第一話 秘められたる正典(カノン)――白井と寺石の邂逅
本稿は、先達よりの峻烈なる御指導御鞭撻を賜り、大幅なる彫琢を加えた改稿版である。
粗削りなる原石からの変遷を比較し、研磨の過程そのものを楽しまんと欲する奇特な読者諸氏は、以下の旧き書庫を参照されたい。ネタバレの危険を冒してでも、その差異を味わうのもまた一興であろう。
[旧稿参照先]
https://ncode.syosetu.com/n3601ll/
第一章 教室の孤島
五月の風が、開け放たれた窓から教室に吹き込み、カーテンを孕ませていた。
放課後の気怠い喧騒。
運動部員たちがジャージに着替える衣擦れの音、廊下を走る上履きの摩擦音、そして無遠慮な笑い声が、澱んだ空気の中を交錯する。
その只中にあって、教室の最後列、窓際の一席だけが、あたかも深海の底の如く静まり返っていた。
その席の主、白井紫影の佇まいは、この弛緩した空間において異様な緊張感を放っていた。
剃り上げられた頭部は、青々とした剃り跡を晒し、その精悍にして端正な顔立ちは、映画**『少林寺』で若き武術僧を演じた往年のリー・リンチェイ(後のジェット・リー)を彷彿とさせる。
机に向かう姿勢一つとっても、脊椎は鋼鉄の芯が入ったように垂直に伸び、何者かが襲いかかれば刹那に反応し得る、武術家特有の隙のない身のこなし**を維持している。その眼光は、獲物を狙う猛禽の如く鋭く、平和な教室の中にありながら、常に死角を作らぬよう神経を尖らせていた。
首筋の僧帽筋は、見えざる鎧を支えるが如く隆起している。彼は息を潜めていた。周囲の「持ち上がり組」たちが交わす内輪の符牒や、卑近な話題が鼓膜を震わせるたびに、彼の眉間には深い皺が刻まれた。
彼は、周囲の視線を警戒しながら、机の引き出しの奥に手を伸ばした。
指先が、冷ややかな感触に触れる。
それは一冊の、奇妙な書物であった。表紙は無地の厚紙で覆われ、背表紙には墨痕鮮やかに**『唐詩選』**と記されている。だが、その質量は漢籍のそれにしては軽く、紙の断面は不揃いに毛羽立っていた。
白井は、周囲を――特に黒板の前でふざけ合う集団を一瞥し、誰もこちらを見ていないことを確認すると、その書物を机上に滑り込ませた。
心臓が、肋骨を内側から叩く。
これは読書ではない。儀式であり、密輸品の検分にも似た、命懸けの行為であった。
第二章 紙片の迷宮
表紙を捲る。 そこに現れたのは、李白でも杜甫でもない。 丸みを帯びた描線。極端にデフォルメされた二頭身の少女。そして、背景に漂う不可解な幾何学模様と、意味を為さぬ記号の羅列。 まごうことなき吾妻ひでおの筆による図画。 この書物の特異性は、その内容のみならず、構成そのものにあった。 あるページは、黄ばんだざら紙に荒い網点の印刷。これは秋田書店の少年誌からカッターで切り抜かれた痕跡を留めている。
しかし、次のページを捲れば、上質なコピー用紙に転写された、鮮明ながらもどこか背徳的なコントラストを持つ図版が現れる。これは市場には流通せぬ同人誌の複製である。
白井は、市販の単行本を解体し、雑誌の切り抜きを蒐集し、さらに闇ルートで入手したコピー誌を混在させ、それら全てを糊で再構成した、**「究極の選り抜き(ベスト・セレクション)」**を作成していたのだ。
「……ポワワ。」
紙面から立ち上るインクの匂いが、白井の脳髄を麻痺させる。
教室に充満するテストの重圧も、汗臭い男子校の現実も、この不条理な空間の前では霧散する。ここには、彼が求める「円」の理があった。
彼は、ページを数ミリだけ開き、その隙間から覗き込むようにして、コマの隅に描かれた、だらしなく弛んだ靴下を履いた少女の足先が、物理法則を無視して絡み合う、その軟体動物めいた曲線を愛でた。
呼吸が浅くなる。瞳孔が開く。
(……美しい。この独特の丸みを帯びた爪先、これぞまごうことなきミャアちゃんのイデア……)
その瞬間、彼の背後の空間に、微かな、しかし確かな歪みが生じた。
第三章 背後の狩人
音はなかった。
気配すらも希薄であった。
ただ、首筋の産毛が逆立つような、生物学的な警鐘だけが白井の神経を逆撫でした。
何かが、いる。
教室の喧騒とは異質の、冷徹な沈黙の塊が、背後から彼を覗き込んでいる。
白井は凍りついた。ページを捲る指が止まる。
(見られたか? 否、今の角度ならば、単なる紙片にしか見えなかったはずだ……)
彼は、一分の隙もなく『唐詩選』を閉じた。
そして、努めて緩慢な動作で、油の切れた機械人形のように首だけを巡らせた。
そこに、眼鏡があった。
分厚いレンズの奥で、理知的だが爬虫類を思わせる冷ややかな双眸が、白井の手元の一点を射抜いていた。
ボサボサの黒髪。学ランの襟元からは、得体の知れぬ配線コードが覗いている。
寺石であった。
白井は、高校からの編入生として日が浅く、周囲に対して自ら壁を築いて孤高を貫いていたが、この男の存在だけは、本能的な警戒レベルで認識していた。クラスメートでありながら、どこか異次元の重力を纏っているかのような、不可解な圧。
(……よりによって、この男か。)
白井が、その「関わってはならぬ」という直感に従い、努めて距離を置いてきた相手であった。彼は、いつからそこに居たのか。息遣い一つ聞こえなかった。
寺石は、無言のまま、ゆっくりと白井の机に手を置いた。
その指先は、油汚れとハンダの焦げ跡で黒ずんでいる。
「……見事な製本だ。」
寺石の声は低く、地を這うような響きを持っていた。
「『唐詩選』とは偽装したな。だが、その紙の厚み、インクの吸い込み具合……不統一だな。」
寺石は、狩人が獲物の痕跡を分析するように語った。
「前半のざら紙は、秋田書店の商業誌からの抜き刷りとお見受けする。チャンピオンか、あるいは冒険王か。しかし、後半の滑らかな紙質……あれはコンビニエンスストアのコピー機によるものだ。」
白井の喉が鳴った。
「な、何を……。拙僧は、漢詩の韻律を……」
「誤魔化すな。」
寺石は眼鏡の位置を中指で押し上げた。レンズが一瞬、光を反射して白く輝く。
「先ほど、一瞬だけ見えたぞ。商業誌の切り抜きに紛れ込ませた、あの独特の丸みを帯びた爪先と、足首に弛むルーズソックスの、猥雑にして神聖なる皺を。」
「ッ!!」
逃げ場はなかった。
寺石は、白井の肩に手を置いた。その手は万力の如く重く、抗いがたい力で彼を拘束した。
「隠しても無駄だ。商業と同人をモザイクの如く接ぎ合わせたその狂気の編集……。それは紛れもなく、吾妻ひでお大先生の筆致。それも、一般流通品と、市場には出回らぬ幻の同人誌**『ミャアちゃん官能写真集』を混合し、自分好みに再構築した『裏・全集』**とお見受けする。」
寺石は顔を近づけ、白井の耳元で、悪魔の囁きのように告げた。
「同志よ。貴様、虹炉※だな?」
終章 魔窟への連行
白井の全身から力が抜けた。
魂が、音を立てて肉体から剥離していくような感覚。
彼の「修行僧」としての仮面は、この一言によって粉々に砕け散り、床に散らばった。
顔面を朱に染め、脂汗を滴らせる白井に対し、寺石は、その拘束の手を緩めることなく、ニヤリと笑った。
その笑みは、地獄の門番が新たな亡者を迎え入れる時の、歓待の表情であった。
「安心しろ。ここには、貴様のような**『業の深い者』**を受け入れる場所がある。」
寺石は、白井の腕を引いた。
「来い。部室へ。」
白井紫影は、己の意思とは無関係に、しかし運命の歯車に噛み合うようにして立ち上がった。
夕日に照らされた廊下を、二つの影が長く伸びていく。
その足音は、新たな地獄、あるいは桃源郷への行進曲の如く、校舎に響き渡った。
(※注)虹炉:二次元(虹)の少女のみを燃料として燃え盛る炉心を持つ者、即ち二次元ロリコンの意。
本編は、かなり濃厚な実話をベースとした骨格に、虚構という名の肉を纏わせたキメラのごとき物語である。
故に、読者諸賢におかれては、くれぐれもモデルとなった人物、あるいは実在する団体を詮索されませんよう、切にお願い申し上げる。それは、パンドラの箱を開けるが如き、引き返せぬ行為となるであろうから。




