007:天正三年 三月下旬:知恵捨
「ちぇすうてえええええ!!」
「ちょおえああああああ!!」
「ちぇすてええええええ!!」
次郎の朝は早い――。
まだ空が白み始めたばかりの暁から、男たちの雄叫びが屋敷中に響き渡る。
「ちぇすてええええええ!!」
近所の屋敷からも、それに負けじと声が返ってくる。
どうやら、この辺りでは珍しくもない朝の光景らしい。
木刀を振り、汗でびっしょりになった男たちを横目に、次郎は歯木に塩をつけ、口の中を磨いていた。
その傍らでは、鋭い眼差しで男たちを監督する織部と、あちらへこちらへと忙しなく動き回る綾。
これが、織部の屋敷による毎朝の恒例行事である。
知恵捨。――後世に、そう呼ばれることになる。
薩摩に伝わる剣術には、初太刀にすべてを懸ける一撃必殺の理念がある。
『示現流』や『薬丸自顕流』などがその代表だ。
激しい踏み込みとともに放たれる雄叫びもまた、この剣術の特徴の一つである。
『チェスト』や『猿叫』。
こうした掛け声は、この時代にもすでに使われていたという。
ただし、後世に広く知られる『チェスト』という言葉の語源については諸説あり、定かなことは分かっていない。
一方、女たちも朝早くから忙しい。
水を汲み、飯を炊き、朝餉の支度を整える。
水汲みといえば、屋敷の裏庭には井戸がある。
庶民は釣瓶と呼ばれる桶に縄を結び、それを井戸へ落として水を汲み上げる。
富裕な家では、滑車を用いた車井戸を備えているところもあった。
ある朝、下女二人が顔を真っ赤にしながら、声を潜めて、
「ちぇすてえええ……」
などと叫びつつ水を汲んでいるのを見た次郎は、さすがに気の毒になった。
そこで、車井戸を複合滑車に改良したら下女たちには、大いに喜ばれた。
それ以来、水汲みは格段に楽になったのである。
そして、この複合滑車を初めて目にする川上が、どのような顔をするのか。
次郎は、それを少しばかり楽しみにしていた。
織部の屋敷に住み込みで働く奉公人は、総勢三十人。
男は侍、足軽、下男など二十人。
女は十人で、炊事や洗濯、掃除など家事全般を担っている。
次郎による生活改善が少しずつ積み重なるにつれ、奉公人たちの顔には笑みが増えていった。
以前よりも働きやすくなり、健やかに過ごせるようになった者も多い。
そんな日々が続いていた。
赤尾木城――私室。
部屋には、領主・時尭、種子島家筆頭家老の織部、客分の次郎、そして御用商人の川上。
四人だけが集まり、密やかに話し合っていた。
「そろそろ、本土の耳にも入るじゃろう」
「うむ。むしろ、まだ何も言ってこないほうが不思議ですな」
時尭の言葉に、織部が応じる。
次郎と川上は、黙って二人の話を聞いていた。
話題は、次郎の処遇について。
未来人である次郎。
その存在そのものが持つ価値についてである。
時尭と織部は、島の発展のためにも、次郎の有用性が外へ漏れぬよう、これまで様々な手を打ってきた。
川上もまた、種子島家の御用商人として、口の堅さには定評がある。
だが――。
主家である島津家から求められれば、そう簡単に拒むことはできない。
涙を呑んで差し出すことになるやもしれぬ。
とはいえ、次郎を島津家へ渡し、ただ飼い殺しにされるような事態だけは、何としても避けたい。
着々と勢力を広げつつある島津家。
その過酷さも、非情さも、時尭と織部には身に染みて分かっている。
先を読むことに長けた二人であっても、島津家を相手にしては、ただ事態の推移を待つしかない。
それが、何よりも歯痒かった。
そんな二人の会話を聞きながら、次郎はふと、以前のことを思い出していた。
謁見の翌日。
城へ呼び出され、この私室で時尭、そして織部と話をした日のことを。
あのとき次郎は、織部に話したのと同じことを時尭にも伝えた。
自分は未来から来たこと。
未来の日本という国は、やがて一つにまとまり、戦のない平和な国になること。
ただし、織部が黙って聞き役に徹していたのとは対照的に、時尭は次々と質問を投げかけてきた。
中でも多かったのは、歴史や軍事に関することだった。
そして何より、時尭は知りたがった。
――島津はどうなる?
――種子島家は安泰なのか?
次郎は、歴史については嘘をついた。
未来の日本では、子供の頃から理系と文系に分かれ、自分は理系の勉学に励み、そのまま研究の道へ進んだ。
歴史は文系の分野であり、触れる程度の知識しかない。
覚えているのも、せいぜい歴史年表の大まかな流れくらいだ。
そう答えた。
次郎は、恐ろしかったのだ。
この時代に起こる出来事を自分が話してしまえば、それによって未来そのものが変わってしまう。
そして、その変化の先で、何万人もの生殺与奪が左右されるかもしれない。
その重圧を、とてもではないが背負うことはできなかった。
学者として、研究者として生きてきた自分には――荷が重すぎる。
それが、次郎の判断だった。
「山田、井戸と硝石とやらの件は好きにせよ。資金と人夫のことも、川上に申し出ればよい」
織部との話が一段落したところで、時尭が次郎に許しを与える。
「ありがとうございます」
次郎は深く頭を下げた。
「――山田。今日はもうよい。少し席を外せ」
時尭にそう告げられ、次郎は川上と連れ立って部屋を出た。
廊下を進みながら、川上が声をかける。
「山田様、先日の件を、もう少し詰めたいのでごわすが」
「あ……ああ。硝石の生産ですね」
「はい。まずは、必要となる費用と人手を見積もらねばなりもはん」
二人は城内にある米蔵へ向かった。
米蔵の一角には、簡素ながら休憩に使える場所が設けられている。人目も少なく、商いの話をするには都合がよかった。
腰を落ち着けると、二人はさっそく硝石の生産について話し始めた。
必要となる材料。
生産に携わる人数。
道具を揃えるための費用。
そして、完成した硝石を保管し、運ぶための手間。
次郎は川上から聞いた数字を、一つひとつ頭の中で整理していく。
「賃金は……出さなくてもいいです。ただ、その代わりに衣食住は、こちらで面倒を見てもらえませんか?」
「衣食住を、でごわすか?」
「ええ。できれば、母子家庭を中心に、生活に困っている人たちを雇ってほしいんです」
次郎は、自分の考えを説明していった。
今にも崩れそうな粗末な家で暮らしている者たちを、そのまま働かせるのではない。
こちらで用意した長屋に住まわせる。
食事は炊き出しによる共同生活とし、着るものも、上等なものでなくていい。安い生地で構わないから、働くために必要な衣服を与える。
住む場所があり、食べるものがあり、着るものがある。
それだけでも、貧しい者にとっては大きな支えになる。
そして生活の基盤が整えば、安定して働ける人間も増える。
次郎は、そう考えていた。
「働く場所だけを用意しても、家がなくては続きません。食べるものがなければ、働くどころじゃない。だったら、最初から生活ごと面倒を見てしまえばいい」
「なるほど……」
川上は、静かに頷いた。
硝石を作る。
ただ、それだけではない。
そのために必要な人間を集め、住まわせ、食わせ、働かせる。
次郎の考えていることは、単なる生産計画よりも大きかった。
話が進むにつれ、次郎は別のことも尋ね始めた。
種子島では、何が作られているのか。
米以外の農産物は何があるのか。
牛や馬はどの程度飼われているのか。
魚介は何が獲れ、どこへ売られているのか。
酒などの特産品はあるのか。
川上が答えるたび、次郎は頭の中で一つひとつ整理していった。
農産物。
畜産物。
水産物。
特産物。
島で何が生まれ、どこへ流れ、何が足りないのか。
それらを記憶の中へ組み込んでいく。
川上は、そんな次郎を不思議そうに見ていた。
やがて、利益の取り分について話が及ぶ。
「では、山田様の取り分についてでごわすが……」
「私は、金はいりません」
「……金は、いらぬので?」
「欲しいものはあります。でも、それは金では買えないんです」
次郎は、それだけを告げた。
川上は、しばし黙った。
――欲がない。
いや。
正確には、欲がないのではない。
金で買えるものには、さほど興味がないのだ。
そんな人間を、川上はこれまで見たことがなかった。
商人の世界では、人は何かを欲しがる。
金。
土地。
家。
名誉。
権力。
誰もが、それぞれの欲を抱えている。
だからこそ、商人はその欲を見極め、商いをする。
だが――この男は違う。
川上は、次郎に未来のことを尋ねようとはしなかった。
聞けば、答えてくれるのかもしれない。
だが、言葉には重みがある。
余計なことを口にしたばかりに、自分自身の首を絞めることになった者を、川上はこれまで幾人も見てきた。
ましてや、次郎ほどの価値を持つ人間など、この日ノ本にはそうそういない。
南蛮まで目を広げたところで、果たして何人いることか。
――見極めるには、まだ早い。
そう思いながら、川上は目の前の男を静かに見つめていた。
そして、話は具体的な数字へと移っていく。
収入。
支出。
経費。
人件費。
材料費。
数字を一つ交わすたび、川上は懐から算盤を取り出した。
「パチ、パチ、パチ……」
急いで仕立てさせた十進法の算盤。
珠が、軽快な音を立てて弾かれていく。
「パチ、パチ、パチ……」
先ほどまで使っていた算盤とは違う。
一つひとつの数字が、次々と形になっていく。
川上の指は止まらない。
商人として積み重ねてきた経験が、珠の動きにそのまま表れていた。
「パチ、パチ、パチ……」
川上が算盤を弾き続ける横で、次郎は窓の外へ目を向けていた。
やがて話が一段落すると、二人は米蔵を後にした。
そこへ、時尭との話を終えた織部が合流する。
「よし。帰るぞ」
「はい」
てっきり、そのまま屋敷へ戻るものだと思っていた次郎だったが――。
「……ん?」
いつもとは違う道へ進んでいる。
「織部様、今日はこっちなんですか?」
「うむ」
それだけ答えると、織部は何も言わず歩き続けた。
次郎は首を傾げながらも、その道すがら周囲へ目を向けていた。
見慣れない場所ならば、何か採取できそうなものが見つかるかもしれない。
道端の石。
土の色。
植物の生え方。
地質学者としての習性なのか、珍しそうなものが目に入るたび、次郎はさりげなく目星をつけていく。
そんなときだった。
「……ん?」
不意に、鼻を突く強烈な臭いが漂ってきた。
次郎の足が止まる。
硫黄。
炭。
そして――焼けた鉄の臭い。
どれも、何度も嗅いだことのある臭いだった。
「この臭い……」
鼻を利かせる。
風に乗って、さらに濃くなってくる。
その直後――。
カン!
カン!
ガン!
甲高い金属音が響いた。
一定の間隔で打ち鳴らされる音。
次郎の目が、すっと細くなる。
「鍛冶屋……?」
だが、すぐに違和感を覚えた。
鉄を打つだけなら、この臭いは少しばかり強すぎる。
そして、ここは――種子島。
「……いや」
次郎は、はっと顔を上げた。
「そうか。種子島だから……鉄砲鍛冶か!」
その瞬間、先ほどまでの疑問が一気に繋がった。
鉄を焼く臭い。
炭の臭い。
硫黄の臭い。
そして、この金属音。
ここでは、刀や農具だけではない。
鉄砲を造っているのだ。
織部は、そんな次郎を横目に見ながら、口元を僅かに上げた。
やがて、一軒の鍛冶場の前へ辿り着く。
近づくにつれて、臭いはさらに強くなった。
熱せられた鉄の焼ける臭い。
炭の煙。
火床から立ち上る熱気。
そして――。
カンッ!
ガンッ!
耳を打つ鍛造の音。
「金兵衛! おるか!」
織部が声を張り上げ、鍛冶場の扉を開ける。
中から、熱気が一気に流れ出してきた。
「おんじどん」
奥から声が返る。
次の瞬間、一人の男がこちらへ歩いてきた。
「……」
次郎は、思わず息を呑んだ。
ひと目見ただけで、何とも言えない異様さを感じる男だった。
何より目を引いたのは――右手。
明らかに大きい。
鍛冶仕事で長年使い込まれたその手は、左手とは比べものにならないほど節くれ立ち、分厚く、巨大だった。
指も太い。
「……でかい」
思わず漏れた次郎の呟きに、男がちらりと視線を向ける。
その視線が、次郎の顔から足元まで、ゆっくりと動いていく。
じろじろ。
まるで品物でも値踏みするかのような目だった。
次郎が固唾を呑んでいると、織部が男の頭を――。
ゴンッ!
「挨拶せんかッ!」
「お、おんじどん……」
叩かれた男は頭をさすりながら、ようやく次郎へ向き直る。
「こいつは、八板金兵衛。鉄砲鍛冶師じゃ」
織部が紹介する。
金兵衛は、改めて次郎を見る。
そして――。
「二代目、八板金兵衛でごわす」
深々と頭を下げた。
内城――謁見の間。
種子島へ派遣している目付からの報告を受け、黙って耳を傾ける男がいた。
島津家当主、島津義久。
その脇座には、参謀を務める三男・島津歳久が控えている。
「……」
報告を聞き終えた義久は、しばし黙り込んだ。
やがて、何かを決めたように顔を上げ、歳久を見る。
目が合った歳久は、静かに一礼した。
そして――。
何も言わぬまま、謁見の間を退出していった。




