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彼女の顔に着いた血を拭こうとして、一度は払いのけられたのだが、
なぜかもう一度試みたら、拭かせてくれた。
彼女は私を守らないとこうなってしまう、と言っているけど私にはもちろん意味がわからない。
トイレットペーパーが、血にこびりつき、それを取るのに一生懸命になりすぎて、少し力が入りすぎてしまった。
「…痛いっ!」
「あー!ごめーんっ!!」
「さっき、私が置き去りにした仕返しでもしてるんでしょ。」
「…ばれた?」
彼女に表情が戻ってきて、私は安心した。
私の方を見ているのに、視線は私の体を通り過ぎて、その先のトイレの壁の、そのまた先の、
裏庭でも見ているのかと思うような、視点がどこにあるのかわからない目だった。
「ねぇ。名前、教えてよ。」
この人から置き去りにされて、病室のベッドで目が覚めたとき、真っ先に思ったのだ。
思い出して、自分なりに記憶を整理したくても、この人の名前がわからなくて、もどかしかった。
「名前なんて、いいじゃない、なんでも。私死んだんだし、知ったところで意味ないよ。」
「えー、ケチねぇ。意味なんかなくていいよー。知りたいんだよー。」
「なんか、今さら名乗るのも恥ずかしいじゃない。そのうち、言うよ。」
「ケチ。」
「ケチで結構。」
「じゃぁさ、花ちゃんって読んでいい?」
「はぁ?なんで『はな』?」
「だってその花柄のワンピース、かわいいじゃん。」
「…わかった。私は花ちゃんね。」
彼女は、その時初めて優しい顔で一瞬だけ笑った。
「あ、笑った。」
「うるさいね。」
「うーん、ママにもねぇ、よく言われる。声が大きいとかね。」
「ママねぇ…。」
「花ちゃんのママは、きっと花ちゃんがいなくて、泣いてるね。」
「私にお母さんはいないよ。」
「え?じゃぁ、花ちゃんは何から生まれたの??卵とか!?あ、卵でも、産んだお母さんはいるよね。じゃぁ、何?何から生まれたの?」
「…ほんと、うるさい上に、面倒な子ね。」
私は、花ちゃんが何から生まれたのかだけが気になってしまい、うるさい子などと言われたことは耳にも入らず続けた。
「あ、私、わかってしまいました。きっと、花ちゃんは、種から生まれたのね。お花のように。」
「…うまい。」
はなちゃんが笑った。
「うまいって??お花のようにが?私うまいよね。だって花ちゃんが花のようにって・・・。くくく。」
「何度も言ったらおもしろくないのよ。」
「くくく…。」
「もうおもしろくない。」
そう言いながら私と花ちゃんは、初めて一緒に笑った。
「私のお母さんは、私を産んでから、どっか行っちゃったんだって。だから知らないの。」
「え、なんで?」
「お父さんが言うには、私よりも、お父さんよりも好きな人が出来たんだって。ドラマなんかでよくいうでしょ、私は捨てられたんだって。」
「知らない。」
「そうよね。」
「…お母さんに会いたい?」
「別に。」
「じゃあさ、これは誰にやられたの?」
「いきなり、そこ?」
「だって、ひどいじゃん。私がやっつけてあげようか。」
「誰というか…。さっき、あなたを置き去りにして、私はまたあの教室に戻ったの、どうやって戻ったのかは知らないけど。」