010:天正三年 四月上旬:上総掘
朝。
種子島の空は、雲ひとつない青空だった。
屋敷を出た次郎は、権兵衛、弥助を伴い、牛車と荷台を連れて、川上と待ち合わせている島内のある場所へ向かっていた。
牛車には井戸掘りに使う道具を積み、荷台には作業中の水分補給用として、水と塩水を十分に用意してある。
先日の領内見分で、井戸を掘る候補として選んだ場所のうち、屋敷から最も近い場所だった。
周囲の地形。
地層の傾き。
草木の生え方。
地表に残る湿り気。
一見すれば、ただの土地にしか見えない。
だが、次郎の目には違って見えていた。
ここならば、地下深くに水がある可能性が高い。
そして今日、その水を掘り当てる。
「……川上殿?」
いつもの川上とは、明らかに様子が違う。
普段ならば、仕立ての良い着物を身にまとい、商人らしい身なりを整えている。
身分のある者としての体面もあれば、御用商人として人前に出ることも多い。
少なくとも、泥にまみれるような格好ではない。
ところが――。
今日の川上は違った。
上等な着物は脱ぎ捨て、粗末ながら丈夫な作業着に着替えている。
袖はきっちりとたくし上げられ、裾も動きやすいようにまとめてある。
頭には手拭い。
足元も、汚れても構わない草履。
どう見ても、これから商談へ向かう御用商人ではない。
完全に、作業をする男の格好だった。
「……川上殿。今日は、どうされたんです?」
次郎が尋ねると、川上は満面の笑みを浮かべた。
「決まっちょるでごわす」
胸を張る。
「おいも、掘るでごわす!」
「……掘る?」
「井戸でごわす!」
川上は、ぐっと拳を握った。
「人を集め、仕事を作り、暮らしを良うする。その仕事の最初に、おいが手ぇ出さんでどうするでごわすか!」
妙に気合が入っている。
次郎は思わず苦笑した。
「でも、川上殿は商人でしょう?」
「商人じゃからこそでごわす」
川上は真顔になった。
「人が働けば、物が動く。物が動けば、金も動く。井戸が増えれば、水を求めて遠くへ行く必要もなくなる。人が元気になれば、仕事も増える」
そして、にやりと笑った。
「つまり――掘る価値がある井戸でごわす」
「そこですか……」
次郎は呆れたように笑った。
だが、川上の目は本気だった。
ただ儲かりそうだから参加するのではない。
自分が関わり始めた仕組みが、目の前で形になっていく。
そのことが、たまらなく面白いのだろう。
「それに」
川上は作業道具へ目を向ける。
「山田様が教える技術を、おいも覚えておけば、別の場所でも役に立つでごわす」
そう言って、竹竿を手に取った。
「さあ、山田様。どげんすればよかとですか?」
「……本当にやる気なんですね」
「もちろんでごわす!」
川上は、まるで新しい商売を見つけた少年のような顔で笑った。
その姿を見た次郎は、肩をすくめる。
「では、まず泥まみれになる覚悟をしてください」
「望むところでごわす!」
「……ここです」
少し歩いた次郎が足を止める。
「ここに井戸を掘ります」
「ここでごわすか?」
川上が周囲を見回した。
「はい。地下には水がある可能性が高い」
「深か井戸になると?」
「おそらく」
次郎は地面を見下ろした。
その言葉に、川上が後ろを振り返る。
そこには、十数人の男女が立っていた。
身なりは決して良くない。
痩せた身体。
擦り切れた着物。
裸足に近い者もいる。
しかし、その目には怯えだけではなく、僅かな期待が宿っていた。
以前、川上と話した。
仕事がない者たちに仕事を与える。
住む場所を用意し、食事を確保し、働ける環境を作る。
その最初の仕事の一つが、今日の井戸掘りだった。
「皆さん」
次郎が振り返る。
「今日から、ここに井戸を掘ります」
ざわっ、と人々の間に声が広がった。
「井戸……でございますか?」
「そうです」
次郎は頷いた。
「ただ穴を掘るだけではありません」
そう言って、地面に木の棒で簡単な図を描く。
「地下には、水が溜まっている場所があります。そこへ向かって、細く、深く掘っていく」
「そんな深かところまで……?」
「ええ」
次郎は笑った。
「だから、人の力だけで穴を掘り続けるのは大変です」
そこで次郎は、持ってきた竹を取り出した。
長く加工した竹。
そして、その先端に取り付けられた掘削用の道具。
「これを使います」
男たちが竹を見つめる。
「竹で……穴ば掘るとで?」
「正確には、竹そのものが穴を掘るわけではありません」
次郎は竹を軽く持ち上げた。
「竹は、力を伝えるために使います」
竹を上下させる。
しなる。
そして、戻る。
「このしなりを利用するんです」
「……しなり?」
「ええ」
次郎はもう一度動かしてみせた。
「押して、戻す。押して、戻す。その繰り返しです」
「そいだけで、深う掘れるとですか?」
「理屈では」
次郎は少しだけ苦笑した。
「……まあ、理屈通りにいけば、ですが」
「山田様でも分からんこつがあるとですか?」
「ありますよ」
即答だった。
周囲から、少し意外そうな笑いが漏れる。
「私は地面のことは詳しいですが、実際にこの道具を使って井戸を掘った経験がありません」
次郎は竹を握り直した。
「だから、今日ここで一緒に覚えます」
その言葉に、男たちの表情が少し変わった。
次郎が、全部知っているわけではない。
その事実が、彼らに妙な安心感を与えた。
「では、始めましょう」
まずは地面を整える。
掘削する位置を決め、道具を据える。
次郎が最初の動きを示した。
「ゆっくりでいいです。無理に力を入れない」
ぐっ。
竹を押す。
びよん、と竹がしなる。
「戻る力を使ってください」
再び押す。
びよん。
「こうです」
男の一人が代わる。
「こうですかい?」
「そうです。もう少しだけ角度を――」
ぐっ。
びよん。
「……あ」
先端が、地面へ食い込んだ。
「今の感覚です」
男は目を丸くした。
「これでよかとですか?」
「はい。その感覚を覚えてください」
しかし。
そう簡単にはいかなかった。
しばらくすると、竹が妙な方向へ逃げ始める。
「山田様、こっちに曲がっちょります!」
「止めてください!」
全員が動きを止める。
次郎が地面へ顔を近づけた。
「……なるほど」
「何かわかったとですか?」
「少し斜めに入っています」
「竹が曲がったと?」
「それもあります」
次郎は周囲を見た。
「地面の硬さが均一ではない」
土。
小石。
粘土。
それぞれが違う。
現代の設備なら簡単に制御できることでも、ここには精密な機械などない。
「……そうか」
次郎は腕を組んだ。
「もう少し細い竹を試しましょう」
そこからが、本当の始まりだった。
竹の太さを変える。
掘削具の角度を調整する。
押す力を変える。
引き上げる速度を変える。
一度掘っては確認する。
失敗すれば戻る。
また試す。
「もう少し弱く」
「はい!」
「今度は、戻る瞬間に少しだけ引いてください」
「こうですか!」
「そうです!」
ぐっ。
びよん。
ぐっ。
びよん。
単調な作業が続く。
だが、少しずつ。
本当に少しずつ。
穴は深くなっていった。
最初に疑っていたよりも、遥かに体力を使うことが分かる。
作業を続けていた者たちの額には、玉のような汗が浮かび流れていた。
「皆さん、一度休みましょう」
次郎の声に、男たちは竹竿を置いた。
荷台から水を運び出し、それぞれに手渡していく。
「喉が渇いた者は、遠慮せず飲んでください」
「かたじけねぇ……」
ごく、ごく、と水を飲む音が重なる。
乾いた喉へ冷たい水が流れ込み、皆がほっと息を吐いた。
「……生き返るなぁ」
「働いたあとに水を飲むと、こんなにうまいもんか」
「……なんか、甘くねえか?」
「そうか?」
別の男も水を飲む。
「……甘い気がする」
次郎は皆の様子を眺めながら、もう一つの桶を指差した。
「そちらは塩水です。汗をたくさんかいた者は、少し飲んでください」
「塩水でごわすか?」
「ええ。汗と一緒に身体から塩分も出ていますから」
皆、言われた通りに少しずつ水分を補給していく。
ただ喉を潤すだけではない。
働き続けるために、身体を守るための休息だった。
休憩の最中。
権兵衛は荷台から一つの竹筒を取り出した。
中には、次郎が用意しておいた塩水が入っている。
ただし――少し違う。
権兵衛は蜜柑を半分に割ると、その汁をぎゅっと絞り、塩水へ加えた。
「……これなら、飲みやすか」
竹筒を傾ける。
ごくっ。
「……うむ」
権兵衛は、もう一口飲んだ。
塩気の中に、蜜柑の爽やかな酸味とほのかな甘みが広がる。
「こいは、なかなかよか」
隣で見ていた弥助が、興味深そうに覗き込んだ。
「権兵衛様、それ、うまかと?」
「飲んでみっか?」
「おう!」
竹筒を受け取った弥助が一口飲む。
「……おお! こいは、うまか!」
それを聞いた権兵衛は、僅かに口元を緩めた。
「蜜柑を絞っただけじゃ」
「それだけで、こげん変わるとね」
二人がそんなやり取りをしている横で、次郎は苦笑していた。
「権兵衛さん、すっかり自分好みの塩水を開発しましたね」
「山田殿に教わったもんを、少し変えただけでごわす」
権兵衛はそう答えると、竹筒をもう一度傾けた。
ごくっ。
暑い日差しの下で飲む蜜柑入りの塩水は、疲れた身体へ染み込むようだった。
昼を過ぎた頃、女たちが炊き出しを始めた。
大鍋から立ち上る湯気とともに、炊きたての飯の匂いが辺りへ広がっていく。
「できたよ。皆、食べな!」
呼ばれた男たちは、顔を見合わせた。
「……食う?」
「今から?」
どうやら、決まった昼食というものに慣れていないらしい。
戸惑いながらも鍋の前へ集まり、泥だらけの手を洗って、器を受け取る。
温かな飯が、疲れ切った身体へじんわりと染み込んでいく。
粗末な食事だった。
それでも――働いた者たちが、昼に皆で同じ飯を食う。
その光景には、不思議な温かさがあった――。
「はぁ……はぁ……」
男たちは額の汗を拭う。
次郎自身も泥だらけになっていた。
借り物の着物の裾には土がつき、手のひらも赤くなっている。
「山田様……大丈夫でごわすか?」
川上が心配そうに声を掛ける。
「大丈夫です」
次郎は息を整えた。
「……ですが、これはきついですね」
「山田様でもきつかとですか」
「そりゃあ、きついですよ」
次郎は苦笑した。
「私は地面を見るのは得意ですが、穴を掘る筋肉までは鍛えていませんから」
「ははは!」
男たちから笑い声が上がった。
それまで張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。
さらに掘る。
また掘る。
土を引き上げる。
道具を整える。
そして、再び掘る。
「……山田様」
一人の男が、引き上げた土を手のひらに乗せた。
「こいは……さっきまでの土と違いやせんか?」
次郎が覗き込む。
「……!」
色。
粒。
湿り気。
「そうです」
次郎の目が輝いた。
「水を含んだ層に近づいています」
男たちの顔が一斉に上がる。
「水があるとですか?」
「まだ分かりません」
次郎は慎重に答えた。
「ですが、可能性は高くなりました」
そこから、作業の手つきが変わった。
疲れているはずなのに。
誰も急かされていないのに。
竹を握る手に、力が戻っていく。
ぐっ。
びよん。
ぐっ。
びよん。
土を上げる。
確認する。
また掘る。
やがて――
「……待ってください」
次郎が手を上げた。
全員が止まる。
「何かあります」
「石ですかい?」
「違う」
次郎が慎重に土を確認する。
湿っている。
明らかに、それまでとは違う。
そして。
ぽたり。
小さな水滴が落ちた。
誰も声を出さなかった。
もう一滴。
ぽたり。
土の奥から、じわりと水が滲み出してくる。
「……水だ」
誰かが呟いた。
その声を合図にしたように、周囲から歓声が上がった。
「水じゃ!」
「出た!」
「水が出ちょる!」
男たちは顔を見合わせ、笑った。
中には、目元を袖で拭う者までいる。
次郎は、しばらく黙ってその様子を見つめていた。
やがて、静かに笑う。
「まだ終わりじゃありません」
歓声が止まる。
「水が出ただけです。ここから、安定して水を汲めるようにしなければならない」
次郎は井戸を見下ろした。
「でも――」
その声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
「第一歩は、できました」
日が傾き始めても、作業は続いた。
穴の状態を整える。
崩れないよう周囲を補強する。
道具を調整する。
そして、今日覚えた手順をもう一度、最初から確認する。
次郎は一人ひとりに、何度も説明した。
「私がやるのを見て覚えるだけでは駄目です」
竹を手渡す。
「あなたがやってください」
男が恐る恐る受け取る。
「……おいが?」
「はい」
「山田様みたいに?」
「私より上手くなってください」
男は驚いた顔をした。
次郎は笑った。
「この井戸を、私だけが掘れるようにしても意味がありません」
周囲を見回す。
泥だらけになった人々。
疲れ切っている。
それでも、その顔には朝にはなかったものがあった。
「あなたたちが掘れるようになってください」
「そして、別の場所でも掘れるようにしてください」
「さらに、あなたたちが覚えたことを、別の人にも教えてください」
川上が黙って次郎を見ていた。
次郎は続けた。
「井戸を一本作って終わりじゃない」
「この技術そのものを、島に広めるんです――」
風が吹いた。
夕暮れの空を、潮の匂いを含んだ風が静かに渡っていく。
誰かが、井戸を覗き込んだ。
暗い穴の底。
そこには、夕日の光を受けた水が、かすかに揺れていた。
それは、ほんの小さな水面だった。
けれど。
今日まで水に困っていた人々にとって、それは明日へ続く光そのものだった。




