プロローグ
指先に触れる冷気が、手首から二の腕を透って首筋の方へ抜け、背中まで冷たくなるので、腕を組んで肩をすくめて歩いた。そこで約束した事は夢の中ではないはずなのに、自分の記憶があまり信用できないでもいた。でも毎日毎日忘れたことはないのだから、自分に言い聞かせて歩く。例えば真新しいランドセルを初めてからいながら、他のみんなはいるのにあなただけがいないことを不思議に思ったり、テレビで天気予報を観る度に、あなたの今いる場所はどんな天気なのか知りたくなった。例えば夕暮れにみんなそれぞれ家の方からお母さんが私たちを呼び、また明日と帰るのに、いつだってあなたは最後までそこにいたし、そういえばあなたの家だけ私は知らなかった。ふと立ち止まって、冷たい空に大きく息を吐いた。白い私の息が青空に溶けた。
あの日も本当に天気が良くて、自宅では年末の大掃除を父と母がしていた。片づけたすぐその後ろから、魔法のようにおもちゃを繰り出し散らかす私は、それにもまた飽き、確か外で遊んでくるといい、母は私の手の甲に午後三時を示す時計の絵をネームペンで書いていた。
「いい、この時間になったらかえってくるんよ、りょうくんとか、ゆきちゃんのおうちにあがるときはちゃんとお邪魔します言ってね、靴はちゃんと揃えて・・・」
「はーい。」
母が言い終わらないうちに、保育園へ向かう時は甘えで何分もかけて履くスニーカーを、私は生返事をしながらささっと履いた。新築のその我が家の玄関は少し広めにとられていて、明るい黄色系のタイルと白い壁紙がさわやかだ。そして、そこからはいつも隣近所の同年代の仲間たちが、私を遊びに誘いに来るので、知らずいつのまにか心地の良い空間となっていた。その頃の私にはわりかし重めの扉を両手両足、そして全身の力で押すようにあけると、さわやかな冷たい風が、髪とまつ毛をさらった。何かいいことが起こるような気持ちになる。そのくらいこの冬の凛とした冷気と、それを遠くから照らす陽の眩しさが私は好きだった。扉を出て左手にあるアイアン製の郵便ポストに手をかけ、赤茶色のタイルを踏み出したその時、いきなり真っ白な閃光に眩んだ。あまりにも鮮烈で一瞬体が固まり声が出なかった、。しかし次の瞬間には何がおこったのか分からない、そのきれいな不鮮明さに、まるでサーカスを見たときのように胸がドクンと鼓動した。胸の前で両手をぐうの形にして、玄関両脇の飾り壁の間から辺りを見回した。私は落ち着きたくて空気を鼻から小さくすってふぅっと口から吐き出した。チラチラチラと音を立てながら白いもやが空へむかって消えた。きれいだ。もう一度大きく吸いそして吐き出してみた。
するとまたチラチラと私の息が音を立てた後、今度は大きく渦を描いて太陽の光をも巻き込み、もくもくと濃くなっていった。そしてそれが消えかかった向こうから一人の女の子が姿を現した。やけに色白な肌を隠すように、長く垂らした前髪をうざったそうに耳に何度もかけながら、もう片方の自分の手をまじまじと見ている。その手は細長くきれいで人差し指と薬指の先に小さいこぶのようなものが見てとれた。
その子はひとしきり自分の体を確かめるようにゆっくりと、つま先から指の先まで目線をうつし、その後、目の前で起こっているどうやら現実のこの光景を、まだ理解できずに瞳にうつしているだけの私と目があった。
少しだけ我に返った私は、スニーカーのうらで庭の山砂を転がしてみる。右足でじゃりじゃり言わせて、左足でまたじゃりじゃり言わせてみた。それでもって少しにこっとしてみせた。女の子は無表情で立ったまま興味なさそうに目を逸らした。。私は少しいらっとした。そっちから勝手に現れておいて、人を驚かせておいて、そして私は勝手にわくわくして、愛想笑いまでしてやったのに、それきりなんの反応もみせないからだ。
しかもここは私の家の庭だ。何か用があるのなら言えばいいのだ。私からなんでじゃりじゃりしなければならない。笑いかけたら笑うものだろう。考えれば考えるほどなんだか自分一人でいろんな感情をくるくる体験しているのが悔しくなってきた。
「ここ私のうちなんですけど。用がないなら私行くわね、忙しいのよね。まったくなんなのよ。」
私は先ほどの光景も忘れてその女の子に、その時の私にできうる精一杯の大人の口調で言い捨て、横を走り去った。私は今からゆきちゃんを遊びに誘いに行くのだ。クリスマスにもらったばかりのプリキュアのゲームで遊ぶ約束をしているのだ。遊ぶ時間を無駄には出来ないのだ。
「ちょっと」
後ろで私をその子が呼び止めた。立ち止まっただけで返事もしていないのに、その子は続けた。
「昨日あなた、寝る前にお母さんがいつか死んじゃうのが嫌だと泣いたでしょ。」
「・・・。」
私は返事をせず、首だけ回して女の子を振り返った。
「いつか自分もおばあちゃんになって、死んじゃうなんて怖いって泣いたでしょ。」
返事はしなかった。ただ目があったまま、今度はどちらも視線を逸らさなかった。
なんであなたが知ってるの。心の中の私の声が、まるで伝わったかのように、そのタイミングで女の子は意地悪そうに微笑んだ。