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目の前で意地の悪そうに私を見ながら笑みをうかべたその子は、それ以上何も言わずに立っている。凛とした空気に太陽が降り注ぎ、その子を逆光で照らしていてその姿は美しかった。母が植えた、葉を落とし枝だけになっている立ち姿のアオダモの半分くらいの背丈で、緑にオレンジの大きな花柄のワンピースを着ていた。
「その服かわいいね。」
私は他に言葉も探さずそのままを口に出してみた。この子は私と母の、私と母だけの会話だったはずの内容を知っている。疑問に思っていた事を思い出した。
「どうして知ってるの?」
私は尋ねた。彼女は私の手のあたりを指さした。左手首のアザを、私は隠すように触った。女の子は自分の左手を私に突出し、私が隠している場所と同じあたりを見せつけた。
「一緒でしょ。」
小指の下の手首の骨が出ている場所、直径一センチ程、少しだけ盛り上がり楕円になっている青いアザ。母に聞いたことがあった。生後間もない頃はなかったと聞いた。しかし私が記憶というものを備え、自分というものを思い出すときにはすでに出来ていた。それと全く同じく見えるものが、彼女の手首にはあった。ただしかし、私のそれよりも少しだけ薄く、盛り上がりもさほど分からなかった。彼女は左手を突き出したまま、言った。
「私ね、今、試験を受けているの。」
「試験って?」
「試験って意味、わからないの?」
「わからない。」
「・・・・。クイズ番組とか見る?」
「クイズならわかる。」
「そんなもの。」
「・・・・ふーん。クイズしてるってこと?」
「まぁ、そんなもの。ちょっと、来て。」
彼女はそして私から目を逸らし、家とは反対の裏山の方へ歩き出した。
「そっちはね、危ないから子供は行っちゃダメなんだよ。」
彼女は聞こえているだろうに足を止めない。
「でも、一人じゃなくて、年上の子がいたらいいって確かママ言ってた。」
私は彼女を追いかけて走り出した。
子供の足では結構な距離を歩いた。自宅は既に見えなくなっていて、うっそうと茂った常緑の木々がところどころから木漏れ日を作っているのだが、脇を流れる川の水は轟々と音を立て、踏んでいる地面の湿り具合が余計寒さを増長させた。
【キケンですから、子供は入らない!】そう書いてある看板が目に入ってきた。漢字は読めないのだが、その文字の下に、男の子が橋から川に転落していて泣いている絵が描いてあったので、なんとなく意味は分かった。その看板の先には、絵の通りに赤く、二十メートル程の長さで、私と彼女が並んで通れる程の幅の橋が、先ほど通ってきた時に見た川の上に渡っていた。彼女はそこでやっと立ち止まった。
「あなたが、ここから落ちたら私のクイズは終わり。私は負け。」
あと一メートルと半程足を踏み出せば、先がどうなっているのか、想像が出来た。シダ類が生い茂り、この先からは道がほとんど覆い尽くされていて、その先の赤い橋の下の、流れる川の轟々とした音がどれほどの川の流れなのかを知るには事足り余るほどだった。ここから私が落ちると想像して身震いがした。
「私が落ちたら、あなたが負ける?」
「そう。」
「私落ちないし。」
「私が落とさないし。」
そう彼女が言った後、カラスが二羽、橋の一番手前の手すりの錆びた部分に降りてきた。カラスは頭を上下に何度か動かした後、トントンと少しだけ奥へ移動し、こちらを見た。目があったと同時に、こんなところまで来てしまったと、胸がすくんだ。もう帰ろう、そう思った時だった。彼女はまたもや歩き出し、橋の入り口まで進んだ。
「私はここから落ちたの。気が付いたらそこの、ほら、あそこ。尖った大きい石がみえるでしょう。あそこにね、私が倒れているのが見えたの。びっくりした。だって、私がいるんだもん。ここからは血が流れていたのよ。」
そういって、鼻のあたりをさすった。
「それで?」
「それからがわからないのよ。」
「わからない?」
彼女はその時の光景を身振り手振りで話し出した。
「私、お父さんとね、この山にお散歩に来てたのよ。よく来てた。だから道だって、どこにどんな花が咲いているのか大体知っていたし、危ない場所だってわかってた。あの日は私、この橋の少しだけ下、もう、ほんとにこの辺り。小さいキノコを見つけたの。採りたいわけじゃなかったんだけど、ただ少し触ってみたくて、ちょんちょんって。だって、少しだけ手を伸ばせば届きそうだったから。だから私ここに手をかけて、触ろうと思ったの。」
彼女はその時にしただろう行動をそのまましてみせた。
「雨が上がったばかりだったから、すべっちゃったのね。落ちると思った時にはもうどうしようもないまま、そのまま下まで視界がぐるぐるして、痛いって一瞬思ったら、次には私が倒れているのを見てたのよ。」
「それで?」
「お父さんはいつの間にか私の所まで降りてきてて泥だらけだし、慌ててるし、子供が落ちた、早く来てくれ、誰か早く!って叫んでるし、尋常じゃない様子だったから、私お父さんに大丈夫って言うけど聞いてないし。」
私はなんとかその時の光景を出来るだけ理解しようと聞いていた。
「その時ふっと明日の授業で使うノートを友達に借りっぱなしにしていた事を思い出して。そうしたら、次の瞬間には私の教室にいたの。」




