彼女の話 3
もう一度、呼びかける。
心臓の音が、聞こえてきそうなほど、
指の先まで、しびれるような感覚を必死でこらえて、
今度は、もっとはっきり、もっと大きな声で。
そしてまた、呼びかける。
そして何度も何度も、呼びかける。
お父さん、お父さん!
私の声が聞こえないの?
ねぇ、こっちを向いて。お願い。
お父さん!!!
何度呼びかけただろう。
どのくらい、時間が過ぎただろう。
自分の問いに、答えが出てしまった。
父は、私の声が聞こえないのだ。
いや、違う。
私に、父を振り向かせる、
声が、
ない。
「ねぇ、お父さん……。」
知らず、涙がこぼれていた。
熱い涙だった。
変なの。
声もないのに。
涙がでるなんて。
その時、父が私の方を向いた。
一瞬、希望が胸をかすり、そしてすぐ砕けた。
父親の目線を追うと、
私の後ろのリビング入り口に、知らない女が立っていた。
「ごめんなさい、勝手にあがっちゃって。」
女が続ける。
「電話をかけても、呼び出しもならないし、心配で。
せめて顔だけでもと思って来たんだけど、呼び鈴もないし、
鍵あいてたから、あなたにまで何かあったんじゃないかと……。」
「あぁ、すまん。出るのも面倒で、元から切ってたんだ。」
「……。来たところで何もできないけど…、娘さんの事は、本当に、なんて言ったらいいか…。」
そう言って、女は私を通り過ぎ、父のもとに膝間付き、父の顔を心配そうに見上げた。
「すまん、本当に。大丈夫だ。」
「……大丈夫なんかじゃ、ないでしょう。」
「髭もこんなに生やしちゃって……。食事も……、とってないんでしょう?」
生活感のなくなった、何もない台所に目をやり、女は言った。
私は母の顔を知らない。
私を産んで、間もなく、男と出て行ったそうだ。
よくドラマなどで聞く話ではあるが、
実体験を生きる私には少しだけヘビーであった。
しかし、もともと知らないのだから、
それが私の真実だというだけでもあった。
父はあまり語らなかった。
それもそうだ。
小学5年生の私には、全てを知るには幼すぎたから。
しかし、この女が、父にとって特別な存在であるということは、
感じ取れる歳でもあった。
母は、私を捨てた。
だから父にそういう人がいても、別におかしくなかった。
父は私を大切に育ててくれた。
そういう人がいるという事を、微塵も感じさせないくらいに。
そう。
ずっと一緒にいたのに。
微塵も知らなかった。