僕は知らない
その人の大切なものが他の人にとって大切なものとは限らない話
昔、祖父の宝物に触ったことがある。
あれは、僕がまだ小学生になって間もない頃だった。
箪笥の一番上に乗っていた小さな木箱が気になって、持ってきた椅子に立って、懸命に手を伸ばして掴み取った、変哲のない木箱。
ほこりを払うと箱から、まるで笑うかのように、からからと音がする。
不思議に思って、僕はそれを開けてみた。
けれど、中に入っていたのは、何の変哲のない石だった。
まるで子供が訳もなく詰め込んだ気まぐれの宝物のような、そんな感じだ。
手に取って目の前に持ってくる。石は見た目に反して、ずしりと少し重かった。
そのまま、いろんな角度から石を眺めてみるが、やはりただの石。
(なんだこれ)
「シズ」
「じーちゃん」
振り向けば、祖父がこちらを見ている。
いつからいたんだろう、と訳もなく罪悪感と緊張が襲った。
もしかしたら、大事な物だったかもしれない。
祖父は石に釘付けで、こちらに近づいてきたかと思うと、僕から石を取って、さっきまでの僕みたいに、珍しい物を見たかのように、石を眺め回す。
「これはまた、懐かしい」
そう感慨深くつぶやいて、僕が持ってきたイスを見るとそのまま顔を上げて、箱が置かれていた箪笥の上を見る。
そしていきなり笑い出した。
「ハッハッハッ。そんなところにあったのか。全く覚えとらんかった」
と言い、石を僕が持っている元の箱に納めた。
僕は呆気にとられたまま石を見て、祖父に尋ねた。
「じーちゃん、これ何?」
そう言って戻された石を差し示す。
見るからにただの石で、とても価値のある物に見えない。
箱の中の石は少し揺れて、乾いた音を立てた。
祖父は相変わらず懐かしそうに笑って、僕の知らない過去に耽っているように見えた。
「それはじーちゃんの、大切なものだよ」
僕にはそれが理解できなかった。
大切なものならきっと価値のある物だろうが、こんな石に価値があるのだろうか。
まじまじと見つめる僕に、祖父は笑う。
「価値はない。他人から見ればただの石ころだ。それは、じーちゃんにとって大切な石なんだ」
ますます訳が分からなかった。
顔をしかめている僕の頭を強くなでて、箱に蓋をすると、ひょいと僕の手から持って行ってしまった。
僕は思わず声を上げ、けれど祖父はかまわずに僕に背中を向けて、それを持って行ってしまった。
それ以来石を見ていない。
僕が高校に入って、祖父がとうとう死んだ。
前から体を悪くして病院にいたから、もうこの家に帰ってくることもないかもしれないと、生半可な覚悟はしていた。
だから祖父が死んでも、僕は淡々と作業をこなせるし、泣いたりもしない。
祖父の身辺整理が早々と始まる。
そこで、祖父が懐かしそうに見つめていたあの石を見つけた。
懐かしい変哲のない箱を見つけて、内心驚いた。
まだあったのか。
大切なものだと言っていたけれど、どうして大切なのかは聞かなかった。
きっと、聞いても話してくれなかったかもしれない。
そう思いながら蓋を開けてみる。
やはり、中には何の変哲のない、ただの石。
家の近くに転がっている石と一緒だ。
本当に、なぜこの石が大切なのか、取り出してあの時のように眺め回す。
こんな石が大切だというのだから、きっと深い理由があるのだろう。
しかし、それは誰も知らない。
父に聞けば何か知っているかもしれないが、祖父は死んでしまった。
この石は、誰にとっても大切なものではなくなった。
僕は箱を置いて、石だけ握りしめて、外へ行く。
外はまるで祖父の死を悼むような薄暗い雨模様だ。
僕は傘も差さず、外に出た。
激しい雨ではない、ただ悲しむように降る雨の中。
僕は握っていた祖父の石を投げ捨てた。
石は音を立てて少し飛び跳ねて、そして次第に周りの石と混じって分からなくなった。
僕は石を投げ捨てた方を見つめる。
似た石ばかりが敷き詰められて、雨に濡れて光っている。
雨は僕も濡らして、真っ黒な服がますます重みを増した気がした。
髪を濡らし、頬を濡らし、僕を伝っていく。
あの石はもう誰にとっても大切なものじゃない。
けれど、祖父にはあの石に大切な、誰も知らない何かがあった。
僕はそれを投げ捨てた。
祖父が知ったら、怒るだろうか。
でも、僕にとっては、ただの石なんだ。
そしたら途端に悲しくなって、冷えた頬に熱い物が流れていった。
じーちゃんは、もうこの世にいないんだよ。
もう意味はないんだ。
僕は何も、知らないんだ。