第二話 部室の審問――入部試験という名の禅問答
第一章 灯台下暗しの魔窟と天井の幻影
白井紫影は、寺石という得体の知れぬ男に腕を引かれ、夕暮れの校舎を引きずり回されていた。
何処へ連行されるのか。
廊下を進むにつれ、白井の胸中には疑念と恐怖がどす黒く渦巻いていった。
寺石の足取りは迷いなく階段を上り、校舎二階の最奥、北東の角へと向かっている。
そこは、陰陽道において丑寅の方角、すなわち万物が忌み嫌う**「鬼門」**に当たる位置である。陽光は遮られ、湿った風が吹き溜まるその場所には、常に何かの気配が澱んでいると噂される、学園のヴォイド(虚空)であった。
そして何より恐るべきは、その区画が生徒たちが最も恐れる領域――生活指導の怒号が絶え間なく響く、職員室のある場所だという事実であった。
(まさか、自首するつもりか? それとも私を突き出し、司法取引でも持ちかける気か?)
緊張がピークに達した。
職員室の木製引き戸が見えてきたその瞬間、白井の足がもつれた。極度のストレスにより、武術家にあるまじき不覚をとったのである。
ガクン、と膝が折れ、彼は廊下の冷たいリノリウムに片膝をついた。
その時である。
不意に視線が低くなり、見上げた曇りガラス越しの室内――職員室のさらに奥にある、薄暗い小部屋の天井付近に、信じがたい色彩が飛び込んできた。
それは、厳格なるカトリックの学園には、そして無骨な男子校には決して存在してはならぬものであった。
ピンク色の髪、フリルの衣装、そしてステッキを構えた可憐なる少女。
魔法少女のポスターが、天井の梁にへばりつくように貼られ、下界を見下ろして微笑んでいたのである。
白井は我が目を疑い、慌てて立ち上がった。
すると、どうだ。
視点が上がった途端、その極彩色の幻影は、手前の棚やロッカーの陰に隠れ、完全に視界から消失したではないか。
(……今のは、夢幻か?)
彼は再び、祈るような気持ちでしゃがみ込み、仰ぎ見た。
やはり、そこに「彼女」はいた。こちらを見て笑っている。
白井は戦慄した。
これは偶然ではない。計算され尽くした配置だ。
身長が伸びきった教師や上級生の目には決して映らず、まだ背の低い、中学に入学したばかりの幼き者たちの視点からのみ観測可能な、結界のほころび。
それは、無垢な羊たちを魔界へと誘うために仕掛けられた、あまりにも巧妙で悪質なる罠であった。
白井は、恐怖と敬畏の入り混じった眼差しで、寺石をキッと睨んだ。
寺石は、ニヤリともせず、無言で深く頷いた。その目は、「見たな」と語っていた。
「……ここだ。」
寺石はおもむろに足を止め、職員室のすぐ右隣にある重厚な鉄扉を指し示した。
そこは、先ほどポスターが貼られていた小部屋への入り口であった。
鬼門の突き当たり、そして職員室の隣。
あろうことか、学園の規律と秩序を維持する総本山、その壁一枚隔てた真横に、彼らのアジトは存在していたのだ。
「……正気か?」
白井は喉をひきつらせた。「虎の穴に入らずんば虎子を得ずと言うが、これでは虎の枕元で宴会を開くようなものではないか。自殺行為だ。」
寺石は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、不敵に笑った。
「灯台下暗し、という言葉を知っているか。教師どもは、遠くの校則違反には目を光らせるが、己の足元、すなわち壁の裏側にこのような異空間が広がっているとは夢にも思わぬ。最も危険な場所こそが、心理的な死角となり、最も安全な結界となるのだ。」
寺石が鉄扉を押し開ける。
重い蝶番が軋んだ音を立てて開くと、そこには外界とは明らかに異なる濃度の空気が滞留していた。
黴た古紙の臭気。電子部品が焼ける独特の刺激臭。そして、埃と男子高校生特有の熱気が混じり合った、鼻腔の奥に粘り着くような匂い。
壁の向こうからは生活指導の説教が漏れ聞こえるというのに、この室内は治外法権の如き静寂と混沌に満ちていた。聖と俗、管理と逸脱が、薄いコンクリートの壁を挟んで拮抗している。
「入れ。」
短く命じられ、白井は魔窟へと足を踏み入れた。
視界を埋め尽くすのは、高度電子資本主義社会が排泄した、無秩序なる情報の残骸である。
壁際には、放送局の放出品とおぼしきパッチベイが、鈍く光る金属の断崖を成して聳え立っていた。無数のジャック穴は、接続を渇望する深淵の眼の如く、虚ろに口を開けている。
その隣、祭壇のように鎮座するのは、冷蔵庫ほどの威容を誇る巨大なオープンリールデッキだ。磁性体が剥離しかけたテープが、シュルシュルと乾いた摩擦音を立てて回り続け、誰も聞くことのない終末のノイズを記録しているようであった。
床を見れば、スパゲッティもあわやと言うほどに絡まり合った、極彩色のケーブル類がダンボールから溢れ出し、部屋全体を侵食する電子の菌糸のように這い回っている。
そして、天井に届くスチール棚からは、背表紙の焼けたSF文庫や、極彩色の美少女漫画が今にも崩れ落ちんばかりに押し込まれている。
部屋の中央、裸電球の下に置かれた長机。
その上には、湯呑みの茶渋と、いつのものとも知れぬ菓子の袋が鎮座していた。
「座りたまえ。」
寺石は、パイプ椅子を顎でしゃくった。
白井は、借りてきた猫のように背を丸め、冷たい金属の座面に腰を下ろした。武術で鍛えた丹田に力を込めても、膝の震えが止まらない。
これは勧誘ではない。連行であり、取調べである。
第二章 一本の線
寺石は、軍用マントを翻して対面の席に深く腰掛けた。
中肉にして些か脂の乗ったその躯体が、パイプ椅子をきしませる。長く伸びた前髪を無造作に後ろへと撫で付けたオールバックの額が、裸電球の光を受けて脂ぎって光る。
彼は懐から一枚の白い紙片を取り出すと、白井の目の前に滑らせるように差し出した。
パサリ、と乾いた音が室内に響く。
「……見よ。」
白井は、恐る恐る視線を落とした。
紙片の中央には、黒インクで引かれた、ただ一本の曲線が描かれているのみであった。
それは、緩やかに隆起し、滑らかに下降する、なんの変哲もない放物線のように見えた。始まりも終わりも唐突で、文脈を持たない線。
「問おう。この線を見て、貴様は何を感じる?」
寺石の眼鏡が白く反射する。
白井の喉が鳴る。唾液が枯渇し、舌が上顎に張り付く。
これは、ロールシャッハ・テストのような心理分析か? それとも、己の知性を試す知能検査か?
白井は、食い入るようにその線を見つめた。
線の入り(始点)は強く、抜き(終点)は儚い。その曲率は、人工的な真円ではなく、有機的な揺らぎを含んでいる。
(……この柔らかさ。この、重力に逆らいつつも、重力に従順なライン。)
白井の脳裏で、無数のシナプスが火花を散らした。
記憶の底にある膨大な画像データ――あの日、あの時、あの本で見た光景――が、高速で検索される。
吾妻ひでおか? 否。内山亜紀か? 否。
この線が内包する情報は、もっと根源的な、生命の萌芽そのものだ。
第三章 魂の吐露
沈黙が支配する部室に、白井の掠れた声が落ちた。
「……ふくらはぎだ。」
寺石の眉が、ピクリと動く。「続けよ。」
白井は、紙片に指を這わせた。その指先は、まるで聖遺物に触れるかのように震えている。
「ただのふくらはぎではない。これは、第二次性徴を迎える直前の、少女特有の未分化な状態にある脚部だ。ここを見ろ。」
彼は、線の隆起した部分を指し示した。
「腓腹筋の発達が未熟であるが故に、皮下脂肪の柔らかな層が筋肉の輪郭を曖昧にしている。この緩やかな隆起は、大地を蹴って跳躍しようとする生命の予感を示し、その下降線は、未だ重力に縛られている肉体のあどけなさを象徴している。」
一度口を開けば、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「そして、この線の『抜き』に見られる、わずかな躊躇らい! 筆を置く瞬間の、描き手の迷い! これこそが、作者がこの脚部に抱く、庇護欲と背徳感の葛藤、即ち**『イエス・ロリータ、ノー・タッチ』の精神的苦悶**が、インクの滲みとなって顕現したものだッ!」
白井は机を叩いて立ち上がっていた。
額からは汗が噴き出し、瞳は血走っている。
ハッと我に返った時、彼は自分が何をしたかを悟った。
初対面の男の前で、紙切れ一枚に対し、己の性癖を哲学的に解剖して陳列してみせたのだ。
羞恥の熱が、首筋から耳までを赤く染め上げる。
(終わった……。私は今、社会的に死んだ。)
終章 伽藍への入廷
部室に、重苦しい静寂が戻った。
換気扇の回る音だけが、ブーンと虚しく響いている。
白井は俯き、寺石からの侮蔑の言葉、あるいは「出て行け」という宣告を待った。
カチャリ。
音がして、目の前に何かが置かれた。
湯呑みであった。中には、なみなみと注がれた茶色い液体(恐らくは茶)が揺れている。
「……飲め。喉が渇いただろう。」
顔を上げると、寺石は椅子に深く寄りかかり、満足げにニヤリと笑っていた。その表情は、難解な数式を解き明かした数学者のそれに似ていた。
「見事だ、白井紫影。あの一本の線から、そこまでの幻視……いや、形而上学的な洞察を引き出すとは。」
寺石は、紙片を丁寧に折り畳み、懐にしまった。
「貴様の眼は、現実の皮相を突き抜け、その奥にある**真理**を捉えている。合格だ。」
「ご、合格……?」
「歓迎しよう、同志よ。ここが、貴様の新たな**伽藍**だ。」
寺石が差し出した手。その掌には、ハンダの火傷とペンダコが無数に刻まれていた。
白井は、呆然とその手を見つめ、そして強く握り返した。
その手は冷たかったが、脈打つ血管の鼓動だけは、確かに熱を帯びていた。
窓の外では、いつの間にか日が傾き、茜色の光が部室の混沌を優しく、そして不気味に染め上げていた。
こうして、白井紫影はこの奇矯なる集団の檻に、自ら喜んで囚われたのである。




