キース誕生!
人間が絵という文化を発達させたのははるか昔のことである。エジプトの壁画に代表されるように絵とは即ち情報であり、はるか昔の情報を現代の我々は見ることが可能な世の中として発展させ続けている。
絵とは情報。また、現代ではその情報を単に情報としてだけでなく、「モノ」として扱う者も現れる。
パーソナルコンピュータに向かってブツブツと呟きながらキーボードを打ち続ける彼、深谷智則も例外ではない。薄暗い部屋の中と言う印象もあってかあまり明朗な青年には見えない。
彼は絵、この時代では二次元と呼ばれる文化をこよなく愛している。趣味として確立するほどまで至った現代ではさほど稀有な存在ではないが、彼も、また彼に類似した趣味を持つものはそうではない者たちに総称として呼ばれることがある。
オタク。
そう、二次元を情報としてではなく単純に自分の趣味嗜好化する者のことを一般的にオタクと世間的には呼ぶ。
絵から発達した文化は時代を超え、情報としてだけでなく彼ら、彼女らオタクに愛されるまでに至った。
「やっぱり、シュヴァリギオンの機体構成は3号機のユニット部分がロマンです、よね」
誰もいない薄暗がりの空間で智則は呟きながら同じことをキーボードで叩きディスプレイに表示させる。句点までしっかりと打った文を右下の送信ボタンで全世界に発信する。
「シュヴァリギオンと言えば8話2号機の合体シーンで出てくるグランチャイトの形、あれはもう芸術です」
再びキーボードを打ち、送信。
こんな暗い場所で智則は毎日パソコンに向かって呟きながらキーボードを叩いている。
飽きないのだろうか。普通の人はそう思うだろうが、彼にとっては呼吸のようなものだった。し続けていないと死ぬ。極端だが彼をよく知る人物なら決して否定しない表現だ。もっとも彼を知る人間はこの世界の人間に限定はされるのだが。
「おっ」
ピロリンという可愛い電子音とともに先ほどの文に返事が来る。
「シュヴァリギオン、愛してるんですね、僕もです、世代が古いからあまり知ってる人少ないのに、ジューモさんいくつですかかっこわらい、フフッ」
レイルアと表示されている人物から届いた返事を口に出し、最後に笑う。面白かったようだ。
智則はジューモという名前でこのSNSサイトを利用している。SNSサイトのプロフィールには彼が愛するシュヴァリオンについて書かれているため、訪問したユーザーと会話を楽しむことは専ら仕事のようなものだ。
シュヴァリギオンというのは登場する各ロボットが合体して戦うSFアニメであり、40年近く昔の作品になってしまったため知名度こそ低いが、その独特な正義感が一部のファンの間では今でも熱狂できる要因になっている。
「レイルアさん、返事ありがとうございます、私は25歳ですよ、生まれる前の作品ですが正義の心を学べるとてもいい作品だと思います、っと、ふー」
智則は伸びをしながら座る部分が回転するオフィスチェアの背もたれに体重を思いっきり乗せる。背中がボキボキと音を立てるがそれが気持ちいいようだ。
「もう5時か…。」
朝日が昇り始める早朝まで智則はパソコンに向かっていた。いつものようにチェアから腰を浮かし、窓際までのそのそと歩いていきカーテンを閉める。この時間の常人とは逆の行動を取った理由は2つある。眩しいのが嫌いなのとこれから眠るからである。
彼の睡眠時間は約6時間。お昼頃に目を覚ませばそこからずっとパソコンと向かい合っている。なにもSNSばかりではない、いやむしろ智則はパソコンに向かっている時間大部分は他の事に充てられている。
≪二次元への行き方≫
物理学の大学の単位をギリギリで卒業した智則は独学で3年間、この方法を真剣に研究している。
彼の愛するロボットを自分の手で動かすために。
しかし、夢は現実と離れすぎていた。大学に所属もせず一人で研究する。それが如何に困難であることかくらいは智則にも分かっていた。しかし大学ではロクに勉強しなかったという事実があるからこそ、今無職で働く意欲もないからこそ、智則は自分でこの方法を見つけようと努力していた。
カーテンを掴みながら智則もすこし考え事をしていたようだ。ピロリンと再び電子音の音が鳴る。続けてもうひとつピロリン。その音で我に返った智則は閉じたカーテンから手を離し、パソコンの画面を覗く。
「25歳ですか、驚きです、私は45歳なのでこんな若い人にも見られていると思うと本当にいい作品なんだと実感します、フフッ」
レイルアから来た返事のメールに再び笑いを漏らす。智則のクセのようなものだ。
レイルアに返信しようかと思ったが、二通目が気になる。マウスを操作しクリック。別の人物からの自分宛のメッセージだ。送信主の名前はカシナと表示されている。
「はじめまして。フカヤトモノリくん。私の名前はカシナです。突然ですが近いうちに会えませんか。あなたにやって欲しいことがあるのです。独学で研究している二次元の行き方……も、ヒントが見つかると思いますので……?」
違和感を覚え、背筋が少し冷える。
最初の文を読むだけではよくある出会い系のメッセージかと認識できるが、後半の研究のことを知っているのが智則の心にひっかかりを生む。智則はネットの誰の力も借りずに、パソコンに向かって作業しているのだ。それだけではなく、作業中はメッセージなどが来て集中が途切れないようにネットワーク接続は切ってある。
この世で智則が二次元への行き方を研究していることを知っているのは、深谷智則、彼一人なのだ。
おかしいのはそれだけではないと気付く。フカヤトモノリという本名。ネットではフルネームはおろか、苗字さえ晒したことがない。しかも研究しているパソコンのユーザーネーム、認証ネーム、ありとあらゆるものすべてジューモで登録しているのだ。
ジューモというのは漢字の十にモと書くのが由来でそれ自体は本名のトモノリのトの部分をとう、即ち10と読むことから来ている。ジューモというハンドルネームではトモという名前は予測できても苗字や名前の残りの部分まで当てることは不可能だ。
いったいこのカシナという人物、何者なのだろうか。智則の中でホラー映画を見るときのような恐怖に似た好奇心が湧き上がる。
しかし智則は外出が好きではない。きっと会うということは直接会って話があるのだろうが。いかんせん、この3年間彼は食事を調達しに行くことでしか外に出ていないのだ。周りのネットの友達はオフ会などというネットで知り合ったもの同士、直接会って楽しむパーティのようなものに参加しているそうだが、自分には到底無理だと思っていた。会話がこの三年間でネットだけになってしまった彼にとって今、口で会話をすることはきっと無理であると感じる。
とりあえずレイルアの返事は後回しにしてカシナへの返信のためにメッセージの入力画面を開く。
「はじめまして、カシナさん。本名を何故知っているかはわかりませんが、あなたのお話に興味があります、是非伺いたいのですが、会う、というのは直接ということでしょうか」
送信。動揺のせいか多少日本語がおかしい気もしたがそんな気を回す前に返事は返ってきた。
着信音と同時にメッセージを開く。
「フカヤトモノリくん、お返事ありがとうございます、私は直接会って欲しいです、会って話さなければならないことがあります、本名と研究のことを知っているのはその時に説明とお詫びをします。早くて今日、遅くても明日までには……」
今日はあと19時間ほど、明日は24時間まるごとフリーではある。フリーではあるが。
「えっ、今日……明日……?」
メッセージの続きにはカフェの名前。智則の家から徒歩で5分ほどの近距離にある。ひょっとしたら住所も掴んでいる?そう考えると智則には逃げる方法も時間もない。
このカシナという人物が何故に自分と直接会いたいのかは分からないが、研究のヒントという報酬と逃げることが出来ない諦めから
「わかりました、では今日の14時に」
と送信ボタンに手を伸ばした。
13時50分、深谷智則はカシナという人物に指定されたカフェの一番奥の隅のほうの椅子に座っていた。
あのやり取りの後智則はいつもの日課で12時前までとりあえず眠った。起きてからはシャワーを浴び髪をセットする。髪をセットすることなど久しぶりでドライヤーも手に当たって熱い思いもするわ、自分で切ったざんばらな髪なんて櫛が通らないわ、人と会うのにこれだけ苦労するのも懐かしい気がした。
ともかく来てしまったものは仕方がないと腹を括り待っていると、ドアのベルと共にカフェのドアが開く音がした。
すらっと背の高い長身の顔立ちの整った美人な女性。
褒めるところはそれだけであった。髪など智則のセットする前のようにボサボサであちこちがはねている。服もお洒落なものではなく白衣に身を包んでいる。顔とスタイルがよくても人は完璧じゃないと智則は理解する。あんな変な人、きっと俺と同じでリアルでは友達がいないんだろうな、思った途端、彼女は智則の方に向かって歩いてきた。それも狭い店内には相応しくない程の早歩きで。
思ったことが口に出てしまったかと思い両手で思わず口を塞ぐ。
智則の前に立った女性は見下ろす。対して智則は上目遣いで見上げる。
智則と目を合わせ3秒。急に女性は笑顔になって声をあげた。
「キミがトモノリくん?!」
「えっ?あっ、その……、はい……」
「よかったぁ!ホントに来てくれたんだ!あ、自己紹介からだね、私はカシナ。二次元に行く方法を研究しているの」
その言葉を聴いた瞬間、智則の体に電気が走る。自分に利がある人間と対面している、このチャンスは逃せない。
「座っていい?あ、コレ名刺。研究って言っても一人でやってるんだけどね~。トモノリくんと同じように」
カシナは強引にトモノリの正面の椅子に座り強引に名刺を渡すと、含みのある声で言う。
「あ、あなたは何が目的な、なん、なのですか」
口調がドモるのは動揺のせいだけではない。やはり3年ぶりに人と会話するために開く口は思うように動いてくれなかった。
「あなた、だなんて言わないで。カシナで、良いわよ。じゃあトモノリくんのために単刀直入に言うわね」
カシナはそこで言葉を切り智則をまっすぐに見つめる。その瞳は美しくて美術画のようだ。
智則も最初に思ったとおり、カシナの容姿はすばらしいのだ。人に慣れてない上にこんな美人を相手にし、さらにして欲しいことがあるなどと頼まれているとなれば緊張もしないはずはない。
智則はそこら中の空気を吸い込むようにして深呼吸をするとカシナの目をまっすぐに見つめ返した。
「あなたに、二次元の世界を救って欲しい」
言ったとおり単刀直入に要求を智則に突きつける。
「カシナさん、一体……?」
「まぁ、いきなり言うのも前置きがあまりにも足りないわね、とりあえずなにか飲みましょう、すいませーん、コーヒーひとつ、あ、アイスでー。トモノリくんは?」
「えっ、アイスココア、で」
カフェに場違いなほど大きな声で注文したカシナはにやにやしながら智則を見る。
「結構子供なもの頼むのね~」
「に、苦いのは苦手なので……」
「ふぅん」
そこで会話が止まる。智則はチラチラとカシナを見るが彼女は気にしていないようだ。爪を見て息を吹きかける謎の行動に集中している。カシナから貰った名刺に目を落とす。
Keyes計画第一人者、樫奈。
樫奈は本名なのだろうか。苗字は樫?名前は奈?不思議な人だ。Keyesってなんだ?キーズ?ケイエス?こんな単語あっただろうか。
名刺をみてそんなことを考えてるうちに注文の品はやってきた。さっきの大声が気に障ったのかウェイターは引きつった表情でココアとコーヒーをテーブルの上に置く。もうここにはカシナ共々来ることはないと智則は確信できた。
そんなことは気にも止めず、ブラックのままカシナはコーヒーを手元に寄せ一口で半分以上を飲む。
「ん?なに?飲みたいの?」
「あっ、いえっ!」
カシナにとって智則はいい遊び相手になったようだ。カシナが挑発するように唇をカップにつけると、見つめる智則の顔も赤くなってくる。
女性とまともに話したことのない智則はこういうことに弱かった。
「あはは、トモノリくんっておもしろいね~」
からかわないでくださいと言いたいがそんな勇気も喋る口もない。苦笑いしながら智則が黙っていると本題を思い出すようにカシナが口を開いた。
「今、トモノリくんは二次元の行き方を研究している、そうでしょ?」
「はい」
「実はその方法、私が見つけたの」
智則は驚愕する。自分が三年間かけて一人でしてきたことの答えをこの女は持っている。何者かと思っていたが、もしかしたらこの女は。
間髪をいれずにカシナは続ける。
「そこで、あるひとつの問題に気付いたの」
「問題……?」
「二次元世界を支配しようとする組織の存在」
「組織?」
まるでアニメの悪の組織みたいじゃないか。そんなやつらが現実に?そんなことを思おうにも二次元に行けるという可能性が自分の感覚を麻痺させる。
「彼らのことはラクト、と私たちは呼んでいるわ。もともとは二次元で三次元の者から今のように干渉を受けていた存在。しかしそれも長くは続かない。低次元の者が高次元のものに今、下克上を企んでいるの。」
ラクト?、干渉を?、下克上?、どう考えても智則にはその単語が結びつく状況を考えられない。
「えっ?」
当然とばかりに聞き返す。
「今はごちゃごちゃ言っても難しいだけよね、今まで私と同じように一人でがんばってたみたいだけど根本的な二次元の考え方が違うなら仕方ないわ」
聞き返された当然の問いを当然の答えと言うようにカシナは答えた。
今のやり取りをもって、智則にとってカシナという存在は不必要なのではないかと思えた。何を言っているのかがさっぱりわからない。そして自分が思う二次元の概念が違う。この人からはいい情報は得られない。
「とりあえずこれを」
そういってカシナは持ってきた手提げの袋の中から赤い直方体の箱を取り出す。横が20センチメートル、縦が10センチメートル、高さが5センチメートルくらいの小振りな箱、中に何かが入っているというわけでもなさそうなつるりとした表面には凹凸も模様も存在しない。
さらに白衣の内ポケットからは黒いV字のギターのピックのようなものを取り出し机に置いた。ギターのピックよりは二周りくらい大きいそれは三角形の底辺が中に凹んだ形とも表現できる。
「こっちの赤い箱はキース・アルファ。こっちの黒いV字のものはキース・ベータ。こっちの赤い箱が二次元への扉。こっちのV字がその扉の鍵ってところね。」
カシナは扉と鍵、そんな簡単な仕組みで二次元にいけると言う。智則は試してみたい反面、カシナの言いなりになるのも癪な気がしてきた。
智則を呼び出したのはカシナであるから、カシナに話の主導権が行くのも当然のことだ。しかしよくわからない単語や状況を淡々と聞かされた挙句、世界を救ってほしいなどということは智則の機嫌を著しく損ねる原因にもなるのだった。
「それを使えば、せ、世界を救えるってことですか」
「世界を救う、力になるってことかしらね。実際に救うのはトモノリくん、あなたしかできない。だからお願いしているの。このままじゃ、二次元の世界が支配されてしまう。トモノリくんの大好きなネットもゲームも全てラクトに支配されてしまうの……」
カシナの悲痛なお願いを聞きながらそこで智則はある疑問に気付く。
「あ、あの。なんで僕の本名とか二次元の行き方を研究していたことをしっ、知ってるんですか」
「これを使ったの。個人情報を詮索するような真似をしてごめんなさい。このお詫びは別の形で必ずするわ」
そう言ってカシナは赤い箱、キースアルファを指の背でドアをノックするように叩く。
丁度机の真ん中に配置してあるキースアルファはそれぞれの手前のコーヒー、ココアと並んだことで異様な雰囲気を醸し出す。赤と言うとおり、鮮血のような鮮やかな赤は芸術的に見える反面、冷徹で残酷なイメージも漂わせている。
「に、二次元から三次元の僕の生活を見たってことですか」
「そういうこと」
「なんで、僕なんですか」
智則は恥ずかしさに飲み込まれる。自分の生活が、目の前の、しかも今日はじめて会った人に、しかもけっこう美人な人に……、見られていたなんて……。
こんな恥は人生で初だった。そもそも恥をかきたくない延長から人との直接の関わりを避けていた傾向があったからだ。
「あなたしか出来ないの」
「なんですか、それは……」
「やっぱり怒ってる……?」
「怒っては、ないですけど……、恥ずかしいですよ……」
「あっ、その」
お互いに沈黙を形成する。カシナも罪悪感を思い出したらしい。対する智則も憤りではないがなにかモヤモヤしたものを体中に感じている。
カシナは智則を見る。
「と、とにかく!コレさ、使ってみない?」
カシナは新しいシャープペンシルを友達に見せびらかすような軽い口調で最後はまとめた。
ところが対する智則の返事は今までとは少し雰囲気の違う簡素なものだった。
「あの……少し、考えさせてもらってもいいですか?」
カシナは不思議に思う。ここに呼ぶまでの経緯、また、彼の思考を予測する限り悪い返事はもらえないだろうと思ったのだ。しかし、彼はあまりいい印象をも持っていないらしい。カシナにはそれは違和感として感じられた。
「いいけど…」
「自分で考えてみたいんです……。すいません……返事は明日には出します」
「その返事というのは悪い方向に転がることもあるのかしら?」
「わかりません。でもこんな簡単に出来るようなことじゃないと思ったんです。な、生意気言ってすいません…」
そう結論付けると智則は手前のココアに口を付けた。小さく音を鳴らし一口飲むと落ち着いたような顔になった。
「わかったわ。コレは預ける。どうせ私じゃ起動出来ないもの。これを起動出来るのはトモノリくん、あなただけ。これだけは覚えておいてくれるかしら」
念を押すような強い口調になってしまったのを少しカシナは恥じた。負け惜しみのように感じたからだ。しかしカシナも智則を少し舐めていた。言い方は悪いが二次元に興味があるなら飛びつくと思ったのだ。それが一杯食わされる羽目になるとは。カシナの中でトモノリに対する好奇心が湧く。只者だと思っていたこの男、意外にやるじゃない。
しかし、それがあるからこそ是非ともkeyes計画に欲しいとも思う。もしかしたら二次元の世界を救えるかもという淡い希望がより確実なものとしてカシナの胸に刻み込まれていく。
カシナは机の中央にあったキースアルファ、キースベータを智則側へ寄せ席を立つ。
「今日はありがとう、トモノリくん。いい返事を期待しているわ。」
そう言うと伝票の上に500円玉を乗せ喫茶店を出て行った。
1人になった智則は考える。これを使えば二次元に行ける……?
ずっと、ずっと憧れていた。小学生の頃にテレビの懐メロアニソン特集、そんな名前だったかは忘れたがその番組で流れていたシュヴァリギオンのオープニングを聞き、両親に興奮交じりで尋ねそのアニメをレンタルしてもらい、学校から帰って寝るまで見ていた頃から。
二次元に行けば何でもできる、その好奇心は我慢には耐えられない。気付くと智則はカシナが置いていったキースアルファとキースベータを片手ずつ触れていた。
「はっ、だめだだめだ」
何が駄目なんだろう。僕の好きな二次元に行けて、その襲われそうな世界も救えて。どうせゲームみたいなものだろう。ゲームは苦手ではない。きっと楽勝にカシナの願いは叶えられる。
なのになんでだろう。智則は自分を包む威圧感のようなものから逃げられなかった。まるで自分だけ周りの重力の5割増しのような。
キース、先ほど見た名刺のKeyesはキースと読むのだろうか。
それのアルファ、カシナは扉といっていた。こんなお土産のお菓子が入ってそうな箱で二次元に行けると?
さらにベータ、鍵。どっからどう見てもV字のプラスチックにしか見えない。それこそギターのピックのような。これを扉に差し込めば行けるのだろうか……?
智則は逡巡する。無理もない、彼の中の好奇心とプライドが戦っている。
今まで夢見てきた世界への好奇心と今まで自分がやってきたことへのプライド。それを智則は天秤にかけている。
「答えなんて出ないよ……」
深くため息をつく、小さいがどっしりとしたキースアルファは微動もしないがキースベータ、鍵のほうは吐息で少し浮いた気がした。
とりあえず考えると伝えたんだ、ちゃんと考えよう。
威圧感に刃向うように座ったまま大きく伸びをして赤い扉と黒い鍵を持ち腰を上げた、その時!
グラッ!!
一瞬立ちくらみかと思った、しかし違う。周りの人間も、店全体が、店の地面が大きく一回横方向に揺れた。
「えっ?!」
「なに?!」
「地震か!」
周りの客も次々と声を上げる。しかし揺れたのは一回、10数えてもそれ以降は揺れなかった。
「なんだったの……?」
「地震?」
「変なの」
ざわめく客の中で少し高めの店員の指示の声が通る。
「みなさん、今のうちに荷物をまとめて避難をお願いします!」
手ぶらで外に出ようとした智則だったが、その手が不気味に輝く赤い箱とすべてを飲み込むような黒い鍵に触れているのに気付きそれを手に取り外に出る。途中、客は騒めきはあったものの取り乱すものはおらずわずか5分足らずで店員を含めた店内全員の避難が終わった。
外は夏の日差しが照り付けていてとても暑い。涼しめに設定してあった店内の空調の恩恵には当分預かれそうもない。
周りを見渡すと智則はある異変に気付く。ここは住宅街で夏とは言え人は多い。だが先ほどの地震をここの住民はなかったかの如く振る舞っている。店の向かいの公園では子供たちが奇声を上げながら楽しそうに遊び、その傍には母親と思わしき人物が日傘を差しながら立って談笑している。さらに公園のベンチの近くには営業中と思われるクレープ屋がカップルに商品を差し出している。
ほんの数分前に一回とは言えかなり大きく揺れた地震があったとは思えないほど。
まるで、この町でこの店だけが揺れたかの如く。
「……おかしい」
気付くと智則はそう呟いていた。智則の観測がみんなにも伝わったのか智則の周りの10余名が目を見開く。
「……帰ろう?」
「そうだな……」
「本当に何だったんだ……」
口々にそう言いみんなは解散していく。店長を含む3名の店員はみんなに向かって頭を下げている。彼らも意味が分からないだろうに。しばらくしてこの場には頭をいまだ下げる店員と智則の4人だけになった。
何かを考えるように俯いていた智則だったが、帰ろうかと思い踵を返した途端に背筋が凍りつくような視線を感じた。
バッ、と振り向くがそこには頭を下げる店員が三名だけ。
一体今日はなんなんだ、と再び体を向き直すと今度は視線を感じず、その後帰宅するまで何事もなかった。
「はぁ……」
ため息をつきながら智則は自宅の机に置いた赤い箱と黒い鍵を見つめる。時刻は17時。17時を過ぎてもまだまだ太陽は照っていてカーテン越しにその眩しさが伝わる。
カシナという謎の女に会い、そこで不思議な地震、地揺れと言ったほうがいいのだろうか、震えるというよりは大きく一回揺れた現象に遭遇した。
そして机の上に置かれている箱と鍵。
カシナはこれを使えば二次元に行けると言ってくれた。自分が恋い焦がれた世界。
ならば一回使ってみればいいと何度考えたことか。きっと自分の性格上、二次元に行ったら帰れなくなる。
だからこの箱と鍵を使うのは最終手段、それが現段階の智則の結論だった。なのではあるが、
「はぁ……」
何度目というため息を再び自室に補給する。こんな陰気くさいと自分でも思っている部屋にさらにそんな空気を満たしていくのは躊躇われるが止まらない。
そういえば、と思い出した。カシナが言っていた、世界を救うとなんとか。二次元に行くという問題だけですっかり忘れていた。ゲームで戦う程度にしか感じていなかったが今ならなんとなく。
先ほどの地揺れ。あれは二次元世界の悲鳴……?
そこまで考えてまさかと鼻で笑う。いくらなんでも脈絡がなさすぎるし、そもそも二次元の悲鳴ってなんだ、さっきの地揺れで頭まで揺れておかしくなったか。
一通り考えたら喉の渇きに気付いた。アイスココア残してきちゃったな。
立ち上がり自室の冷蔵庫までとぼとぼ歩く。冷蔵庫を開けて冷風を感じながら棚を見渡すが喉を潤すものは見当たらない。
今までとは別のため息をつき食器棚からコップを取り出しキッチンへ向かう。左側に温水、右側に冷水と書かれた蛇口を右にひねりコップを蛇口のしたに持っていく。冷水の蛇口を捻ったのだが出てくるのは生ぬるい水。コップに満たすとそのまま蛇口を捻らずにコップを口に持っていき飲み干す。再びコップに水を満たし飲む。その動作をもう一度繰り返し、箱と鍵が置いてある机に向かい先ほどと同じようなとぼとぼ歩きで戻る。
「ふうっ……」
机に面した椅子に腰かけ、また箱と鍵を見つめる。
放っておいたらこのまま翌朝まで箱を見つめているだろう。智則自身もわかっている。
「考えてても仕方ないか」
そう独り言ちると箱と鍵を脇に置き目線を上げて机の上のモニターを見つめる。カシナのメールを見たときのままの画面だ。
「あっ」
しまった、レイルアさんへの返信を完全に放置していた。仕方ない、このまま放置でいいか。そう思い新規メール作成画面に切り替える。宛先はカシナ。
「先ほどはありがとうございます。考えてみましたが、やはりこれを使う決心はまだありません。と言うのもこれを使ったら今までの僕が消えてしまう気がして。だからすみません。これは明日お返しします。っと」
とボソボソ口に出しながらキーボードをカタカタと鳴らし文字を打っていく。そのまま送信。
「やっぱりこれが一番かなぁ」
送った後だが考えてしまう。背もたれに沿い伸びをしているときに返信が来る。すぐに開くと
「そう、残念ね。やはり世界を救うというのが難しかったかしら。……」
カシナの目的はやはり世界を救ってほしいということなのだ。智則を二次元に行かせるとか、智則が選ばれた人とか、そんなのは条件で必要なのは世界を救えるかどうか。そこまでして危機に陥るのか。あるいは陥っているのか。まだわからない。文字通り次元の違う話だ。
しかし、そうまでして。
引っかかるものを覚えつつ智則は再びキーボードを打つ。
「世界を救うということが、カシナさんの目的なんですか?……」
無言で送信。すると10秒足らずで返ってくる。
「目的というより使命よ。真実を知ってしまった人のね」
モニター越しということを忘れて会話するようにキーボードとマウスを操作する。
「使命って。そんなに大きいものなんですか?」
送信。
すぐ返信
「少なくともトモノリくんの力は絶対に必要。そしてトモノリくん以外の人も必要」
「なんで、僕なんですか」
「あなたが選ばれた人だから」
「選ばれたって、誰に」
「世界よ」
世界?
「すみませんが、あなたの話は本当に理解が出来ない。どう理解しようとしてもつながらない」
そこまで送ったところで智則は普段の自分らしくない口ぶりに気が付いた。こんなに誰かと真剣に話をしたのはいつ振りだろう。いつもの今の時間はネットを切って一人で黙々と作業している時間だ。それが終わり休憩にネットにつなげば今朝のレイルアさんとしたような会話をする。好きなものを反しているときは気持ちが昂るがこんな口調で誰かと言いあったことなんて……。
画面を見ると既にカシナからのメールが届いている
「そうだと思うけど……。お願い、信じて」
ドキッとする。今日のお昼に初めて会ったカシナという女は美人ではあったがどこか近寄りがたい、不安定なオーラを外見から醸し出していた。いや、服装や身だしなみと言えば醸し出すなんてものではない。そんな彼女が。
いやいや、信じてはいけない。ただのメールだ。智則の脳内には先ほど話した時のカシナの少しハスキーな声でメールの言葉が再生されてはいるが必死で頭を振り思考を解く。
「騙されたと思ってコレを使えば信じることが出来るようになるんでしょうか?」
「きっとそう、それでも無理なら私は諦めるわ」
「諦めるって、僕しかいないんじゃないんですか」
「そうよ」
返信に困る。変なことを言った自分も自分だ。
「じゃあ、明日、もう一回会えますか?」
「そこで決める?」
「優柔不断で申し訳ないのですがまだわかりません。そりゃ世界に選ばれて僕しかいないと言われたら……」
「優しいのね、トモノリくんは」
この女の人はズルい。そんなことを言われたら……。
「じゃあ明日の14時に今日のカフェの向かいの公園で……」
「わかったわ、ありがとう。またね」
それを見たっきり返信はしない。いつもならまだ作業中だが今日はそんな気がもうしない。まだ19時前だがベッドに入り机の上の箱と鍵を見ながら今日はいっぱい歩いたから疲れたとか考えながら眠りについた。
久しぶりにたっぷりと寝て目を覚ましたのは8月17日の午前10時。それから冷蔵庫にあった4本入りのちくわを食べてシャワーに入り髪を整えて昨日着て行った服とは違う服を選び、家を出たのがついさっき。今の時間は14時の10分前。
今日は昨日の晴天とはちがい太陽に雲がかかっている。雨は降らなさそうだし、涼しくて丁度いい。
家にいるときは前髪はヘアゴムで一本角みたいにしているためあまり気が付かなかったがこうしてみると視界の端には自分の前髪が映る。そろそろ切らないとダメかなと思いつつ前髪を額に押し付けながら長さを確認していると。
「こんにちは、トモノリくん」
待ち合わせの人物がやってきた。智則は気を遣って昨日とは別の服を選んだというのにカシナは昨日とまったく変わらない姿だった。ボサボサの腰まで付きそうな長髪に白衣、フィクションで言う女役のマッドサイエンティスト如きその姿に少々智則は愕然としたが、これはこの人らしいと昨日会っただけでロクな会話もしてないのにそう思った。
そう思わせるだけの何かが智則の中に昨日芽生えたのだ。
「こ、こんにちは」
メールでは流暢に話せても実際はやはりこうである。恥ずかしさを感じながらカシナも同じことを思ったらしく笑う。
「昨日のメールではあんなに喋れてたのに、やっぱりこうなのね?」
意地悪な笑みを浮かべて聞くカシナは少し楽しそうに智則には見えた。
「ほ、ほっといてください。と、ところで」
本題を言おうとした時だ。智則の視界の端に前髪で隠れていたカフェが、昨日二人があったカフェが、昨日と同じようにグラッと揺れるのが見えた。
「?!」
反射的に声にならない驚愕を漏らす。カフェは丁度カシナの背後にあり、カシナは不思議な顔をしている。
「か、カシナさん、今カフェが!昨日もそうだったんです!昨日も今と同じようにグラッと一回揺れて!」
凄烈な勢いで語る智則とは裏腹にカシナはいまいち状況を飲み込めていないようだった。とりあえず智則の隣に歩き振り向いてカフェを見る。
カシナの目から見ると、そこは普通のカフェだった。昨日智則と会ったカフェ。それだけの感想しかないが、隣の智則は肩を揺らして震えている。
カシナは智則が演技ができるほど器用には見えない。だから。
「とりあえず向かいましょう!」
とりあえず、それが今の智則にかけられる言葉だ。
「はい、あ、あの、昨日ですね」
早足で現場のカフェに向かいながら智則は言う。今日は曇りだというのに背筋や脇には脂汗が止まらない。
「昨日もあったの?」
「はい、カシナさんが帰ってしまった後でしたが、確かに今のように店内がグラッと一回揺れたんです」
「そう……」
それっきり口を閉ざす。いや、トモノリに対してだけ。小声でカシナがなにかを独り言ちているのを智則は訊いた。何かを知っているのだろうか。
わずか100mもないカフェまでの道は早足で歩いたためすぐに着いた。店内を確認すると昨日と変わらず客は机の下にもぐり、店員は外に出るように誘導している。
同じように店内をのぞきこんだカシナが再び漏らす。
「……やっぱり」
今度は智則の耳にまで響いた。小さな窓を二人の顔が触れるぎりぎりまで近づいて見ていたのを感じた智則は慌てて窓から後ずさり聞く。
「やっぱり、って……?」
「でも、早すぎる……」
智則の問いにカシナは答えず独り言を続ける。
「カシナ、さん……?」
「トモノリくん」
急に名前を呼ばれてピンッ、と冷水を背中に流し込まれた時のように背筋を張る。
「は、はいっ!」
「緊急事態よ」
「へ?」
緊急事態、と語るカシナの口調はとても落ち着いたものだった。まるで待っていたかのように。もしかしたら本当に待っていたのだろうか。
「キースアルファとキースベータは持ってきてる?」
「えっ?えっ?えっ?」
確かに後ろのジーパンのポケットにアルファが、右ポケットにはベータが入っている。だが今どうしてそれを。
「大丈夫、トモノリくんならできる」
そういって智則に微笑む。
だからズルいのだ。女性に慣れていない智則にそんな笑顔は。
「え、あの……」
「フォローは任せて」
「いや……」
「心配しないで」
「そう、じゃ……」
「急いで!」
「そうじゃないって言ってるだろ!!!!」
そう言ったときだ。全身の力をすべて声に乗せるかの如くそう言った途端。
「うわあああああああ」
店内から悲鳴が聞こえた。それに同調して避難中だった店内の客は一斉に外に出ようとする。
一体何が起きたのか。それは小さな窓に顔を近づけなくてもわかった。
火だ。店内から火が。というよりは、店内の床から火が。目をチクチク委託させるほどの火炎が店内を満たしていく。
「トモノリくん、急いで!!」
カシナはこうなることを知っていたのだろうか。グラッと揺れた後火災になることを。
「え、あ……」
声が出せない。どうしたらいいのかわからない。体が動かない。
こんな火を智則は初めて見た。火はものすごいスピードで床を広がりテーブル、いすを真っ赤に包む。今ジーパンのポケットにある箱、キースアルファと同じ色。
そんなことを考えるが動いているのは脳だけ。目の見える範囲もだんだん狭まり音も木を焼く轟音だけで何も聞こえない。視界の端でカシナが芝生にノートパソコンを広げて何かを智則に言っているがそんな声も聞こえない。
この、シーン……。智則はふと思い出した。
戦場合体シュヴァリギオン第8話。あれは主人公が火事になった建物の中に取り残された人々をグランチャイトという二号機と合体し助け出す、そんな物語だ。
カフェの小さな窓から見える景色はもうほとんどが真っ赤だったが、智則には見えた。助けを求める人の姿が。声が。
視界も聴力もほとんど機能していない中、智則は見て聞き取った。
「カシナさん!」
反射的にそう叫び後ろのポケットと右ポケットから箱と鍵を取り出す。持ち歩いているときは感じなかったがいざ手にすると意外な重量感が腕に伝わる。
カシナは智則に指示を出す。
「キースベータの真ん中を押して!鍵が出るわ!」
これそのものが鍵ではなかったのか、言われるとおりにV字の腹の部分を親指で強く押す。
シャキッ!と光を吸い込む漆黒のV字の凹みから輝かしい3㎝程度の銀の鍵が飛び出す。
「いいわ!開錠、と叫ぶとアルファに鍵穴が出るからベータを差し込んで!」
もういったいどういう仕組みで二次元に行けるかなんて解析してる暇もなく言われたとおりに叫ぶ。
「開錠!!」
するとカシナの言った通りアルファ、箱の中央に金字の紋が浮かび上がる。中央は長方形に穴が開いていて鍵を差し込む場所だとわかる。
「差して!向こうに言ったらこんどはこっちから指示を出すわ!」
そういってノートパソコンを指の背でたたく。
深呼吸してカシナに向かって無言で頷き、右手で持った赤い箱の一番面積が大きいところの中央に鍵を差し込む。
ジャリジャリジャリとい感触を感じながら鍵穴に差し込み手首を回すとカチッと音がした。
その音を聞いた途端一瞬だった。一つの箱は左右二つに分離し、さらにその各々がこんどは上下に分離し四角形の扉の形を取ったところまでは一瞬だったが見えた。
そのあと瞬きをするともう視界には別の世界が広がっていた。全体的に淡く白く染まったような世界。ここが現実ではないとすぐにわかった。
「やったわ!成功よ!トモノリくん!」
天井、といっても白い空からカシナの声が聞こえる。服も、靴もさっきのままでまるで本当にそのまま体が二次元に来たようだ。
「これでどうすれば……?」
勢いに任せてここまで来てしまったため頭が追い付いていない。
「トモノリくん?聞こえてる?返事して!」
「は、はーい!」
どこから声が聞こえるのか姿が見えているのかわからないがとりあえず言われたとおり白い空に向けて声をだし手を振ってみる。
「手までは振らなくて大丈夫よ。じゃあ行くわよ!」
少し笑いながらカシナは言い、トモノリに先へ進むように指示するが。
「ど、どっちへ……?」
キョロキョロとあたりを見回すとさっき立っていた自分の丁度左の奥に少し眩しく輝く赤いものがあった。白いせいでうっすらだがほかの景色と違うのを感じた。
あれが火災の原因。
気を引き締め智則は走って向かう。シュヴァリギオンの8話を思い出しながら。今の僕にはシュヴァリギオンという巨大ロボはないし、すこし小さいグランチャイトという二号ロボさえもない。あるのは、手に握りしめた赤い箱と黒い鍵。それと、自分の体と8話のシーンの記憶。絶対に火を止めて中の人を助けだしてやる。
いつもの自分らしくない強気な自分になっているのを感じる。シュヴァリギオンは僕に勇気をくれる。
それだけで智則の体を動かすエネルギーとしては十分だった。だんだん目標に近づくにつれ気温が高くなるのを感じる。やっぱりそうだ、これは火だ。おそらくこの火を止めれば現実の世界の火も止まる。
さらに火に近づくべく距離を縮める。顔の周りがピリピリとした熱気に包まれるまで近づいたとき智則はその火がただの火ではないことに気が付いた。
「んだぁ?リドーか?」
日本語を話す火というものを現実世界で智則は目にした、または耳にしたことはない。嫌な予感を感じ、天井を見上げる。するとやはりカシナの声が聞こえた。
「出たわね、ラクト!」
ラクトという名には聞き覚えがあった。昨日カシナが言っていた。悪の組織……?
あまりそのあたりの会話のことは覚えていない。だが、間違いなくこいつがカフェに火をつけている犯人だということはわかった。犯人はカシナの声が聞こえていないらしくケッケッケと笑いながらこちらを振り向くことなく体にまとった火を揺らめかせている。
これを、倒すのだろうか……?
ゲームではなかったのだろうか……?
確かにカシナからはゲームなどという言葉を一切聞かなかった。勝手に智則がそう想像していた。周りは熱気に包まれているが背筋は凍り付いている。確かに日本語を話したが、確かに輪郭は人の形といえばそうだが、こいつの体は真っ赤な炎で包まれているのだ。時折動かしたときに見える手はクマのような爪がギラリと見え隠れしている。
ど、どうやるんだよ……。
「おい、せめてなんか言えよぉ、リドー?そう後ろに立たれちゃなんかむず痒いぜぇ。」
ケッケッケと笑いながら眼前の化け物がこちらに振り向く。
なにも出来なかった。化け物と目が合う。
「んぁ?誰だオメー」
化け物にしては随分と日本語達者であると思った束の間、恐怖に包まれる。
頭には頭蓋骨、ドクロのような目が空いたその奥には左右二つの青色の火、体は火で隠れていて見えないが牙か爪のようなものが左右非対称に飛び抜けている。足にまでそれは広がっており足元には白い世界を焦がした黒いあと。腕は先ほど見たクマの爪を甲に備えその下からは人間と同じ五本の指が見える。
体にまとった火をマントのようにはためかせ化け物が近づいてくる。
動け、動けと念じても体は石の如く固まっている。
2,3m前方にまで歩を進め化け物は止まった。
「誰だ、オメーはっつってんだよ、ニンゲンか?」
厳つい形相は火の勢いのせいもあってか見ているだけで涙が出そうになってくる。
「僕は」
「んなことどうでもいいけどなぁっ!」
ブンッと手が斜め左上から振り下ろされた時だ。
完全に相手の挙動を見てから動いたにも関わらず、左だと視認し先ほどまで動かなかった体が嘘のように羽のような軽さで左に体を飛ばし受け身をとる。
「あぁんっ?!」
驚いたのは化け物も智則も同じだった。以前不良に絡まれボコボコに殴られた時と似たような状況だが今回は避けれた。
「そんなマグレがいつまで続くかなぁ!」
新しく黒く焦がした地面を踏みしめ化け物はこちらに向かって跳んでくる。
また見えた。奴は右腕をこちらの体の中央に向けている、体を切り裂くつもりだ。そこまで考えて再び左に跳び受け身をとる。
化け物の右腕は先ほどまで自分の胸があったところの空気をジャッと切り裂いた。
「ちょこまか……してんじゃねぇええ!!!!!」
化け物は体を震わせまとった火を弾丸のようにしてこちらに飛ばす。
見える。初発から右肩、左足、右肩、右足、頭!
何故だか現実世界にいた時より遥かに強化された反射神経と運動神経のおかげで全弾すべて体に掠ることなく躱す。
化け物の厳めしい表情に変化は見られないが苛立っていることはわかる。がその時。
クマのような爪に隠れた指が動く。円を描くように。
ドッ!ドドッ!ドッ!ドッ!
背後に強烈な痛みを5回感じ立っていられずに倒れる。熱い。まさか。
「ハハハッ!ざまぁみやがれぇ!よくもちょこまかとからかってくれたなぁ?」
化け物の嬌声が耳に入る。視界が薄れる。
「トモノリくん!キースアルファをよく見て!」
カシナの声が聞こえる。こんな時に何を言ってるんだろう……。もう指一本動かせないよ。
楽しむように化け物が一歩、また一歩と近づく。そのたびに白い世界の地を黒く焦がす。
「おいおい、もう終わりかぁ?」
「トモノリくん!!」
僕は何をしたんだろう。今まで生きてきて誰かの為になったことはあっただろうか。
死を目前に備え智則はそんなことを考える。走馬灯のように記憶をめぐるが先ほどの問いの答えは見つからない。
そうか僕は何も、してないんだ。
気付くと横たわる頬に暖かい涙が水たまりを作り溜まっている。
こうして死ぬのか。なにも出来ず、誰かのためにもならず、こいつの炎で焼かれて燃えカスのように。
……嫌だ。
僕はまだ何もできていない。何もしていない、こんなところでなんか、こんなやつになんか……。
「僕は……ぐっ……」
「あらぁ、もうちょっと楽しませてくれるのかぁ?」
ケケケと気味の悪い笑みを打ち消すように僕は叫ぶ。
「僕は、絶対に!負けない!」
必死の力で手を動かしキースアルファを見る。そこには現実世界にはなかった赤色の帯が畳まれている。不思議に思っているといつの間にか化け物に距離を詰められていた。
そのまま腹部を蹴られ、後方5m程吹っ飛ばされた。
痛い、熱い、痛い……。だが、現実世界ではまだ火は止まってないだろう。中に取り残された者のことを考えればこんな痛みに構ってる場合などではない。帯を解き天井を見る。
「アルファを腰に巻いて!」
ベルトか、と思ってよろよろと立ち上がりアルファを下腹部に当てた瞬間、手を使わずとも腰に巻かれる。
「ベータの鍵を出してアルファに差し込んで!」
こちらの世界に来た時と同じように(今度はアルファを腰に巻いているが)すればいいのか。言われたとおりベータの腹を指で押し銀色の鍵を射出させる。
「装着コードは解錠転身よ!」
「い、言えばいいのか?!かっ、解錠転身!」
そう言いながら鍵をバックルに差し込み回す。
突如、今まで箱の形を取っていたアルファが崩れ去るかのごとく次々に表面に亀裂を走らせていく。全て亀裂が走り終わった途端、バンッと智則の前方120度あまりに向けてバラバラになったアルファの破片が飛んでいく。
これにはさすがの化け物も驚いたのか少し後ずさるが、飛んだ破片は空中に静止したままだ。刹那、今度は破片がものすごい勢いで智則のところへ戻ってくる。
「うわああああああああ」
「動いちゃだめ!!」
カシナにそう言われ動かずにいるとガチッガチッっと言いながら高速で自分の体を破片がコーティングする。これは。
「鎧……?」
手にはグローブのような感覚、頬に触れようと顔に手を伸ばすと冷たい感触、ヘルメットのようだ。体を見渡すとどこも赤い装甲が覆っている。
「成功よ!!トモノリくん!ID、K-01キース、誕生よ!」
「けーぜろわん……きーす……?」
聞き慣れない単語ではあるが、そんなことはどうでもいい。体の奥から供給される力がこの鎧を感じて伝わる。今まで感じたことのない感覚。
「いい加減にしろよ……!遊んでんじゃねぇんだよぉぉ!!」
敵の怒りは有頂天なようだ。先ほどの比ではない10、いや20、どんどん火の弾丸を増やしこちらに向けてマシンガンのように放つ。
空気を切り裂く音をその耳に感じながら視認できる弾を全て避ける。そして、敵の手に注目する。さっきあいつは時計回りに回した。結果、自分の右側に偏って弾は背面に命中した。つまりあの手の動きは弾の動きと同じ!
今の敵の手の動きは反時計回り、ならば今度は背面左方向から飛んでくる。躱すべきか、いや再び弾はこちらに戻って来てやられるだろう。
「じゃあ!」
智則はそう言うと敵に向かって駆け出した。
これは賭けだ。勘違いなら間違いなく死ぬ。恐らく敵の化け物は火の弾を操作中動けない。集中力が必要なのか理由はわからないが先ほど20発近く発射した時、あいつは一歩も動けなかった。こちらが躱しているのをただ見ているだけだった。奴のスピードなら最初に攻撃を仕掛けたように弾とほぼ同じスピードで自身の体をその脚力で飛ばせるのに、だ。なぜ僕が避けていた時に間合いを詰めなかったのか、その答えは、奴は火の弾を打ち出したときに動けないからだ。
もし違ったら、もし動けるなら今奴に駆けているこの瞬間にカウンターされるはずだ、弾はきっとあと2秒で僕に追いつく。が、このスピードならあと1秒もいらない!
「うおおおおおおおおおおおおおあああああ!」
間合いを一瞬で詰めたときに、勝ちを確信した。腹から唸り声を出し赤い装甲に包まれた右の拳に力をためる。
許さない。こんなに僕を傷つけて。
許さない。こんなに世界を燃やして。
許さない。現実の人を脅かして。
許さない。僕はお前らラクトを。
「食らええええええっ!!!」
僕の右腕は音速を超えて敵の腹部に命中する、非対称に飛び出た牙や爪のようなものをへし折っていく感覚が伝わる。
「ぐぐぐぐ、がああああ、ぐあああああ!!!!」
さっきまで余裕の表情で挑発していた顔は醜く歪み、腹を後方に突き出しエビのような格好のまま10m程飛んでいく。
「はーっ、はーっ……」
「きゃあああああああ!!すごい!!すごいわ!!トモノリくん!!よくやったわ!!」
「火は、どうなりましたか……?」
歓声が聞こえる上空に問いかける。
「見事止まったわよ!ホントよくやったわ!!」
これは本当に自分だけにしか聞こえていないのだろうか。そんな感覚を覚えるくらいカシナのはしゃぎ声が白い世界を満たしていく。
敵を殴った右手はジンジンとする。これが戦い。これが終わりではないだろう。まだこの先も、もしかしたら死ぬまで戦い続けていかなければいけないかもしれない。少し焦げた匂いのする掌を握ったり解いたりしながらそんなことを考えていると。
「ぐぐ、貴様ぁ……。」
まだ死んでいない?!
「ッ……!」
無言で口を引き締め飛ばした相手の姿を見る。煙立ってよく見えないがもう立ち上がっているみたいだ。
「ぐ、貴様、名は……」
突然名を聞かれ戸惑う、今の僕は誰なんだ?
「キースだ、貴様らを殲滅する正義の者だー!」
と上空から聞こえる。それが解か……?
緊張感のない声に頭を抱えながら答える。
「キース、貴様らラクトを倒す正義の者だ」
化け物は鼻を鳴らし言う。
「フン、そんなお遊びのような連中に負けるとはなぁ、今回は俺の負けだ。認めるよ、だが次。次はこの俺レムフイが貴様の首を刈り取って灰にしてやる」
最初に会ったときのようなケケケと笑う笑い方を宙に残しレムフイはいつの間にかどこかへ消えていた。奴がいた所には黒い焦げ跡と白い煙。
「……キマったわね!」
「変なこと言わせないで下さいよ……確かに悩んでましたけど」
「まーいいじゃないいいじゃない、宣戦布告よ宣戦布告!」
ハハハと大声で笑うカシナさんの口をこちらの世界から押さえつけられないのかと考えた。が、そもそも自分がそんなに考えられるようになっていたことに気付く。いや、いつから?そういえばいつからだ。カシナさん相手にドモらなくなったのは。
緊張感がぬけたからかな、そう思いながら呼びかける。
「カシナさーん、これどうやって戻るんですかー?」
「はいはい、えーっとまずは背中の腰あたりにベルトが巻いてあると思うけどそこにボタンがあるはず、それで転身は解けるわ。」
言われたとおりに押すと今まで自分を覆っていた装甲は再び破片となり前方に散った後少し止まり、またこちらに戻ってくるが今度は智則の体に装着されることなくキースアルファ本来の箱の形に戻った。
「今度はアルファを持って少し体から離すようにしてみて。それでベルトが外れると思うわ」
アルファを右手で持ち剥がすように浮かすとシュルシュルとベルトは畳まれていく。
「最後に入ってきたときと同じように体にアルファを付けないでベータを差し込んで。体に付けると転身しちゃうからね。コードは施錠」
「施錠!」
鍵を出したベータをアルファに差し込みそう放つと入ってきたときと同じようにアルファが四分割され扉の形になり、そのあと瞬きするとすぐ目の前には現実世界……のカシナ。
「う、うわぁ!」
「きゃっ!」
「ど、どどどおうしてっ!近いです近い!」
焦って後ずさる。目を閉じると先ほどのカシナの微笑んだ顔、柑橘系のいい香り、耳によくとおる悲鳴にも似た驚愕の声がフラッシュバックする。
「あはは、よくやったわね、本当にありがとう」
後ろに下がってできた智則との間合いを詰めカシナは微笑んだ。
化粧っ気のない顔だが美人だ。長い睫毛、大きな瞳、しゅっとした眉、前髪は風に揺れている。少し赤らめたように見える頬は先ほどの歓声の影響か、潤いのある唇を開いてさらに続ける。
「で、信じてもらえたかしら……?」
少し不安そうな目で尋ねる。
「そんな、愚問ですよ……。あの世界を見たし聞いたし直接そこに棲むものとも戦った。まだ右手はピリピリしてます……」
「ごめんなさい、なにもかも。もうちょっと事前にわかりやすく説明してあげられれば良かったわね……」
「あれ以上、わかりやすい説明は無理ですよ、はは……」
乾いた笑いを漏らしたところで、カシナの後方にあるカフェの小さい窓が目に入る。
「あっ、そういえば!中にいた人は、無事なんですか?!避難できましたか?!」
「中にいた人……?トモノリくんがあっちの世界に行くまえにはもう全員の避難は終わってたと思うけど……?」
「えっ……?」
「えっ?」
「いや、確かに、助けを呼ぶ声が……」
「え、うそ?!」
前方に立っているカシナを避けて智則は窓を覗く。あちこち煙だっているが火はもうない。まるで燃やすものがなくなりそのまま消えていったみたいだ。確かにカシナの言う通り中には誰もいない。
じゃあ智則が聞いたあの声は?
「幻聴だったんですかね……?火の勢いでよく聞き取れない気もしましたし……」
「きっとそうよ」
「でも、僕はその声をきいて助けたいって思ってあっちの世界に行って戦ったんです」
カシナは黙って聞いていた。それによって話しやすい沈黙が続くため智則もつい饒舌になる。
「僕はみんなを助けたい。今は正義の味方ってあんまり言えないかもしれないけど、僕はシュヴァリギオ、あっ……僕の正義感で戦っていきたいです」
智則が導き出した答え。それは彼が昨日考えていたものとはまるで違った。
智則はまずカシナの作り出した二次元への方法に好奇心が沸騰しそうになっていた。その逆で自分が今まで持って実行してきたプライドへの矛盾を感じた。このプライドは自分の手でシュヴァリギオンみたいに正義を貫いてこの研究成果を世に発表したい、そのようなものだった。
しかし、カシナの方法で二次元世界へ行き、レムフイと戦ってわかった。大事なのは方法じゃない。正義を貫くハートだと。
シュヴァリギオンに憧れて盲目的になる間に大事なことを智則は忘れていた。
「だから、僕で、よかったら、その……」
うまく言えない。照れくささを混じらせて言葉を探しているとカシナが割り込む。
「頼りにしてるわ、私のトモノリくんっ」
そう言ってカシナは両腕を広げ抱き付く。白衣で隠れてわからなかったが、この女意外に強力な武器をその胸部に隠し持っていたらしい。
「あっ、ちょ!カシナさん!」
「んー?ほんっとウブねぇ、弄り甲斐あるわぁっ」
「ちょっ、はなしてくださいよ!!」
「えーもうちょっとー」
「マジ勘弁してください!!」
双丘を押し当てるカシナの笑みは数時間前の緊張感とはかけ離れたもので。
抱き付かれるだけのトモノリの声は先日とは打って変わり筋が一本通ったように響いていて。
二人の上空、空は雲を開けさせて夏の暑い日差しが降り注いでいた。
絵という文化が発達して数千年。
今ここにそれを侵略せんとする者たち、ラクトと。
奴らの企みからそれを守ろうとする者たち、キースが誕生した。