放して寝ているが、今夜はヴィースが寝ているので窓もカーテンも閉め切ってあった。
忍び足でそっとベッドの側に寄りジルギスを窺う。
(よく眠っているかな…)
ベッドで横になって眠っている愛らしいジルギスの唇が薄墨のような闇の中で赤く見えたので、顔を近寄せてジルギスの寝息を確認してみようとしてみた。
「アル、やっと来たわね」
眼を閉じたままのジルギスが言った。
「え?寝言…?」
心臓がどくんと鳴った。ガーシニアはジルギスの顔をよく見ようと近寄っていくと同時に、ゆっくりとジルギスの唇がガーシニアの唇を捉えた。
「…んん…ん」
口を塞がれたガーシニアは気を付けながら、ベッドに這い上ってジルギスの上に跨り、体重を掛けないように四つん這いのままキスを続けた。
知らず知らずに荒い息遣いが出る。唇の端から流れ出そうになる涎をガーシニアは急いで舌で舐め上げ、その瞬間に唇を離しジルギスの隣に転がると、同じ毛布の中へするりと潜り込んだ。
「遅かったのね」
ジルギスが透き通るような海を瞳に湛えていた。先程まで閉じていたはずの瞳は、ぱっちりとした二重でガーシニアを見つめている。
その瞳に促されてどきどきしながらガーシニアは尋ねた。
「怒っている?」
「怒ってないわ。でも、いられる時には側にいてよ。そんなことくらい言わなくても分かっているかと思ったのに」
ガーシニアはこわごわとジルギスの体をベッドの中で抱き締めた。
「そうしたかったけど…その、自分を抑えきれないと思って。ヴィースを傷つけたくない」
「バカね。そんなに弱くないわ。それにお腹のことなら普通にしていても大丈夫よ。だって異性婚の時の着床はいつ、なんてわからないでしょう?」
それもそうだ、とガーシニアは納得した。
「子供は初めてだから、よくわからなくて」
「私も同じよ」
ジルギスの体温はいつでもガーシニアを安心させた。この腕の中にヴィースがいる。決して手放したくないという思いと生きている実感をまざまざと噛みしめる。
「ヴィース、いつもより体が熱いみたいだね。熱があるの?」
ガーシニアは自分の腕にジルギスの頭を掻き抱いて、壊れないようにそっと抱きながら聞いてみる。まるで行為が終わった時のような熱さだ。
「体温が少し高いみたい。でも熱があるわけじゃないのよ。そうね、月のものの時に似ているわ」
「そうか。風邪じゃないならいい」
ジルギスはガーシニアの胸に抱かれると何とも言えないような気持ちになった。自分と同じ性であるのに、自分よりも一回り体格が良くて、しっかりと自分を受けとめてくれる。そんなアルのことが大好きだった。
着床が確実になるまでわざと伏せていて、病院から合格サインが出たらガーシニアを驚かせるつもりでこっそり会いに来たのに、よりもよってその晩に一緒にベッドに入らないなんてことがあるかしら。ガーシニアの心配性が発動するとは予想外だった。
もちろん、そのことにジルギスは拗ねて寝てしまったのであるが、どんなに一緒に寝たくても自分からガーシニアの下へ行ったりしないところがその頑固さを物語っている。
一方のガーシニアは気になったらどうにもならなくて、つい自分から様子を見に行ったり、頭を下げてしまったりするほど好きな人には逆らえない。
ガーシニアのことならほぼ手の内にあるように分かる。単純で少し気弱で繊細で大胆。付き合い始めの頃、結婚のことをやたら心配したガーシニアに向かってジルギスは言ったものだ。「付き合いは長さじゃなくて深さが重要なのよ」ジルギスの言葉はガーシニアにとって魔法の言葉。それ以来、ガーシニアはのびのびとジルギスとの付き合いを重ねていった。
ジルギスはその内にガーシニアがそわそわして自分のベッドに来るに違いないと読んでいた。
「思ったより時間がかかったけれど」
そうぼそっと呟くと、ガーシニアの胸に顔を埋めた。
「…え?何?何か言ったかい?」
「なんでもない」
すっかり安心し切ってしまったガーシニアは驚くほど早くウトウトと眠りかけていた。ついさっきまで眠れず何回も寝返りを打っていたことなど嘘のようだ。ガーシニアはあまりにも夜更けになり過ぎたので裸になる暇もなく、望み通り妊婦のジルギスをそっと腕に載せて眠った。
連日、ラピズはパトリスに付きっ切りで仕事を教えていた。
その様子をちょっと遠くからティスがチラ見しながら気を揉んでいた。
(ラピズのパートナーは自分なのに)と思ったり、(新人なんだから直付頭のラピズが教えるのは当たり前ね)と思ったり忙しい。
西の拠点城に上がっている時は尚更だった。そんなティスを見かねたウィルが七色ソーダを奢ってくれた。
「ほら、飲め」
「いいの?」
「ああ」
ウィルは顎鬚をしごきながらティスを繁々と眺めた。
「パトリスがいつも一緒にいるのが気になるんだろう?ラピズを取られて悔しいか?」
そういうとにやっと笑った。
「そ、そんなこと無いよ。パトリスも真剣に仕事していますもん」
「へぇーそう」
ウィルは自分も七色ソーダを飲み干すとティスの顔を覗き込んだ。
「本当は気になるんでしょ?」
ティスは口をへの字に曲げて首を振った。
「あくまでも仕事です」
「意地っぱりだなぁ」
ウィルは自分のグラスとティスのグラスをテーブルの脇へ片付けて、両肘をつき手を組んで顎鬚を乗せた。
「お前がパトリスと組んだら?」
「私が?」
「いい考えだろ?」
パトリスの手腕にもよるし得意分野にもよるが、内政よりは外の仕事が向いているティスとパトリスが組めば、ラピズは直付頭として少しは手が空くのだ。
「でも、そんなこと私から言い出せないし」
ウィルは少し首を傾げて考えていたが、
「ティスが早くラピズと付き合えばいいんじゃないか」
というと顔を上げて指をパチンと鳴らした。
「いい考えだろ?」
ティスはさっと顔を赤らめて「全然よくない!」とウィルに向かって怒っている。
「そんなに気にしなくても付き合えば気が楽になるんじゃないかなぁ。多分、ラピズだってまんざらでもないんじゃないかって俺は思うんだけどね」
ティスは黒い月のようなきれいな瞳にウィルを映して言った。
「兄貴の言うことは大体宛にならないから」
「おっ!俺のこと信用しないっての?」
「できるか、ボケ」
このやり取りがウィルとティスである。
「いいよ、じゃあさ、今度城で直付だけの飲み会があるだろう?あの時に告白しろって。絶対にうまくいくよ」
「ちょっと、随分な自信じゃない?何か企んでる?」
ティスがウィルを睨むと、ウィルは肩を竦めた。
「企んでる?さあな。そいつはどうだか」
ウィルは立ち上がるとティスの肩をぽんと叩いた。
「じゃ、そういうことで!飲み会主催はラピズだからな!」
そう言い残して去って行くウィルを見送ってティスはぶつぶつと小声で文句を言った。
「人の気も知らないで。まったく」
さて、自分も仕事に戻ろうと立ち上がったら目の前にラピズが現れてぎくっとした。
「ティス、探したわ。ここにいたのね。パトリスに休憩させてきたから、この間の続きの仕事をやってしまいましょう」
「はい、ラピズ」
ラピズはティスの様子がいつもより元気が無いような気がした。
「どこか具合でも悪い?」
「え?いえ、体調は万全です」
ラピズの肌の色にも似た濃いブラウンの瞳はいつでも真実を見抜いているようであった。
「そう。ならいいけれど。無理はだめよ。私の次にパトリスの面倒はティスに見てもらうことになっているから、先輩としてしっかりね」
それを聞いたティスは思わず叫んだ。
「嘘っ!」




