第四話 修羅の巷(ちまた)と象牙の塔――あるいは白井紫影の起源
白井紫影が聖交学園の門を叩く以前、彼が呼吸していた大気は、硝煙と有機溶剤の甘ったるい臭気で構成されていた。
彼が籍を置いていた市立第三中学校。そのコンクリートの塊は、教育機関というよりは、既に放棄された要塞の骸に似ていた。
窓枠に残るガラス片は鮫の歯のように鋭く尖り、北風が吹くたびに、絶望的な口笛を吹く。廊下のアスファルト・タイルには、直管マフラーを装着した改造単車がブラックマークを刻みつけ、紫煙と共に爆音を撒き散らしていく。
職員室へのアプローチは、バリケードのごとく積み上げられた机椅子によって遮断され、時折、火炎瓶の炸裂音が、教師たちのヒステリックな悲鳴を掻き消した。
この暴力的なエントロピーの増大する只中にあって、白井少年は、あたかも嵐の海に浮かぶ孤絶した岩礁であった。
彼は教師を見ない。教壇に立つ男たちは、「人権」や「連帯」という空疎な言葉を念仏のように唱えながら、飛来するチョークや罵倒に怯え、視線を宙に遊ばせているだけだ。黒板に書かれた文字は、彼の知的好奇心を刺激するにはあまりに幼稚で、死んでいた。
(ここに、我が汲むべき知泉なし)
彼は無言で席を立つ。向かう先は教室ではない。黴臭い図書室の最奥、あるいは錆びついた給水塔の影が落ちる屋上の片隅。
そこで彼は、分厚い専門書を開く。周囲の喧騒を、ただの環境音として処理し、活字の羅列だけを網膜に焼き付ける。彼にとっての世界は、この半径一メートルの静寂の中にのみ、存在していた。
彼が渇望したのは、白亜の壁に囲まれた聖域――私立聖交学園であった。
六年一貫という閉鎖された生態系。そこでは、偏差値という名の階級制度と、軍隊的な規律がすべてを支配しているという。
高校からの編入枠。それは、生存競争に敗れ去った者の屍の上にのみ用意される、わずか数席の椅子。その門戸の狭さは、針の穴を通すが如き所業であった。
白井は、その極小の光点に照準を定めた。
周囲の同級生たちが、シンナーの幻覚と鉄パイプの重みに青春を費やす夜。白井は、工業用のイヤーマフで外界を遮断し、机上の蛍光灯の下で、数式という名の魔術言語と格闘していた。
『チャート式』の青と赤が、擦り切れて手垢にまみれる。彼の眼球は充血し、指先にはペンダコという名の勲章が刻まれていく。
それは受験勉強というよりは、むしろ、泥沼の塹壕から這い上がるための、凄惨な匍匐前進であった。
やがて、春。
彼は、合格通知という名の「亡命許可証」を手にする。背後で崩れ落ちる公立中学という地獄を振り返ることもなく、彼は聖域への一歩を踏み出した。
だが、安息の地と思われた聖域には、別の陥穽が口を開けていた。
規律と学習によって空白を埋めるはずの時間は、皮肉にも彼を孤独な真空状態へと追いやった。
周囲を見渡せば、そこにあるのは無骨な黒い学ランの群れと、むせ返るような男の体臭のみ。女っ気のない乾燥した空間は、砂漠の如く白井の精神を渇かせていった。
外の世界には女がいる。だが、それらは厚化粧の娼婦か、無機質な石膏像の如く彼の網膜には映る。生身の肉体が放つ現実感、不可解な感情の機微、それらすべてが、白井の潔癖な神経を逆撫でした。
異変は、ある深夜、唐突に訪れた。
微積分の難解な解法に行き詰まり、ふと意識が混濁した瞬間である。深夜ラジオから流れるノイズ混じりのアニソン、あるいは塾の帰路、雨宿りのつもりで立ち寄った古書店の薄暗い棚。
そこで彼は、運命的な「感染」を果たす。
記憶が、飛ぶ。
気がつけば、数時間、あるいは数日が経過している。机の上には、見覚えのない美少女アニメのレーザーディスクや、極彩色の同人誌が積み上げられている。財布の中身は、参考書代として渡された福沢諭吉が、綺麗に消失している。
(……何が起きた? 誰だ、これを買ったのは)
白井は慄然とした。
まるで狐憑きである。あるいは、夢遊病者の徘徊。彼の内側に潜む「何か」が、彼の意識が途切れた隙に肉体の主導権を奪い、欲望の赴くままに行動しているのだ。
鋼の肉体と、明晰な頭脳を持つ、哀しき怪物。その誕生は、本人の意思とは無関係に、病理として進行していた。
そして、病理はさらに深淵へと潜行する。
ニーチェは深淵を覗く危険性を説いたが、白井の場合、深淵の方から彼を飲み込み、あろうことかその底で「変身」を強制した。
解離性同一性障害ではない。それは、魂の「電脳受肉」であった。
丑三つ時。家族の寝息だけが響く静寂の中。
本人の記憶にはない。だが、肉体は確実に動いている。
NEC PC-9801VM。その電源スイッチが、重々しい音を立てて投入される。
ブーンという冷却ファンの唸り。640×400ドットの漆黒の空間に、緑色のカーソルが明滅する。2400bpsのモデムが、ピーヒョロロという電子の鳴き声を上げ、電話回線を通じて彼を「向こう側」へと接続する。
その瞬間、白井紫影という個体は完全に消失した。
武道で鍛え上げられた太い指が、キーボードの上で軽やかに舞う。打鍵音は、機関銃の掃射のようにリズムを刻む。
『みなさん、こんばんわ♪ 中学二年生のきららだよ☆』
CRTモニターの青白い光に照らされた彼の顔には、日中の仏頂面からは想像もつかない、恍惚とした笑みが張り付いている。
瞳孔は開き、呼吸は浅く、速い。
肉体はここにありながら、精神は電子の海を、フリルのついたスカートを翻して遊泳しているのだ。ジキル博士がハイド氏に変貌したように、あるいは狼男が満月を見て理性を失うように。
画面の向こうにいる、見知らぬ男たちを手玉に取る快感。架空の少女「きらら」として崇拝される陶酔。
翌朝、彼を襲う鉛のような疲労感。
それを彼は、深夜までの猛勉強の代償だと信じて疑わない。机の上の奇妙なログファイルや、身に覚えのないチャットの履歴を見ても、脳がそれを認識することを拒否する。
自分の中に棲む「乙女」が、夜な夜な電脳空間でアイドルとして君臨している事実。
この恐るべき二重生活の真実に彼が気づくのは、聖交学園を卒業し、社会に出て久しい、彼が成人してからのことであった。




