隣人
殺した人間は正直、数えきれない。
男の首に突き立てていたナイフを引き抜くと、奥に留まっていた血がごぽりと溢れだした。飛び散ったものが少量服にかかるが、すぐにハンカチで拭きとる。ついでにナイフをコーティングしているおびただしい血も拭おうとしたが、既に絞れば赤が滴り落ちそうなぐあいだったためあまり満足には拭きとれなかった。
男の周囲には少々過剰とも言える量の血が飛び散り、それぞれがまだらで細長い模様を描いていた。ナイフを突き刺した瞬間、男が急に暴れ出したことによるものだ。流石にこちらも驚いて、思わずかなり奥までナイフを押し込んでしまった。おかげで引き抜くことにも時間を要されたというものだ。これでは床まで達して広がった血を踏まないように気を張らなければならない。手間が増えたことに対し、微かな苛立ちが募る。
首にぱっくりと開かれた断面を一瞥すると、なんだか別の生物を見ているような気分に陥った。今にも触手が生えて、喋り出しそうな雰囲気だ。時折そういう発想をしてしまうのは、そんな内容の漫画を昔読んだことがあったからだろう。父親の悪趣味極まりないコレクションのひとつだったが、それも彼を殺した時に汚してしまったため続きを読むことはかなわなかった。父親の悔いがあるとするならば、同じく愛読書の結末を迎える前にこの世を去ってしまったことだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、玄関の方から物音が聴こえてきた。男の娘が帰って来たのだ。こんな早朝から出かけていたようだったので内心ひやりとしていたが、どうやら近くのコンビニかどこかまで出向いているだけだったようだ。小さく安堵の息をつき、肩を落としてから、気持ちを切り替えにかかる。頭の中を真っ白に覆い尽くすイメージと共に五感を限界まで研ぎ澄ませ、視界のピントのズレをあわせ直し、歯もしっかりと噛みあわせる。そしてリビングの扉を開けた娘と目が合った次の瞬間、彼女の前髪を掴み壁に思い切り叩きつけた。
レジ袋の中身が音を立てて散じていく。少女が身体をよろめかせ、目を白黒させているうちに床へズルズルと引き摺ると、首にあてがった膝に思いきり全体重をかけ、的確に喉を潰した。膝ごしに鈍い衝撃が伝わり、痛みから本能的に絞り出された少女の悲鳴が小さく濁る。それでいい。大声を出されたらたまったものではない。
早めに抵抗する気を失わせておかないと厄介なことになる、というのもこれまでの経験から得たものだった。少女が低く掠れた咳と嗚咽を漏らしながら這いつくばり、身体を丸める。喉を潰されたことと現状を未だ理解できないパニックが相まって呼吸困難に陥っているようだ。その有様はさながら地に落ちて絶命する寸前の羽昆虫を連想させた。先ほどの失敗を踏まえ、念のため脚か腕、どこかを数回刺すことも考慮していたが、まともに頭が回っていないこの様子なら、これ以上牽制を加える必要もないだろうと判断する。過度に傷を付けるのは自分の趣味ではない。避けられることなら、むろん避けたい。
少女の前方に立ちはだかり、ゆっくりとしゃがむ。髪を引っ張って頭を無理やり持ちあげると、少女の顔は涙と鼻水でグシャグシャに引き攣っていた。抵抗するような気迫はまったくなく、今にも嘔吐し、気を失いそうなほど震えている。あどけなさの残るかわいらしい顔が台無しだ。
興味は依然、その下にのぞく首に寄せられた。今は赤黒く変色しているため判別しづらいが、元はとてもまっさらで綺麗だったのだろうことが伺える。首に横皺がほとんど見られないのは、普段から姿勢が良く、あまり下を向いたことがない証拠だ。まだ中学生か高校生ぐらいだろう彼女が快活な様子で教師に挨拶をし、友人と明るく言葉を交わす場面を思い浮かべる。
彼女の末路は誰が見ても明白だ。それならば、この苦しみと恐怖から早めに解放してあげることが自分に出来る、せめてもの優しさだろう。
少女の首にこれから一線を引く瞬間を思い描きながら、もったいぶるようにナイフを振り上げた。
依頼者と標的の関係や因縁など知らない方が良いという同業者もいるが、個人としては断然、聞けるものなら聞いておきたいという好奇心が強かった。こんなマイナーな殺し屋を探し当て、人殺しを依頼にやってくる人々をそうまで突き動かすほどの絶対的な恨みを興味深く思ったのだ。
依頼を請けましょうと言うと、たいてい彼らは一様に力を抜いて表情をほの明るくさせる。殺人の相談中らしからぬその表情は、きっと家族や恋人と過ごしたり、友人とたわいのない話をしたりする時に浮かべるものと、なんら変わりないに違いない。
洗面台の蛇口から流れる水が赤く染まる。
一応洗ってはみたが、やはりもうこれは使い物にならない。小さく息をついて、堅く絞ったハンカチを脇に置く。顔を上げると、目前の鏡に半開きになっているリビングのドアが映っていた。リビングの中のあれらは、果たしてどれぐらいで見つかるだろうか。早ければ早いほど良い。
依頼内容が特殊だとやはりそれなりのリスクを持って挑まねばならないため、緊張感も常より三割増しだった。間違いなくこれから一ヶ月ほど色々なものを引き摺るだろうが、そのぶん報酬も弾む。やりがいは確かに大きい。ただ、もう当分このような依頼は受けたくないというのが本心だった。大手はよくあんなものを軽々とこなしてられる。まだやるべきことが山ほど残っているのに、もうどっと疲れが来るようだった。
どこからか気持ちの良いそよ風が入り込んでいる。
とめどなく流れる水に暫く両手をさらしていると、行き場のない視点が錯綜して目の前がぼやけた。
「あ、……あーあ」
部屋の鍵がない。ついでに大家の車もない。
なんと巡り合わせが悪いのか。途方に暮れるように自分の住居であるボロアパートを見上げる。
鍵……落としたのかな。今から数時間分の自分の行動を逆算するが、いまいち思い当たる節はない。先ほど電車から降りた際には所持していたので、とりあえず殺害現場に落とすようなへまをやらかしていないことに安堵する。コンビニで弁当を買って、公園で食べて、小学生にちょっかいをかけられて、そこから数十分歩いて此処に至る間に落としたのだろう。
道を戻って鍵を探すべきか、まず大家に連絡すべきか。できればあまり業者は呼びたくない。頭上に浮かび上がった選択肢に悩んでいると、ふと開け放たれている窓が目に入った。寒色のカーテンが涼しげに揺れているのをしばらく見つめ、既視感の正体を知る。
――絶好の巡り合わせだ。
無意識に自分の口元が吊り上がるのがわかる。心の内にも逸るものがとめどなく沸き上がる。こうなっては居ても立っても居られないのが自分の性分だ。
あの部屋に住まう同類の姿を思い浮かべながら、迷わず柵に手をかけた。
隣人
殺した人間は正直、数えきれない。
老若男女は問わない。被害者の名前はいくつか憶えているのもあるが、たいていあやふやである。気分で殺すこともあれば、きちんと計画を練って殺すこともある。さくっと一振りで終わらせることもあれば、ねちねちと蹂躙して解体することもある。悪逆非道と罵られたこともあった。躊躇のない様が爽快だと讃えられたこともあった。しかしどれだけ有象無象の屍を築いても、生者から有象無象の言葉を投げかけられても、何も満たされた気がしない。むしろ言い知れない気持ちの悪さがいつも腹のあたりでぐずぐずと渦巻いている。そんな何とも言い難い不快感を振り切りたいがために、また人を殺す。
全ては人を殺し続けることが自分の存在意義だと彼らに定められたあの日から。
そうしていつしか僕は、ミステリ小説家と言う名の連続殺人鬼と成り果てていた。
「先生の最新作、読みましたよ! いやあ、今作も相変わらずバタバタ人が死にましたね。108式どころじゃありませんよ」
上機嫌な声を浮つかせながら無遠慮に窓から侵入してくる男をまず「止まれ」と制した。登場があまりにも自然で日常じみていたので一瞬受け入れそうになったが、自分の中に強く秩序を押し戻して思いとどまる。男は言いつけ通り窓の桟を跨ぐ姿勢を維持したままニコニコと爽やかな笑顔を絶やさない。ここ何階だと思ってるんだ。
「何しに来た」
「だから、先生の最新作の感想を言いに来たんですよ」
「感想ならさっきのでもう十分だ。帰れ」
またまたぁ、とまったく悪びれない様子で笑う不法侵入寸前の男。その姿勢は先ほどからほぼ変わっていないが、宙に浮いた片足がだいぶグラグラしてきていた。一応遵守する気はあるんだな。窓から入ってくるなっていう再三再四の警告以外は。
「いやあ、……実は、部屋の鍵をなくしちゃって。大家さんは出かけてるみたいだし、少しの間あげてはくれませんか、先生」
赤茶けたくせ毛の跳ねる後頭部を掻きながら男が苦く笑う。その鼻につく笑顔も、軽すぎる身のこなしも、先生という呼び方も、何から何まで相変わらずで気に入らない。しかし改まれた手前では流石に僕も鬼にはなれず、用意していた拒絶の言葉が行き場を無くしてわずかに口ごもる。
「……それならそうと早く言え」
あまり気は進まないが、やむなく奴を部屋に招き入れるほかなかった。「もてなしなんてないからな」と言うと、「最初から期待してませんよ」と爽やかに返ってきた。僕という人間をよくわかっている。
訪ねる理由があるならなおのこと玄関から来いよという文句は、今回だけ飲み込んでやる。自分の著作を発売当日に買い上げたうえ、すでに読了済みという心意気は正直、ありがたいものだった。
「もう少しで足を攣るところでしたよ」
窓の桟に座ってストレッチをしている馬鹿を横目に静かにため息をつく。この男――名を宇佐見と言うが、不本意ながら僕の住まうボロアパートの隣人である。面持ちは清涼飲料水の似合いそうななかなかすがすがしい二十半ばの青年といった風情だが、口を開けば飄々と人を食ってかかる、先ほどの窓の一件のようにアグレッシブで突拍子もない行動に出るなどの厄介な性質を持ち合わせているため、彼を少しでも知っている人間は迷わず避けて通ること請け合いだろう。常に彼が着こなしている毒々しい色合いの軽装は、今日も知る人ぞ知る危険信号の役割を果たしていた。
「窓から入ってこなければいいんだ」
「だって先生、すぐ居留守使うじゃないですか。久しぶりにちょっと顔を見たくなったんですよ。可愛いものでしょう」
作業机の椅子に腰かけながら冷やかな視線を向けると、それを受けた宇佐見はわざとらしく首を傾げて、こちらの様子を伺うように静かな笑みを浮かべた。なんだか何か言い返す気も失せたので目を逸らす。
宇佐見の職業は殺し屋である。但し、頭に自称がつく。というのも、奴が人を殺しているところを見たことないからだ。かと言ってその場面を証明として見せられても困るが。
ミステリ小説家としてここ数年すっかり慣例に従うように人殺しが登場する小説を書いてばかりいるものの、殺し屋などという物騒なものが現代の日本に存在するとは到底思えないというのが僕の本心だった。ましてやこんな身近にいられてはたまらない。
つまるところ、こいつの言うことなどまったく信じていないというのが現状である。
「すっごい散らかってますけど、何してたんですか? それにこの段ボール何が入ってるんです?」
右と左の手にひとつずつ靴を持って部屋にあがった宇佐見が忙しない質問を投げかけてきた。窓にしがみついていた時からずっと気になっていたのだろう。カーペットの上にあぐらをかいて、僕の部屋に無造作に置かれた段ボール箱の中身を覗いている。
「ただの整理だ。見本誌を置く場所すら無くなってきたからな。それに入ってるのは昔の原稿とかだ、たぶん」
勝手に見るなよ、と忠告する前に宇佐見は箱から紙の束を取り出して読み始めていた。行動が早すぎる。好奇心に逆らえないというよりは、はなから逆らおうとしていないのだろう。宇佐見はそういう奴だ。
ものを読み始めてからの宇佐見は妙に静かで、普段の饒舌や落ち着きのない態度はすっかり息を潜めていた。黙っていれば本当にただの爽やかな好青年だなと物珍しさにしばらく観察するが、それにしてもそこまで真剣に読まれると逆にこちらが落ち着かない。なんせ昔の自分の作品だ。先ほど自分でもいくつかかいつまんで読んでみたが、稚拙な描写とご都合主義の展開に溢れていて思わず目が眩んだほどである。
ともあれ、宇佐見が読み物に耽っている以上部屋が片付きそうにないため、僕も一旦机に向かうことを余儀なくされた。すっかり宇佐見のペースに呑まれていることへ軽い頭痛を憶えたが、今は行き詰まっている小説の続きをどうにか書き起こすことを先決とする。
マウスを揺らしてスリープを解除すると、淡い光を放つパソコンの画面に向き合って、テキストエディタに表示されている文字の羅列を読み返す。しかし、いざ書こうと思ってもなかなかそうはいかないのが現実である。頭の中に渦巻くのは要領をいまいち得ない言い回しばかりで、辟易としながら一行書いては消し、また書いては消す。これでは現実逃避に部屋の片付けをし始める数時間前の自分と何も変わらないではないか。身の内に重荷が積み上がるのを感じて早くも投げ出しそうになったが、背後で紙を捲る微かな音がして思わず背筋を伸ばした。いかんいかんと頭を掻く。
迷っているところをとりあえず後回しにして、先の展開を大まかに書き出すことにした。詰まっている部分を過ぎれば続きはすらすらと書ける。やはりどうにもここが鬼門らしい。区切りがつくくらいまで広げたプロットを整えながら、悶々と思考を彷徨わせる。
人殺しを主人公に据えた一人称短編。舞台や話の筋、だいたいの登場人物はなんなく創り上げたが、何食わぬ顔で人を手にかける主人公の心の機微がいまいちしっくりこない。そんなものだから、主人公が人を殺すシーンにも当てはまりが悪いものを感じてしまい、手をつけることがままならなくなっていた。
書き手である僕が人を殺したことがないのだから、人殺しの心の傾きがわからなくて当然ではある。しかし派手な冒険譚や戦闘を苦手としているぶん、人間の心理や姿の描写に重きを置いたものを書く自分にとって、それは決して手を抜けない重要な要素だった。
何も考えずにだらだらと綴っているだけでは、どうしても過去に書いたものが出てきてしまう。そうはわかっていても、何ひとついいものが思い浮かばないあたり、最近とんと外に出ていないおかげで、どうも人という生き物に鈍感になったことをひしひしと感じさせられる。人間、新しいものを吸収しなければ、何も変わらないどころか、ただの出涸らしとして退化してくだけだ。
ともあれ、もうしばらく悩む必要があることに変わりはないので、久々に遠くへ外出することを考慮のひとつに加えながら、原稿を上書き保存し何気なく宇佐見に振り返る。やつはまだ読んでいた。
「……そんなに真剣に読むほどのものか?」
「こう見えて本の虫ですからね。子供の頃は文もよく書いていましたよ。小説家を目指していたわけではありませんけど」
宇佐見は手元から目を離さないまま淡々と応じる。
「子供の頃ね……」
仕事柄、想像力はそこそこ豊かなはずだが、あまりぱっと浮かばない。視線を巡らす僕に対し、宇佐見が顔をあげる。
「無垢なる少年時代くらい、俺にもありますよ。ウサミミって呼ばれてそれはもう大人気で」
知らねえよ。
僕の心境を見透かしたように、宇佐見が楽しそうに笑う。
悪餓鬼のていではいるが、宇佐見のぴんと伸びた背筋や、指の先まで芯の通ったような身振りからは、習慣として身に染みついた行儀の良さが滲み出ていた。常識にあえて無頓着に振る舞っているだけで、実は良家の出と聞いてもきっと僕はそれほど驚かないだろう。
ところどころに点在する妙なところを除けば、宇佐見は基本的にいいやつではある。ただしこの男の、完璧と言っていいほどのまるで違和感のない笑みには、時折なにか強い抑圧を感じてならない。それだけがいつまでも引っかかって、笑みを返すことに本能が躊躇う。
「この辺のとか、今と全然毛色が違うからびっくりしましたよ。こういうのも書くんですね」
宇佐見が床に積まれた紙束の表面を撫ぜるのを横目に、「昔はな」とぶっきらぼうに返事をした。あまり思い出したくないことだった。
昔はありふれた小説を書いていた。魔法が飛び交い動物や無機物が喋るハートフルなファンタジーとまではいかないが、それなりに明るく、平凡で、ほの暗いなかに希望のある青春ミステリを綴っていた。将来を見込まれ担当編集者がついたまでは良かったが、世の中が求めているものはもっと過激な毒と刺激と死なのだと荒廃したリアリティを追及され、徹底的に研磨された結果、今では数いるミステリ小説家の中でも尖ったものを書く人間になってしまった。癖のある小説家というと、すぐに名前が挙がるほどだ……というのは、宇佐見談だったか。
自分が小説家として成長したとは微塵も思っていない。売り上げの数字が作品を重ねるほど上がっていこうが、書店で注目の一冊として平積みにされようが、自分とはどこか遠くに切り離されたものに感じる。確実に言えることは、デビューしてからの僕は、人として複雑にひねくれていったということだけだった。
「今では人を殺すのになんの抵抗もなくなったな」
「その発言だけ切り取ると、先生本当に殺人鬼みたいですよ」
「お前と一緒にするな」
「失敬な。俺に殺人鬼の嗜好はありませんよ」
宇佐見が心外だという風に憤慨する。お前はもっと根本的な箇所を否定するべきじゃないのか。
「最新作のあとがきを読むかぎり、次回作もまたバイオレンスでスプラッターなことになるらしいじゃないですか」
「ん、ああ、うむ……」
「?」
僕の歯切れ悪い返事に宇佐見が首を傾げた。少し気恥ずかしくなって頬を掻く。
「ちょっと殺害手段を悩んでいてな」
遠回しに言ったはずが別の方向でダイレクトなものになった。これでは本当に僕が殺人鬼のようだ。外では口に気をつけた方がいいかもしれないと自念するが、もっとも、会う人など限られているから心配無用かとすぐに思い直す。
「まあ確かに、一作に五人前後のペースで殺しているとネタも尽きますよね」
そりゃそうだ、と宇佐見はからから笑い、
「第一手は喉を裂くのがオススメですよ。声を上げられる心配がなくなるし、抵抗の気も確実に削げて、一石二鳥。仕留め損ねたとしても放っておけば勝手に血が器官に詰まって死にますからね、今際観賞の趣味がない限りいまいち美しさには欠けますが」
あっさりとした口調で物騒なことを言い出した。まるで明日の朝食のメニューを提案するかような口ぶりである。いつもなら冗談として軽く流すところのはずが、本能が宇佐見を纏う何かに反応して、背中にチクチクと針を刺すような痛みを奔らせる。
宇佐見は自分の経験を振り返るように視線を巡らす。そういう細やかな仕草が、宇佐見の殺し屋を営んでいるという主張に真実味を含ませていた。軽薄そうな佇まいとは裏腹に、宇佐見の言葉のひとつひとつにはまるで鋭利な石が乗っているような精確さが存在している。そして、その切っ先がいつ僕に差し向けられるかわかったものではなかった。
「……考えておくよ」
宇佐見が自称なりとも殺し屋を名乗っていることについて、あまり深く考えたことはない。なぜなら宇佐見が何者だろうが、彼が僕の隣人であるということに変わりないからだ。
仮に僕の著作に出てくる登場人物が同じ状況下だとしたら、私立探偵や正義感溢れる一般人はもちろん、心に闇を持ったダークヒーロー、狡猾でずる賢い悪役ですら、十中八九僕と真逆の行動を取っていただろうが、そんなことは関係ない。真実がどうであれ、現状が平穏であるならば僕はそれに甘んじて生きていたいと思う。劇的で突拍子ななにかは創作物の中に必要でも、僕の人生には必要ない。ようやく板に付いてきたこの穏やかな日常を、できるだけ長く続かせていけたらそれでいい。そのためとあれば、僕は率先して目を瞑る。
僕はただの小説家なのだから。
「大家が帰って来たみたいだぞ」
「おや、ホントだ」
窓から顔を出し、宇佐見が外の走行音の正体を確かめる。その表情と言葉から、どうやら大家の姿を確認したようだ。そのまま今すぐ窓から出て行ってくれても構わなかったのだが、宇佐見はひょいと顔を引っ込める。僕を見て「やっと家に帰れますよ」と笑い、「これからは予備の鍵も常備しておいた方が良さそうだ」と付け加えた。そして床に何部か積み上がった紙束を拾い、段ボール箱に戻すかと思いきや、まとめて僕に手渡してくる。
「先生の昔の作品、世に出せばよかったのに。あの作家はいつも同じものしか書かないからオチが読めてつまらないなんて言われることもなくなりますよ」
そんなこと言われてたのか。いちいち気にしてしまう性質だから感想や批評の類は一切見聴きしないようにしていたのに。腹のあたりにずんとくる不快感に耐えながら、どうもこいつはそれをふまえた上でわざわざ報告してきている節があると今更ながらに勘づく。
「どうせ……担当編集者に反対されるに決まっている」
「はあ、そういうものですか」
宇佐見がいまいち要領を得ないように一瞬視線を落とす。
「俺は、こっちの作風の方が好きでしたけどね。主人公がどん底からのスタートなのは同じですけど、やっぱり最後に希望のある話の方が俺は好きです」
そう言って、さらにずいと僕に紙束を押し付けた。
その顔に宿る爽やかな笑顔にほだされるように、紙束を受け取る。宇佐見に真正面から見つめられることを決まり悪く感じた僕は自ずと目を逸らして、手元を見た。
目視五十枚ずつホチキスで留められている原稿用紙の山は、端が無数に細かく折れ、長い年月によって黄ばんでいた。当時パソコンすら持たなかった僕が汚い字を這うようにのたくらせ、くしゃくしゃになるまで推敲を重ね、血汗の滲む思いで完成させたものがそこにある。
昔のことはあまり思い出したくない。昔の作品を読むことも避けてきた。だからといって今まで捨てきれなかったのは、手放すことにも過去と向き合う必要性があったからだ。
恐る恐る原稿用紙の表面を撫で、刻まれたシワを指で伸ばす。
頼りない見た目に反し、それはずっとずっと、重かった。
「今度お礼に茶菓子でも持って行きますよ。実は先生がまた締め切り前に絶食して倒れるんじゃないかと大家さんに監視を相談されていて――」
「さっさと帰れ」
宇佐見が言い切る前に玄関の扉を開けて外に出るよう促す。若干ふてくされたように見えるが、構うと更に面倒なので無視した。
靴を履いた宇佐見が玄関をくぐる。まともだ、と思わず心中で呟いてから、僕も宇佐見という人間の特性にかなり毒されていることに気付き苦笑が漏れた。
「うわ、外にもあったんですね、コレ。どんだけ片付けてなかったんですか」
宇佐見が外に積まれてあった段ボール箱を発見して律儀に驚く。
「……ちゃんと片付けるさ。埃っぽかったから一旦外に出していたんだ」
完全に休日返上だけどな。まあ、小説家に休日も平日もあまり関係ないか。
ふいに腰を折った宇佐見が、開け放たれているダンボール箱から一冊の本を手にした。表紙に見覚えがあるそれは、小説ではなく漫画だ。当時デビューしたてだった僕が原作を担当し、作画をこれもまた新人の漫画家が担当したものである。
「原作、先生だったんですか」
宇佐見が呟く。その表情はここからでは伺い知れないが、少なくとも言葉に喜びや驚きといった抑揚はなかった。
「いまいち人気が出なくて打ち切りになったけどな」
一部の物好きにはウケていたそうだが。というのも、内容が内容で、死体から触手が生えるとか、その触手が知能を持って喋るとか神経を疑われかねない代物だったからである。
あらすじとしては、人が死ぬとその死体から生前その人間を最も支配していた感情が触手の形でひねり出ることが当たり前のような世界で、周りに愛されることなく育ったために一切の感情を持たない少年が、偶然出会った一介の触手にそそのかされ、感情を手に入れるために人を殺してまわり、触手を集めて旅するというなかなかサイコなものだった。最終的に感情を手に入れても手に入れなくても地獄絵図が待っているという意味では、打ち切りになって正解だったのかもしれない。今となって言えることだが、あの頃の僕は確実に病んでいたとしか思えない。
「そうか。あれは結局、完結しなかったのか」
宇佐見がひとりごちる。子供のようにか細く、何の感情も篭っていない平坦な声だった。
こいつも読者だったのだろうか。疑問をそのまま投げかけようとしたが、宇佐見の後姿に出どころの不確かな不安を感じ、思わず口を閉ざす。
「じゃっ、先生、お世話になりました」
「ああ……」
振り返った宇佐見がいつもの笑顔を浮かべていたので、やはり深く考えることは辞めた。
時計の音はこんなにもうるさいものだっただろうか。作業机に座り、目前に広がるしんとした室内の風景をぼうっと見つめていると、数時間前、押し入れから段ボール箱を引っ張り出しながら狭い狭いと愚痴をこぼしていたこの部屋も心なしか広く感じるようだった。少し迷ったあと、あくまでもなんとはなしに古びたテレビのリモコンに手を伸ばす。
今週の満開予報や、動物園でカワウソの子供が生まれたなど、実に平和的なニュースを並べる夕方のワイドショーを眺めれば、途端に詰まった息が解かれる感覚に陥った。僕の描く、殺し屋がうようよと棲息し殺人事件が頻発する荒んだ世間とは大違いであることに安堵する。そういう意味では、自分はいつまでもファンタジー作家でありたいと思う。
CMが明けるとテレビの話題が今日の事件ニュースへ移った。反射的に目を逸らそうとしたがわずかに遅く、テロップに記された殺人という文字を目が捉えた途端、心臓が大きく跳ねた。画面が上空からの中継映像に切り替えられ、黄色いテープが張り巡らされた場所が遠巻きに映る。事件が判明してから幾刻か経つのか、パトカーや野次馬は点々と見受けられるだけだった。キャスターから語られる話を半ば聞き流していると、次いで被害者の顔写真と事件の再現映像が画面に映し出される。チャンネルを切り替えようとする手が止まった。
緑に囲まれた一軒家に住む父親と娘の親子が殺されたそうだった。場所に見覚えはなかったが、住所からしてここからそう遠くない。親子の死因については、いくつか打撲痕が認められたが、いずれも鋭利な刃物で喉を深く切られたことが致命傷に繋がったということだった。
映像がスタジオに戻ると、キャスターが部屋は荒らされておらず、強盗目当ての犯行ではないだろうとの警察の見解を補足する。数ヶ月前の切り裂き魔事件との関連がどうのと横からコメンテーターが言葉を捲し立てるが、ほとんど頭に入ってこない。
スタジオ内の誰かが次に発言する前にテレビの電源を切った。水を打ったような静けさと一緒に、色のない不安が室内に充満していく。ボタンを押すだけのことに余計な力を入れすぎたため、親指からむずむずした違和感が抜けない。真っ暗になったブラウン管を見つめながら、厄介だな、と努めて他人事のように呟いた。
横目でパソコンの画面を見やると、書きかけの原稿が僕を待ち構えるかのように映し出されていた。文字通り心のない主人公が、活字の海のなかで自らの胸に大きく空いた穴を気にしながらも、ひっそりと息づいている。その穴を埋めるだけのものを創造主である僕が探し与えることを、今か今かと静かに待っているようだった。
人殺しの考えていることはやっぱりわからない。わかりたくもないとも思う。これから先、理解できるようになることもきっとないだろう。それでも、僕がたった一行で人を殺せるように、たった一閃で人を殺せる人間がいるということだけを、まずは形だけでも受け入れなければならない。
真実が、どうであれ。
今与えられている人並みの生活に極力大きな波風を立てないことが僕の古今東西の望みである。それはあの自称殺し屋とて同じことだろう。一般的な「人並み」であるかどうかは抜きとして。
宇佐見は基本的にいいやつである。しかし彼の持ち合わす妙について、僕もいずれ目を開けて考えなければならない日がくるのだろう。少なくとも今はまだその時機でないだけだ。
ならばそれを踏まえた上で、お互い必要以上の深入りをせず、情をかけず、信頼を築かぬよう、常に境界線を引き、細心の注意を払おう。あくまでも僕は僕で、宇佐見は宇佐見、距離が近くとも、遠く孤立した人間同士であることを、深く心に刻み込んで。
そうすることで唯一、宇佐見との友人関係を続けることが許される気がした。
『――ええ。とまあ、そんな感じで……よろしくお願いします。あと、先生の方からは何かありますか?』
電話での打ち合わせ中、担当編集者が口にした問いを受けて、そわそわとした気が揺らめいた。
ギリギリまで悩んでいたため「はい」の返事がわずかに淀んだが、どうにか意識を立て直す。
決意を固めて大きく息を吸えば、それからの言葉は存外、すんなりと流れた。
「次の短編集、表題作として昔の作品をリメイクしたいんですけど」